第26話 初めての海外出張

「黒龍、聡、明日から上海へ出張だ。予定は3日程だが、長引いた時の為に着替えは多目に持って行くように。これがチケットだから、無くすなよ。あっ! パスポートを忘れたら、洒落にならないぞ」


 教育係の前田さんから、海外出張の緒注意を俺は真剣に聞いているが、黒龍は不機嫌そのものだ。


「聡君、上海に出張するの?」


✳︎

 聡が女子社員に囲まれて、生水を飲むなとか、パスポートはセーフティボックスに入れろとかの細々とした注意を聞かされている隙に、前田は黒龍を小会議室に連れ出した。


「ああだこうだと遠回りに聞くのは性に合わないから、ずばっと聞くけど……お前達を中国政府は何故呼び寄せようとするのだ?」


 小会議室の空気が冷たくなり、前田は息苦しさを感じる。


「中国政府の思惑など、どうだっていい。聡を利用しようだなんて、私達は許さない」


 整った顔立ちの黒龍が人間離れして見えて、前田は思わず一歩後ろに下がった。


「私達? それは天宮家のことなのか?」


 自分に問いを投げつけた前田に、全く知らないのだと苦笑する。


「天宮家など関係ない! この時期に聡を海外に出したくなかったのだが、仕方ないさ」


 普段の黒龍に戻って、小会議室から出ていく。前田は思わず大きな息を吐いて、壁に寄りかかった。


「黒龍……彼奴は何者なのだ?」


 真相を知りたいという気持ちと、知りたくないという気持ちの狭間で揺れ動いたが、前田はスマホを胸のポケットから取り出すと、外務省に勤める知人の名前を押した。


 聡は先輩達からプレゼンの仕方、海外出張の注意、持って行くと便利な物などを教えて貰っている。それを前田は複雑な思いで眺める。


「前田さん? それにしても、何故、新入社員を二人も海外出張させるのですか? プレゼンなら、他にも社員はいるでしょう?」


 これまでの経緯を簡単な報告書に纏めていた前田の机にコーヒーを置きながら、森は不審に思ったことを尋ねた。


「まぁ、期待の新入社員だから、鍛えるのさ」


 確かに、聡も黒龍も優れているとは思うが、森は納得できなかった。しかし、これ以上は前田が話したくなさそうなので、森は邪魔をしない。


『誰でも変だと思うよなぁ、原課長も中国政府の要求に驚いていたし……』


 森みたいに直接聞きにこなくても、第一事業部の全員が首を傾げてるだろうと、前田は溜め息を押し殺した。それと、先ほど掛けた電話の相手の狼狽えた様子も気にかかる。


『何だって! 中国政府が聡様と黒龍様に説明をしてほしいと要求してきたのか? まだ、新入社員の二人を指名するだなんて、おかしいじゃないか!』


 会って話したいと告げると、慌てた様子で承諾した知人を思い出し、報告書を部長に提出する。


「天宮達も、今日は早く帰って出張の準備をしろ」


 初めての海外出張で、荷物をつくるのも大変だろうと、前田は定時に帰らせる。

✳︎


「ただいま! 青龍、急に上海へ出張することになったんだ。スーツケースなんて、無いよね?」


 海外へ行ったことのない俺は何を持って行こうかと、あたふたしてしまう。先輩達に聞いた話を思い出す。チケットとパスポートは絶対に忘れてはいけない。後は着替えと洗面用具、常備薬もいるのか?


「我が君、突然な話ですね」


 黒龍から報告を受けた青龍だが、始めての海外出張に舞い上がっている俺の言葉に耳を傾けながら、色々とアドバイスする。青龍が出してきたスーツケースに、着替えを考えながら詰めていた俺は、ふと何故スーツケースがあるのかと疑問を持った。


「この家にスーツケースなんてあったの?」


 不思議そうな俺に、青龍は微笑む。


「配属先が第一事業部に決まった時に、いずれは海外出張もあるだろうと購入しておきました」


 自分は考えてもなかったと、お礼を言った。着替えは詰めたが、後は女子社員達や先輩達に持って行った方が便利だと勧められた物が残っている。


「うう~ん、パジャマ、スリッパ、歯磨き、シャープ、スマホの充電器、差し込み口、常備薬? カップラーメン? 湯沸し器? こんなのまで必要なのかな? ホテルについてないのかな? 黒龍はどうするのか、聞いてみよう」


✳︎

 青龍は出張先にも着いて行くつもりだったが、もしかして、会社は聡を黒龍と同室にするつもりかもと、顔色を変えた。ぱたぱたと黒龍の部屋に急ぐ聡の背中を呆然と眺める。


「聡の荷造りは終わったの? 私に任せてくれれば、完璧なコーディネートにしてあげるのに」


 白龍は何やら大きな荷物をつくるのに忙しそうだが、青龍と赤龍はとっくに荷物を詰めていた。


「ねぇ、黒龍と同じ部屋は問題があるのでは?」


 聡が黒龍に何を持って行くのかと質問しているのを、赤龍は心配そうに眺める。他の龍人の気持ちも知らず、二人で使えるシャンプーとかは1本で良いだろうとか話している。


 青龍は『我が君、無防備すぎます!』と、拳を握りしめた。新入社員が海外出張の場合、同じ部屋になるものかどうかも判断できなかったが、手をまわそうと決めた。

✳︎


 初めての海外出張の朝、俺は青龍に起こされる前にベッドから出た。黒龍は朝御飯を食べながら、いつも一人で起きれば良いのにと、青龍が寝室に起こしに行くのが気に入らないので、俺を大袈裟に褒める。


「聡、眠れなかったのか?」


 白龍はご飯と味噌汁を俺の前に置きながら、目が赤いと心配する。


「プレゼンの資料を中国語で練習していたから……」


 青龍は中国政府高官を呪いたい気分になる。


「聡、空港まで送って行くから、しっかりと食べるのよ」


 青龍の不機嫌さで、暗雲が立ち込めるのを、これから飛行機に乗るのに乱気流になってしまうと、赤龍が話題を変える。


「ええ~、そんなのしてくれなくても良いよ」


 青龍はラッシュ時にスーツケースを持って移動するのはと、注意をしだす。赤龍と黒龍は、青龍の気がそれてホッとする。


「じゃあ、送って貰おうかな? あっ、でも赤龍のスポーツカーはちょっと……」


 会社の人に見られたら恥ずかしいよ。


「俺の四駆で送って行くさ」


 前に築地に連れて行って貰った白龍の四駆なら、二人分のスーツケースも余裕で乗せれると頷く。



 羽田空港まで送って行くという龍人達に、一応は断った俺だが、ラッシュ時にスーツケースを持って移動するのも大変そうなので、言葉に甘えることにした。しかし、ガレージに着いたところで、俺は驚きの声をあげた。


「えええっ! 何? このスーツケース!」


 四駆の前には各自のスーツケースが並んでいた。


「嘘だろ~! まさか、まさか……上海について来るのか?」


 当然ですと頷く青龍に、俺はくらくらする。社会人の俺に保護者がついてくるなんて、絶対に知られたくない。恥ずかし過ぎる。


「こんな奴ら、放っておこう! 私達は仕事で出張するのだから」


 勝手なことを言う黒龍に、他の龍人達から冷たい視線が投げつけられるが、俺もその通りだと思う。


「そうだよ、俺は出張に行くのだから、青龍達が上海へ来ても、別行動なんだよ! だから、こんなの意味無いよ」


 きゃんきゃん騒ぐ俺だが、白龍達は無視して、スーツケースを車に載せる。



「前田さんは何と思うだろう……親戚がいっぱいついて来るだなんて、おかしいよ」


 空港に着くまで、ずっと車内で、ぶつぶつ文句を言うが、青龍に盟約があるからと言いきられる。


「我が君の側から離れません」


 真剣な青龍の横顔を、俺は一瞬見とれてしまった。


「車を駐車場に置いてくるから、聡と黒龍は先に行け」


 出国カウンターがある建物の前で白龍は車を止めて、二人分ののスーツケースを下ろした。


「聡、前田さんと待ち合わせの時間だよ」


 黒龍に促されて、俺はスーツケースをごろごろ引っ張りながら、空港に向かった。残された龍人達は、俺の背中を見送ると、車に乗って駐車場へ向かう。


「なぁ、聡と黒龍が同室にならないように、手を打ったのか?」


 白龍は運転しながら、青龍に確認する。青龍は「当然です」と、頷いた。赤龍は当然同じホテルを予約しているのだろうと、青龍に任せておけばよいとスルーした。




「おおい! 聡、黒龍、こっちだ!」


 航空会社のカウンターの前で、前田さんが手をあげた。


「おはようございます、お待たせしましたか? すみません」


 小走りでカウンターに近づく俺と、ゆうゆうとスーツケースを引いて歩み寄る黒龍を、前田は眺めて溜め息をついた。昨夜、会った知人との会話を思い出し、首を横に振る。


『龍? まさかなぁ……黒龍はともかく、聡はどう見ても普通の青年だ』


 しかし、中国政府高官の欲望を秘めた目を思い出すと、何故か笑い飛ばせなかった。前田さんは三人のチケットを出して、チェックインする。


「ええっ! ビジネスクラス?」


 空港会社のチェックインカウンターのグランドアテンダントは、にっこりと微笑む。


「空きがありますので、ビジネスクラスに変更させて頂きました」


 俺は初めて飛行機に乗るので、こんなラッキーなこともあるのだと驚いた。前田さんは何十回も乗っていたので何か手を回したのだろうと考えたみたいだ。黒龍は、他の龍人達はファーストクラスだろうと無視している。


「上海まで3時間で着くんだよね、機内食とか出るのかな?」


 初めての飛行機に浮かれている俺に、出国手続きなどを世話している黒龍を眺めながら、前田さんは「無事に帰国できるまでが出張だ」と言う。なんだか小学校の時の「無事に家に帰るまでが遠足です」と校長先生の言葉を思い出し、笑いたくなったが、前田さんの真剣な顔を見て、俺も気を引き締める。

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