第3話 交叉の果てに


 俺の脳裏で常に過っているのはモンテーニュの格言だ。

 いつかできることは全て、今日でもできる。

 それが座右の銘でもあった。


 子供の頃から目の前に積まれた無理難題をすまし顔で片付けるのを得意として、かつ先手を打っては涼しい顔でいるのが好きだった。のらりくらりと後回しにしては、夏休みも後半になる八月も下旬頃になると宿題に追われる者を蔑んだ。要は計画性のない物事や人が苦手なのである。時間も厳守、約束とて社交辞令に終わるものはあえて結ばない。叶わぬ申し合わせなどしないほうがよほどに楽だ。何をもにも過度な期待をせず、一時は見込んだ夢、希望なる薄幸などは当にゴミ箱へ捨ててきた。つまりとその結果は、歳四十を越えても独り身である程度の人生を送っていったい何が悪い。


 仕事一筋、課長という肩書きもある。趣味は妄想。金もかからない、他人にも迷惑をかけない、休みの日は危険な外に出ることもない安全かつ、これほど自由で気兼ねなき生活もないだろう。手に入れたくとも出来ない無計画さに喘ぐ者を、摩天楼の如きに直立するビルの高層階より下界を見下ろすのも悪くない。

 ただ、部下なるチームが犯した過ちは。班のおさとして上司としても、進展と経過のフォローしなければ立場と役目も台無しだ。

 結局ミスを補い、かつ逆転を狙う書類作成などに追われ、オフィスに泊まり込み徹夜の作業となって朝を迎えた。


 ――眠い。心底眠い。今すぐにでもベッドに飛び込みたい。そして寝たい。最低でも十二時間は眠り続けたい。

 床から天井までを透明なガラス仕立てにした窓辺でぼんやりと外を眺めていると、大手クライアントを激怒させた張本人が背後から近づいた。

「課長」

 振り向くと、目の下の隈も派手目にしたままでぼそぼそと告げる。

「資料と新な企画書、修正した見積書も全て揃いました」

 よほどに初めての失態が応えたのか、一夜にして頬がこけ気味にしてしょげ返っているのもよく分かる。が、俺に申し訳なさそうにしてどうする。お前はこの社の社員だろう。いつまでも文化祭ノリの学生気分でいるから、いとも簡単に足元を掬われるのだ。高い勉強代だとするには額も規模も桁違い。そっぽを向かれ、傾きかけていた天秤を再び自陣へ戻すには相当の苦行を強いられるだろう。

 俺は入社まもない新卒の肩に手を置いた。

「そうへ込むな。営業の勝負は本来ここからだ」


 今のうちにありったけの失敗をしろ。我武者羅に無茶もやれ。そうして大人になるのだ若者たちよ。大人の階段は長く、きつい。躓く事は誰にでもある。ただし今度失敗したら確実に居場所はなくなるとしかと思え。現実という名のフィールドは、老いも若きも下剋上の弱肉強食。勝ち残りたいのであれば、両刃でもいいから片手に剣を持て。もう片方には盾を持て。それらを使いこなせるかどうかは己次第だ。

「課長っ!」

 ぐずっと鼻をすすった新人は「ホントにすみませんでした。ありがとうございました!」と深々に頭を下げてから、支えてくれたチームの面々が半ばテーブルに突っ伏しながら待つ会議室へと駆けて行く。

 俺も入社した当時は青かった。滲むことも汚れることも知らない、この青く晴れ渡った清々しき朝の空のように純粋だったさ。

 再びビル間の外に視線を戻し、背にした社内奥からは「頑張ったな」「絶対取ろうぜ!」なる歓声と拍手が沸いている。確か、俺にもあったはずだ。青春に似たその熱血の時代が――あぁ、太陽が眩しすぎて目にしみる。単に眼精疲労と眠いだけだが。


 腕まくりをしていたシャツの袖を下ろした俺は、スーツの上着を肩にひっかけた。時計を確認すれば都心は丁度、朝の通勤ラッシュの時間帯。

「あとはお前らにまかせる」

 盛り上がる会議室には敢えて入らず、顔だけを覗かせた。ふいに触った顎がザラついて引っかかる。ひと晩でここまで髭が伸びるとはとても気になる。剃り残しなど許さないのがポリシーなのに。

「え? 課長、プレゼン立ち会わなくていいんですか?」

「いいんだ俺は。先に上がる」

 お前らを信じているから――とは、その場を後にしながらで述べた。

「じゃあな」

「かっ、課長!」

 ドアの前にまで躍り出た部下たちの顔なども見届けずに。片手をひらりと振ってみせた。

「お前らの営業魂、あとで見せてもらう」

 それで蹴散らされた時こそ真打、俺の出番だ。毛頭、今回の分を全くのチャラにしてやる気もないが。

「課長ーっ!」

「ありがとうございます!」

「絶対契約、取ってみせます!」


 チームの絆は俺と長年勤めた社の絆でもある。いや、むしろ俺の班の評判とインセンティブにも大きく影響してくるので死ぬ気で取ってこいとは言葉にしない。それに眠い。三十代後半辺りから夜も十時になると眠気が襲ってきて、十一時には素直にベッドへ入って睡眠を取る規則正しい俺なのに。狂った日常のサイクル。これは痛手だ。今月はまだ大口契約が数件残っているというのに――体に堪える。

 これから家に帰って仮眠をしてはまた出社だと? 冗談ではない。しかしながら完全に休むとだらしがないと思われるだろうから。せめて夕刻までは外回りを装い、家でこっそり寝て来よう。そして伸びた髭も剃りたい。こんなザラザラ面は俺ではない。こうしたイレギュラーな事態でも、会社と住処が徒歩圏内だととても優位だ。食事の時間もやむなしでズレてしまった。まずはどこかで朝食でも取ろうか。


 会社が入るビルを出た途端、今季一番とやらの冷え込みを感じた全身をぶるりと震わせた。それでも気を抜くとすぐに瞼が閉じてしまう眠気覚ましのカフェインを取らねばと立ち寄ったカフェでいつものラテを注文し。目についたフレッシュという名のサンドイッチもついでに手に取る。

 ソファーに座り込んでは確実に眠り込んでしまうであろう確信もあって、窓辺の立席カウンターをわざと選んで肘をつく。全く、とんだ一日の始まりになってしまった。昨日と同じ、今日でいいのに。

 すきっ腹に熱いラテが喉を通って胃の中に染み込むのがよく分かる。しゃきしゃきと歯堪えするレタスやハムと、ピリ辛目のマヨネーズソースを薄手のパンと一緒に咀嚼してほっと一息。


 何気なしに、ビル間より差し込む朝日に誘われて群青の天を見上げる途中。緑から茶へと色着いた街路樹の葉がカサカサと、サワサワと揺れているのが目についた。お前たちもすっかり冬支度だな。

 するといつも決まって己に問いかけるのだ。俺は今、ここでいったい何をやっているのだろうかと。

 そこそこで歩んできたこの人生。無難に手堅く世間並。しかし凡庸たるそこそこの平凡にだってプライドというものもある。

「……よせ。今の俺はもう――」

 目を閉じて小刻みに首を振った。俯き、閉じたどんより瞼をゆっくり上げる。――疲れたんだ。頼むから俺など頼らず解放してくれ。俺なき世界で歴史を積み上げればいいじゃないか。どうしてこんな俺を頼るんだ。


 手に持つ紙のコーヒーカップを無意味にゆらゆらと揺らしていた俺は、脳内にいるもう一人の英雄、つまりは俺自身に語りかけていた。

 しかしながら、そんな妄想行為も疲れと眠さで中途半端に立ち消える。今朝ばかりは俺だけの女神も眠ったままだ。仕方がない。一晩中、俺の帰りを待ち侘びて。体を心配して作った料理の数々が並ぶテーブル上に突っ伏したまま寝入っているのだ。今はそっと起こさず置いておこう。だけれど歩んだフローリングが軋んだ所為で、彼女は目を覚ます。「おかえりなさい。ごめんね? ずっと起きて待ってたんだけど……」

 その後は何も言わせない。

 帰ろう。そして眠ろう。今はただその事だけで頭の中はいっぱいだ。


 飲食を終えたトレーを返却口へ返してカフェを出る。目の前には、これから出社を控えるであろうサラリーマンやOLたちの群れが連なり。駅前のスクランブル交差点は、信号機が赤から青へと変わる時をじっと待つ学生や観光客らも入り乱れた大波となって、押し寄せるタイミングを計りながら白線の内側で待機している。

 一列に並んだ先頭を突先にして、後へ後へと続くうねりはとどまる事を知らず。駅からビル間に向かう隊列はおおよそ九割。しかも昼食だのパソコン入りのケース鞄などの武装で固める者も多い。

 対するビル間から駅側へ向かう者はチラホラといったところでほぼ夜勤明けか、夜通しで飲み遊び明かしたチャラ男や女と対戦するには分が悪い。そうして皆が、昨日と同じ今日を過ごそうと行進してきたのかと思うと急に滑稽が込み上げた。

「ふっ」

 何を笑う。無意味に抗うのはよそう。俺とて同じではないか。少しでも他人と違うことがあれば、途端に修正しては埋もれようと怯える俺自身が一番。世界の変革を恐れている臆病者だ。この世は万事、螺旋で巡っているのだ。繰り返し、繰り返し。そんな輪廻からわずかに飛び抜けた者だけが歴史に名を刻んだだけで然り。その他大勢があっての頂点である事を侮り、忘我した者は朽ちるのみ――。だから俺は、今日のところは降参しておく。誰を勇者にするかなど、世界よ。お前の望むがままに好きにすればいい。


「え? 何、地震?」

 そう言った誰かの声ではっと意識を取り戻した俺は、信号待ちのまま眠気に襲われていた自身に鞭を入れて歩みだす。

 歩行を促す信号は青だ。進めだ。多少、足元がグラつく程度なら何ら問題ない。歩みを進める。けれど、スクランブル交差点の中心へ向かってくる怒涛の群れはたじろいだまま、誰一人として全てを横断できている者はいない。――どうした、これしきの揺れで軟弱な。

 そう思って一人、淡々と交差点の真ん中に歩んで行けば。俺と同じく、中心に向かってくる――歳は三十代だろうか。サラリーマンの男が視界に入った。尻ごみをする者が多いなかで、なかなかいい度胸だ。

 褒めた途端にそいつの足も止まった。

「何だ?」

 すると、そいつの後ろを歩んでいた者が前をよく見ていなかったのか追突、ぶち当たってはすっ転んだ。大丈夫か、眼鏡の女性。

 そんな顛末を見送っている最中にも、上下左右に揺れる幅は大きくなるばかりで一向にやむ気配が窺えない。これはマズいか。

 流石の俺も颯爽なる歩みを止めた。揺さぶられる交差点を囲む電線たちが、互いの身で縄跳びでもするかの如くに擦り合っているからなのか。ヴーヴーと、パチパチと、嫌な音を奏でる放電とスパークを繰り返し。そこではっと息を呑んでから自社ビルを仰ぎ見る。こんなに揺れて、あいつら無事か?

 だけれど人の心配をする余裕など一瞬で吹き飛ぶ。

「なっ!」

 はたと気づく。交差点を使い、通りを横断しようとしていた人間は沢山いたはずだ。だのに揺れの所為か。大部分の人は交差点の外へ退避しているではないか。


 俺と、三十代風のサラリーマンとすっ転んだ女OL風をぽつんと取り残し。まるでスクランブル交差点は信号機を角にして、放電の電線をロープに例えた戦いのリング上のよう。

 いつの間にか「見ぃーつけた」と言った少年のような青年もいる。彼は何時の間に、いったいどこから現れた。

「見つけたって何を?」

 強くなる揺れに膝を折ったサラリーマンが問うと、ほくそ笑んだ青少年が淡々と告げたのだ。

「何って、伝染の事に決まってるでしょ?」

 取りだした携帯を耳に当てれば。「――あ、ママ? こっちが殿しんがりみたい。どうしよう?」とも呟いて。

「この地震の揺れとどう関連してるってんだ?」

「探してるんだよ。電線の中でひっそりと、息吹く時を見極めながら」

 俺はただ、じっと彼らの会話に耳を傾けている。ただでさえ、交差点の中に取り残されて。白線の外側に退避した観衆たちは、動けぬ俺たちを檻の中の鑑賞物のような目で見つめている。よって、俺とて焦る気持ちとは裏腹に。今さら醜く取り乱し、逃げ惑うようなみっともない行動は取り辛い。実を言えば、その腰自体が抜けそうで立っているだけでも精一杯。気力さえも挫けそうなのだ。くっそ。こんな事ならカフェになど寄らず、真っ直ぐ家に帰れば良かったと今に思うも後の祭り。


「交差点ってのは万物の思い、万人の心中が様々に募る未練の交叉とも言われてるから――」少年は信号機を眺めながら続けた。「交錯が続く限り、生と死せるもの然りの輪廻は終わらない」

 すると、すっ転んだOL風の女性も眼鏡を気にかけながら割って入った。

「それなら、あなたも名もなき連鎖の?」

 なるほど、そうか。ならば俺はこう言おう。だって今、俺に出来ることは言葉を噤むことではないのだから。

「そうだ。アクロスティックも終わらない」

 こんな珍妙な非、現実的場面に出くわしては。思いつくがまま適当なノリも突っ込みも言ったもの勝ちだと咄嗟に思ってそう切り出した。その結果がどうであれ、乗り切って見せよう。ほんの少しだけ器用なだけで、いきざまは大変不器用な営業一筋を舐めるなよ。つまりは自棄だ。狂ったリズムならそれなりに、この先も眠気と一緒にどうとでもなれ。

「あなた――、どこかで?」

 見下ろした、眼鏡と長い直毛黒髪が艶めく天使の輪に見覚えはない。だけれど「どこかで」と問われれば。俺も一人の男である以上、答えはただ一つ。

「……」

 口ではなくて目で語れ。そしてレビ・ストロースの格言を付け加えろ。

「世界は人類で始まり、人類なしで終わるだろう」

 俺としてはビッグバン、もしくは微生物としたかったところだけれど。ここは己も属する人類を強調したかった。


 もしかしたら本当に今日、大げさにしてもその人類が終わるかも知れないと心の片隅での呟きが重なった時。青であった信号機の瞳がパチパチと瞬いては光を失い、黄色や赤もランダムに点灯したのちに再び青を灯した。そして強い揺れによって生じた地割れから、天へ向かって垂直に立ち上った黒の噴水。ガス漏れか、水道管の破裂か、はたまた土砂の噴出か。いずれにせよ高くに昇ったものは重力に従い落ちてくる、はずだったのに何も降らない。正確に言えば、裂け目の脇からおまけ程度に噴出し始めた大量の水は降ってきた。びしゃびしゃと濡れ始める足元には、あっという間に水たまりが出来ている。

 裂け目から芽を出した黒き幹には透明度など一切なく。太き大木となった突先は順次に枝分かれ。震撼の空間で自ら身をよじらせてはさわさわと。小声をささめく漆黒たちの耳打ちに似た、それは意思だ。意志があるのなら自我もあろう。笑ったかにも見えた口なき顔なき黒々のどれが手で足かも区別はつかない。だのに交差点のど真ん中に突如として出現したものは、誰の目にも明らかに胸を張って立ち聳えていた。


 現実にあらざる事態を招いたあらぬものたちは。膝元で座り込み、立ち尽くす俺たちに瞳なき眼を向け獲物だとも告げただろうか。

 何だこれは――。交差点の周囲には近隣から駆けつけた警官たちが退避に、避難誘導にと、交通整理に集まり始めているけれど。俺たちに助け舟を出そうとしている者は一人もいない。誰も、この交差点の中に割って入ろうかとする者もいないとは。レスキューもまだ来ない、のなら俺は普通に死ぬだけなのか――。


 咄嗟にして恐怖や危機感を自覚する前に、そうとしか思えなかった。覚悟した、俺なりに。目じりに溜まった汗は、飛んできた水しぶきが寒さと相成り沁みたからだ。

 シュンシュンシュンシュン。地中から噴き上がる水はしぶきを上げながら、きめ細かな霧のもやでうっすら透けるベールも作り。霞みぼやけるカーテンの向こうより、高き身の腰をかがめてくる漆黒のものにふつと当たったのは一筋の。浮かび上がるは緑色したレーザー光線。

 それはアンカー、ポイント、マーキング。グリーンの光はぼんやりと、確かに一点を射し照らしている。

 あぁ、その色鮮やかさがとても綺麗だ――と思う走馬灯を過らせては、混乱する俺の脳裏にも可能な限りの想像が浮かぶ。誰かがこいつを撃てとオーダーしている。

「夜!」

 少年のような青年の嬉々とした声も上がった。


 加えられた閃光の衝撃、爆風。遅れて届いたのは耳に蓋をするかの爆音に続いて風圧に耐えられなかった俺の体は吹っ飛び、真横にゴロゴロ数回転。

 キーンと高く、ヴーンと低い重低音で鼓膜が馬鹿になったまま。カツン、パラパラと降ってくる小石やアスファルトの残骸も全身に浴びて。ざらざらと波打つ道路に煤けてしまった手をつきながら、立ち上がろうとする鼻にツンと漂うのは金属とオイルが焼け焦げムっとした熱気も漂う異様な匂い。

 何が起きた。何が起こった。バチバチと、バラバラと打ち鳴る破片や火花からなる万雷の悲鳴と喧騒の拍手の中で幕を開けたこの物語を結末に導くのは――決して、決して俺ではないはずだ。

「走れるか?」

 そう述べたのは、混沌の交差点に悠々と遅れた登場してきた軍人風の男であった。――そうか、あんたが。

 オートマチック銃のグリップを握っている手は無骨にして野太く頼もしい。一般市民の絶体絶命のピンチにおいて、颯爽と登場するのはいつだってヒーローだと決まってもいる。

「みんなを引きつれて交差点の外へ出ろ!」

「あ?」

 三十代のサラリーマンが躊躇ったのちに立ち上がりながら改まる。

「……い、行こう。俺たちがここにいては足手まといになるだけだ」

 発する口元は確かでも、その足元は震えているのがよく見てとれた。安心しろ。俺とて同じだ。眠気も加えた思考力も追いつかずにそろそろぶっ倒れそうだ。

「そ、そうですね」

 眼鏡を掛け直したOL風の女性も立ち上がる。さすれば俺も「懸命だな」と告げながらスーツのネクタイを締め直せば。電話を終えた少年のような青年が「その方が良いよ」と言い切った。

「早く行け!」

 軍人風の男に、その場から早く離れるよう促された俺たちは。最速、まずはスクランブル交差点の外を目指す。


 全速力で駆けたのはいつ以来だろうか。少なくとも俺は高校生以来、もう二十年来まともに突っ走ったことがない。もつれそうになる足よ、頼むからあと数メートルだけはもってくれと願いながらの息が切れる。もう歳かな。子供の運動会で出場したトラック競技で足がもつれてこける親の自信過剰がようやく理解できる。

 最終の白線ラインを踏んで黄色の点字ブロックに駆け込むまでの間は、多く見積もっても三、四秒ほど。男二名、女一名が全員フィニッシュするまで五秒はかからなかったはずだ。

 それなのに。息を切らせた俺たちが、既に黄色い立ち入り禁止を知らせる規制線が張られたテープのゴールラインから振り返り。交差点に視線を定めた時には既に決着がついたようだった。


 その間にいったい何があった。何が行われた?

 陽炎の如きに立ち昇る土煙りや炎は見紛うことなく本物である。

 数秒前まで俺たちが存在していた場所には、確かに黒きが起こした豹変があったのに、今はない。

 逃げ惑う野次馬の観客の中にはスマホなどで異変を撮影している者もいたけれど。あんぐりと開けた口をぽっかり穴にさせたまま、上げていた手はだらりと下がり。

 異変が治まったのなら何を驚く? 俺なら惜しみない拍手の一つでも打つものを。

 しかしながら森閑の間を経て花を咲かせた黒の異形は。先より遥かに大きく、太くなって万人の前に姿を現す。

 先の軍人らしき男はどこへ行った。そう言えば、あの少年のような青年もうまく逃げ切れただろうか。辺りを見回し混乱の交差点を窺えば。銃を手に持つ男は信号機の上に立っていた。何時の間に。そして漆黒の壁に焦点を当てながら誰になく呟く。

「雪! お前は鷹んとこのバックアップに回れ。ここは俺たちだけで充分だ」

 すると、あの青少年の声がした。

「うん。ママもそうしろって言ってるし、苦戦してるみたいだから僕行くね」

 ところがその姿、形がどこにあるのかの見当もつかない。

 そして男はこうも告げた。

「おい夜乃。次こそは三連弾で決めるぞ」

 グリップを握り直したその手が、ギリリと歯ぎしりをしたかにも見えて俺は目を細める。

 ――あぁやはり、本物はこうでなければ。そうだとも。ここから先の章はあんたに譲るよ。


 生きていれば、想像の遥か上をゆく偶然な展開に誰とて一つ、二つは遭遇することがあろうけれども。いざ、身の上に降りかかれば咄嗟と決死の判断に鞭を穿つ事すら躊躇う己。頼むから。今日と同じ明日はこないでくれと心底願った鳥肌は、ぷつぷつと、ざわざわと。掻き立つ音を沸騰させながら震撼していた。

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