第28話 名も無き群衆


 行くところ行くところ、何故だかいつも騒がしい。

 横田よこた順一じゅんいちがそんなことに気付いたのはそろそろ年末の空気が漂い始めた頃だった。

 年末が近付けば町に人が溢れるのは当然である。クリスマスは少し先だが、既に街中にはイルミネーションが派手に飾られている。

 ただ、横田はどうしても人ごみというものが苦手だった。知らない人間達があちこちにぞろぞろと歩いていく光景は、得体の知れない不安感を加速させる。休日に大太良市などに行くとそれだけで目が回りそうになる。

 しかし、家に引きこもっているのも憂鬱だ。外に出かけるという行動は必要だし、好きだった。

 横田の住む西日町は絶対に都会ではないが、田舎かと言われると首を傾げざるを得ない。町の中心にはそれなりに大きなショッピングモールがあるし、国道沿いには全国チェーンの飲食店が立ち並ぶ。

 そういう訳で、外出先に困ることはそれ程ない。町の中――四門地区内だけでもそれなりに遊べるし、青川の市街地に出れば映画館もあり、夜は歓楽街に出向くことも出来る。ただ、夜の青川の歓楽街の人の多さは苦手なので、出かけるのは決まって平日の昼間だった。

 横田は青川市の看護専門学校を出て、青川市内の割合大きな病院で看護師として働いている。夜勤を受け持つことが多く、それゆえ昼間は自由になることが多い。

 重要な睡眠時間だが、横田は極端なまでのショートスリーパーだった。

 最高で四時間、最低で三十分眠れば、体調は万全に整えられる。同僚達からは効率的だと半分羨ましがられ、早死にするのではないかと半分心配されている。流石に夜勤が続けば身体は応えるが、一時間でも眠ることが出来れば疲れは取れる。

 そんな訳で夜勤明けの日中は非常に時間が取れる。朝に帰宅して寝て起きればまだ朝だったということなどザラである。

 そこで横田が編み出したのが、平日の日中に町に繰り出すということだった。大太良まで行くと平日だろうとお構いなしに人が多いが、四門地区や青川の市街地ならば人は少ない。

 ショッピングモールに開店直後に入り、まだ人が少ないフードコートで朝食を取り、店内を回った後で昼前に青川に電車で向かって開店直後の客がいないレストラン――ファミリーではない――で昼食を取る。

 ここまでの贅沢が出来るのは月に一回程度だが、金を払わないなら払わないで、誰もいない公園でブランコに乗ってみたり、客より店員の方が多い書店で立ち読みをしたりと、人が少ないというだけで色々な楽しみが出来る。

 ところが、その楽しみが妙な形で奪われ始めていた。

 ショッピングモールのフードコートに向かうと、開店直後だというのに人が多い。休日昼時の満席程ではないが、殆ど一人で朝食を楽しむにはあまりに騒々しい雰囲気。

 開店直後のレストランの中を覗くと、結構な数の席が埋まっている。

 公園に行くと、子供連れの親子が数組。

 本屋で雑誌を立ち読みしようと棚に向かうと、その棚の前に三人程が陣取っている。

 そんなことがもう一週間以上続いている。

 人がいないだろうと思って行くところに、いつも人がいる。

 冬休みにはまだ早い。現に学生らしき人間にはそれ程出会っていない。爆発的に町に人が増える時期はまだ来ていないというのに――実際町には人は増えていなように見えるのに、何故か横田の行くところに人が溢れている。

 どうも厭だ。これでは外に出るのが億劫になってしまう。

 それはよくないということで、横田はショッピングモールの中の本屋に向かった。

 週刊誌を読もうと棚に向かうと、目当ての週刊誌が置かれている前に二人の男性が立っており、割って入らなければ手に取ることが出来ない。

 わざわざそこまでして読みたくはない。人ごみは嫌いというのは横田の場合、知らない人間と関わる可能性を嫌っていることの表れだった。

 本屋を出て、そういえばここにもチェーンのコーヒー店があったことを思い出す。あまり訪れたことはないが、独特の注文システム自体は他の店舗で覚えたので、携帯電話でも弄りながら一息吐こうと角を曲がる。

 ところがここにも、数人がばらけて席に着いていた。二人掛けのテーブル席は横に五つ並んだ内の三つがそれぞれ一人ずつで埋まっているし、中央の大テーブルもあまりスペースがない。

 おまけに注文口には二人が並んでいる。並ぶのを待ってまで飲む程のものではない。

 昼食と夕飯の買い物をしておこうとスーパーマーケットの方に向かっていく。

 買い物を終えると、先程のコーヒー店の前をまた通ることになった。駐車場に止めてある車に一番近い出口に向かうと通るルートなのだ。

 ふと店内を見ると、客が誰もいない。席は全て空いていた。注文口にも並んでいる者はいなかった。

 なんとなく、厭な感じを受けた。

 単にコーヒーを飲み終わった客が全員帰って、新しく客が来ていないだけなのだろう。だがそれにしては先程までとの光景が違いすぎる。

 気になって本屋に向かうと、週刊誌の棚の前には誰もいなかった。

 これも別段不思議なことではない。読みたい記事を読み終わって帰っただけなのだろう。

 だが、どうしても厭な感じが拭えない。

 何かが、何らかの悪意が、自分を襲っているのだとしたら。

 馬鹿馬鹿しいとは思うが、その実非常に性質が悪い。

 横田の平日昼間の楽しみがことごとく奪われている。奪おうという悪意が働いているとすれば、それは実によく利いている。

 単なる気のせいだろう。そう思うも一度涌いた疑念はそう易々とは消えてくれない。

 なのでそれからは、入りたいと思ったが先程まで多くの人がいて躊躇してしまったところを暫く経ってから再び訪れるということを繰り返した。

 その結果、どの場合でも、再び訪れた時には人はいなくなっていた。無論何人か人がいることはあったが、それは普段から同じだ。問題は、横田に躊躇させるような人数と位置だ。それはすぐに戻るとそのままだが、他の用事を終えて帰ろうとする時に覗くと解消されていた。

 横田の疑念は確信に変わりつつあった。

 気のせいだと割り切るには、その頻度は明らかに多すぎる。それに不自然なまでの人間の消失。

 どう考えてもおかしい。

 だがこんな世迷言を誰かに話す訳にもいかない。

 そんな折、入院棟の特別病棟を担当してくれないかという話が回ってきた。

 特別病棟は通称で、正式には単なる個室病棟群である。だがそこに入るのは決まって金持ちで、実際入院費用も桁違いに高い。

 そしてこの青川市という土地柄から、そこに入るのは殆どが火清会関係者と相場が決まっていた。

 そもそもこの病院自体が火清会からの援助で設立されたという話で、火清会の権力者の療養所という意味合いも含まれていたという。

 横田は火清会がどういう組織なのかということを知ったのは高校を卒業した後だったが、特に悪い感情は持っていない。同僚の信者から勧誘を受けたことは何度かあるが、軽く断れば済む話だった。それに火清会のお膝元の病院で働いている関係で、「お得意様」という感覚も出来ているのかもしれない。

 ただ、権力者の看護を任せられることには一抹の不安もあった。少しでも下手を打てば首が飛ぶことも充分にあり得るからだ。

 だが、特別病棟を担当している間は他の病室を回らなくていいという条件と、夜勤もしなくていいという条件を付けられた。いくらショートスリーパーだとはいえ、夜勤が続けば身体は応える。これはかなり魅力的な条件に思えた。

 結局、それに加えて給与上乗せをちらつかされたことですんなり折れた。

 特別病棟に入院していたのは、四十代くらいの生気のない男だった。細いフレームの眼鏡をかけ、五分刈りにした頭。穏やかな笑みを浮かべているが、親しみはあまり感じられない。

「おはようございます保科さん。今日から担当させていただく横田です」

 にっこりと笑顔を作って一礼する。

「これはどうも。まあそう気張らず、適当にやってください。僕は本来こんな上等な部屋に入れる身分ではないので」

 保科は少し自嘲気味に笑うと、ベッドから立ち上がって吊った右腕を見せた。

「ここを少し切っただけなんですが、大事を取って入院しろと言われまして。まあ実際あまり動かすことが出来ないのでお世話をかけるとは思いますが、それ以外は全く元気ですので気軽に接してやってください」

 書類では右腕を十針縫う怪我ということだが、それ以外のことは全く書かれていなかった。

「横田さん、あなた何かお悩みじゃないですか?」

 ベッドの横の椅子に腰かけた保科は横田を見上げるとそんなことを言った。

「悩み……ですか?」

「おっと失礼。僕はカウンセラーのようなことをやっていまして、どうしてもそうしたことが気になってしまうんです。最初に入ってきた時に思ったんですが、横田さんはどうも思い詰めたような顔をなされている。どうでしょう、僕の病室にいる間だけでも、何かお話しになってみては」

「はあ……」

 断ろうにも、相手は特別病棟の患者だ。機嫌を損ねれば厄介なことになる恐れもある。それに、実際横田は悩みのようなものを抱えている。

 気付くと横田は現在自分の感じている悪意について、洗いざらい保科に話していた。保科は話を聞き出すのが上手く、知らぬ内に思っていることを全て口に出していた。

「なるほど、それは問題ですね」

 至極真面目な顔で保科は頷く。馬鹿馬鹿しいと一蹴されて当然の話を、ここまで感じ入って聞く者がいることが驚きだった。

「そうですね、また明日、色々と聞かせてください。僕も対策を講じてみます」

 その話し合いは、保科が退院する日まで続くことになった。

 横田はすっかり保科に気を許し、保科も親身になって横田の話を一言一句漏らさずに聞いた。

 退院の日、保科に連絡先を訊かれた横田は何の躊躇いもなく携帯電話の番号とメールアドレスを伝えた。

 保科が退院したことで特別病棟の担当から外れた横田は、また夜勤を多く受け持つことになった。

 久しぶりに日中に自由な時間が出来た横田は以前と同じように外に出た。ひょっとしたらあの悪意も収まっているのではないかと思ったからだったが、やはり横田の行く先々に人が溢れていた。

 保科から電話があったのは、そんな憂鬱な気分になっている時だった。





「やあ、お呼び出しして申し訳ありません」

 初雪の舞う日に保科に呼び出されたのは、パチンコ店の駐車場だった。

「いや、暇な時間なので……」

 保科から空いている時間を訊かれ、その時間にここに来るようにと頼まれた。

「で、用というのはなんでしょう?」

「なあに。ちょっと中に入ってみましょうというだけですよ」

 そう言って保科はパチンコ店の入り口を指差す。

「え……いや、ちょっと……」

 横田はパチンコはやらない。ルールすら知らない。ただ熱中するとのめり込んでしまう類のものだということは知っていたので、手を出さないようにしてきた。今後もその方針は変えるつもりはない。

「いやいや、ただ台に座っていただければいいだけです。一応怪しまれないように打ってはいただきますが、玉の方は全てこちらで用意させてもらいます。真面目にやる必要はありません。ただ打っているふりをしていただければいんです。では入りましょうか」

「はあ……」

 なんとも妙な頼みだとは思ったが、保科の言うことだから大丈夫だろうと後に続く。

 中に入ると騒音に圧倒された。青川や大太良の街角の店の前を通る度にうるさいとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。

 保科が先導し、席に座るように促す。

 周囲はやはり混雑していた。外の駐車場にはそれ程車が止まっていた様子はなかったのだが、中は――特に横田の周囲は人が多い。

 保科は大量のパチンコ玉を持ってくると、それを横田の台に置いた。これで一体いくらするのだろうと横田は肝を冷やす。それを無為に使っていいというのか――。

「では、僕が戻ってくるまでここで」

 騒音に掻き消されないよう、耳元で言い置くと、保科は店の奥に消えた。

 二時間くらいそのままだっただろうか。横田は人の多さに落ち着かず、かと言って何もしないのは不自然だろうと台に向かうふりをし続けた。ハンドルを時折回し、あとはずっと握ったまま動かさない。のめり込むことは避けたいので、本腰は入れない。

「お待たせしました。出ましょうか」

 保科が再び現れた時はほっと胸を撫で下ろした。誘われるまま外に出ると、保科は茶封筒を横田に手渡す。結構な厚みがある。

「これは?」

「ほんのお礼です」

 中を確認すると、案の定一万円札の束だった。

「えっ! そんな! いただけませんよ! 何もしてないのに」

「いや、お店の方から謝礼をいただきまして、そこから僕の取り分をいただいて、その残りがそちらです。正当な対価ですよ。受け取ってください。それからよければ、これからも同じことをお願いしたいのです」

「同じことって……」

 パチンコ店に入り、他人の金で打つふりを約二時間続け、それが終わると金をもらう。

 どう考えてもおかしい。割に合っていない。勿論、多いという意味でだ。

 そこで保科は腕時計を見た。

「まだ時間はありますか?」

「え? はい。あと三時間くらいは」

「それはよかった。では次の店に行きましょう」

 横田に駐車場に止めてある車に乗るように言うと、保科は運転席に乗り込んで国道を進んだ。

 二十分程で同じようなパチンコ店に着く。そこで横田はまた同じことを頼まれた。それが終わるとまた金を渡される。

「あの、保科さん――」

 これはあまりに変だ。そう言おうとしたが、保科の如才ない笑みで押し返されてしまう。親しみはまるで感じられないが、敵意は全くない。

「おっと、もう随分時間が経ってしまいましたね。ご自宅までお送りしましょう」

 その後も何度か保科に頼まれてパチンコ店に出入りした。その度に謝礼という名の訳のわからない金をもらっていた。

 予想外の収入があるのは喜ばしいことだ。それでも横田はこの金に手を着けなかった。金の魅力よりも得体の知れない不気味さが勝っていたからだ。

 会う度に保科にこの金の出所と理由を訊こうと思うのだが、保科は有無を言わさず金を手渡してくる。質問する隙がまるでないのだ。

「ああ、これは困りましたね」

 ある日いつものようにパチンコ店に入ると、保科が店内を見渡して言った。

「すみません横田さん。一回店を出てもらえますか? 僕は店の方に謝ってきますので」

 よくわからないまま言われた通りに外で待っていると、保科が複雑な笑みを浮かべて出てきた。

「思ったよりも速かったですね。あわよくば統一地方選までは、と思っていたんですが、ある意味ではとても喜ばしいことです」

「なんのことです?」

 全く訳がわからず、横田は激しく困惑する。

「店に入った時、気付きませんでしたか?」

「何をです?」

「素晴らしい。完全に克服なさったようですね。気付かないのも当然です」

 保科はニット帽を被った頭をぽんと叩き、いや失敬――と笑った。

「今日は、店に人が少なかったでしょう」

「あっ! そういえば――」

 普段は人で溢れている店内が、今日は空いていた。

「横田さんの行くところには人が溢れる。これを聞いて、僕はこれを利用させてもらおうと思ったんです。例えばこのパチンコ店などは、平日の昼間はどうしても客足が遠のきます。こういった商売では人が多いかどうかというので次の客が入る目安にするんですね。繁盛しているようなら自分も入ってみようと思う。そのイメージ戦略のために、サクラが存在する程です。ただ、サクラも無料(タダ)ではないんです。店側としては謝礼を払う必要がある。そこで僕は店側に提案しました。店に人を溢れさせてみせましょう――と」

「えっ――それって――」

「無論、横田さんの置かれている状況を利用して、です」

「でも、そんな、世迷言もいいとこなのに――」

「現実に横田さんの訪れた店には人が溢れました。横田さんはさながら福の神ですね」

「それは――」

「偶然と割り切るには少し無理があります。店側にとっては横田さんは福の神ですが、横田さん自身は厭な思いをされていた。悪意を感じるとまで言われていたくらいですからね。この悪意が像を成し、人が溢れるという形で横田さんを襲っていた訳です。これは、横田さん一人の問題ならば非常に性質が悪い。横田さんを苦しめるだけですからね。ただ、僕は人非人ですから、これは利用出来ると踏んだんです。この悪質な第三者が介入したことで、悪意は利益を生むように変わりました。ただ、横田さんが厭な思いをし続けていたことに変わりはなかったですね。その点は謝罪します。その意味を含めての謝礼だったんですから、遠慮なく使ってください」

 ひょっとして横田が金に手を着けていないことを知っているのかと思ったが、流石にそれは考え過ぎだろうと振り払う。

「ですが、それももう終わりです。横田さんは、もう慣れてしまった」

「慣れ……?」

「横田さんはもう、どんな人混みに入っても平然としていられますよ。自分の周りに人が多いことをなんとも思わなくなっているんです。そう、慣れですね。毎日のように人混みの中に入っていたんですから、それも当然です」

 言われてみれば、横田はパチンコ店の喧騒も人の多さにも、殆ど意識を向けないようになっていた。

「横田さんに向けられた悪意は、もはや何の意味も持たなくなってしまったんです。故に、横田さんを襲うこともなくなった。だから今、店の中に人が少ないんです」

「それは、俺のために……?」

 保科は愉快げに笑う。

「買い被らないでください。店からの謝礼は、僕も取り分をいただいています。要は金儲けに利用させてもらっただけですよ。そして、横田さんはもう用済みです」

 柔和にそう言って、保科は車に向かう。

「お疲れ様でした。僕の方から横田さんに接触することは多分もうないと思いますが、横田さんから何か相談があればいつでも喜んで乗らせてもらいますよ」

 そう言って、保科は車を出して去っていった。





 大晦日の夜、川島麻子は北雲町の神社に来ていた。

 無料で配られているぜんざいを手に、神社の前に広がる北雲公園の真ん中に焚かれた炎の前で暖を取る。

 やはり、間もなく年明けを迎える大晦日の夜ともなると神社の周りは人で溢れている。

 わっと歓声が上がった。年が明けたのだ。

 人混みに流されながら初詣を済ませると、次の目的地に向かう。

 今年の初詣は四門地区の四つの町にある神社と寺を回るというものに決めてあった。

 決めたと言っても、正確には決めたのは麻子ではない。


 昨日、部屋の大掃除をしている中、開けてあった窓から一人の少年が飛び込んできた。

「嘉津間?」

「わーい、嘉津間だー」

 頭の上に乗ったタマが嬉しそうに声を上げる。普段は麻子と心の中でいくらでも会話が出来るようになったが、他の者と声を出して話すのもやはり楽しみなのだ。

「おう麻子! 久しぶりに勝負しろ!」

 嘉津間は恐らく人間ではない。少なくとも人間の範疇を超えた存在である。麻子が高校生の頃に一方的に勝負を申し込まれて以降、時折顔を合わせるようになった。

「今大掃除中なんだけど……手伝ってくれる?」

「はあ? 何言ってんだ。勝負だ勝負!」

 びくり、と嘉津間が身構える。

 麻子は無言で雑巾を嘉津間に突き出していた。

「窓拭き、お願いね」

「お前――なんかどんどん悪くなってくな」

 結局雑巾を受け取り、言われた通り窓拭きに徹する嘉津間だった。

「お疲れ様。はい、お茶」

 台所で淹れてきた番茶を机に置くと、嘉津間は無言で煽った。

「熱っ!」

 麻子とタマは揃って笑う。

「ちょっとは落ち着いた?」

「落ち着いた――っておい! 勝負しろっつってんだろ!」

 駄目か、と麻子は苦笑する。大掃除を手伝ってくれたのだから、話くらいは聞いてやらねばなるまい。

「勝負って、前にやったでしょ?」

「何年前の話だよ! お前だって前よりワルになっただろうが」

「ワルって……まあ確かにそうだけど」

 苦笑して、ベッドに腰かける。タマを膝の上に下ろし、身体を撫でながら嘉津間に言う。

「でも、今年末真っ盛りでしょ? みんな忙しいんだよ」

「年末ってなら、年末なりの勝負の方法があんだろうが」

 首を傾げる。

「初詣だ。どっちが多く初詣行けたか勝負!」

「でも、嘉津間飛べるよね」

 頷く嘉津間。以前には麻子を連れて泗泉町のここから青川まで一瞬で飛んでいる。

「どう考えても私に勝ち目がないじゃない。まあ、勝負にならない勝負でもいいけど」

 そもそも麻子には嘉津間の勝負に付き合う理由も義理もない。勝敗はどうだろうと正直どっちでもいい。

「う――むむむ。確かに最初から勝ちがわかってるなんて勝負じゃねえ。麻子、お前、初詣行くならどこだ?」

「え? 歩いてなら、北雲の神社かな」

「北雲――そうだ四門! あそこには神社も寺も多いよな」

 四門地区には四つの町があり、その町一つずつに最低でも一つは神社か寺がある。以前に地区の祭で学んだことだ。

「だと思うけど……え、まさか」

「地域を限定する。四門地区内で、どっちがどれだけ多く初詣出来たか。これなら公平だ!」

 嘉津間との機動力の差が全く考慮に入っていないが、口を出すのはやめておいた。

 そもそも勝ちに行く必要が全くない。前回はタマがやる気で、勝負を終わらせなければ麻子の身が危なかったから仕方なく全身全霊でぶつかっただけで、元々麻子はやる気がなかった。

「いいけど、期間は?」

「そうだな、年明けから初日の出まで」

 思い切り深夜になるが、元日ならば夜でも人は多い。そもそもタマがいる以上麻子には暴漢や変質者は効果がないので、平時でも問題がないくらいだ。

「わかった。いいよ」

「よっしゃあ! じゃあまた――」

 嘉津間の肩を掴む。

「掃除、もうちょっと手伝ってってよね」

 笑顔で圧力をかけると、嘉津間は陽が暮れるまで大掃除を手伝ってくれた。


 そんな訳で、嘉津間との勝負をすっぽかすのは気が引ける。元々初詣はするつもりだったし、四門地区を回るというのも悪くないように思えた。

 西日町の寺に向かって国道沿いの歩道を歩いていると、ふと喧騒が耳に入った。

 国道を進んでいくと、一つのこの町には似つかわしくない立派な建物が目に入る。赤に近いオレンジの三角形が入った旗。火清会の文化会館だ。

 そこを見て、麻子は仰天した。

 駐車場にはところ狭しと車が並んでいる。入口からは人が溢れ、皆が楽しそうに声を上げている。

 四門地区と泗泉町は、青川市内で火清会の信者が極端に少ない。それはあくまで青川市内で見た話であり、信者は一定数存在する。

 それにしても――この喧騒は異常だ。年明けの会合のようなものなのだろうが、四門地区にはここまで信者が多いのか。いつの間にこんなに勢力を広げていた。

「心配しなくても大丈夫ですよ。ここまで熱心な信者がこんなにいる訳がない」

 聞き覚えのある声に振り向くと、茶色のニット帽を目深に被った眼鏡の男が立っていた。

「やあどうも。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 そう言うとニット帽を外して礼をする。

「明けましておめでとうございます。保科さん」

 麻子は礼はしないが、年始の挨拶は返す。

 保科はにやりと笑うと、文化会館を指差す。

「試運転にしては上々ですね。この間面白い方と知り合いましてね」

 そこで保科は横田という男を襲った怪異と、それを解決した話を短く話した。

「それでこれをなんとか自分のものに出来ないかと、パチンコ店を回る中で色々と試してみたんです。結果的に、横田さんから落としたものは僕が手に入れました。名付けるなら、『サクラの精』ですかね」

「人が多いように、見せる……?」

「その通りです。サクラが無料で用意出来るなら、使い道はいくらでもあります。おっと、今回ここで使ったのは単なる試運転で、勿論火清会以外のクライアントがあればそちらでも使わせてもらいますよ」

「お金ですか」

「お金です」

 保科はくつくつと笑う。

「いつまでも高山先生に引っ付いてる訳にはいかないでしょうからね。火清会に入信する気も全くないですし、潰しの利く商売道具は揃えておかないといけません」

「保科さん、火清会と戦おうとは思わないんですか?」

 声を上げて保科が笑う。

「何を言い出すんですか」

「いや、保科さんが味方になってくれたら心強いと思ったんです」

 保科の顔から笑みが引く。

「味方とはどういう意味でしょう。川島さんはひょっとして火清会が敵だとでも言うおつもりですか?」

「だとしたら」

「あまりに突拍子もない。狂人の発想ですよそれは。火清会は敵になり得ない。それ程までに強大です。敵だと思い込むのは、ただの馬鹿です」

 麻子は真っ直ぐに保科の目を覗き込む。保科は表情を変えないが、そのまま固まる。

「ただ――そうですね。高山先生がおっ死んで、僕が完全なフリーになったとしたら、その時は――いや、やめておきましょう。今は今の雇い主を大切にしなければなりません」

 すぐに寒気のする笑みを浮かべ、麻子の取り入る隙を完全に潰す。

「じゃあ私、もう行きますね」

「ええ。元日とはいえ夜道にはお気を付けて」

「それ、どっちの意味ですか」

 冗談を飛ばしながら互いに親愛の欠片もない笑みを浮かべ合うと、麻子は次の目的地に向かって歩き出した。

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