014・この私を前にして余所見とは

「さあ、いきますよ! アモン卿!」


 真っ先に仕掛けたのはアバドン。


 樹梨を背後に庇うよう前進しつつ、体の正中線上でぴたりと合わていた六本三対の腕を一斉に動かし、七海から見て右側を空羽に、左側をアモンに向けて突き出してきた。


 初めて馬蹄状の外骨格の内側を露にするアバドン。そこにあったのは闇、空洞だ。そして、その空洞の内側には、螺旋状の浅い溝が等間隔に刻まれている。


 そのジャンルについて大した知識のない七海にもわかった。アバドンの腕の有り様は、銃身に酷似している。


「まさか……」


 七海がこう呟いた直後、アバドンの六本三対の腕が、轟音と共に火を噴いた。けたたましい銃声が響き、連なり、他の一切の音を消失させる。


「——っ!」


 突発的に発生した銃声に対して、一般人がとれる行動の種類は多くない。その身を硬直させるか、その場で蹲るか、一目散に逃げ出すかのどれかだろう。


 七海が執った行動は二番目だった。声なき悲鳴を上げ、その場に蹲り、両の手で頭を抱え込む。


 三秒弱。七海にとっては永遠にも感じられた時間で、銃声は止まった。


 恐る恐る両の手を頭から離し、状況を確認してみる七海。まずは目の前、空羽とアモン。両者とも健在だ。空羽はその両腕に、アモンは両腕を覆う籠手に無数のスジができていたが、それ以外にさしたる変化はない。


 味方である両者に怪我がないことに安堵し、今度は周囲に目を向ける七海。次いで愕然とした。


 路地裏が、原型を留めていない。


 空羽とアモンの両脇、そのやや後方から三メートルほどの範囲にかけて、凄惨たる光景が広がっている。


 コンクリート製のビル壁と、舗装された道路が削れ、ひび割れ、砕けている。何かしらの電気配線が切れたのか、壁の一部からは火花が飛んでいた。水道管も傷ついたらしく、水が勢いよく噴出している場所もある。


 無傷な場所を探す方が難しい。そんな有様の路地裏には、アバドンから発射された夥しい数の弾丸がめり込み、突き刺さっていた。


 直径十センチ、長さ二十センチほどの、薄黄色の弾丸。弾丸と言うよりは砲弾に近いそれと、その着弾点に刻まれた螺旋状の傷跡を見つめながら、七海は胸中で呟いた。


 掠っただけでも、たぶん死ねる。


 ものの数秒でこれだけのことをして見せたアバドン。『破壊の場』『滅ぼすもの』の名は伊達ではない。敵は紛れもない怪物だ。


 だが、敵が怪物なら、味方も怪物。


 周囲の状況と、空羽とアモンの両腕にできたスジから察するに、両者が七海を庇ってくれたことは明白だ。その両腕でアバドンの銃撃を防ぎ、逸らし、勢いを殺して、七海を銃弾の雨から守ってくれたのである。


 そんな両者に消耗の色は見られなかった。空羽などは、口元に笑みすら浮かべている。


「今、何かしたか? 蝗の王」


 両の腕を一振りし、何とも不敵な言葉を口にするアモン。すると、アバドンはこう言葉を返す。


「ええ、しましたよ。産卵を」


 さんらん?


 胸中でそう呟き、その言葉の正しい意味を七海が理解しようとしたとき、状況が動いた。


 周囲の至るところに突き刺さり、七海が先程まで弾丸だと思っていたものが、一斉にひび割れ、その中から能面のような色白の顔が現れる。


 イナゴだ。そして、その羽化の瞬間である。


 身の毛がよだつ光景とはまさにこのこと。周囲の壁という壁から、生まれたばかりのイナゴが顔を出し、七海たちを見つめている。


 完全に囲まれた。それに加え距離が近く、数が圧倒的である。


「やれ、我が眷属よ!」


 アバドンの号令に従い、イナゴが一斉に動き出した。背中の羽を広げ、毒針を振りかざし、空羽とアモン、そして七海に向かって、集団で襲い掛かる。


 イナゴの毒は猛毒だ。アモンと同じくソロモン七十二柱に名を連ねるデカラビアが、少量で動けなくなったのである。もし体内への侵入を許せば、アモンとてただでは済まないだろう。人間である空羽、七海は言わずもがなだ。


 この瞬間、七海は理解した。この群としての力、戦い方が、アバドンの本領なのだと。


 空を埋め尽くすほどの蝗の大量発生、つまりは蝗害を神格化した存在、アバドン。その由来通りの、実に単純で、わかりやすい力。


 数。


 数は力だ。


 圧倒的物量、数の暴力の前に、個にできることなどない。為す術なく蹂躙されて、それで終わりである。


 つい先程樹梨も言っていたではないか、数の暴力にはかなわないと。


 この言葉は、自身と契約を結んだアバドンの本質と、能力をよく理解した上での言葉だったのだ。アバドンの契約者たる樹梨は、他の誰よりも数の力、強みを理解している。だからこそ、数で負ける大手と事を交えるのを、自暴自棄になるまで頑なに避けていたのだ。


 その数の暴力に、今まさに全方位を囲まれた七海、空羽、そしてアモン。


 個である七海たちに、もはや抵抗の余地はない。


 はずだった。


「ふん」


 眼前に迫るイナゴの大群を前に、つまらなそうに鼻を鳴らすアモン。その直後、アモンの背中から凄まじい勢いで黒炎が噴き出し、あるものを形作る。


 それは翼。


 漆黒の炎で作られたその翼は、七海、空羽、アモンの周囲を覆い、絶対の防壁となって、イナゴの進行を阻む。


 何の予備動作すらなく、一瞬で全方位に対する対処をして見せたアモン。圧倒的な数を相手に、一個の力で、あっさりと状況を打開する。


 そんなアモンの隣で、空羽が楽しげに口を開いた。


「まさに、飛んで火に入るなんとやらだね」


「今は冬だがな」


 空羽の言葉に続く形でアモンは呟き、次いで翼を消した。七海の目に再び映った路地裏に、イナゴの姿はすでにない。本体であるアバドンの命に従って漆黒の炎に突撃し、玉砕。灰も残らず燃え尽きたようだ。


「でだ、蝗の王。もう一度聞くが——」


 アモンは、先程とまったく同じ質問を、再度アバドンへと投げかける。


「今、何かしたか?」


 大胆不敵。ヘルムの下ではドヤ顔をしてるに違いない。


 その場から一歩も動かずに、アバドン、イナゴの連続攻撃を軽くあしらったアモン。その大きな背中を見つめながら、七海は思う。


 なんて絶対的な力なんだろう——と。


 アバドンが圧倒的な数の想力体なら、アモンは絶対的な個の想力体だ。数の優劣など容易に覆す、絶対的な個。そして力。


 悪魔の君主中、最強と称されるアモン。未だ底の見えないその力に、七海は頼もしさを覚えると共に、酷く恐怖した。


 七海は、この化け物に、明日殺されるかもしれないのである。


「ちょ、ちょっと……な、何よあれ……」


「我が眷属たちをああも容易く、さすがはアモン卿」


 アモンの力を目の当たりにし、余裕のない声で呟く樹梨と、どこか楽しげに言葉を紡ぐアバドン。


 そんなとき——


「な、なんだか凄い音したよ!」


「なになに!? 爆弾!?」


「テロか!?」


「警察呼んだ方がよくない?」


「俺、ちょっと見てくるわ!」


「俺も!」


「おい、やめとけって!」


 七海の後方から、複数の人間の声、足音が聞こえてきた。


 想力体は普通の人間には認識できず、声も聞こえない。だが、実体化した想力体が、世界に干渉した際に生じた現象は別だ。一般人でも認識、知覚できる。


 アバドンの銃撃で生じた音、衝撃は相当なものだった。とてもじゃないが、都会の路地裏に収まりきるものではない。それらは大通りにまで達し、そこにいた不特定多数の人間の耳に届いたはずだ。


 となれば、当然こうなる。間もなくこの場には、好奇心に釣られた人間たちが大挙して押し寄せてくるだろう。その事態が、自らの存在を大手に知られたくない空羽と、後先考えていない樹梨、どちらにとって有利に働くかは、考えるまでもない。


 樹梨の方も七海と同じ思考に至ったのか、その表情を獰猛な笑みへと変え、次いで口を開く。


「ふふ、なんだかギャラリーが増えてしまいそうね。あなたにとっては都合が悪いんじゃない?」


 余裕を取り戻した声で、空羽の不安を煽ろうとする樹梨。だが、空羽はまったく動じなかった。浮かべていた余裕の笑みをそのままに、こう口にする。


「見せ場だよ、デカラビア」


 空羽のこの言葉に、樹梨、アバドンが慌てて後ろを振り返り、七海は樹梨の背後へと視線を向ける。


 そんな三者の視線の先には、イナゴの毒に侵され身動きが取れないデカラビアの姿があった。地面に対し仰向けに横たわっているのは先程と変わらないが、一つ大きく違うところがある。


 デカラビアの五芒星の体が、金色の輝きを放っていたのだ。


 瞬く間に輝きを増していくデカラビア。その光量は、すでに七海では直視し辛いものになりつつある。今にも爆発してしまいそうだ。


「何をするつもりかは知りませんが!」


 事が起こる前にデカラビアを仕留めようと思ったのか、アバドンは左側の腕三本をデカラビアへと向ける。が、そのとき——


「させん」


「っ!?」


 今の今まで一歩も動こうとしなかったアモンが、アバドンを強襲した。瞬間移動ばりのスピードでアバドンの懐に潜り込み、右拳を握りこむ。


 デカラビアからアモンへと視線を戻し、右側の腕一本をアモンに向けるアバドンだったが、遅い。アモンの右拳は、すでにアバドンめがけ動き出している。


「ぐぅ!」


 アバドンの蛇腹状の腹部に、アモンの右拳が深々と突き刺さった。


 苦悶の声を上げ、体を硬直させるアバドン。だがアモンは止まらない。めり込んだ右拳をそのまま振り抜き、アバドンの体を上へと殴り飛ばした。


「この私を前にして余所見とはな」


 こう口にしてから地面を蹴り、自ら殴り飛ばしたアバドンの後を追うアモン。一方のアバドンは、空中で態勢を整え、六本三対の腕すべてをアモンへと向けた。


 アモンの全身から黒炎が吹き出すのと、アバドンが銃撃という名の産卵をしたのは、ほぼ同時。


 黒炎を盾にしたアモンは、轟音と共に降り注ぐ銃撃の雨を焼き尽くしながら突き進み、一直線にアバドンを目指す。


「これでは止まりませんか! ならば!」


 腕からの銃撃ではアモンに通じないと悟ったのか、アバドンは銃撃をやめ、胸部の外骨格を左右に割り開いた。


 胸部の外骨格の内側、そこにあったのは、能面のような色白の顔。目を閉じているが、イナゴの顔だ。しかも大きい。通常のイナゴの二倍近い大きさである。


「これは負担が大きいのですがねぇ……いきなさい!」


 アバドンがこう口にすると、胸中の巨大イナゴは閉じていた両目を見開き、生々しい音と共にアバドンの体外へと飛び出した。そして、飛び出すと同時にその体積を膨張させ、本体であるアバドンと大差ない大きさへと瞬時に成長。アモンに向かって突撃する。


 色が違う。大きさが違う。体のつくりが違う。羽音の力強さが違う。


 明らかに特別なイナゴだ。切り札の一つなのは間違いない。


 巨大イナゴは真正面からアモンに突撃し、黒炎の中に突入。そして——


「ほう」


 アモンの口から称賛の声が漏れた。燃えないのである。


 そう、燃えない。巨大イナゴはその身を焼かれながらも前進を続け、燃え尽きることなく黒炎を突破し、アモンに肉薄して見せた。


 巨大イナゴの体は所々焼け焦げていたが、どれも致命的なものとは言い難い。やはり、あのイナゴは他とは違う。


 そんな特別なイナゴが、毒針を振りかざしてアモンへと襲い掛かった。


「ふん」


 だが、それすらもアモンにとっては些細なことだったらしい。イナゴの毒針を右手で容易に掴み取り、左手でイナゴの顔面を抑え、その前進を難なく止める。そして——


「邪魔だ」


 左の掌から今までにない勢いで黒炎を噴出し、巨大イナゴの全身を一瞬で包み込む。


「落ちろ」


 アモンはこう呟きながら、左手で巨大イナゴの顔面を鷲掴む。次いで、左腕を下に向かって一振りし、黒焦げになった巨大イナゴを、地面に向けて投げつけた。


 地面に向かって一直線に墜落していく巨大イナゴ。そんな巨大イナゴの落下地点には、二体の想力体の動きについていけず、呆けたような顔で空を見上げる樹梨の姿がある。


「ひぃ!?」


 巨大イナゴが自身の真上に落ちてくることに気づき、恐怖に引き攣った声を上げる樹梨。慌ててその場を飛び退いた。


 つい先程まで樹梨が立っていた場所に、巨大イナゴが寸分違わず墜落。一方上空では、アモンがアバドンに肉薄していた。


 黒炎を纏った両腕で、アバドンに拳を繰り出すアモン。その光景を大きな瞳で見つめながら、デカラビアが漠然と呟く。


「想力……解放……」


瞬間、東京の路地裏で、金色の光が爆ぜた。




     ◆




「ぐ、がぁ!」


 苦痛の声を漏らしつつ、後方に高速で吹き飛ばされるアバドン。アモンの両腕から繰り出された打撃六発。それらすべてをその身で受けたのである。


 そのまま彼方まで消えてしまいそうな勢いだったが——


「がは!」


 アバドンが吹き飛ばされた方向には、東京に乱立する高層ビル群の中でも、頭一つ抜けた巨大ビルが存在していた。アバドンはその巨大ビルに背中から激突し、埋没。偶然ではあるが、勢いを殺すことに成功する。


「ぐ、ぅ……よもや、ここまで力の差があるとは、な。さすがは最強の呼び声高いアモン卿……」


 ビルの壁にめり込んだアバドンが、弱々しい声で呟く。次いで、状況を確認しようと自身の体を見下ろした。


 アモンからの打撃を受けた部分は、みな一様にひび割れ、黒く焼け焦げていた。六本あった産卵管という名の砲身は、右側の一番上と、左側の真ん中がへし折れ、使い物にならない。全身を包む外骨格の節々からは、紫色の体液が止めどなく流れ出ていた。


「見事なまでに重症だな。治癒には相当な時間がかかるか……」


 傷口を見つめながら呟くアバドン。次いで、自身の周囲を見渡した。


 日本の東京なのは間違いない。だが、おかしい。


 道ゆく人々の表情は皆虚ろで、服装、季節感がバラバラだった。道路を走る車はコンピューター制御ででもされているかのように規則正しく動き、交通ルールを厳守する。加えて、大都市特有の喧噪が全く聞こえてこない。


 そんな東京の上空には、つい先程までは影も形もなかったはずの、超巨大な物体が浮遊していた。


 それは、五芒星の魔法陣。


 金色に輝く光の帯で構成されたその魔法陣は、一定の高度を保ったままゆっくりと右回転をしていた。地面に対し水平に展開し、音もなく、何をするでもなく、東京の上空を浮遊し、我が物顔で占拠している。


 あの魔法陣は、明らかに想力によって構成されたものだ。いや、想力で構成されているのは上空の魔法陣だけではない。魔法陣の下に広がる東京も、そのすべてが想力によって構成されている。街中を歩く住人さえも。


「これは……この世界はもしや……」


「ああ、想界そうかいだ」


「む、アモン卿」


 アバドンは、自身の独白に答える形で聞こえてきた声に反応し、そちらに顔を向けた。次いで、視線の先にいるアモンに向けてこう言葉を返す。


「想界。知名度の高い人口密集地域において、極まれに自然発生するという、すべてが空想によって構成された世界。想力で形作られた異空間ですね?」


「そうだ。実物を見たのは初めてか?」


「ええ。ですが、このタイミングで自然発生したとはとても思えません。そちらに対して都合が良すぎます。これは、デカラビア卿の仕業ですね?」


「明察。奴は、想界を自らの意思で展開し、長時間維持できる、稀有な能力を持った想力体だ。ここはもう、奴の腹の中だよ」


 こう言った後、アモンは友人を自慢するかのように小さく笑う。


「ほう、これほど巨大な異空間を一瞬で展開、長時間維持するとは……どうやら私は、デカラビア卿への認識を改めなければならないようですね」


「デカラビアは、戦闘能力こそ七十二柱の中では下位に属するが、悪魔としての格が私に大きく劣るという訳ではない。得意分野が違うというだけだ。現に、大規模な結界運用と、魔法陣の高速展開において、私は奴の足元にも及ばん」


 仲間であるデカラビアが展開し、維持している世界を誇らしげに見渡し、アモンは言う。そして、こう続けた。


「この世界ならば、他者に気を遣う必要はない。さあ、蝗の王よ、戦いの続きだ。存分に死合おうではないか」


右手で手招きをし「かかってこい」とアバドンを挑発するアモン。だが——


「……」


 アバドンは動かなかった。ビルの壁にめり込んだまま微動だにしない。


「どうした、蝗の王よ? 早くこい」


「いや、いったところで勝てませんよ。先の戦闘で、すでに格づけは済んでいます」


 自嘲気味な口調で言うアバドン。そして、アバドンは尚も言葉を続けた。


「アモン卿、あなたは強い。最強の二文字に恥じない、圧倒的な力をお持ちだ。認めますよ。あなたは私より強い。遥かに、ね。あなたを倒すことは諦めます」


「何だと?」


 こう口にした後で、訝しげに首を捻るアモン。次いで、こう言葉を発した。


「では、認めるというのか? 己の敗北を。見捨てると言うのか? 己が契約者を。勝利を諦め、虚無という名の地獄に再び戻ると?」


「いいえ」


 確認のために告げられたアモンの問いに対し、明確な否定の意を示すアバドン。その返答を聞き、アモンは再度首を捻る。


「蝗の王よ、気でも触れたか? 言動がおかしいぞ。一貫していない」


「そうでしょうか? 強者が勝者とは限りませんよ、アモン卿」


「強者が勝者とは限らない――か。ふむ、確かにその通りだ。だが、蝗の王よ。勝利を諦めていないと言うのであれば、尚のこと勝負を急ぐべきだ。こうして話をしている間にも、空羽がお前の契約者を始末するぞ」


 想力体は、契約した想力師に肉体を具現化してもらうことで、初めて世界に干渉できる。故に、契約した想力師が睡眠、気絶、または死亡し、意識を失った場合、想力体はその力すべてを行使できなくなってしまう。


 アモンは開戦早々にアバドンと樹梨を分断したが、それは意図的に狙ってやったことだ。アモンがアバドンを樹梨から遠ざけている間に、想力師としての実力で上をいっているであろう空羽が、単身で樹梨を仕留める。それが、空羽とアモンが用意した、勝利までのシナリオだ。


 現在、戦況は見事にそのシナリオ通りに進んでいる。アバドンにとってはかなり不利な状況。


 にもかかわらず——


「アモン卿。私の原型である伝承はご存知ですかな?」


 アバドンは余裕を失わない。力ではかなわない。自分では倒せない。口に出してそう認めた相手がすぐ目の前にいるというのに、彼の饒舌な口ぶりは失われていない。


「無論だ、蝗の王。貴殿ほど名の通った堕天使を、私が知らぬはずがなかろう」


「それは光栄。ならば、この伝承もご存知ですかな? アバドンは堕天使の名前ではなく、地名。イナゴが際限なく湧き出てくる底無し穴の名前である」


「知っているとも。だが、それがどうした。今の状況と何の関係が——」


「ならばもう一つ」


 アバドンは、アモンの言葉を遮り、こう声を発した。


「私、アバドンと分けて語ることのできないイナゴですが、そのイナゴをアバドンの眷属や使い魔としては扱わず、無数のイナゴ、そのすべてをアバドンとして扱う」


 この言葉を聞いた瞬間、アモンの肩が僅かに震えた。


「イナゴはアバドンの使い魔、眷属である。この説が、現状最も有名なのは確かです。ですが、先程の一説も、私を想力体へと押し上げた伝承の一つであることは、紛れもない事実」


「まさか……」


「さてアモン卿。先の戦闘で、あなたが焼き殺したつもりでいる特別なイナゴですが——」


 ここでアバドンは小さく笑い、思わせぶりな口調でこう言い放つ。


「はたしてあれは、本当に私の眷属だったのでしょうか?」


「まずい!」


 話が終わるや否や、アバドンに背を向けるアモン。次いで、背中から黒炎の翼を出現させ、空羽と七海の元へと急ぎ向かおうとした。


 しかし——


「この私を前にして余所見とは……」


「っ!?」


 アバドンがそれを許さない。路地裏での意趣返しであろう言葉をアモンの背中に投げた後、尻尾でアモンの右足を絡めとり、その前進を阻んだ。次いで、すぐさま尻尾を下に向かって振り下ろし、アモンを地面に向け投げつける。


「ぐ、不覚!」


 地面に高速で叩きつけられたにもかかわらず、ダメージを一切感じさせない動きで即座に態勢を整えるアモン。そんなアモンを上から見下ろすアバドンが、こう声を発した。


「いかせませんよ、アモン卿。そして、これより先あなたの視線は、私たちに釘づけにさせていただきます!」


 強い覚悟を感じさせる声で、高らかに宣言するアバドン。次の瞬間、アバドンがめり込んでいたビルの上半分が、落雷のような轟音と共に、跡形もなく消し飛んだ。


 アバドンの全身から放たれる、竜巻のような想力の奔流を感じ取り、アモンは視線をアバドンへと向ける。その視線の先には、今の今まで背中に折りたたんでいた羽を広げ、想界の空を舞うアバドンの姿があった。


 堕天使。その言葉を聞いた人間の多くは、黒い羽毛の翼を連想するだろう。だが、アバドンの羽はそれとは大きく異なる。


 翼ではなく、羽。


 生物学では『』と表記され、昆虫の成虫のみが使用する、薄い、半透明の羽。


 その枚数、十二枚六対。


 同一視体である、かの『輝くもの』ルシフェルと同じ枚数の羽を、上下左右いっぱいに広げながら、アバドンは想界の空を舞う。


 アモンは、そんなアバドンのある一点を注視した。十二枚もの羽によって厳重に封印されていた、あるモノを注視した。


 それは、穴。


 アバドンの背中に無数に存在していた、黒い、暗い、底無しの穴。


「がぁぁああぁぁあ!!」


 アバドン絶叫。そして、その絶叫に呼応するかのように、解き放たれた穴という穴がうねりを上げ、夥しい数の弾丸を無差別に発射する。


 流線形、薄黄色の弾丸。イナゴの卵だ。砲身を通していないので発射速度はそれほどでもないが、数が正気の沙汰ではない。


 空中へと放たれた卵は瞬時に羽化、イナゴへと姿を変える。その変化がすべての卵で例外なく起きた。アバドンの眷属であるイナゴが、瞬く間に数を増やしていく。


 まず一秒で、本体であるアバドンの姿をアモンの視界から消し去り。


 次の一秒で、大軍勢と表記するに値する数にまで膨れ上がり。


 また次の一秒で、アモンの周囲を全包囲し。


 更に次の一秒で、想界の一角、その悉くを埋め尽くした。


「アモン卿、あなたは強い。数の力を超越した、遥か高みにあなたはいる。故に、倒すことは諦めます」


 聞こえてきたアバドンの声に、アモンは視線を迷わせた。全方位、ありとあらゆる場所からアバドンの声が聞こえてくるのである。だが、アモンが視線をどこへ向けても、その先にアバドンの姿はない。そこには、夥しい数のイナゴの群れがあるだけだ。


「ですが、勝敗は別です。それは譲れません。私の分身が、あなたの契約者を倒すまで、我が全身全霊をもって、この場に足止めさせていただきます」


 堕天使アバドンでは、悪魔アモンは倒せない。


 ならば、その契約者を倒せばいい。


 これが、アバドンが用意した勝利へのシナリオだ。


「この数を強行突破するのは、流石に危険か……」


 アモンは、イナゴが九、青が一といった、まさに世界の終末といった具合の天を仰ぎ、諦めるように呟いた。そして、どこにいるとも知れないアバドンに向け、こう告げる。


「いいだろう、相手になってやる」


 次の瞬間、アモンの両手から黒炎が噴き出した。そして、あるモノを形作る。


 それは剣。


 地獄の極炎にて作られた、二振りの剣だった。


「だが、それでも勝つのは私だ! 蝗の王よ!」


「いいえ! 私は負けませんよ、アモン卿!」


 両手に剣を握り、本当の意味で『黒炎の騎士』となったアモンが、咆哮と共にイナゴの軍勢へと疾駆する。その疾走を、アバドンが数で迎え撃つ。


 格づけは済んだ。だが、戦いは終わらない。


 強者が勝者とは限らない。


 絶対的な個と、圧倒的な数の、勝つための戦いと、負けないための戦いが激化する。

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