第4話 険道6
気分転換に、見ず知らずの人たちがステージに立つライブにふらっと訪れてみた。
複数のバンドがタイムステージに則って演奏が行なわれているのだが、どこか規則には沿わない印象があるバンドマンがある時間どおりに、演奏しているのを見るとどこか滑稽なおもしろさを感じずにはいられない。
まあ、時間を守れないバンドマンはもちろんいる。
もちろんいるが、この国の時間を守るという秩序に沿わないというのは、社会不適合者と認定されてもおかしくないのである。
ステージ上ではおよそ過剰気味に演じられ、演奏される光景を瞳に映す。
音は右から左へ抜けていくような感じがした。
けっしてこの音は、こころへと落ちて来ない。
それらの音はこころのなかの上澄みにふわふわとすこしだけ漂って、淡くたちまちに泡となって消えていった。
たぶん、わたしが欲しているのは、こういう音じゃないし、こういう音楽じゃないのだろう。
不意にちょうどステージ上で唄っていたボーカルの人と目が合い、曲中のパフォーマンスのなかで彼がわたしにギターを差し出してきた。
このライブ会場の空間のいちばん隅っこにいるわたしに。
わたしはどうやらギターばかりを見ていたらしい。
そうだ、たしかにステージから客席はよく見える。
「おいそこのあんた!弾きたきゃ弾けよ!」
ボーカルの人が声を上げれば、まわりにいた人がわたしのほうを振り返る。
これは彼のバンド特有のパフォーマンスなのだろうか。
日常でべつに彼のバンドのライブに通っている人間ではないために、そんな微細な身内のみに通用するルールを押し付けられても戸惑うだけである。
まわりにいる人間は、みんな彼の身内であったり、知り合いであったりするのだろうか。
ここにいる人間がみんな、彼のファンだったとしたら、わたしはとんだ地獄にハマってしまったことになる。
あまりに無謀にライブ参加してしまったために、そんな思案ばかりが頭をめぐる。
この状況にほとほと困惑してしまい、どうしようかと思っていると、だれかに腕を引かれた。
「あ、マスター」
マスターはちらっとステージ上の彼らにアイコンタクトを送り、そのまま近くのBARにわたしを引っ張って行った。
マスターが連れて来てくれたBARは、マスターのところのBARと似ていてふるいレコードがたくさん飾られてある場所だった。
なかを見渡しながら、ほんの少し埃っぽいようなカビっぽいような湿度の高い地下の匂いを嗅ぐ。
わたしはと言えば、突然現れたマスターに驚きつつも、マスターに会ったら言わなければと思っていたことが、すぐに頭に浮かんで口にしていた。
「そういえば浅沼くん、マスターに不満を言ってましたよ。どうして教えてくれなかったんだって」
マスターは一瞬キョトンとして、思い当たることがあって、ああ、と頷いた。
さり気なくわたしに飲みもののメニューを渡して、注文を促す。
「教えなくちゃいけない義務もないんでね。……なんだ、思ったよりぜんぜん元気そうじゃないか、徹のやつ」
「浅沼くんは、アンビバレンスに思い悩んでますよ」
「あー、……やっぱり?」
ふざけた軽い調子のまま、酒を口にしつつマスターは語る。
わたしは甘いお酒を頼んで、出来上がるのをバーテンダーの手元を見ながら待つ。
「才能を見つけたら育てましょうなんて、そんなうまい話は実際なかなかねーよ」
「いつだって人は美味い蜜を求めていて、それはあくまで自分のためだし、その根底にあるのは、金儲けだ」
「利権絡みでドロッドロの派閥が生まれーの、識者ぶった人間が何さま気取りの批評し出し―の、才能のない輩が僻んで徒党を組んで慣れ合いをしーの」
「一歩踏み込んだ世界も、矮小化された俗物の
付けあわせのチーズをつまんで食べる。
マスターは、枝豆を食べている。
「功利主義も考えものですね」
「公平なんて有り得ないからね。ことに才能に関しては」
目の前にある、量が減ったボトルの中身を揺らす。
マスターの目は、どこか遠くを見ている。
「いつだって二律背反のなかに居るんだよ。だれかに褒められれば、どこかでは貶されている」
「尊敬もされれば、憎まれもする」
「いつだって足元をすくう機会を狙っているやつがいる」
「徹の気持ちも分からないでもないけどね。ただ信用するのと自己責任やリスクの管理はちょっと違う」
「っていうかさぁ、佐倉ちゃん。さっきのあの事は、まるっとスルーなの?」
前を向いて話していたマスターがわたしのほうを見た。
今度はわたしがキョトンとしてしまった。
……ああ、さっきの。
「マスター、正義のヒーローみたいにタイミングがバッチリでした。ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして……ってそうじゃなくてさ」
苦笑を洩らすマスター。
「あいつのこと、わるく思わないでやってね」
「あそこに立つと、自分の視野が広いとかすべてを掌握しきってるとか勘違いしだすから」
「若いときって大概ああだよな。俺のことを分からないやつが遅れてるとか、いまに俺の時代が来るとか、社会呪ってねーと生きてられねーんだよな」
「イタい、イタいわー。はげしくイタい。」
自分の若かりしころを思い出して悔やまれるのか、マスターはカウンターに突っ伏した。
「大丈夫です、気にしてません。まあ……ちょっとちがうところで思うことがありまして」
「思うことねえ……意味深だな」
「とても個人的なことなんですけど、マスターにお願いがあるんです」
「なに?」
別段、興味津々というふうでもなく、タバコに火を点けているマスター。
店自体が間接照明なせいか部分的に薄暗い室内に、あわい赤い火が灯る。
「いいギターが欲しくてですね」
「……それは良質な?それとも、”どうでもいい”という意味の”いい”?」
「後者です。立派なものじゃなくていいので」
「用途はさ、もしかして」
「燃やします」
タバコのけむりが揺れた。喉の奥で笑うマスターは、ひどく愉快そうだ。
「エソテリックだね」
「ええ」
「俺もその儀式に参加できる?」
「もちろん」
「そっか、じゃあ承るよ。お姫さまのお願いとあっちゃねぇ」
たばこを吸うマスターを見ながら、ふと思ったことを口にする。
「マスターの肺って、きっと真っ黒ですね」
「え、急に肺がんの宣告?」
笑ってそれには答えず、ぼんやり浅沼くんのことを思った。
真っ白な浅沼くん。
白かった、浅沼くん。
「現在、流行の最先端であるNY《ニューヨーク》では、だれもBARになんて行っていないんだってさ」
マスターはぽつりとそんなことを洩らした。
「夜に活動的になるのは
「そうですね。『朝活』とか流行ってますもんね」
マスターはふかく頷いて、同意を示した。
「業界人が、とりあえず朝まで飲むみたいな習慣はなくなったようだよ。ただただ意味もなくアルコールを胃に流し込んで、取引先と仲良くなる感じって、もう”なし”だよね」
「本当は佐倉ちゃんだって暗いところでお酒を飲むっていう行為の時代じゃないんじゃない?」
「まあ……BARはある種、古典とか伝統芸能みたいな存在になっていますね、正直なところ」
「だよねー。歌舞伎とおんなじだよ。”歌舞伎って行ったことないんですけどー、歌舞伎の人ってテレビによく出てるみたいだし、なんだか世間をよく知っている大人のひとたちは歌舞伎を見に行ったことがあるみたいだし、でも自分じゃチケットの取り方とか、着ていく服とかもよくわからないから今度連れて行ってください〜”っていう構図ね。それがね、BARでも見受けられるようになってきたよね。おっさんと二十代くらいの女の子の構図」
「BARのシーンってかならずドラマや映画に出て来て、本のなかのフィクションでも用いられるし、エッセイなんかでも出てくるから身近に感じはするけれど、実際自分がわざわざ行くかと聞かれたら、相当その雰囲気を気に入っていたり、お気に入りの人間ができない限り行かないですよね」
「そうそう……イマドキの子が好きなのは、とくに”え?ほんとうにここ二十一世紀なの?”って思うくらい時間が止まっている古いBARだったりして、ああ、ここで口説かれた女性は何千人、いや何万人なんだろう、ここで喧嘩もあっただろうし、泣き出した人も数え切れないだろうなあ、って感じで、そのバーの壁やカウンターや棚の中に”物語”がびっしりとこびりついているわけ」
「マスターのBARも……?」
「うん、まあ」
マスターは苦笑いで答えた。
「BARでの会話って、ほとんどセオリーどおりというか、マニュアルどおりというか、ある一定でおなじなんだよ。たとえば、ジン・トニックと、ジン・リッキーと、ジン・フィズの違いなんかを説明する」
「わぁ、すごく古典的」
「だろ?わざとBARっぽい雰囲気を誰しもが演じているんじゃないかって思うくらいなんだけど、みんな真面目なんだよ。基本中の基本を、まるではじめての人に懇切丁寧に教え
「まず、『ジン』っていう酒自体が、今やもうまったく洒落てないんだよなぁ。その三つの違いなんて誰も興味ないだろうし。それでもまるで映画のワンシーンのようにそれをやりたがる人間は、いつの時代になってもいるんだ」
「物語のひとつになりたくて?」
「そういうこと。そういえば、佐倉ちゃんってお酒、あんまり飲まないよね」
「ええ、まぁ」
「アルコールが身体にはいると、最初、大脳新皮質にだけ麻酔がかかるんだ。大脳新皮質っていうのは”意識や認識、思考、創造性、運動、感覚を担当していて、理性的な言動をとるように要求する司令塔”なんだけど、そこを麻痺させると、旧皮質が”種族を保存するための性行動を取ろうとする”んだそうだよ」
「つまり、酔っぱらうと理性がなくなって、男女問わず”したい!”って思うってことですね」
「そうそう。でも佐倉ちゃんはそうは思わない部類だろ?」
「ええ、まぁ」
「『英雄、色を好む』なんていうことばがあるけれど、成功したり、ボスになったり、お金がたくさん入って来て、有名になったりすると、男は動きはじめるもんだ。もともとそういう女好きの人間が成功者となるのか、それとも成功したから、性行為を行なえるチャンスが増えたのかわからないけれど、そういう傾向があるんだよ」
「へえ……」
「だから、もしかしたら、佐倉ちゃんは自己肯定感が低くて性欲低下している可能性があるってこと」
「いつ、わたしがマスターに性欲低下して困っているって相談しました?」
「してないけど、インポテンツだろ?」
「マスター、デリカシーに欠けている発言をしている自覚はありますか?」
「だから、はやくいろんなことが上手く行って、充実するといいねって話だよ。そう怒んなって。おれが佐倉ちゃんを成功の道へ導いてやるから」
「マスターの言う『セイコウ』がずっと変換では『性交』に聞こえて仕方がないです。マスターがわたしとヤリたいっていうことだけは十分伝わってきました」
「佐倉ちゃんもけっこうデリカシーに欠けてるよな……もっとオブラートに包むとか、恥じらうとかないの?」
「もう求めないでくれます?いろいろうっとうしい」
「ひでぇ」
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