第19話

 美鶴は全身に感じる違和感に耐え、壁に寄りかかりながらも新聞部室へと急いでいた。

 薫からの報告では既にフィールド内に罠は一切存在していないと聞いている。美香が潰しているのだとすれば、那月も今はフリーな筈だ。だからこそ、美鶴は焦っていた。

 鍵は此方にあるものの先手を取られ不意打ちをされたならば、勝ち目はない。

 美鶴に勝機があるとすれば――それは真正面からの直接対決だけなのだから。

「薫先輩、あとどれくらいで那月が来るか分かりますか?」

『あと、九十秒くらいだと思うけど……大丈夫なの? さっきから、様子がおかしいけど』

 身体を壁に叩き付けてから様子がおかしい美鶴を薫は心配するが、美鶴の頭は那月に対する最初の一手の事で頭が一杯。耳にまで届かない。

 美鶴は那月が作成し自身が改竄した隠し持っている鎖をもう一度だけ確かめた。

 勝負の鍵を握る品だけに手札として、使い時を誤る訳にはいかない。

 チャンスは一度きりだ。那月のデバイスである辞書の高速展開を考えれば、即座に対策を立てる事も可能である以上その見極めが重要となる。

 鍵も無くしてはいない。

 その事を確認すると壁に寄り掛かるのを止め、美鶴は自分の足で立ち上がった。

 ここを抜ければ新聞部室。先に辿り着く事が出来た。そう思ったのだが、新聞部室の前には息を切らせた那月の姿があった。先に辿り着いたのは那月だったのだ。

 那月が立っているのは新聞部室の前。その扉に寄り掛かるように身体を休め、美鶴がここに来るのを待っていたのだろう。美鶴を視認出来るや否や、立ち上がるとデバイスに手をかける。

「認めてあげる。いや、認めざるを得ないって言うのが正しいわね。まさか、アンタがここまでやるとは思わなかったわ。ここまではアンタの思い通り。けど、勝つのは私よ」

 私達ではなく、私と言う言葉。

 それは那月がチームメンバーの一人の岩倉那月としてではなく、岩倉那月個人として美鶴の前に立ち塞がっている事の現れだった。ただの岩倉那月として、

 だからこそ、こうして待っていたのだ。三階からこの教室まで先回りしたにも関わらず、真正面から対等の立場で受けて立つという意志表示を示す為に。

「勝つのは私、ね。だが、そう簡単に勝ちをお前なんかに譲ると思っているのか? こっちにだってな。――負けられない意地があるんだよ!」

 美鶴の言葉にどこか嬉しそうに那月は微笑んだ。

 今、美鶴の視線の先にあるのは岩倉那月ただ一人、そう、他の誰でもないのだ。

 そして、ここには他に割り込んで来る人間など存在しない。仮想空間と言う閉鎖された空間だ。ここに存在しているのはたった二人、こうして互いに睨み合う二人だけだ。

「悪いけど、先手を譲るような真似はしないわよ。私は今、持ちえる全力でアンタを潰す」

 那月はそう宣言すると同時に、辞書の中の一ページを開いた。

 開かれると同時に白紙のページに文字が浮かび上がる。そして、那月がそのページに軽く手で触れると同時にそのプログラムが起動し、美鶴へと……。

 だが、それを黙って受ける程、美鶴もバカではない。

「デバイスに頼り過ぎなんだよ。だから、お前は負けるんだ!」

 美鶴はそう叫ぶと、隠し持っていた鎖を那月の持つ辞書へ向けて放り投げる。

 放物線を描き、宙を舞うそれを那月はすぐには理解出来なかった。

「そんな物!? なんで、私がアンタを拘束する時に使った鎖なんか……。完全に消滅した筈じゃなかったの!? しかも、アンタがなんでそれを持っているのよ」

 持っているのか。その質問に答える義理はない。

 これを放り投げたのは那月の気を逸らす為だけではないからだ。その程度の小手先の技術では絶対に届かない。それを一番知っているのは他ならない美鶴だ。

 だからこそ、絶対に成功する確信があった。

「どうした? 何も発動していないぞ?」

 美鶴の言葉に那月はようやく、プログラムが作動していない事に気が付く。

 しかし、中に保存しているプログラムには常に慎重を期して構成している。何の問題もない筈なのだ。演算も完璧。――いや、数値設定が間違って……変化していたのだ。

 那月のデバイスである『辞書』は元から保存してあるプログラムを高速展開するモノ。

 しかし、物理演算である計算式に限っては状況次第で大きく変動してしまう。その為、物理演算の式だけは那月自身が直接、代入しているのだ。

 だからこそ、発動後に突然物理演算と現実の数値が異なるような事が起きてしまえばプログラムが正常起動せず、何も起こらなくなってしまう。

 その最大の弱点を美鶴は一度の戦闘で見切ったのだ。

 けれども、それに即座に対応出来ないような那月ではない。

「種が割れれば何の問題もないわ。再演算し直せば……。えっ!? 嘘」

 同じ手は二度と通用しない。種が割れてしまえば簡単。物理演算を再計算し直してさえすれば、即座に対応する事が出来ると那月は考えていた。だが、辞書が反応しないのだ。

 美鶴がした事は破損した鎖を放り投げ、それを辞書が回収……。

 そこで那月はようやく、自分が犯してしまったミス。辞書の最大の欠点に気が付いた。

「アンタ……。最初から、辞書を使えなくするつもりだったって訳……」

 簡単に言えば、辞書の能力は保存されたモノを取り出す事だ。だからこそ、全て那月が自分で入力している。しかし、そこに改竄された那月のデータを回収してしまった事により、エラーが発生。プログラム自体が正常に起動しなくなってしまったのだ。

 起動しなくなったデバイスなどただの重り。今は再起動をかける余裕もない。

 那月は横を通り抜けようとする美鶴に軽く舌打ちすると、辞書を投げ捨てる。そして、キーボードを出現させると一からプログラムを入力し始めた。

「おい、嘘だろ……」

 この仮想世界ではデバイスからの入力に限られると美鶴は思っていただけに、その那月の行動に思わず驚きの声をあげてしまう。だが、今更前に進む足を止める訳にはいかない。

 那月が完成させるよりも先に入ってしまえば、美鶴の勝利だからだ。

 しかし、扉に美鶴が手を伸ばした瞬間何かにその手を阻まれてしまう。

 咄嗟に回り込もうにも背後も右も左も壁で遮断され、気が付けば美鶴は那月によって完全に閉じ込められてしまっていた。

「残念だけど、デバイスがなくてもこれくらいの事は普通に出来るの。これが私とアンタの間にある決定的な実力差。それにさっきの鎖の様子から見るに改竄が得意みたいだけど、これだけ単純なプログラムなら適当に数値変更しただけでは突破できないわよ?」

 単純すぎるプログラム――それは美鶴にとっては致命的なモノだった。

 鎖のプログラムを改竄出来たのもあれが複雑かつ膨大な情報を誇るプログラムだったからだ。だが、単純なプログラムになればエラーそのものが起こす事が難しい。その為、先程使ったような方法は使えない。

 それが意味するのはアイリスに指摘された欠点を上手く有効活用するという方法が使えなくなってしまった事を意味していた。


――三日前。

『本当に真面目にやってるの? 教えた通りに打ち込めば、小学生だってこれくらいの事なら出来るわよ……。本当に今まで何して来たの?』

 マンツーマンでアイリスに教えて貰っていたのだが、基礎中の基礎で躓いていた。しかも、何度教えられても改善されないだけにアイリスも呆れ始めているのだ。

 根底の部分が出来なければ、イザナギという物理演算すら行わなければならないプログラミング言語など扱える筈もない。それだけにアイリスは根本的なレベルから短時間でどうやって教えていけばいいのか頭を悩ませていた。

 ただ、これだけやっても出来ない状況に見えて来た事もある。

 美鶴はどのように組んでも必ず致命的なまでのバグを創り出してしまっているのだ。

 アイリスからすればどうすれば、ここまで毎度毎度惚れ惚れするようなバグをどうやったら創り出せるのか聞きたいレベルだ。しかも、直せば直すほどにそのバグは致命度が増してしまっている。

 だが、美鶴本人に聞いた所でアイリスの理解出来るような返答が返って来ないのは明白であり、そんなモノに全く意味はない。聞くだけ時間の無駄というものだろう。

 そんな空気に耐えられなくなったのか、黙り込んで反論をしていなかった美鶴もアイリスの言葉に次第に苛立ちを募らせ始める。

「仕方ないだろ……。出来ない物は出来ないんだから。それに、そんなに簡単に出来ていたら今頃、普通の生徒になっていただろうな」

『言いたい事は分かるけど、開き直られたら困るんだけどな……時間もない訳だし』

 時間がない。今の美鶴とアイリスにとって一番、厄介な点だ。

 試合までに美鶴をどうにか使い物になるレベルに仕上げなければならない。だが、今のプログラムを組めないという問題をクリアしなければどうにもならないのだ。

 しかも、今の段階は子供の頃に教えられる技術の段階で躓いてしまっている。この状況でははっきり言って勝ち目どころか勝負する事が馬鹿らしいとアイリスは判断してしまう。

 特に相手は生真面目であり、堅苦しい古い人間とも言える勤勉な那月なのだ。ある程度の技術とそれに対抗出来るだけの知識がなければ確実に美鶴は封じられてしまい、一方的な試合になる。いや、それだけでは足りないかもしれない。

 特に仮想空間内で那月が創り上げたプログラムには美香達は干渉出来ず、美鶴が対処しなければならない。つまり、勝負の鍵を握っているのは美香達ではなく美鶴なのだ。

 だからこそ、今の状況は美鶴にとってもアイリスにとっても非常に不味かった。

「どうする? このままじゃ勝ち目もないから、那月に対する対策だけでも立てるか?」

 しかし、それはアイリスの計算では不可能という結論。

 試合では必ず一階以上、那月と衝突する事になるからだ。そして、仮想空間内のプログラムは仮想空間内にいる人間にだけしか破壊、改竄出来ない。

 だからこそ、今のままでは捕まれば終わってしまう事を意味している。

 それに加えて、那月はプログラム高速展開が可能なデバイスを保有していたとアイリスは記憶していた。それはつまり、プログラムを作るというステップを飛ばせるという事であり、本来必要な時間が大幅に短縮されている事を意味している。

 対峙した際に、美鶴に残されているのはほんの僅かな時間しかない。

 その僅かな時間で行動を起こす事が出来るとすれば美鶴もデバイスを手に入れる事。

 だが、デバイス作製には没入して仮想空間内での経験が重要になる。根本的な問題として、今の美鶴には足りない物が多過ぎてそれは現実的ではないのだ。

 だからこそ、アイリスはその事を美鶴には一言もしゃべる事はせず、大きく溜息を吐いてみせた。

『私にもどうしていいか、本当に分からなくなって来たわ。いや、ここまで酷いと逆に開き直るしかないわね。最初から出来ないって』

 開き直ってしまえば、アイリスもここまで悩む必要はない。

 元々、長年努力しても改善出来なかった物なのだ。それをたった三日程度でどうにかしようとしていた事がそもそも無理な話だったのかもしれない。

 アイリスは疲れた顔を浮かべると、頭を抱えながら適当にプログラムを組み始める。

 単純なプラグラムだが、今の美鶴には到底出来ないレベルのプログラムの解体。だが、経験していないよりはマシというささやかな期待を込めてのモノでもあった。

『美鶴、これを今からどれくらいで停止出来るかやってみて? 経験しておけば少しは何かの足しになるだろうし、出来なかったら手取り足取り教えてあげるから』

 元々、アイリスも出来るとは思っていない。

 そもそも、停止と言ってもただ管理者権限で停止命令を下せば良いわけではない。何しろ仮想世界では美鶴達もプログラムのようなものだ。つまり――正確な表現とは言い難いが――ウイルスに対するウイルス対策ソフト。というような関係である。

 現実として例えるなら、電源が入ったままの大型の精密時計があるとする。

 電源を切ることは絶対に不可能。だが、針だけを止めなければならない。

 そういう状況の中、電源を切らないまま作業を開始し、適切な歯車を抜き出して必要部分だけを空回りさせる。というような構図である。

 これを強要されるのが、仮想世界である。

 もしも、こんな事が出来たのならば、美鶴が学校の担任に進級の心配をされたり、プログラムを破損させてしまい宿題の提出が出来なくなるなど起こり得ないからだ。

 経験していないよりはマシだろう。というささやかな期待を込めてのモノでしかない。

 アイリスがプログラムを渡して数分が経過した。

 そろそろ時間と判断したアイリスは美鶴の方を見ると、いまだにプログラム相手に睨み合いをしていたのだ。だが、そんな事でプログラムの解体が出来る筈がない。アイリスは呆れ果てその様子に思わず、苦笑いを浮かべてしまう。

『出来ないなら出来ないって素直に認めなさいよ。時間は有限。時は金なりって言うでしょう? そんな下らない事に時間を使っている余裕はない筈よ』

「いや、これで多分出来ている筈なんだ。プログラムの停止自体は最初の十数秒で終わってるんだよ。……ただ、本当にこれでいいのか分からなくてな」

 アイリスはその美鶴の言葉に思わず固まってしまう。

 どう考えても、美鶴がプログラム自体を停止させられる訳がないと先入観から決めつけていたからだ。しかし、まだ本当に停止させられているかは見て見るまでは分からない。

 大慌てでそのプログラムをアイリスは解析する。

 結果は完全ではないが、美鶴の言う通り機能自体は停止していた。

 けれども、問題はそこではない。

 この手の罠の場合、排除する際には二通りの方法がある。

 一つは適当にプログラム内部のコードを書き換えて無効化するという事だ。

 ただ、これを用いた場合、全く別の何かに罠が変異してしまう可能性がある為、今の美鶴に奨めるのは厳しい。何故なら、変異させてしまえば更に解除方法が複雑になってしまうからだ。

 もう一つは重要な要素となるプログラムを削除し、プログラムそのものを空回りさせて無効化してしまうという方法だ。

 この場合、プログラムそのものが変異する事もなく、安全な無力化を行う事が出来る。

 ただ、瞬時に設計図を頭に描けるだけの知識を必要としており、美香のような人間が時間を短縮し数をこなす為に利用する手段でもある。

 だが、美鶴がやってのけたのは完全な前者なのだ。いや、前者とは微妙な相違点が見られている為、実際には似ている程度と留めておく方がいいのかも知れない。

 アイリスには驚愕以外に反応出来なかった。

 けれども、同時にようやくこれからどのような事をして行けばいいかの道筋が見え始める。

『――――なるほど、そう言う事! 勝ち目が見えて来た。まずは、前提から変えましょう。プログラミングをしようなんて先入観を排除して、根本的な意識改革を行うの! その方がいいわ』

 プログラム自体の改竄は機能停止に比べると、別段難しいものではない。

 しかし、このプログラムはアクセスコードを掌握されているのだ。そうなれば、話が違う。

 本来、罠として仕掛けられたプログラムは改竄を行う事も、回収する事も常時可能となっている。だからこそ、プログラマーには全体で使える容量規定が存在しているのだ。

 だが、美鶴の改竄はその回収を妨害する事も可能。最悪、容量を肥大化させ圧迫する事も不可能ではないのだ。つまり、相手の裏をかくにはこれ以上ないと言っていい程に厄介な能力になる。

 ただ、問題は美鶴がどの程度意識的にプログラムを改竄出来ているかという事だ。

 例えば、アイリス自身も膨大な数のプログラムの集合体であり、それが互いに干渉し合う事によって成り立っているのである。しかし、全てが必要なプログラムと言う訳ではない。

 そのプログラムの中で中核となっているプログラムは極僅かなのだ。それ以外は最悪、切り離してしまっても問題なく動く事が可能なのである。それは、普通のプログラムにも言える。

 要はそれを見極める目を養う必要性も美鶴にはあるのだ。

 けれども、簡単なようだがそれは極めて難しい。何故なら、プログラムの組み方は千差万別。個々人によって完全な別物になっており、それを論理的にまとめる事は難しい。

 美香ですら、経験と直感を頼りに作業しているのが現状なのだ。

 その事を踏まえた上で悩みに悩み抜いた末に出した結論。

 それが、今回美鶴が用いていた作戦だった。


「降参しなさい。その方が後腐れないでしょう?」

 結局、勝負を分けたのはデバイスを所持しているか否かではなく、プログラムを組む事が出来るか否か。ごく単純な事が命運を分けたのだ。これまでの経験では無く……。

 だが、美鶴としてはその敗北を認める事は出来なかった。

 那月のデバイスを封じてあと一歩の所まで来たのだ。だからこそ、ここまで来てそう易々と敗北を認めるような真似が出来る筈がなかった。

 しかし、那月が創り出した壁に阻まれて新聞部室へは近付く事も出来ない。確かに、何とか身動きは取れるが、美鶴には那月に対抗するような事は何も出来ないのだ。

 諦めずに足掻こうとする美鶴の様子に那月は無言で美鶴から鍵を奪い取ると、それを新聞部室の鍵穴へと差し込む。

「そう――なら、そこで私に敗北する瞬間を見ていなさい」

 那月がそう告げ、美鶴に背を向ける。

 そうして、那月はさっさと勝負を決める為に新聞部室の鍵を開けようとするが開ける事が出来ない。上手く、鍵が刺さらないのだ。

 鍵穴と鍵が対応していない。その事に気が付き、鍵に着けられたタグを見るとそこには図書室と言う文字が大きく書き込まれていた。

「ここに来て小細工? 諦めてもう一つの鍵をさっさと渡し……て……」

 そう言って振り向いた先にいた美鶴の様子に思わず那月は言葉を失った。

 何故なら、美鶴の腕を何か黒い靄のようなものが覆っているからだ。それはまるでグローブを纏うかのように。いや、グローブなどではない。まるで生きているかのように蠢いているのだ。

 しかも、その靄はまるで他のプログラムを否定するかのように美鶴の周りに那月が作り上げた壁を侵食し、その壁に綻びを創り出しているのだ。それは校舎にも影響する。

 ただ壊す訳ではない。空間そのものに揺らぎを起こしている。

 けれども、仮想世界を構成するプログラムには絶対に干渉出来ないのがルールの筈だ。その絶対的なルールが何らかの行為によって完全に覆された。そうとしか考えられない。

「美鶴、アンタ一体、何を……? もしかして、美香先輩ですら見つけられなかったセキュリティホールを見付けたって事? レベルコードの穴を突く方法を!」

 だが、那月に何を言われても美鶴本人は自分が何をしているのか、何が起こっているのか全く理解していなかった。完全なる無意識状態でこの現象は起こっているのだ。

 ただ、美鶴にもこれが最後のチャンスと言う事だけは理解出来ている。そして、この力がプログラムに対して極めて有利な物であるという事も……。

 黒い靄に覆われた手で見えない壁を押さえつけると、一瞬でその壁は揺らぎ、中のプログラムを一気に侵食してしまう。

 空っぽの器。

 プログラムとしてはまったく意味のないただの文字列。

 バグですらもない、単なるゴミ。

 たった一瞬でそこまでプログラムを変貌させる。そんな異質な存在に即座に対処する事が出来る人間がどれだけいるだろうか?

 根本的な現象の原理を理解出来ない以上、プログラムを無効化する現象を止めると言う対策などたてられる筈もなかった。もしも、那月が辞書を使えたとしても、高速展開程度ではどうにもならなかっただろう。

 あくまであれは元々組んだプログラムを再生しているに過ぎない。過去に創り出した物を呼び起こしているに過ぎないのだ。過去に経験した事に対しては有効だが、それ以外には無力だ。

「何なの! 何なのよ。そのデバイス!」

 理解しようにも欠片も内容が分からないソレに那月の中で恐怖心が湧き上がる。自分自身でも気が付かない内に後ずさってしまうが、すぐに背後の壁にへばり付き逃げ場を失ってしまう。

 そうなってしまえば恐怖に思考を支配される。那月は正常な判断など出来る筈がない。

「どうやら、俺の勝ちみたいだな。那月」

 逃げ腰になる那月の様子に勝利を確信した美鶴は本物の新聞部室の鍵で扉を開けようとする。だが、鍵を握った瞬間、黒い靄がその鍵を覆い付くし鍵を飲み込んでしまった。

 それと同時に、美鶴の手を覆っていた黒い靄は消滅。新聞部室の鍵も最初からそこになかったかのように消滅してしまう。

 鍵が消滅した。それは、つまり部屋に入る方法が無くなってしまったという事だ。

 その事に互いに言葉を失い、辺りは沈黙に包まれてしまう。

 引き分け。しかし、それは想定されていない為、どちらかが敗北を認めるまで試合は終わる事はない。元々、鍵が消滅する事がイレギュラーなのだ。

 流れを掴んでいたのは美香達、寄せ集めで作られたチーム。

 もしも、ここで美香達寄せ集めのチームの勝利を認めれば、果たして学校側は那月達が大会に出場する事を許可するだろうか。

 美鶴の頭の中を嫌な予感が覆い尽くしていた。

 学校側が求めているのは結果。だからこそ、美香を呼びもどそうと動いたのだ。ならば、そんな事になれば那月達よりも美香達が出場するように事を進めてもおかしくはない。

 今回の大会への招致も前大会個人戦に美香が優勝しており、個人戦が今年度に限り廃止されるという事情があって招待されたという経緯がある。

 だからこそ、美香がいる寄せ集めのチームがお互いの妥協案になりかねないのだ。そうなれば、美鶴も自然とその大舞台に立たなければならなくなる。しかし、役不足だ。

 美鶴は何としてもそれだけは回避しなければならなかった。

 ならば、美鶴に残された手は試合を無効試合にするか、那月を勝たせる他ない。

 そう思い、那月の様子を横目で確認するが、完全に固まってしまっている。

 そもそも、那月は与えられた勝負を拾うような人間ではない。そんな話をした瞬間、殴られるのが目に見えている。

 美鶴は溜息を吐き、殴られる覚悟を決めると大きく息を吸い込んだ。

「「棄権します」」

 那月と言葉が重なる。だが、その真意を聞くよりも先に世界が再び歪んだ。

 先程とは違う。この世界へ没入した時と同じ感覚だ。そして、那月に何も聞けないまま美鶴の目の前は真っ白な光に包まれた。


 目を開けると、そこはゲーム開始の為におくられたポータルだった。

 ただ、開始時と違い隣には那月がいる。顔を合わせないようにしているのか全く美鶴の方を見ようとはせず、那月はどこまでも白い世界をじっと見詰めていた。

 そんな那月の背中に思わず、先程から疑問に思っていた言葉が零れてしまう。

「なんで、棄権なんてしたんだ? お前が自分から勝負を諦めるなんて珍しい」

 美鶴も口にしてやってしまった事に気が付き、口を噤む。

 確かに何故棄権したのか理解出来ない上、気になって仕方がなかった。だが、試合が終わったのは先程だ。それを今、聞くような事は那月を傷付けるだけでしかない。

 けれども、那月も気になっていたらしく、嫌味ではない純粋な疑問が返ってきた。

「あんたこそ、なんで棄権したのよ。あの状態ではアンタの勝ちみたいなものでしょ。まぁ、鍵が消滅したっていうイレギュラーはあったけど、アンタが負けを認める要素なんてなかったわよ」

 互いに何故、棄権したのか理解出来ない。いや、出来る筈がなかった。

 美鶴は今後の展開を予測して、棄権する事を選択した。

 那月は純粋に美鶴との勝負に負けを認め、棄権する事を選んだのだ。しかし、あれ程までに大会に出場する事を誇りに思っていた那月がそれを諦めるような選択をするなど美鶴に信じられる筈がない。

 そんな事をしてしまえば、今年の大会出場を逃してしまうかもしれないからだ。

「俺は別にそれが一番の解決策だと思ったからだよ。別に俺は大会自体には何の興味もないし、ハッキリ言ってどうでもいい。けど、お前にとってその事は大切な事なんだろう? それを台無しにするような真似だけはしたくなかったんだよ」

 美鶴に求められていたのは勝利ではない。

 ただ、相良に認めさせる。それだけの事だったからだ。

 勝ち負けの世界ではない。個人間での信念の問題だ。それに、この試合に勝ってしまえば無駄に抱えてしまうものが増えてしまい疲れるだけだ。そう美鶴は考えていた。

 だからこそ、あの時点で美鶴の中では勝負は終わっていた。確かに、試合は美鶴達が優勢だったが試合の勝敗は勝敗だ。那月達が勝てばすんなり、話が通って全てが上手く行くと思っていた。

 それに加え、相良が今回の勝負の事を鼻にかけるような真似はしないと確信していたからだ。

「何それ……。まぁ、確かに相良先輩も今回の件で色々と見直さないといけないって言い出すだろうけど……学校側が美香先輩の思いを汲み取るかどうかは別問題よ。って、そろそろ時間ね」

 那月はそう呟くと大きく背伸びをし、身体から力を抜いた。

 そして、大きく深呼吸をすると那月は此方を振り返らずに一言だけこう告げるのだった。

「私は私の矜持を持って挑んだ一騎打ちでアンタにしてやられた。確かに、イレギュラーな要素はあったけど、私は白浜美鶴に負けたの。美香先輩じゃなくてね。……その事は、誇っていいと思う」

 どこか重圧から解放されたかのような清々しい那月の後ろ姿を見せながら、一方的な言葉を残し、ポータルから那月は姿を消した。

 それから、二分後、美鶴も時間差でようやく現実へと引き戻されるのだった。

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