#3:夢見る兎 - 4

 ネレス大陸の北側には東西に伸びる長い山脈がある。クニークルスはその麓にある小さな鉱山の街で生まれ育った。

 大陸の中でも砂の影響をあまり受けていないこの街では、まだ旅をする習慣がなく、クニークルスの父親も定住しながら鉱山で働く無数の鉱夫のうちの一人だった。

 母親は家事に専念し、昼には弁当を、毎晩遅くには体中を真っ黒にして帰ってくる夫のために夜食とも言える夕飯を用意し、一方では幼いクニークルスを古びたベッドに寝かしつけ、子守歌替わりにいろんな楽園の作り話を聞かせた。

 お世辞にも豊かとは言えない暮らしだった。何せ、化石資源が掘り尽くされた世の中なのだ。父親が掘っているのは石炭でも金でも宝石なんかでもなく、ただの硬い岩石にしか過ぎない。

 岩石そのものには価値はないが、白砂が世界中に広まってからはその影響を受けにくい石材が注目されるようになったのである。貴重な資源である銅や鉄は、何度も溶かして再利用されながら他の用途として使われるのと、砂漠の暑い環境には不向きなため、敢えて建材としては利用されていない。そのため、一番堅固で風化にも強い、この辺りの鉱山の石材が重宝されたのである。

 だが、鉱夫は腐るほどいる。ただの石材としての価値しかない岩石の掘削作業だけでは毎日麦を食べられるか否かという瀬戸際のところで手取りの賃金が渡されるしかなく、もはやタダ働きも同然だった。


 ある晩、いつものようにクニークルスを寝かしつけた後、壁一つ隔てた食卓で夫婦は話し合いをしていた。


「危険を承知で砂漠に出るか、このまま飢えと寒さに抗いながら暮らしていくか……」


 ただの汚れなのか、疲れからか──艶のない顔で父親は溜め息をついた。


「もう、■■■も六歳になる。一人で物事を考えられるようになっているだろうし、そろそろ生きる術も少しずつ教えていかねばならないな」


 父親はそう話しながら、食卓の上でスプーンを動かした。

 毎晩代わり映えのしない食事だ。固くなった油豚の古い肉を長時間煮込んで作ったシチューである。申し分程度の色物の野菜も少し酸味が出てきているため、何種類かのスパイスがどうにか歯止めをかけていた。


「……そうね」


 母親は暖炉の油を継ぎ足して向かいの席に座った。

 テーブルの下に隠した手をさする。先程、娘に心配されて絆創膏をいくつも貼って貰ったのだが、まだ上手に貼れなくて剥がれかけていた。その指を若干気にしながら、母親はひび割れた唇を開く。


「せめてこんな時代でも、あの子がきちんと女の子として生きていけるように、料理だけは先に教えておくわ」

「ああ。その間に結論を出さねばな。近々、石材を仕入れにいつもの業者がやって来る。そいつらに砂漠の事情を伺うことにするよ」


 クニークルスは布団の中で冷たい手足を擦り合わせながら、二人の話を聞いてしまっていた。寒さのあまりに眠れなかったのだ。

 まだ、後先を考える程の考えを持ち合わせていなかったクニークルスにとっては、こんなおんぼろの寒い家に住むより、毎晩聞かされるような楽園を目指して暑い砂漠を旅した方が楽しいだろうと思った。



   ◆



 翌日の昼頃、母親の弁当作りを手伝ったクニークルスは、既に鉱山で働いている父に弁当を届けに走った。

 いつもは母親が届けにいくのだが、砂漠に行くためには親に認められなければ始まらない──そう考えた彼女の積極的な初めてのお手伝いだった。


「おや、■■■ちゃん、お弁当を持ってどこへ行くんだい?」


 街の老人に声を呼び止められる。小さな街なだけあって、数少ない子供であるクニークルスはちょっとした有名人だった。


「パパにお弁当を届けにいくの! それから、今度みんなで砂漠に行くんだ!」


 夢見がちな少女の頭の中では、既に砂漠に行くことになっていた。砂漠がどんな所かも知らず、何故両親が渋っていたのか、その理由も知らずに。

 彼女にとって、砂漠とは楽園のようなものだと思っていた。


「そ、そうかい。■■■ちゃんは砂が怖くないのかい?」

「え? どうして?」

「……いや、知らないのならいいんだ。行っておいで。もうすぐお昼だよ」

「うん! またね、おじいさん」


 山へ続く曲がりくねった坂道をひたすら登っていく。

 道の両脇には様々な店が軒を連ね、いくつものスパイスの香りがツンと鼻を突いた。クニークルスがこの街の出身でなければ、もしかしたらこの独特の匂いには耐えられなかったかもしれない。

 数ある建物の軒下にはいくつもの提灯がぶら下がっていた。夜になると一斉に朱色の灯がぼんやりと街を照らし、街の外からでもその光景は幻想的に見えるという。

 店の殆どは酒場だ。疲れ切った鉱山の労働者達が集まり、酔い潰れ、夜伽を受ける──そんな場所なのだが、昼にしか訪れたことのないクニークルスにはただの飯処めしどころにしか映っていなかった。


「おや、キミは確か……」


 鉱山の入り口で息を切らせていると、スコップを持った鉱夫に声をかけられた。

 クニークルスは声を出すのも苦しいので、替わりに弁当を突き出した。


「お、弁当とは気が利くね。貰ってもいいのかい?」


 クニークルスは慌てて首を横にぶんぶんと振った。


「ああ、お父さんの分か。偉いね。……えっと、お名前は?」


 クニークルスは親に与えられた名前をゆっくりと名乗った。


「ん? 確かそんな名前の子がいるって聞いたな。……分かった。そこで待ってな」


 鉱夫はスコップをその場に置いて鉱山の中へ歩んで行った。

 中はどうなっているんだろう。好奇心旺盛なクニークルスは少しだけなら、とそっと中を覗き込むが……


「……えっ!?」


 生暖かい、季節外れの南風がクニークルスの首元をなぞった。

 驚いて振り返るが、静かなだけで誰かがいるわけでもない。

 気味が悪くなり、クニークルスは直ぐに元の場所まで引き返した。悪戯をしようとして、神様に怒られたのだ──そんなことを考えながら。


「■■■じゃないか!」


 その時、暗い鉱山から見覚えのある柔和な顔で大柄の中年男性が現れた。


「パパぁ!」


 クニークルスは弁当を振り回して駆け寄った。きっと中身はぐちゃぐちゃになってしまっただろうが、そんなことは忘れていた。


「今日はわざわざお前が来てくれたのか。嬉しいなあ」


 父親は可愛い愛娘を太い腕で抱き上げ、くるくると回った。娘は嬉しそうに笑い、それから無邪気なキラキラ輝く瞳で父の顔を見ながら言った。


「パパ! アタシ、一人で来れたよ? もう、一人前だよね!?」

「おいおい、どうしたんだ、急に!?」


 早口で突拍子もないことをまくし立てる娘に、父親は笑いながら地面に下した。

 娘はなおも続ける。


「アタシ、砂漠に行ってもいいよ! そしたら、ママのおててのしもやけも治るんでしょ?」

「お前……」


 そこで父親は悟った。昨日の会話を聞いてしまったのだ、と。

 父親は娘の目線に合わせてしゃがんだ。

 本来ならもう少ししてから話そうと思っていたことだが、勘違いを続けていたら何をしでかすか分からない。話すなら今しかないだろう。


「なあ、よく聴くんだ、■■■。砂漠はお前が思うほど優しい場所じゃない。飛び交う砂に触れたら、それだけでヤケドをしてしまうんだぞ?」

「……え?」


 それは初耳だった。


「お前には辛い想いをさせてしまってすまないが、もしかしたらここにいる方が安全かもしれない。だから、今すぐ行こうなんて気にはならなかったんだ」


 力抜けた手から弁当箱の包みがすり抜け、カシャン、と音を立てて地面に落ちた。


「でも……でもね、パパ。ママが楽園のお話をしてくれたの。それは砂漠の遠い遠い向こう側にあるんだって……」


 父親はどう答えようか迷い、結局、心を鬼にして打ち明けた。


「それは……作り話なんだ、■■■。お前がずっと笑っていられるように、ママが考えたお話だよ」

「うそっ!! そんなの、ぜったいうそだもん!! それじゃあ、昨日のお話は!? 砂漠に行くかもしれないお話はどうなったの!?」

「……■■■。それはパパが帰ってから話そう。遅くなるかもしれないが……それでも良ければ、起きていてくれるかな?」


 クニークルスは目に涙を溜めてゆっくりと頷いた。

 父親はその頭をポンポンと軽く撫で、弁当を拾い上げて立ち上がる。


「これ、持ってきてくれてありがとな。とても嬉しいよ」


 でも、聴きたいのはそんな言葉じゃない。


「お願い、パパ」

「うん?」

「楽園はあるって約束して」


 父親は笑顔でいるのを止めた。

 ……どうしたものか。娘は未だに夢見がちだ。

 今年で歳は六つ。現実を受け入れるにはまだ早いのかもしれない。

 だが、確かに仲間の内でも、商人たちの間も時折話題に出される。世界のどこかには本当に楽園と呼べる場所があるんじゃないか、と。大人でさえ信じたくなる話だというのに、子供に信じさせないのは酷な話だ。


「……そうだな。ある。きっとあるさ。そう信じていれば、いつか辿り着ける日が来る。だからいい子にしてなさい、■■■」


 結局、大きな嘘をついた。……或いは本当にあるのかもしれないが、確証なんてない。

 だが、そんなことをして、娘の将来に影響はないだろうか。

 そんな父親の心配を知らずに、娘はぱあっと顔を明るくし、父親に飛びついた。


「ありがと、パパ! アタシ、いい子にしてる! ママのお手伝い、いっぱいやるよ!」

「頼んだぞ。ママを助けられるのはお前しかいないんだからな」

「うん!」


 やがて、愛娘は大きく手を振りながら坂道を駆け下りて行った。




 その姿を見届けた後、父親はその場にどっかりと胡坐をかいて座り、娘がくれた弁当を開く。


「……何が入ってたか分からないな、こりゃ」


 弁当の中身はグチャグチャで、色々なものが混ざり合ってしまっている。

 それはまるで、今の娘のように、夢と現実が一緒くたになってしまったかのようだった。

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