第9話 新たなる龍


「俺の名前は川島新龍。一九八三年五月五日生まれ、二〇〇〇年九月十一日没の永遠の十七歳。青川南高校二年七組十三席。好きな食べ物は豆腐、嫌いな食べ物はナタデココ。彼女いない歴十一年。家族は父親の茂、母親の由子、妹の――」

 河原に立つ川島新龍は頭を抱え、コンクリートで出来た橋に何度も何度も頭をぶつけた。

「妹、妹の――麻子だ!」

 呼吸は荒く、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「どうしちまったんだよ俺。麻子の名前を思い出せなくなってきてるなんて――」

 新龍は九年前にこの四泉川で死んだ。しかしこの川に住まう龍神に気に入られ、龍の鱗を飲むことで龍神の眷属としてこの世に留まることが出来た。本来ならばすぐに新龍の身体は強大な龍の力に侵され、人としての記憶を失うはずだったのだが、現在でも新龍は何とか人だった頃の記憶を保っている。

 これは新龍の妹、川島麻子の力によるものだった。

 麻子には世にひしめく霊や妖怪の姿を見、触り、話すことが出来る力を持っていた。この力は新龍も生前は知らず、死んだ自分の姿を麻子が見たことからようやく知った力だった。

 さらに麻子には、もう一つ力があった。

 名前を付けることによって、そのものの存在をより強固にする力。それが麻子の、ほんの二年前に明らかになった隠された力だ。

 新龍は絶命時、麻子が「お兄ちゃん」と自分を呼んだのを聞いた。恐らく麻子には、名前を呼ぶことで死者をこの世に留まらせる力もあったのだろう。そのおかげで新龍は不完全ながらもこの世に留まり、龍神に目を付けられるに至った。そしてこの力が龍の鱗の侵食の抑止力になっているおかげで、新龍は自分を保っていられる。

 しかし今、新龍はどんどん記憶をなくしていっている。

 麻子の力が弱くなっているのだと、新龍にはわかっていた。麻子は新龍を名前ではなく「お兄ちゃん」と呼んだ。その麻子はもう今年で十八になる。新龍の年齢を既に超えているのだ。

 新龍はもう、「お兄ちゃん」ではいられなくなってきている。

 新龍は右腕の、手首まで下ろされた長袖のカッターシャツを捲くり上げた。捲くり上げた、それまで服に隠れていた肌は、びっしりと青い鱗に覆われていた。ここだけではない、右の肩口から手首までと、右側の胸と腹、下半身の全ては鱗によって埋め尽くされている。最近の鱗の侵食のペースは以前とは比べ物にならない程早く、あっという間に胸や腹が鱗に侵されている。

 それと同時に記憶の方も次々にこぼれ落ちていく。いつかはこうなると覚悟はしていたが、実際に記憶がなくなっていくと、新龍は言い知れぬ恐怖に襲われる。

 だが、ただ漫然と記憶が消えていくのに任せるつもりはない。何度も反芻し、記憶を失わない努力は欠かさない。

 一秒でも長く、自分が自分であるために。

 一秒でも長く、「お兄ちゃん」であるために。




 川島麻子の携帯電話に見知らぬ番号から電話があったのは、ゴールデンウィーク初日、五月二日土曜日の夕方のことだった。

 麻子はその番号の市外局番が麻子の暮らす青川市の隣の市である緑山市であったことから、いかがわしい電話ではないと判断し、少し緊張しながら通話ボタンを押した。

 ――安野。

 電話越しでもよく通る第一声はそれだけだった。声の調子からそれが相手が名乗ったのだとなんとか判断出来た。「です」も、「だけど」もなく、ただ単に名前だけを言う。麻子は安野という名前で、そういう話し方をする人物に心当たりがあった。先月出会った男だ。麻子と同じで、この世ならざるものを見ることが出来る力を持っている。

 麻子は何故安野が麻子の携帯電話の番号を知っているのかをまず訊いた。

 ――暇?

 安野は麻子の質問を無視してそう訊いてきた。麻子はこの男相手に自分のペースで会話を進めることは不可能だと諦め、確かにゴールデンウィークはずっと暇ですと答えた。

 ――家においで。

 はあ? と自分でも驚く程の柄の悪い声が出た。

 ――明日。

 安野は全く怯まず、淡々と言いたいことを言っていく。

――緑山駅。

 ちなみにこれが今回安野が発した言葉の中で一番長い言葉だった。

 ――十時。

 ちょっと待ってくださいと言ったが、安野の中では既に麻子が行くことは決定しているようだった。

 ――待ってる。

 そう言って、安野は電話を切った。

 麻子は暫く固まった後、やはり断ろうと先程の番号にかけ直した。携帯電話というのは相手の番号がわかって本当によかったと思っていると、一コール目の途中で突然コール音が途切れた。安野がかかって来た電話を即座に取り、即座に受話器を戻したとは――本当にやりそうな気もするが――考えにくい。携帯電話の画面を見ると、何も表示されていない、真っ暗な画面だった。電池は確かに三本あった。それに電池がなくなる時は音が鳴るはずだ。まさかと思い電源ボタンを押し続けてみるも、一向に反応がない。充電器を取り出して充電してみるも、ランプが灯らない。以前にも何度か同じようなことがあった。間違いなく故障だ。麻子は何故か電子機器と相性が悪く、しょっちゅう故障させている。それがどうやらまた起きたらしい。

 麻子は仕方なく携帯電話ショップへ向かい、修理を頼んだ。修理には時間がかかると言われ、代替機を渡された。

 代替機では、着信履歴に安野の番号が残っていない。記憶を頼りにしようにも、頭の中には市外局番しか残っていない。これでは安野に電話のしようがない。

 安野のあの口ぶりからするに、明日安野は麻子が来ると思って緑山駅で待ち続けるだろう。何も言わず、安野の行動を無駄にするのは流石に気が引けた。仕方なく、麻子は明日緑山駅に向かうことに決めた。

 溜め息を一つ吐くと、頭の上から幼い声がした。

「ねえねえ、どうしたのー?」

 麻子の頭の上には、馬鹿でかい蜘蛛が乗っていた。八本の足を小さく折り畳んで、何とか麻子の頭の上に収まっている。

 麻子がもう一つの力で「タマ」と名を与えたことによって生まれた妖魔、それがこの蜘蛛――タマだ。麻子のかけがえのない友達であり、麻子を妖怪達から守ってくれる頼れる存在である。ただ、性格は幼く無邪気で、麻子もよく振り回される。

「安野さんって覚えてる?」

「うん。あの変な人でしょ」

「そうそう。あの人が明日家に来いって言うの」

 タマはそれを聞くときゃっきゃとはしゃいだ。

「わー面白そー! ねえ麻子、行くよね?」

 断りようがないのだから行くしかない。麻子が詰まりながら行くことを告げると、タマはふふふと笑った。

 翌日、麻子は泗泉駅から急行に乗って緑山駅に向かった。親には友達と遊ぶと嘘を吐いてきた。十時前に緑山駅に着き、ホームで安野の姿を探す。

「やあ」

 やけによく通る声で声をかけられ、麻子は後ろを振り向いた。

 ぼさぼさの半分白髪に染まった頭に胡散臭そうな風体。安野が麻子のすぐ後ろに立っていた。

「よく」

 来たね、と言いたいのだろう。

「ええ、まあ」

 携帯電話が壊れたせいで連絡が取れずに仕方なく来ることになってしまったということは言わないでおいた。

 安野と並んで改札を抜け、駅の外に出る。そのまま無言で歩き、近くの駐車場に向かった。

 安野はどうやら車でここまで来たらしい。

「乗って」

 麻子は今更になって思った。こんな得体の知れない男の車に乗っていいものか。というかそもそもこんな見るからに怪しい男の家に行ってもいいものか。自分は女、安野は男。まさかとは思うが安野が手を出してきたらどうすればいいのだろう。

「麻子ー、どうしたのー?」

 頭の上からタマの声がする。そうだ、麻子にはタマがいた。安野が妙な考えを起こしても、タマがいてくれれば手は出せまい。それに、麻子が今までこんな心配を起こさなかったのは、安野がそういう男ではないということを直感的に感じ取っていたからだった。

 麻子は黙って助手席に座った。ふと背後に気配を感じ、首を後ろに向けてみると、後部座席に血塗れの若い女が座っているのが見えた。下を向き、何も言わずにただ座っている。

「あ、安野さん、この車、憑いてますよ!」

「事故車」

 安野は女に一瞥もくれず、エンジンをかけた。

「安かった」

 十分程車を走らせ、駅近くの割と賑やかな場所からは随分離れた、木が茂った山の中を走る。安野の家は、細い道を行った先の寂しい場所に建っていた。麻子の家の軽く倍はあろうかという大きさで、かなりの古さだ。普通、大きい家というのはそれなりの威厳のようなものを放っているものだが、この家にはそれがない。代わりに、厭な感じはひしひしと伝わって来た。安野の話によれば、近所でも有名な化け物屋敷らしい。

 車を降り、麻子はげんなりとして、タマは嬉々として家の中に入った。玄関は広く、一足も靴がなかった。安野は一人で暮らしていると言っていたが、どうやら本当のようだ。

「客だ」

「女を連れ込んで来たぞ」

「やや、何だあの女。頭に妖鬼を乗せている」

 家のあちこちから声がする。かなりの数の妖魔が巣食っているらしい。

「ねえ安野さーん、食べていい?」

 タマが足で牙を撫でながら言う。タマの食物は妖魔だ。おまけに食い意地が張っている。

「いいよ」

 タマはそれを聞くと大喜びで麻子の頭の上から飛び降り、玄関の隅で固まっていた雑鬼を牙で突き刺し真っ二つに裂いて食べ始めた。

「タマ、食べるのは後にしてよ。これじゃあ動けないじゃない」

 麻子とタマはあまり離れることが出来ない。タマは不満げに声を漏らすと急いで食べかけの雑鬼を飲み込み、麻子の頭の上に飛び乗った。

 安野は何も言わずに奥に入っていく。麻子は慌ててそれに続いた。

 突き当りの少し前で安野は立ち止まり、襖を勢いよく開けた。

 広い部屋だった。畳の上には物が散乱し、棚も物で溢れている。安野は上手く物を踏まないように部屋の真ん中まで行って、畳の上から額縁を拾い上げた。部屋の前で待っていた麻子の許まで戻り、その額縁を見せる。

 全体的に暗い色で描かれた水彩画のようだった。中央には歪な黒い人影が描かれている。それが手を伸ばし、こちらに迫って来るようだ。

「変な絵だね」

 タマが素直な感想を漏らす。

「売れない画家の遺作」

「タイトルは何ていうんですか?」

 興味はなかったが、間を持たせるために一応訊いてみることにした。

「付ける前に死んだ」

 気の抜けた返事をして、麻子は安野の顔を見た。安野はあまり表情の変化というものを見せない。今も同じで、先程からずっと真顔である。

「タイトルを考えてる」

 目を閉じ、再び開く。

「でも決まらない」

 額縁を手渡され、麻子はどうしたものかともう一度安野の顔を見た。相変わらずの真顔だ。

 麻子は絵を見て、あ、と声を上げた。

「私がタイトルを考えればいいんですね?」

 安野がこくりと頷く。

 麻子は仕方なく、この絵のタイトルを思案した。一分程考え、我ながら安直だと思いつつも口を開いた。

「鬼ごっこ、はどうでしょう?」

「何で」

「ほらここ」

 絵の左下を指差す。紺色の背景に黒い手のようなものが浮かんでいる。

「これ、人の手じゃないかなって。真ん中の人から逃げてるみたいでしょ? だから鬼ごっこ――って駄目ですか?」

 安野は即座に、

「うん。いいね」

 と言って絵を麻子から受け取り、元の場所に戻した。

 その後、安野は次々に変なものを持ってきた。呪いの指輪、妖刀――ではなく曰く付きのカッターナイフ、髪が伸びる人形。ちなみに麻子も髪が伸びる人形なら持っている。

 安野はこうしたものを集め、欲しがる人に転売して金を稼いでいるらしい。需要はあるのかと訊くと意外にあるのだという。

「欲しいなら売るよ」

 安野が鳥の妖怪の羽だと言って差し出した、どう見ても募金した時に貰える赤い羽根にしか見えない代物を押し返し、麻子はいりませんとはっきり言い切った。

 安野はこういうものに対する恐怖というものがまるでないようだった。以前にも金になるという理由だけで、かなり危険な相手に手を出している。金銭欲か、はたまた違う欲なのか、安野はそれに忠実に行動しているように見える。

 麻子は、そんな安野が少し怖かった。

 昼近くになり、麻子はそろそろ帰りたいと切り出した。てっきり昼くらい食べていけと引き止められるのかと思ったが、安野は駅まで送っていくと申し出た。

 霊憑きの中古車に乗って緑山駅まで向かう。安野は時折気味の悪い笑みを浮かべたが、麻子は見ないふりをした。

 駐車場で麻子はここまででいいと一人で車を降りた。

「今日は色々」

 ありがとう、ということだろう。麻子が会釈すると、安野は去っていった。

 幸い、ホームに入ると急行はすぐに来た。電車に乗り、席に座ってほっと安堵の息を漏らす。

安野は今日、一体何がしたかったのだろう。怪しい品を麻子に見せて、買い取らせようとしたのだろうか。しかし安野は生活力のない高校生から金を搾取しようとするような人間には見えない。悪い人間ではないということではなく、何となく方向性が違うような気がするのだ。安野ならもっと恐ろしい考えを企てるような――そんな気がする。

 泗泉駅に着き、麻子は電車を降りて自転車置き場で自分の自転車を探した。黒い、これといって何の変哲もない自転車を引っ張り出し、それに跨って駅の敷地を抜ける。

「あ、そうだ」

 自宅に向かおうとしていた自転車のハンドルを切り、進行方向を変える。目指す先は四泉川、兄――新龍の許だ。もうすぐ新龍の誕生日だということを思い出し、麻子はこちらに向かうことにした。新龍は既に死人だが、毎年誕生日を祝ってもらえないと拗ねる。

 四泉川は緩やかな川だが、河川敷は雑草が伸び放題で荒れた感じを受ける。さらに土手が少し急なこともあり、河岸に降りてくる者は少ない。

 麻子は土手の上に自転車を停め、慎重に土手を降りていく。土手を降り切ったところで、新龍がいつも現れる橋の下に向かう。橋の下はコンクリートで固められているので雑草が少なく、落ち着けるのだという。

 その橋の下に、新龍はいた。だが様子がおかしい。

 新龍は自分の拳で自分の頭を殴っていた。ポカポカと可愛らしく叩いているのではない。勢いよく、全力で頭を撃ち抜いている。

「やめて!」

 思わず麻子は叫んだ。

「あ――」

 新龍は麻子の姿を見ると固まり、暫く口を開いたままだった。

「――ま、麻子。どうした?」

「どうしたはこっちの台詞だよ! 一体何してたの!」

 新龍は笑顔を作り、頭を軽く叩いた。

「あれだ、頭の体操」

「そんな訳ないでしょ!」

 新龍は笑いながら麻子に歩み寄ると、タマとの間に滑り込ませる形で麻子の頭の上に手を置いた。タマが小さく不服そうな声を上げる。

「そんなに慌てるなって。お兄ちゃんは大丈夫。何ともないから心配するなよ」

「だったらいいけど――」

 新龍は笑顔を浮かべ、麻子の頭を何度か撫でた。新龍にとっては、麻子はいつまでも小さい妹らしい。

「それで、今日は何しに来たんだ?」

「うん。誕生日に来れなかった時の保険――って言ったら怒る?」

「え?」

 新龍はそこで固まった。目があちこちに泳ぎ、うっすらと汗が浮かんでいる。

「お兄ちゃん?」

「あ、ああ。そうだな。もうすぐ誕生日、だよな」

 おかしい。新龍は毎年誕生日の前にはしつこいくらいに誕生日を忘れるなと麻子に言う。それが今の新龍の様子は、まるで自分の誕生日を忘れていたような――。

「お兄ちゃん、本当にどうかしたの?」

「ああ。大丈夫」

「でも――」

「何でもないって言ってんだろうが!」

 新龍の怒声に麻子は身を竦める。

 新龍は目にうっすらと涙を浮かべた麻子を見て、唇を噛みしめ目を背けて川に飛び込んだ。

「お兄ちゃん!」

 新龍は死霊だ。溺れる心配も、風邪をひく心配も無用だが、麻子はそんなことを考えて叫んだのではない。

 新龍の様子が変だと思ったことは、過去にも何度かある。しかしさっきの新龍の様子は見過ごすことが出来ない。

 麻子は消沈しながら土手を登り、自転車に乗って漕ぎ出す。

 目指す先は風雲寺。麻子がよく相談しにいくこの寺の住職は、「見える」。顔は怖いが安野と違って危険な考えは持っておらず、麻子が安心して悩みを打ち明けられる人物である。

 緑色の柵に囲われた墓地。その少し先――というよりこの墓地も含めて――が風雲寺だ。古びた門の裏に自転車を停め、本堂に向かって声をかける。

 程なくして、作務衣を着た鬼も裸足で逃げだすような恐ろしい顔をした男が出てきた。

「やあ麻子ちゃん――どうしたんだい?」

 普通ならばここで麻子に弟子になる気になったかだとか、変な髪型だだとか言うのだが、今日はすぐに心配の声をかけてきた。麻子の表情がよっぽど深刻なものだったからだろう。

「お兄ちゃんが――お兄ちゃんがおかしいんです!」

 泣きそうになるのをぐっと堪え、麻子は拳を握りしめて下を向いた。タマが不安そうに麻子の名前を呼ぶ。

「とにかく中に入りなさい。落ち着いた方がいい」

 講堂に招き入れられ、麻子は床に敷かれた座布団に静かに崩れ落ちた。住職は茶を盆に乗せて現れ、麻子の前に湯呑を置いた。息を送って冷ましながら少しずつ嚥下していくと、少しだけ落ち着いた。

「新龍君が、おかしいんだったね」

 住職が重苦しく口を開く。

「はい。自分の誕生日を覚えてないみたいだったんです。いつもは必ず私に忘れるなって言うのに。それで、どうしたのか訊いたら怒鳴って――川に落ちて」

「そうか。もうそこまで――」

「住職、何か知ってるんですか?」

 住職は怖い顔をさらに怖くして額に手を当てた。

「知っているが――新龍君に口止めされている。しかしここまで来てはもう、隠す必要もなくなったかもしれないな」

「教えてください!」

 住職は大きく息を吐き出してから、全てを語り始めた。




 ゴールデンウィーク二日目の五月三日。麻子は鬱々として、しかし妙に昂って歩いていた。

 麻子にとって新龍が「お兄ちゃん」ではなくなってきている、と住職は言った。それによって新龍は龍の力に飲まれ、人としての記憶を失いつつある。

 麻子は、何とかして新龍を助けたかった。

 ――直談判だ。

 龍神とやらと直接話し、新龍の龍化を止めてくれるように頼み込む。そう決めた麻子は電車に乗り、青川市の最西部に向かった。

 本当に山の中にあるのが、現在麻子がいる薪野(まきの)町である。酪農が少し盛んなくらいで、後は自然ばかりが残る、静かな町だ。

 この町に、麻子が目指す四泉神社がある。四泉川の名を冠するこの神社になら、龍神が祀られているはずだ。

 携帯電話――代替機だ――の地図を頼りに町の中を歩き、木々に覆われた古い神社に辿り着いた。四泉神社の中は木によって日差しが遮られ暗かった。お世辞にも大きいとは言えない境内は鳥居から本殿まで真っ直ぐに短い参道が伸びている。

 麻子は賽銭箱に五円玉を入れ、鈴を鳴らして参拝した。誰もいないことを確認してから小さく言葉を発する。

「龍神様、話をさせてください。私は川島新龍の妹です。どうか、兄を助けてください」

「おい姉ちゃん、こんなとこで話しても無駄だぜー」

 野太い声が麻子の声を遮った。麻子は声の主を探して周囲を見回す。

「こっちだこっち。池ん中だー」

 階段から下りて参道の左右を見渡すと、麻子の右側の木々の中に小さな池があるのが見えた。

 池の中にいたのは、全身が緑色の異形だった。まるで風呂にでも入るかのように両腕を悠々と横に広げ、池の縁にもたれかかっている。顔には黄色の嘴が生え、頭の上には白い皿が乗っている。

 紛うことなき、河童である。

「おう姉ちゃん、あんたその頭の上のは何だ」

 タマが少し威嚇するように牙を剥く。

「私の友達です」

「妖魔が友達ぃ? がははははは! こりゃあまた変な姉ちゃんだ。まあ、俺が見えるって時点で変だがな」

「あの、河童さん。ここで話しても無駄って、どういう意味ですか?」

「そのまんまだ。ここには龍神様はいねえ」

 麻子が驚きの声を上げると、河童は楽しそうに笑った。

「当ったり前だろうがよう。四泉川の龍神様ってぇのは四泉川そのものよ」

「どういうことですか?」

「だからそのまんまだって。龍とは即ち川だ。四つの泉から始まり、海へと注ぐ、その川こそが龍神様のお姿なのよ」

 麻子がわかったようなわからないような声を出すと、河童は麻子が立っている池の縁に移動し、やけに真剣な顔で口を開いた。

「で、姉ちゃん、川島新龍の妹ってのは本当かい」

「お兄ちゃんを知ってるんですか?」

「質問を質問で返すんじゃねえよ全く。まあその様子だとどうやら本当らしいな。あの野郎、こんな可愛い妹までいやがったのか。しかも見えるし心配までしてくれるような妹が――あああああ! あんにゃろうがあああああ!」

 急に叫び出した河童に怯み、麻子は一歩後退する。

「なあ聞いてくれよ姉ちゃん。あの新龍って野郎が腹立たしいの何のって。溺死したただの人間の癖に、龍神様に気に入られてその眷属よ。しかも礼儀ってもんをまるで知らねえ。俺には絶対敬語を使わねえの。まあ確かに俺ぁこんな僻地に飛ばされた落ちこぼれかもしんねえぜ? でもよお、ここが出来た時から守ってる俺をちったあ敬ってもいいんじゃねえの? 大体龍神様はあいつを特別扱いしすぎなんだよ。なあどう思う!」

 指を差され、麻子は我に返った。河童の剣幕に押され、頭が小休止を取っていたらしい。

「あの――その――すいません……」

「まあいいよ。あいつももうすぐ完全に龍になる。そうなりゃもう人間臭さもなくなるだろ」

「そ、それです」

「あン?」

「それを止めたいんです!」

 河童はけたたましく笑い出した。

「姉ちゃん、そりゃ無理だ無理。今まであいつが人間のままでいられたのがおかしいんだからよう」

「だから龍神様に直接お話を――」

 河童は一層激しく笑った。

「大した度胸だが無理なもんは無理だってえの。いいか? 龍神様は不確かなまま漂っていたあいつに自分の鱗をお与えになりなさった。あいつを龍にするのはその鱗の力だ。だが、一度入っちまったもんを取り出すってえのは無理な話よ」

「そんな――」

 いや待てよ、と河童が思案顔になる。

「そういやあ何で今まであいつは人間でいられたんだ? 龍神様の力を抑え込む程の力って――」

 瞬間、空気が変わった。麻子とタマと河童はびくりと身体を震わせる。

「姉ちゃん危ねえ! 後ろだ!」

 麻子が振り向くと、そこに黒い人影があった。日陰で暗く見えているのではなく、元から全身が黒く染まっている。

「これって――」

 安野の家で麻子がタイトルを付けた、あの絵に描かれていた人影にそっくりだ。その影は麻子に向かって手を伸ばし、絵と同じように迫ってくる。

 麻子は咄嗟に右に飛び出し、影の手をかわす。

「この野郎、俺のシマで何しやがる」

 河童が池から飛び出し、影の前に躍り出る。その時に上がった水飛沫を浴びると、影はとても声とは思えないような奇妙な音を発した。身体を仰け反らせ、背中を向けて走り去っていく。どうやら先程の声は悲鳴だったようだ。

「水が苦手――」

 やはり、あの影は絵の中のものだ。

 影が完全に見えなくなると、麻子の携帯電話に電話がかかってきた。緑山市の市外局番。安野だ。

「もしもし!」

「消えた」

 よく通る声で一言だけ。間違いなく安野だ。

「消えた? あの、安野さん、私さっき変な影に襲われたんですけど」

「行ったか」

 あ、と声がして、歩く音がした。

「戻ってる」

「何がですか」

 苛立ちながら麻子が訊く。安野の言っていることがまるで理解出来ない。

「絵」

 その口調が訊き返すようなものではなかったことから、麻子はこれが絵画のことを指していると確信した。そこからは前の言葉の意味が繋がり、かなり時間がかかったが麻子は安野の言わんとすることを理解した。

 つまりこうだ。絵画から人影の部分が消え、それが麻子のところに現れ、再び絵の中に戻ってきた、ということだろう。

 自分が名前を付けたせいか――麻子は己の不用心さを呪った。麻子の力は強力であり、危険なものだ。そのことを気に留めず名前を付けてしまった。それによりあの絵に力が宿り、「鬼ごっこ」というタイトル通りに影が麻子を追ってきたのだ。

 だが――。

 いくら麻子の力が強力だといっても、ただの絵にタイトルを付けただけでこのような事態が起こるだろうか。

「安野さん、あの絵、ただの絵じゃないんじゃないですか?」

 安野が所有しているのだから、危険な品物の可能性がある。

「うん」

 悪びれる様子もなく、安野は続ける。

「持ち主が死ぬ」

 やはり曰く付きの絵だったのだ。その素養が高い絵に麻子の力が加わり、この怪異を引き起こした。

「そんな絵、今すぐ処分してください!」

「大丈夫。僕は死なない」

「そういう心配はしてません! いや、まあ少しは心配ですけど、とにかくその絵の中の影は私を狙ってます! 私の心配もしてくださいよ!」

「大丈夫。すぐ封印する」

「それで安全は確保出来るんですか?」

「うん」

「――わかりました。ちゃんと封印してくださいね」

 麻子が言うと、安野は電話を切った。




 五月五日――新龍の誕生日、麻子は住職に呼び出されて風雲寺に向かっていた。

 一昨日と昨日は川に出向き、龍神に話を聞いてもらおうと懸命に願った。河童には龍の鱗を取り除くことは不可能だと言われたが、それで諦める訳にはいかなかった。幸い、龍神は川そのものだという話を聞けたので、川に向かって願い、声をかけて龍神と話が出来る時を待った。しかし一切反応はなく、麻子は自らの無力を痛感しながら家に帰った。

 そして今日、朝起きるとすぐに住職から電話がかかってきたのだ。

 ――新龍君を助ける方法があるかもしれない。

 麻子はそれを聞いて、一も二もなく風雲寺に向かうことを決めた。新龍を助けることが出来るなら、どんなことでもする覚悟だった。

 風雲寺に着き、自転車を門の裏に停める。声をかけるとすぐに住職が現れ、麻子を講堂へ通した。

 座布団に腰を下ろし、出された熱い茶を一口飲む。

 麻子の向かいに座った住職は、麻子が湯呑を下に置くと口を開いた。

「お兄さんは、大事かい?」

「大事です」

 即座に答えると、住職は小さく頷く。

「そうか。では質問を変えよう」

 恐ろしい顔を一層恐ろしく変える。住職にとってはこれが真剣な表情だ。

「兄としてではなく、川島新龍という人間自体が、大事かい?」

「それはどういう――」

「今はその質問にだけ集中しなさい。他の事は考えなくていい」

 麻子の新龍への目は、常に兄としての新龍に対する目だった。新龍は麻子にとっていつまでも兄であり、他の側面はない。だが――

「大事――です」

 それはやはり、一人の人間として新龍のことを大切に思っているからだ。

「僕の考えた方法は、麻子ちゃんにとっては――否、新龍君にとっても辛いことかもしれない。だが、麻子ちゃんが川島新龍を大切だと思うのなら、やってみる価値はある」

 麻子は住職の次の言葉を待った。息をするのも忘れるくらいに、この空間は緊張感に満ちている。

「麻子ちゃんが、新龍君を兄として見ることをやめるんだ」

「え――」

 麻子の動揺を無視し、住職は続ける。

「前にも言ったが、今の新龍君は麻子ちゃんに兄として思われているから存在出来ている。それを、やめる」

「でもそれだと存在出来なくなるんじゃ――」

「麻子ちゃんの年齢は既に新龍君を超え、兄と妹という関係が崩壊しかけている。麻子ちゃんがいくら新龍君を兄だと思おうと、新龍君はやがて人として存在出来なくなる。だから、麻子ちゃんが新龍君を兄として見るのをやめ、一人の人間として認識しなければならない。そして、名前を呼び直すんだ。『お兄ちゃん』ではなく、『川島新龍』と」

 住職はそうまくし立てると、茶を一口飲んだ。

 沈黙が訪れた。

麻子は必死に住職の言葉を咀嚼し、住職は麻子の言葉を待っている。

「――そうなると、お兄ちゃんはどうなるんですか?」

「わからない。それでなくなった記憶が戻るとは限らないし、ましてや人間に戻れるかどうかすら怪しい。だが、それが僕の考えうる新龍君を存在させ続ける最良の方法だ」

 最後に――住職が重い声で言う。

「これは龍神の眷属を無理矢理人間側に引き戻すことになる。龍神の怒りを買う可能性も十二分にあることを心に留めておきなさい」

 麻子は座ったまま延々と考え続けた。新龍を兄としてではなく、一人の人間としてこの世に留まらせる。成功するかどうかもわからないし、仮令成功しても恐らくはもう以前のように接することは出来ないだろう。

 それでも――それでも新龍にはそばにいて欲しい。

 麻子はおもむろに立ち上がる。

「やれることは、やってみます。お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなくなったとしても、やっぱり川島新龍は私の大切な人だから」

「そうか。では僕も一緒に行こう。四泉川だ」

 二人は風雲寺を後にし、新龍の許へ急いだ。




 両手は完全に青い鱗に覆われ、鋭い五本の鉤爪が指先から伸びている。鱗はさらに首から顔にまで侵食し、顔の右半分は殆どが鱗に埋め尽くされている。その鱗の奥から覗く右目は鋭く金色に染まり、完全に異形のものとなっていた。もはや身体の中で鱗に侵食されていないのは、左半分の顔のみとなっていた。

 苦悶の声を上げ、自らの頭を変わり果てた拳で殴りつけている。

 麻子は、その新龍の姿を目にして言葉を失った。

「ここまで侵食が進んでいたとは――」

 住職の苦々しげな声に気付いたのか、新龍が麻子達の方に目を向ける。

「お兄ちゃん――」

「誰だ、手前」

 新龍の声には明確な敵意が込められていた。

 ――もう、覚えていないのか。

「死にたくねえなら俺に近るな」

 呼吸は荒く、声も不鮮明だ。

「私だよ、わからない?」

 麻子が一歩踏み出すと新龍が吼えた。その声は人間が出せるものではなかった。龍の咆哮だった。

「近寄るんじゃねえ! ぶち殺すぞクソ女」

 やはり、新龍はもはや麻子のことなど覚えていないのだ。新龍は麻子に対して絶対にこんな言葉は吐かない。

 麻子はただ戸惑い、その場で固まってしまった。新龍は麻子を射殺すような目で睨み、低く獣のように唸っている。

「麻子ちゃん、名前を呼ぶんだ。君にはその力がある」

 住職の声を聞いてもなお、麻子は動けないでいた。異形の様相となった新龍を見ていられず、しかし目を逸らすことが出来ない。

 異質な声がした。

 声とすら呼べない不快な音だが、それは確かに声だった。新龍の咆哮とは別種の異形のものの発する声。

 麻子の背後からその声は響いた。タマが警戒の声を上げる。振り向くと、全身が闇に染まった影がこちらに向かって手を伸ばしていた。

 呪われた絵の中から這い出してきた影だった。麻子がタイトルを付けたことによって力を得た絵画の亡霊。

 安野はその絵を封印すると言った。実際にその後から今まで、影が麻子の許に現れることはなかったので、麻子も安野の言葉を信じていた。

 ――あの人を信じた私が馬鹿だった!

 あんな胡散臭い男の言葉の信憑性など、紙切れよりも薄いはずだ。それを確認もせずに真に受けた麻子は愚かとしか言いようがない。

 影は麻子の目と鼻の先にまで迫っている。捕まると覚悟した瞬間、麻子の身体は後ろに思い切り引っ張られた。

 バランスを失い尻餅をつこうかという時、影の前に躍り出る異形の姿が見えた。麻子を引っ張ったのもその異形だった。

「この女に、触れるんじゃねえ!」

 それは新龍だった。変質していく身体で、失われていく自我の中で麻子を守ったのだ。

 新龍は鋭い鉤爪の伸びる両手を振るい、影を滅茶苦茶に切り刻んだ。影は声も立てずにバラバラに散らばり、やがて霧散した。

「何でだ――」

 苛立ちと、当惑。新龍の声は震えていた。

「何で俺は手前を助けた! 訳がわからねえ。気付いたら身体が勝手に動いてた! 手前のことなんざ知らねえのに!」

「いいよ」

 麻子はゆっくりと立ち上がり、ズボンに着いた埃を払った。

「思い出さなくていい。考えなくていい。ただ、あなたは私の大切な人だから。それはきっと、あなたにとっても同じ」

「手前――」

 新龍の身体から殺気が抜けていく。

 同時に、新龍は顔を押さえて苦しみだした。見る間に鱗が左の顔を侵していく。左目も金色に染まり、新龍の全身が鱗に覆われた。

「いかん! 麻子ちゃん、急ぐんだ!」

 新龍の全身が膨れ上がっていく。骨格が変わり、顔が伸びる。枝分かれした角が生え、広がった口からは牙が覗く。身体は蛇のように伸びていき、やがて完全な龍の姿となった。

 龍は宙で肢体をくねらせ長い咆哮を放ち、空気を震わす。住職がたじろぐが、麻子は至極落ち着いて龍を仰ぎ見ている。

「シンリュウ」

 龍の金の双眸が麻子を捉え、完全に動きを止める。身体もまた金縛りに会ったように固まった。

「あなたの名前は、シンリュウ」

 その言葉を確かに聞くと、龍は両目を閉じ、溶けるように消えた。

 その龍が浮かんでいた真下の河原に、制服を着た少年が一人立っていた。

「そうか」

 少年は麻子を見つめると、小さく笑った。

「俺は、シンリュウって名前なのか。教えてくれて――いや、名付けてくれてありがとよ。クソ女」

「やはり、記憶は戻らなかったか……」

 沈んだ声で住職が呟く。

「いいんです。私言いました。思い出さなくていいって。ね」

 シンリュウ――名前を呼ぶと、シンリュウは照れたように悪態を吐いた。

 高らかな笑いが起こった。最初は何処から聞こえるのかわからなかったが、やがてそれが川の中から響いていることに気付いた。

 恐る恐る川を覗き込むと、深く落ち着いた声が聞こえてくる。

「やはりお前は最後まで面白かった。我が力を分け与えたのは正解だったな」

「あんたの支配は終わったぜ、龍神様よ」

 シンリュウが言うと、声は愉快げに笑う。

「それがいい。お前のその反骨心、今まで存分に楽しませてもらった。我が許を離れるのもいいだろう。さて、娘よ」

 麻子はシンリュウの言葉からこの声が龍神のものだということに気付いた。思わず緊張し、裏返った声で返事をする。

「我が不完全な眷属はお前の呪いにより、今完全にお前の配下になった。好きなように使うがいい。こうなるのもまた一興だ」

「おいちょっと待てよ。俺はこのクソ女の僕になった覚えはねえぞ。こんな奴に仕えるなんざ御免被るぜ」

「お前はこの娘の命には逆らえんよ。決まりはないが、お前の本当の心はこの娘のものだ」

「シンリュウ、私はあなたを縛ろうなんて思わない。ただ、時々顔を見せてね」

 麻子が笑うと、シンリュウは困ったように顔を背けた。

 麻子には記憶がなくても、シンリュウが麻子のことを大切に思っていてくれることがわかっていた。

「娘よ、この男は龍の力を受け継いでいる。強い力は身を滅ぼすこともあるが、お前にならばこの男を任せてもいいだろう」

「ありがとうございます」

 声はさらに笑った。

「お前達は本当に愉快な奴らだったよ。では、口を閉じるとしよう」

 それから声は聞こえなくなった。

 シンリュウは川に背を向け、土手に向かって歩いていく。

「おいクソ女」

「何?」

「時々は、顔を見せてやるよ。後、困った時になったら呼べ。助けてやる」

「うん。ありがと」

 けっ、と吐き捨てると、シンリュウは龍の姿へと化身し、空高く駆けていった。

「誕生日、おめでとう」

 麻子は小さく、住職にも聞こえないようにそう呟いた。だがその声は確かにシンリュウに届いたはずだと、麻子にはわかった。




 ゴールデンウィーク最終日の五月六日、麻子は再び安野の家に出向いていた。

 電話でどうしてももう一度家に行きたいのだと懇願すると、安野は少しの間渋ったがこれを了承した。

 緑山駅から中古の死霊憑き自動車で家まで向かう。麻子は家に着くと安野を無視して中に入り、雑多に怪しげな品々が置かれている部屋に踏み込んだ。床から目当ての品を捜し出し、手に取って部屋の外に出る。

 それは麻子がタイトルを付けた絵画だった。影があった場所にはそれを覆うようにいくつも札が貼られている。札をめくると、その下に影は描かれていなかった。

「早い」

 安野が怪訝な顔をして家の中に入ると、麻子は手に持った絵画を安野に見せた。

「安野さん、この絵、ちゃんと封印するって言いましたよね?」

「うん」

 札を剥がし取る。

「あら」

 麻子は絵を額から取り出し、それを真っ二つに裂いた。さらにそれを完全に修復が不可能になるまで破っていく。

 床に散らばった絵の残骸を見ると、安野は少しだけ肩を落とした。

「酷い」

 安野は最初から麻子の力を試そうとしてこの絵にタイトルを付けさせたのだ。麻子は昨日、住職から安野に麻子の力を話したということを謝罪を添えて教えられていた。

「もうこんな危険なことしないでくださいね。私もこれから安野さんの口車に乗らないように気をつけます」

 安野は、それはもういやらしく笑った。

「言うだけ」

「無駄、ですか」

「うん」

 用が済んだので帰ると言うと、安野が駅まで送っていくと言った。ここから最寄駅までは結構な距離があるので送っていってもらえるのはありがたいが、麻子はそれを断った。

 家を出て、広大だが手入れのされていない庭に立つ。

「シンリュウ」

 名前を呼んで暫くすると、麻子の背後に誰かが降り立つ音がした。振り向くとシンリュウが不機嫌そうな顔で立っている。

「何だ」

「家まで送ってってくれない? シンリュウなら私を上に乗せてひとっ飛びでしょ?」

「はあア?」

 シンリュウは怒りの形相で麻子に詰め寄る。

「俺は手前の乗り物じゃねえ! 調子に乗んのも大概にしろ!」

「いいでしょ。ねえタマ」

「そーだよ。どうせ大体いつも麻子の少し近くにいるんだしさー」

 シンリュウが顔を真っ赤にして麻子から一歩後退する。

「な――何でそれをッ」

 麻子とタマがくすくすと笑うと、シンリュウはさらに顔を赤らめる。

「クソっ! わかったよ。今回だけ特別に送ってやる」

「うん。ありがと」

 シンリュウが龍へと姿を変え、麻子はその鱗で覆われた背中に跨った。

「振り落とされんなよ」

「うん。でも落ちた時は助けてくれるんでしょ?」

 シンリュウは悪態を吐き、はるか上空へ飛翔した。

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