第27話 日仏戦争ー古井戸の乱ー

 冷んやりとした朝の空気に背筋を伸ばす。本当はカメの様に首をすくめ妻が先に起きて温めておいてくれた居間で炬燵に潜り込み、まだ残る眠気の中、食器のカチャカチャと擦れる音や包丁が奏でるリズミカルな音を聞きながらウトウトとしていたい。

 本来ならそんな時間だった。今更だが一日の中で、まったりとした、なんと幸せな時間だったのだろう。


「もう11月も半ばか…、寒くて当たり前なんだよな?」


 ぽつり呟く。そんなつまらない独り言でさえ、いつもなら誰かが拾って言葉を返してくれる。もちろん今は誰かが言葉を返してくれるとは思ってはいない。

 我が家は家族が多い。子供の頃からずっとそうなのだ。自分が12歳までは曽祖父母が健在で、父親の弟妹が同居していた。自分の姉に妹、その上に住み込みの蔵人までいたものだから、おふくろは一日の大半を台所で過ごし、それ以外は蔵の手伝いをしていた。

 自分の周りには常に誰かいて独り言は独り言にもならない。そんな環境で育ったものだから、思春期には一人暮らしに憧れて父親の反対を押し切って東京の大学に進学し、一人暮らしを始めた。酒が一滴も飲めないのに家業の酒蔵を継ぐのに抵抗する気持ちもあった。

 そんな自分に比べて紆余曲折あったものの、素直に酒蔵を継ぎたいと言う息子は親孝行だと思う。

 自分は親の脛をかじりながら実家を飛び出したが、息子は自分の力だけで三年間を東京で過ごした。

 残念ながらバカなので、こんな本音を言うと調子にのるので内緒にしている。


「本当に寒くなったわね。」


 ふいに独り言の返事が返ってきて驚いて振り返ると妻が両手に息を吐きかけながら立っていた。

 自分の独り言は、やはり独り言にはならないらしい。我が家は家族が多い。今は半分が他人だがもう家族のようなものだ。

 だからいつも騒がしい。独り言は誰かが拾ってくれる。自分にはそんな暮らしが向いていると思えた。


「ズルいわよ。一人だけ抜け出すなんて。」

「人聞きわるいなぁ、ウォーキングだよ。ウォーキング。また何かあったの?」

「まだ…、私もあなたに付き合おと思ってきたのよ。一人じゃ淋しいでしょ?」


 なるほど…。


 我が家は家族が多くて騒がしい。けれど今は騒がしくなると、ピリピリした緊張感が走る状況が続いている。


「じゃあ一緒に行くか?」

「さあ早く行きましょう。」


 妻とあてもなく連れ立って歩くのは何十年ぶりだろう?

 真っ直ぐな一本道をいつもより早足で歩く。隣りを歩く妻をチラリと見ると、髪の根本に短い白髪が伸びていた。

 ふと、この一本道が自分達の人生の様に思えた。

 自分がふらりと横道にそれたり、立ち止まったりするたび、妻がグイっと自分の腕を掴んで進むべき道に戻してくれる。自分の妻がこの人で良かった。


「5丁目にできたカフェでモーニング食べない?」

「いいけど…、新太たちの朝ごはん大丈夫なの?」

「大丈夫よ。新太なら何とかするんじゃない?浅井さんもノブさんもいるんだから。二人で朝ごはんなんて新婚旅行以来よねぇ。モーニングのメニューいろいろあるみたいよ。キミちゃんが美味しいって言った。キミちゃんの所も子供たちが、みんな家を出て夫婦二人になったでしょう。だから時々二人で行ってるんだって、それで…」


 妻が機関銃の如く喋り出す。それもいつものことなんだが、自分は無口な男ではないけど永く連れ添っていると別に話さなくても気まずい空気が流れるなんてことはなくなると思っているのだが、妻が機関銃の様に喋るのを煩わしいと思うことはないから、ちょうどいい具合なんだろう。


「何浮かれてんだよ。モーニングぐらいで。」

「別に浮かれてなんかないわよ。たまにはいいわよねーって言ってるだけよ。」


 妻は照れ隠しするように口をとがらせる。このクセ高校生の時から変わらないなぁと思うと何故か口元が緩んでしまう。


「何がのんきにモーニングだよ!」

「新太!」

「なにかあったのか?」

「あったに決まってんだろ。」


 そう言うと俺と妻は、息子に背中を押され今来た道を戻された。

 息子に手を触れられるのは、いつ振りだろうか。小さい頃はよく手を繋いで歩いた。あの小さかった手が、こんなに大きくなってたんだなぁ。としみじみした言葉を呟くのを我慢した。


「背中を押して貰わなくても歩けるわよ。どうせ何時もの日仏戦争が始まったんでしょ?」

「もっと一大事だよ!急いでよ。」


 ノンちゃんが出産し家に戻ると、茶々さんが赤ん坊とノンちゃんの世話をすると言ってやって来た。ノブさんもノンちゃんも茶々さんが現代ここで身内に出会えた奇跡を考えると無下に断わる事も出来ず、茶々さんが大阪の料亭で女将をしているのを考えると、そう長くは居ないだろうとふんで世話を頼む事にしたのだが、出産前からノンちゃんと赤ん坊の世話をすると張り切っていたマリーちゃんとの衝突は避けられずにいた。マリーちゃんにしてもノブさんとノンちゃんは、タイムスリップ仲間以上でもはや家族なのだ。

 以来、我が家では日仏戦争が日々繰り広げられ、呑気が取り柄の我が家は、寛げる場所ではなく戦場と化してしまった。

 しかし出産育児経験のある茶々さん相手では、マリーちゃんには分が悪く、茶々さんにやり込められていた。


 新太に急かされて来たのは、離れの側にある古井戸だった。

 そこで見た光景は、なんと朝の爽やかな日差しを浴びて額の汗をキラキラとさせながら、茶々さんの指導を受け古井戸でオムツを洗濯するマリーちゃんの姿だった。

 この古井戸は今では果物や野菜を冷やすぐらいにしか使っていないのだが、初代糸里酒造の糸里新介が酒造りの為に探し求め掘り起こした井戸である。


「父上、母上、いつもながら煩わせて面目次第ない、じゃが儂や新太では茶々に歯が立たんのです。」

「父さん達から言ってやってよ。じゃなきゃ俺の人生初ブチギレそうなんだよ。」


 俺は女性には優しい方だと思うので、気の強い茶々さんにもヤンワリと接して来たつもりだ。だが、もう我慢ならない。横目で妻を見ると顔色を変え、今にも爆発しそうだった。


「茶々さん!」

「いや、ここは主人あるじの俺が言おう。」


 妻は女にしては冷静な方だとは思うが、今回ばかりは背景に怒りの炎をメラメラとさせている。

 やはり女同士だと感情的になりすぎるだろうから、主人の俺がビシッと言ってやらねば。


「茶々さん、この井戸は古くて今はスイカを冷やすぐらいにしか使ってはいないが、そのぐらい冷たい水が充分湧き出ているんだ。しかも、もう11月だ。そんな冷たい水で洗濯なんかさせて、マリーちゃんの手が荒れたり風邪をひいたらどうするんですか?可哀想だと思わないんですか?」

「あなた…。」


 妻は気の強い茶々さんに俺が毅然とした態度を示した事に唖然として言葉を失っている様だ。そう、俺だってやる時はやる言うべき時は、相手がどんなに気の強い女性であろうと言うんだよ。もしかして惚れ直したか…、うん間違いない。


「親父は黙ってろよ。」

「親に向かってなんて口の利き方だ?」


 息子はなんにもわかっちゃいない。なんせ女を知らない奴だからな。


「おはようございます。皆さん朝からお揃いでどうしたんですか?」

「岡野、悪い今とりこんでて…。」

「あら、マリーちゃん。そんな所で何してるの?」

「茶々さんが赤ちゃんのオムツの洗濯係りを任せてくれたのよ。」

「まあ、洗濯ですって!しかもオムツ。なんて事なの?この井戸は糸里酒造が酒造りを始めた井戸なのよ。水は酒の生命線ともいえる大切なもの。今は使ってなくても初代の当主が探し当てた糸里酒造の家宝よ。そんな所でオムツなんて洗わないで。」


 えっ?何言ってんのこの若くて可愛い銀行員さんは?妻も新太も嬉しそうにウンウンと頷いて今にも拍手しそうじゃないか?

 まさか、そこっ?そこだったの?


 いつもは茶々さんに対しておよび腰のノブさんが、岡野さんの話を聞くなり、古井戸を汚したことに怒り心頭になり、茶々さんに腹を切って詫びろとキレだした。


「それにしても今どき布オムツって、どうして紙オムツを使わないの?」

「布オムツの方が、オムツが早く取れるし、節約にもなるんですって。紙オムツは手抜きなのよ。」

「そんなの迷信よ。私も弟も紙オムツだったけど、幼稚園に入る前にはちゃんと取れたわよ。うちのお婆ちゃんが言ってたけど、布オムツを洗ったり乾かしたりしている時間を赤ちゃんと過ごす時間にしてあげた方がいいんだって。手抜きでも節約でも何でもないそうよ。」

「そうなのママン?」

「そうね。ウチは義母さんが新太と彩綾の世話をしてくれたけど、自分のライフスタイルに合う物を使えば良いって、紙オムツを使ってたわね。」

「ごめんなさい。私も茶々さんもそんな大事な井戸だって知らなかったの。許してママン、新太。」

「知らぬ事とはいえ、申し訳ございませんでした。」


 茶々さんもマリーちゃんも平身低頭で謝罪してくれたので、これ以上責める必要もないだろうと怒り心頭するノブさんをなだめて解散した。


 ノブさんが姪の不始末のお詫びに朝食を準備してくれると言うので、新太は蔵の様子を見に行き、妻と俺は母屋に戻る事にした。

 茶々さんに何やら話しかけている岡野さんを、妻がチラリと振り返って見ると、ポツリと言った。


「あの娘、欲しいわ…。」

「何言ってんだよ。もう家には新太と彩綾がいるだろう。ノンちゃんの赤ん坊も養子になるんだし、バカ言ってんじゃないよ。」


 俺は軽い冗談として笑い飛ばした。


「もう、あなたって本当に鈍いわね。新太によ、うちの嫁に欲しいって言ってるのよ。」

「ダメだ!新太の嫁は優しくて可愛いくて控えめで守ってあげたくなるような娘と決まってるんだ!」


 俺は妻の考えを力強く全否定した。

 まあ、岡野さんも見た目は可愛いが、性格的には可愛いとは言い切れないだろう。とてもじゃないが守ってあげたいタイプではない。今だってあの気の強い茶々さんを呼び止めて対等な姿勢で何やら話ている。内容は聞こえないが「寒くなりましたね?」なんて、のんびりと気候の話をしているのではないだろう。やはり新太には、いや我が家の嫁には相応しくない。


「バッカじゃないの?優しくて可愛いくて控えめで守ってあげたくなるような女なんて、この世に存在しないわよ。そんなの少年漫画の中だけよ!」


 と冷たく言い放つと妻は、プンプンしながら俺を置き去りにして行ってしまった。

 その時俺は悟った。少なくとも我が家には気の強い女しか存在しないのだと…。






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