バケモノ×ケンゲキ

伏見七尾

序.雪路に消ゆ

その一

 私の故郷では、晩秋の雷は吹雪の先触れだ。

 さんざん雷が鳴った後でひどくひょうが降ったり、雪混じりの風が吹き荒れたりする。

 私の一番古い記憶は、そんな日に母が去るところから始まる。

 雷鳴の後、雪風が吹く中。

 母が黒髪をなびかせ、緋色の衣を翻し、どこかに行こうとしている。幼い私はその着物の裾に必死ですがり、どうにか引き留めようとしていた。

 母は振り返り、困ったように笑った。

 と、思う。あれから十何年か経った今その記憶はおぼろげで、母がどんな顔をしていたのかさえよく覚えていない。

 ただ、その時の母の言葉だけは強烈に覚えている。


「良い子に、ね」

「良い子に」


 泣いている私を撫でつつ、母は言い聞かせるようにして繰り返した。

 そうしてその後、母は発ったのだろう。その行方を私は今も知らない。

 父によれば、母は『自由だから』旅立ったらしい。父がそういうのだから、そうなのだろう。父が特に母について文句を言うこともないので、私も納得している。

 ただ、兄は納得していない。

 兄にとっては父の言葉に限らず、この世の全てが納得いかないようだった。だからか昔からずっと万物に対し攻撃的で、我慢ができないたちだった。


 率直に言うと、兄はろくでなしだ。

 とんでもない阿呆だ。


 あの愚兄のせいで、私は随分苦労させられた。兄が問題を起こすたび、私や――なにより私の敬愛する父が肩身の狭い思いをしたものだった。

 ただ愚兄のおかげで、私は母の言う『良い子』になれたと思う。

 欲を出しすぎると、兄のようになる。

 気に食わないからと暴れれば、兄の二の舞だ。

 幼い頃からそんな風に、兄を反面教師にしてきた。だから人に迷惑をかけず、その場の空気を読んで振る舞う。父の言うことをよく聞き、わがままをいわない。

 そんな風に育つことができた。旅立った母にも誇れると思う。

 対して兄は歳を重ねるごとに横暴になっていった。しょうもない理由で父に挑みかかることが増え、時には私が抑えにかかった。

 父はそんな兄の横暴を特に気にしてもいないようで、それが余計に兄の苛立ちを煽っているようだった。

 そうして――忘れもしないあの秋の朝。

 大気は澄み、遠くには白い雪を被った険しい山々がくっきりと見えた。家の外に出た私は冷えた空気を吸い、確かに迫りつつある冬の気配を感じていた。


「吹雪」


 背後から父に呼ばれ、私ははっと振り返った。

 見れば、すでに渋い色の着物に身を包んだ父が辺りを見回している。どことなく、落ち着きのない様子だった。


「おはようございます、父様」

「ああ……」


 私が姿勢を正し挨拶すると、父はうなずいた。

 いつになく歯切れが悪い。もしやどこか具合が悪いのだろうか。


「なにか、ありましたか?」

「その、な」


 父は言いづらそうに頭を掻きつつ、懐から折りたたんだ紙を取り出した。

 どうやら手紙のようだ。それを父は黙って私に差し出してくる。

 どうやら読めということらしい。私は慎重に父から手紙を受け取り、開いた。

 目に飛び込んできたのは見慣れた兄の文字だ。


『帝都に行く。探したら殺す』と書かれている。起きたばかりだからか、あるいは兄の言葉が滅茶苦茶だからか、いまいちその文意が理解できない。

 戸惑って父を見ると、父はぎこちなく口を開いた。


「雷光が、家出した」


 兄が家出した。――その言葉で、私はようやく兄の手紙の意味を理解できた。

 兄が、ついによその土地に暴れに行った。

 あの愚兄は、どこまで私と父に迷惑をかければ気が済むのか。

 思わず力がこもった手の中で、兄の手紙がぐしゃっと音を立てて潰れた。

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