001・私たちの冒険はこれからだ!

「私たちの冒険は、これからだ!!」


 某レコーディングスタジオのアフレコブース内にある一本のマイク。そのマイクに向かって、熱く、そして高らかに、七海は声を発した。


 七海の声には、これから始まる新たな冒険と、まだ見ぬ世界への期待が込められていた。この声を聞けば、誰であっても心に熱い何かが芽生えるに違いない。たとえ無機質なスピーカー越しであろうとも、だ。


 アフレコブース内に訪れる数秒の沈黙。そして——


「はい、OK! 皆さん、お疲れ様でした!」


『お疲れ様でしたー!』


 文句なし。そう顔に書いた音響監督が、この場にいる全員に向かって労いの言葉を発した。その言葉に、今この場にいるすべての関係者が笑顔で応じる。


 アニメ『ブレーメンカルテット』。その最後のアフレコは、こうして終わりを告げた。


 仕事をやり終えた参加声優たちが、笑い合い、語り合いながらアフレコブースを後にしていく。そんな中、七海はしばし天井を見上げた後、一度頷いてから歩き出す。そして、アフレコブースの出入り口に佇む親友、悠里の姿を見つけた。


 七海と悠里。二人は足取り軽く互いに近づき、右手を上げ、叩き合わせる。次いで、共に清々しい笑顔で口を開いた。


「お疲れ様、悠里ちゃん」


「お疲れ、七海ちゃん」



     ●



「台本を読んだときも思ったけど、ストレートど真ん中な終わり方だったね」


 ビルの一階出入り口に向かって階段を下りながら、七海が笑顔と共に口を開く。


 七海の服装は担当するキャラクターの服装に合わせ、七海と悠里が在籍する私立明声めいせい学園高等部の制服だった。ブレザーにプリーツスカート、黒のオーバーニーソックスという出で立ちである。右手には学校指定の鞄が握られていた。


「ほんとほんと。でも、私は嫌いじゃないかな、あの終わり方。作品の雰囲気にも合ってたし、監督も狙ってやった訳だしさ。ネットやファンの間で話題になるよ、きっと」


 七海の右隣で楽しげに笑い、悠里は七海の言葉に同意で答えた。


 悠里の服装は、担当するキャラクターの服装、イメージカラーを意識してコーディネートされたロングスカートのワンピースであり、全体的に白で纏められていた。右手には『ブレーメンカルテット』の台本と、途中で着替えた制服、学校で使った教科書等がまとめて入っている大きめのバッグが握られている。


「あれだよね、開き直ってるようで、実は計算されてるところがにくいよね。でも『ブレーメンカルテット』も最終回かぁ。原作ファンとしては第二期に期待だね。悠里ちゃんはどう思う?」


「う~ん、原作は順調に連載してるし、最終回もラスト以外は原作に沿った作りだったから……うん、大丈夫! 第二期はあるって思うな!」


「そうだよね! そのときは——」


「また一緒にがんばろうね」


 二人は階段を下りつつ顔を見合わせ、楽しそうに笑い合う。


「ねぇ、悠里ちゃん。悠里ちゃんは今、仕事いくつ抱えてるの?」


「私? えっとね……放送中のアニメでレギュラーが二本で、準レギュラーが一本。四月から放送開始のアニメでもレギュラーが二本。シリーズもののOVAが一本あるし、ラジオで二本——だったかな? またオーディション受けるから、もう少し増えるかもだけど」


「うわ! 仕事八本で、アニメのレギュラー四本もあるの!? さすがだね!」


「ふっふっふ、七井悠里は絶賛売り出し中なのだ! それで、七海ちゃんは?」


「もろもろ合わせて五本。あ、でも『ブレーメンカルテット』は今日で終わりだし、『ベリーベリーベリー』も次のアフレコで最終回だから、三本かな? レギュラーは……ゼロになっちゃう」


 指折りしながら答える七海だったが、悠里に比べると不甲斐なく思ったのだろう。少し顔を伏せ、肩を深く落とす。


「はぁ……もっともっと声優の仕事がしたいよ……」


「仕事の本数に制限がかかってるもんね。七海ちゃんは」


「うん。本数はスケジュール次第だけど、レギュラーは二本以上持てないから……ああ、どうしてこんなことに! 私の声優への情熱は、オーディションがあると聞くたびに飛んでいった、駆け出しの頃からまったく変わっていないのに!」


 オーバーアクションで、声優というよりは舞台俳優のように胸中を吐露する七海。その言動が面白かったのか、悠里は笑った。が、すぐに真剣な顔になり、そのまま口を開く。


「仕方ないよ。七海ちゃんは二年前の夏に、一度倒れてるもん」


「……そうだけど。倒れたときの検査じゃ『異常なし』だった訳だし——」


「『原因不明』の間違いでしょ」


「う……」


 悠里の強い口調に言葉を詰まらせ、七海は踊り場で足を止める。それに合わせ、悠里も足を止めた。


 恐る恐る顔を右に向ける七海。そんな彼女の視線の先には「私、怒ってます」と言いたげな悠里の顔があった。


「七海ちゃん。七海ちゃんが目の前で倒れたとき、私がどれだけ心配したかわかる? 七海ちゃんが病院で眠っているとき、私がどれだけ不安だったかわかる?」


「それは——」


「わ・か・る?」


「……ごめんなさい」


 体を小さくして謝罪の言葉を口にする七海。その謝罪を素直に受け入れたのか、悠里の顔から怒りが消えた。だが、真剣な顔は崩さずに、悠里は言葉を続ける。


「定期検査ではっきりとした原因が解るか、高等部を卒業するまでは会社の意向に従ったほうがいいよ。世間的には、御柱七海は過労で倒れたことになってるんだから、ね?」


「うぅ……はぁい」


「うん、よろしい」


 七海の返事を聞き、悠里はようやく笑顔を浮かべた。次いで足を動かし、階段を再び下り始める。少し遅れて七海も続いた。


「まぁ、七海ちゃんの仕事が少ないのは、私としては助かるかな。今のうちに少しでも七海ちゃんとの差を埋めないとね」


「差って、そんなの——」


「あるよ。すっごい離されてる。私、一度でも仕事で七海ちゃんに勝てたと思ったことないもん。人気絶頂、国内人気ナンバーワン。奇跡の声と圧倒的表現力を持つ、不世出の天才。私の親友で、ライバルで、一番身近な目標。声優・御柱七海」


 悠里はここまで言ってから足を速めた。階段を下りきり、一階に到着すると同時に右足を軸に半回転。そして、七海の姿を下から見上げつつ口を開く。


「ずっとずっと、私の特別でいてね? 七海ちゃん」


 太陽のように明るい笑みと共に放たれた、悠里からの突然の告白。これに対しどう切り返したものかと七海はたじろいだ。が、それは一瞬のこと。すぐさま呆れ顔になり、次のように口を動かす。


「悠里ちゃん、その台詞——」


「きゃは♪ それって、明日最終オーディションがある『天使のホイッスル』のサブヒロイン、天塚あまつかかえでの台詞ですね。ちなみに、原作漫画のコミックス一巻、十五ページ、三コマ目を参照で~す」


「うん、そうそう——ってこの声!」


 無駄に明るいパワフルな声が七海の言葉を遮り、補足説明までつけて二人の会話に割り込んできた。その声が聞こえてきた方向に、七海、悠里の顔が同時に動く。


 二人の視線の先には、七海と同じく私立明声学園高等部の制服に身を包んだ女の子が立っていた。小柄で、童顔。栗色の髪をダブルシニヨンにまとめている。発育があまり良くないのか、胸が高校生とは思えないほどまったいらだった。


芽春めばる!?」


 七海に芽春と呼ばれたその女の子は、輝くような笑みを浮かべながら右手を上げ、少しくだけた敬礼をした。次いで口を開く。


「せ~んぱい、どもです」


 童顔、子供体型、アニメ声という、自身が持つ武器を最大限に生かした、その筋の人が見聞きしたら悶絶ものの挨拶を披露する芽春。自分としても会心の出来だったのだろう、挨拶の後ぶりっ子のポーズをして「きゃは♪」と笑っている。


 しかし——


「魚ちゃん、どしたの? こんなところで? 私たちに用事?」


 悠里の笑顔と共に紡がれたこの言葉を聞いた途端フリーズした。笑顔が硬直し、ぶりっこのポーズを維持したまま、一階フロアに豪快にずっこける。


「大丈夫? 魚ちゃん?」


 悠里、二度目の『魚』発言。これに反応し、芽春が再起動した。亡者が墓穴から這い出るかのごとくにゆっくりと動き出し、ほどなくして立ち上がる。


「悠~里せ~んぱ~い」


 先程とは打って変わり、この世の不幸独り占めといった様相で呻く芽春。悠里からの『魚』発言がよほどショックだったのか、彼女の顔は涙に濡れてグシャグシャだった。足も激しく震えており、生まれたばかりの小鹿を連想させる。


「前にも言ったと思いますが、芽春を『魚』って呼ばないでくださ~い。私は芽春、大西おおにし芽春めばるです。確かに芽春の名前は某魚類と同じで、実家はお寿司屋さんですが、尊敬する悠里先輩に『魚』って言われると、芽春はとってもとっても悲しいです……」


 泣き顔で懸命に訴える芽春。だが、悠里は小さく小首を傾げ、こう口にした。


「え~なんで? 可愛いと思うよ、魚ちゃん」


 悠里、三度目の『魚』発言。芽春の体が、プロボクサーの右ストレートを食らったかのように大きくのけ反った。が、芽春にも耐性がついてきたらしく、今度は倒れることなく踏み止まる。


「うぅ……悠里先輩が酷いです。オニチクです。わざとですね? わざと言ってますね? 芽春を虐めて遊んでますね? 楽しんでますね!?」


「そんなことないって。私、魚ちゃんのこと大好きだよ」


「うぅ~! また芽春を『魚』って呼びました~!」


「もう、やめなよ悠里ちゃん! 芽春もそんなに泣かないの!」


 階段を駆け降りた七海が、悠里と芽春との間に割って入る。すると、芽春が七海に飛びかかり、涙ながらに縋りついた。


「うえ~ん! 七海せんぱ~い! 悠里先輩が虐めます! 芽春を虐めるんです! って言うか、芽春の会心の一撃的な挨拶が、芽春の武器を総動員した最強の一撃が、なかったことのようにスルーされてしまいました! 芽春の練習は何だったんですか!? 芽春はこれから何を信じ、何を武器に戦っていけばいいのでしょうか~!?」


 芽春、絶叫。


 始めこそ涙ながらに七海に助けを求めるだけだったが、途中で変なスイッチでも入ったのか、次第に七海の体を前後に揺すり始め、好き勝手なことを喚きだす。


 前後に揺すられながらも「お、落ち着いて芽春~!」と、宥める七海。だが、芽春の両手は止まらない。秒間二往復ほどの速度で、七海の体を延々前後に揺すり続けるのだった。


 徐々に青くなっていく七海の顔。そんな七海を不憫に思ったのか、悠里は「仕方ないなぁ」とでも言いたげな顔で、親友を助けるべく行動を起こす。


 小走りで回り込み、芽春から見てすぐ左隣りで足を止める悠里。その後、芽春の左肩に手を置き、そっと口を開いた。


「芽春ちゃん……」


 先ほどまでとは明らかに違う、慈愛に満ちた優しい声で芽春の名前を呼ぶ悠里。瞬間、芽春の体が電流でも走ったかのように震え、前後に動いていた両手がぴたりと止まった。


 目を回し、目の前でぐったりとしている顔面蒼白の七海から、悠里の方にゆっくりと視線を動かす芽春。その視線が悠里の優しい微笑みを捉え、そこで固定される。そして、それと同時に——


「自分を信じれば良いと思うよ」


 名前を呼んだときと同じ慈愛の口調で、悠里がこう囁いた。


「はうぁ!! そ、その台詞は~!!」


 叫び、両手で掴んでいた七海の体を右側に押し退け、芽春はものすごい速度で左隣りの悠里へと向き直る。


「ふえ? ふぎゅ!?」


 全身をシェイクされふらふらだった七海が、芽春の背後で真正面から壁に激突。が、そんなことなど気にも留めず、絶望に染まり涙に濡れていた瞳を、希望の光でいっぱいにしながら、芽春は口を動かした。


「悠里先輩!? さ、さっきの台詞は、アニメ『魔法洋菓子職人シュガー』の二十三話で、魔王の力に絶望していたソルトを励ました、シュガー伝説の名台詞!?」


「伝説って……そんな大袈裟な」


「大袈裟じゃないですよ!? 某動画サイトで、その台詞だけのたった数秒の動画が、どれだけの再生数を叩き出しているか! その台詞を生で聴けるなんて! しかも芽春に向かって言ってくれるなんて! 芽春はとってもとっても幸せです~」


 先ほどまでの不幸はどこへやら。悠里の目の前で感動に打ち震え、滝のように涙を流す芽春。そんな芽春を苦笑いで見つめつつ、悠里は「うう、困ったな」と、小さく呟いた。


 悠里としては、半ば暴走状態になっていた芽春の動きを止め、七海を助けるために先ほどの台詞を口にしたのだろう。だが、一度どん底に落ちてからのラッキーイベント、幸福の振れ幅があまりに大きかったからか、芽春は再び我を忘れ始めている。このままでは元の木阿弥だ。芽春が不幸か、幸福かの違いだけである。


 悠里は「これからどうしよう?」とでも言いたげな顔で途方に暮れた。が、次の瞬間。悠里はあることに気づき、その表情を硬直させる。芽春の背後を凝視したまま、冷や汗をだらだらと流し始めた。


 暴走している芽春は悠里の変化に気づかない。両目を輝かせたまま、勢いだけの、後先何も考えていない言葉を口にする。


「もう思い残すことはありません! 芽春は今死んだって構わないくらいです!」


 そして、この言葉を最後に——


「そう……芽春は、もう死んじゃってもいいんだ?」


「ひぅ!?」


 芽春の幸福は終わりを告げた。


 芽春の背後から不意に聞こえてきた声。美しさと透明感を兼ね備えた、氷のように冷たい、七海の声。


 その声は小声だったにもかかわらず、けして小さくないビル、その一階フロア全体に余すことなく響き、芽春、悠里だけでなく、その一階フロアに偶然居合わせた数名の人間すべてを、声に込めたある感情によって、恐怖のどん底へと叩き落とした。


 声に込めた感情の名は、殺意。


 もちろん、本物の殺意ではない。本気で芽春をどうこうしようなんて考えは、七海にはこれっぽっちもありはしない。これは、おいたが過ぎた後輩へのお仕置きであり、七海の演技であり、延いては声優としての表現力である。ただ、その完成度が異常なだけだ。


 声に感情を込める。これは声優にとって基本であり、すべてと言っていいだろう。そして、殺意はその表現する感情の中で、もっとも難しいであろう感情の一つである。七海はその殺意を、ごく自然に使いこなしているのだ。


 ビルの一階フロアにいた芽春を除くすべての人間が、殺意によって生まれた恐怖に突き動かされ、視線を一か所に、芽春の背後で少し俯きながら直立している七海へと集中させる。


 七海の表情は前髪に隠れて視認することができない。その細かい演出が、見るものの恐怖を何倍にも増幅させた。


「なら……いいよね? 私、我慢しなくても……いいよね?」


 俯いたまま最後通告をする七海。次いで、ゆっくりと両腕を動かした。


「あわ、あわわわ……そ、その台詞は、第一話を放送しただけで全国のPTAを敵に回し、ネット討論会にまで発展した問題作『病み鍋スクールライフ』。そのヤンデレヒロイン、氷月ひづきこころ! 彼女が邪魔者を始末するときの決め台詞! そんな言葉と共に芽春を逝かせてくれるなんて!」


 七海の両手が芽春に迫る。そして、ついにその両手が芽春の首に——


「芽春はとっても、とっても……あ、あああぁぁああぁあーーーーーー!!」


 一階フロアにいる人間、そのすべてに見守られながら、芽春はあらん限りの絶叫を上げ、その意識を手放した。


「その後、芽春の姿を見たものは、誰もいなかった……」


「人が気絶したと思って、縁起でもないナレーションを、雰囲気たっぷりに言わないでくださいよ! 悠里先輩!」


 悠里の勝手なナレーションに突っ込みを入れる形で、即座に意識を取り戻す芽春。


 七海の両手はすでに芽春の首から離れていた。もっとも、七海が芽春の首に手をかけたのはほんの一瞬であり、力を込めてもいない。


「うぅ、酷い目に合いました。でもでも、とってもとっても勉強になったです。これからもよろしくご指導お願いします! 先輩!」


 完全復活、元気いっぱい。そんな芽春を前に、七海と悠里は「やれやれ」と言いたげに苦笑いを浮かべた。


「で、芽春ちゃん。話は戻るけど、どうしてこんな所に? 私たちに用事?」


 七海が「お騒がせしました」と周りに頭を下げる最中、何事もなかったかのように悠里は話を戻す。


「あ、はい! お二人に用事——と言うか、お願いがあるのです。実はですね、芽春は明日の土曜日、人生初のオーディションを受けるのです!」


「明日? 芽春ちゃん、それって……」


「はい! 先輩たちと同じ、アニメ『天使のホイッスル』のオーディションです!」


 握りしめた右手を天井に向かって勢いよく突き上げて、気合いたっぷりに宣言する芽春。七海と悠里は「おお~」と声を上げ、小さく拍手をした。


「もちろん七海先輩の八坂やさか美笛みてきや、悠里先輩の天塚楓みたいな、主要キャラの最終オーディションじゃなく、チョイ役の新人発掘オーディションなんですけどね」


「初めは皆そうだって。そっか、芽春のところの社長さん、GOサイン出したんだ」


「はい! 大西芽春、デビューに向けて本格始動です!」


「ついに飛翔のときだね、芽春ちゃん。でも『天使のホイッスル』のオーディションって、こう言っちゃなんだけど、かなり特殊だよ? スタジオにカメラ入るし。そんなのが初オーディションで大丈夫?」


 悠里はこう言った後、芽春の顔を見つめながら首を傾げた。


 漫画『天使のホイッスル』。


 コミックス累計発行部数一千万部以上の大人気漫画で、一ヶ月ほど前に待望のアニメ化が発表された、今一番熱い作品である。


 当然だが、そのスタッフ、キャストには、原作ファン、アニメファンからの強い関心が集まっており、ネット掲示板等で日夜熱い討論が繰り広げられている。そこに目をつけたスポンサーが、話題作りのために全てのキャストをオーディションで決めることを提案し、その様子はスタジオ内に設置された数台のカメラで記録されることが決定。記録されたオーディションの様子は、後々に発売されるブルーレイ版、DVD版の特典映像になる予定だ。そして、芽春が受ける新人発掘オーディションでも、それは同様である。こちらの様子は特典映像ではなく、ネット公開という形になるらしい。


「参加声優が一堂に会して、顔を突き合わせた状態でのオーディション……でしたっけ? 撮影の都合で、合格者も当日発表だとか……」


「あ、芽春も知ってた? そうなの、かなり特殊な形式でのオーディションになる」


「スポンサー様は、私たちが合否を聞いて、一喜一憂する絵もほしいみたいだからねぇ。まったく、こっちに身にもなれって話よ。演技中に向けられる、他の声優からの目線とプレッシャーが怖いったらありゃしない。いらん恨みを買うんじゃないかって、考えるだけでも憂鬱」


「そうだよね。話題性も大事だけど、もっと全体のことを考えた企画にしてほしいよね」


 こう言った後で、気が重いとばかりに盛大に溜息を吐く七海と悠里。そんな先輩二人を見つめながら、芽春は真剣な表情で口を開いた。


「はい。芽春が今日ここにきたのも、それが理由です。その特殊なオーディションを……人生初のオーディションを受ける前に、偉大なる先輩お二人にアドバイスをいただきたいと思いまして、今日この場に参上した次第です」


 芽春はここまで口にしたところで深々と頭を下げた。そして、頭を下げたまま話を続ける。


「七海先輩、悠里先輩。芽春にアドバイスをください。ほんの少しで構いません。この若輩者に、お二人の力を貸してください」


 言い終えた後も頭を上げず、両手でスカートを握り締める芽春。強がってはいるが、やはり不安なのだろう。そんな芽春の本心を察したのか、七海と悠里は顔を見合わせた後、笑顔で口を開く。


「うん、私たちでよかったら喜んで。ね、悠里ちゃん?」


「もっちろん! 芽春ちゃんがオーディションに合格できるように、ばっちりアドバイスしちゃうよ!」


「先輩……ありがとうございます!」


 二人の優しい言葉を聞き、頭を上げる芽春。七海と悠里の目に飛び込んできた芽春の顔は、とても眩しい、彼女らしい笑顔だった。


「よ~し! 芽春、燃えてきました! もうひとつの用事の方もがんばっちゃいます!」


「あれ? まだ何かあるの?」


 首を傾げつつ、七海は尋ねる。


「はい、えっとですね——あ、ちょうどやってます。あれですよ、あれ」


 芽春は、すぐ近くの休憩所を指差した。


 そこには椅子、テーブルだけでなく、数台の自動販売機と、無料で見ることができる大型の液晶テレビが設置されている。そのテレビ画面には、妙齢の女性ニュースキャスターが一人と、【連続殺人事件・速報】という不吉な見出しが映っていた。


『本日、都内某所の路地裏にて発見された二つの遺体について、追加情報が入りましたのでお伝えいたします。バラバラという変わり果てた姿で発見された二つの遺体ですが、身元の確認ができたと警察から発表がありました。繰り返します。都内某所の路地裏にて発見された二つの遺体ですが、その身元が確認されたと警察から発表がありました』


 やや早口気味のニュースキャスターの声。その声を聞いた七海と悠里は、ほぼ同時に眉をひそめた。


 これは、一ヶ月ほど前から都内を騒がせている連続殺人事件、その速報である。


 この事件は、初めこそ都内で一人の成人男性が惨たらしく殺され、犯人が逃走中という、凄惨だがすぐに忘れ去られるであろう事件だったのだが、一週間が経過した頃、事件はその様相を完全に変えていた。その一週間で、似たような惨殺死体が三体も発見されたのである。


 似たようなという言葉が示す通り、死体にはある共通点があった。


 死体はすべて鋭利な刃物でズタズタにされている。


 殺害現場は、すべて東京都内。


 この二点。


 警察も総力を挙げて捜査しているが、捜査は難航。犯人は逮捕されるどころか特定すらされておらず、一人なのか、複数なのかもわかっていない。


 警察からの正式な発表こそまだないが、この事件は無差別連続殺人だとすでに認知されており、各メディアでは毎日のように大々的な特集が組まれ、東京都民に注意を呼び掛けている。だが、呼び掛け虚しく犠牲者の数は増え続けており、事件発生から一ヵ月、先ほどの速報の犠牲者を含め、すでに十一人の犠牲者が出ていた。


「そっか……また犠牲者が出たんだ……」


 テレビ画面を見つめながら、悠里がか細い声で呟いた。


「最近のニュースはこれしかやってない気がするよね……でも、これがどうしたの芽春? 確かに怖いけど、あんまり気にし過ぎてもしょうがないでしょ?」


 芽春だけでなく、自分にも言きかせるように、もっともなことを言う七海。


 都内を騒がせる連続殺人。確かに恐ろしい事件ではあるが、一般人にできることには限りがある。また、日々の生活の中でしなければならないことがある。


 現に七海、悠里は、今日も学生として学校へいき、授業を受けた後、声優としての仕事をこなした。だから今ここにいる。都内で殺人事件が起こったとしても、スケジュールが大きく変わることはない。そして、それが当然だ。


 たとえ誰かが不条理に殺されて、それが各メディアを通して世界の明るみに出たとしても、それはテレビの中での話。その当事者以外、大部分の人間には無関係なのだ。同じ街に住んでいる人間でさえも。


 誰しも『自分だけは大丈夫』そう思って生きている。


 この理路整然とした七海の言葉に対し、芽春は真剣な表情で首を左右に振った。そして、こう口を動かす。


「新しい犠牲者さんの、殺害現場が問題なんです!」


 次の瞬間、まるで空気を読んだかのように、テレビの映像が切り換る。


 慌ただしく動き回る警察官。ビルとビルの間に張られた『立ち入り禁止』と書かれたバリケードテープ。夥しい数の報道陣。新しい犠牲者が殺害、発見された場所。その生の映像だろう。


「……あれ?」


 何かに気がついたのか、悠里がテレビに向かって一歩踏み出した。次いで目を見開く。


「これ、うちのすぐ近くじゃない!?」


「ええ!?」


 信じられないと悠里が叫び、七海が驚きの声を上げる。


 慌ててテレビに駆け寄る悠里。それに少し遅れて七海、芽春と続いた。


 テレビ画面に齧りつき、事件現場を凝視する悠里。自分の記憶と、現場の映像、その二つを照らし合わせているのだろう。


 ほどなくして、悠里は諦めの溜息と共に深く肩を落とした。


「間違いない……家の近所だ……」


「ここって、いつも悠里ちゃんが使ってる、最寄り駅から自宅までの近道だよね? この前私たちに教えてくれた」


「そうなんですよ! 芽春もニュースを見たとき、とってもとっても驚いちゃいました!」


 首を大きく縦に振り、芽春は言う。そして、仕切り直すように小さく咳払いをした後、どこか得意げにこう宣言した。


「それでですね、その事実を知ったとき、芽春は思ったんです! 悠里先輩にボディーガードが必要だって!」


「「……何で?」」


 自然と重なる七海、悠里の声。その声には「何で芽春はそう思ったの?」という疑問が、これでもかと込められていた。


 そんな二人の疑問が理解できないのか、芽春はキョトンとした表情でこう告げる。


「え? だってこれ、悠里先輩が殺人鬼に襲われるフラグじゃないですか?」


 一瞬の沈黙。そして——


「「勝手に変なフラグを立てるなぁぁぁあああ!!」」


 七海、悠里の声が、ビルの一階フロアに——いや、そのビル全体に響き渡った。

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