第17話

 一方、那月は社会科資料室からの風景を確認し、写真と何度も見比べていた。

 建物が微妙に違うのは既に分かっている。情報を整理し、推測するに写真が撮られたのはこの世界のモデルにされた時期よりも前である事は確実だろう。

 だが、問題はそれがどれほど前かという事だ。写真の情報だけではそれを完全に断定する事は難しい。この写真が一体、何を意味しているかとなるとなおの事だ。

 そう考えた那月は一人で思い悩むのを止め、更紗に助力を求めるのだった。

「如月先輩、そちらでは何か掴めましたか?」

『漠然とした答えでいいのなら、写真は創設六十年の頃から大体、五年の間に撮られた可能性が高いのだけど……時期の確定には至れないわね。特にヒントの建物に関する資料が残ってないからほとんどが古い地図との重ね合せでの判断しか出来ないだけに……』

 更紗の言葉に那月は小さく頷くと、黙り込み深く考え込む。

 漠然とだが、五年という期間に限定出来た事は今後の調べに有意義になる筈だ。いや、ここのヒントはこのモデルとの時期の差を示す為のモノだったのかも知れない事を考えるとこれが答えでいい可能性も少なからず存在している。

 ならば、次の問題はこの写真が一体、何の目的で撮られた物かという事だ。

 探索と呼ばれる試合形式である以上、この空間内に存在している。だが、それにしてはいつもの練習以上にヒントになるような物証が少な過ぎるように那月は感じていた。

 けれども、それでは試合として問題がある。

 だとするならば、考えられる答えは一つしかない。

 つまり、この写真に十分なヒントが隠されており、それにまだ気が付いていないという事だ。

「卒業アルバムにしては、生徒が写っていない訳だし……他に何がある?」

 写真を撮るような事であり、なおかつ人が映らないような風景を撮った理由。しかし、何も那月は思い付かない。何の為の写真なのか見えてこないのだ。

 だからこそ、オペレーターの更紗も同アドバイスしていいのか悩んでいた。

 写真として、ヒントになりそうな事はデジタルカメラとフィルム式カメラが挙げられる。だが、色の深みなどと言われた所でそれを視覚的に理解する事は素人には難しい。

「アレ? 視覚的効果……。更紗先輩、画素数から大体の時期って割り出せますよね」

 デジタルカメラの画素数は性能の高さでもある。ならば、それがメジャーだった時期を逆算すれば、もう少し時期を追求出来るのではないかと言うのが那月の考えだった。

 それに対し、更紗は無言で何の返答もしないまま調べ始める。引っかかるのだ。

 確かに技術的な要素ではそうだが、世の中には物持ちがいい人間がいる。それを買ったであろう時期は判明しても、そこから先に関しては不透明であるからだ。

 それだけの要素で幅を狭めるのは時期早々と言うのが更紗の考えだった。

『色素から逆算すると、期間は十年程度でその写真が撮られた時期とちょうど重なっていないみたい。もっと、前。――あれ、でもそうだとすると教師が撮った訳ではないのかな?』

 更紗の言葉に那月は少しばかり首を傾げる。

 教師が撮ったものではないと断言出来るだけの証拠がどこにも存在していないからだ。

 そんな那月に対し、更紗は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

『あぁ、そんな難しい事じゃないの。ただ、時期が違うって事は個人所有の可能性もあるでしょう? だって、卒業アルバムや学校史のような記録を撮るならこんな骨董品使わないだろうから』

 個人所有。骨董品。その言葉が那月の中で繋がろうとしていたその時突然、社会科資料室の前の廊下から足音が響いて来た。

 その音が意味する事は一つだ。美鶴があの鎖をどうやってか解除し、ヒントを求めここまで来た。

 岩倉那月がここにいる事を知りながら――だが、それでは腑に落ちない事が存在する。

 職員室にいた理由だ。ここに来るつもりだったのならば、あの時に鍵を隠しておけば良かった筈だ。状況からして、何かが那月の中で引っかかっていた。

 第六感が何か裏に思惑がある事を告げている。

 しかし、そんな考えを無視して自然と辞書へと手が伸び、ある一節を指でなぞる。それと同時に補助用のツールが起動し、那月の聴覚の集音性が強化された。

 聞こえるのは足音だけではない。話し声もだ。内容から推測するにオペレーターと何か会話をしているのだろう。もしかしたら、オペレーターと上手く息が合っていないのかも知れない。

 不自然。それが、那月の抱いた印象だった。

 美鶴にしては警戒心がなさ過ぎる。なるべく戦闘を避けて慎重に動きたい筈にしては、軽率過ぎる。那月の知る白浜美鶴と比べて警戒心がなさ過ぎると感じてしまう程だ。

 ただ、美鶴に掴み所がないのもまた事実。それだけに那月には判断しかね、そっと扉を開けて廊下の様子を覗き見る。けれども、廊下には人の気配はない。

 それどころか、先程までの物音が嘘のように不気味なまでの静けさが拡がっていた。

「いない? けど、さっきは確かに話し声が聞こえて来たわよね?」

『姿を確認していないのに、そこに人がいたと感じたって事? 幽霊じゃあるまいし……。まって、幽霊? 音と話し声での誤認識。なるほど――見えないからこそ使える手か』

 美香ならば音を用いて、気配を誤魔化して陽動する事が可能。そして、それを指示したのは恐らく向こうのオペレーター。そう思うと、更紗は思わず失笑してしまう。

 確かに美香がいなくなって、チームワークは取れてきた。だが、逆に力不足な点が露見している。そして、視野狭窄に陥っている事まで分かってしまった。

 これでは果たして、この試合はどちらの手の内で動いているのか。

 今度は物音が窓の向こうから聞こえてきた。

 那月はその音に大慌てで窓を開き、外の様子を確認する。

 だが、そこには誰もいない。当然と言えば、当然だ。部屋もない場所に人がいる筈がない。

 地面を見下ろした所で、そこには何もいない。集音性を高め過ぎたが故に反応し過ぎたのではないかと那月も考え始め、辞書の補助ツールを解除する。

「聞き間違いでしょうか? 何かが壁に当たる音がした気がするんですが……」

『なら、陽動の意味はなんだったのか。さっきの一瞬で何が出来たかを考えると、出来る事は……』

 更紗の言葉に那月は窓から身を乗り出して、上の階の様子を確認する。

 窓が開いていた。その窓一つだけだ。

 その事に全てを悟ると、那月はゆっくりと社会科資料室へと戻り、窓を固く閉じる。

 そして、深く溜息を吐くと急ぎ足で一つ上の図書室の前に立ち、扉に拳を叩き付けた。

「ここにいるのはもう、分かってるのよ! アンタね……無茶し過ぎでしょうが!」

 陽動は窓から目を逸らさせる為。物音は足を滑らしたが為。

 あまりにも無謀過ぎる事を美鶴にさせた。許容した事が那月には到底信じられなかった。勝てばどのような手段を使ってもいいという問題ではない。

 それでもしも、怪我をしたのならば元も子もないからだ。だからこそ、那月は絶対に開かないと分かっている扉に何度も蹴り付け、美鶴への怒りを露わにする。

 しかし、どんなに必死に蹴り付けた所で損傷した個所は即座に再生。プログラムコードに守られた厚い壁を砕くような事はなかった。


『出口、固められちゃったみたいだけど……どうする?』

 視認で確認する事は出来たが、最後の最後で気を抜いて物音を立ててしまった。

 姿を確認されない事に気を取られてしまい、窓を開け放ったままにしてしまった。恐らく、そこからここにいる事を結論付けられたのだろう。

 美鶴は唇を咬むが、ここは仮想空間。口の中に鉄の味が拡がる事はなかった。

「分かってます。鍵をかけていたから良かったものの、完全に出口を塞がれている訳ですしね」

『弟君が図書室から動けないと、答えを探す事もままならないからね……』

 那月が扉を隔てた向こう側にいる為、図書室から出る事は出来ない。

 つまり、ここから移動出来ないという事だ。美鶴にとっては危機的状況。の、筈なのだが、当の本人である美鶴は全く気にした様子はなく、図書室の一角にあった学校史を手に取り、流し読みを始めるがそれらしい写真は一向に見つからない。

「ない? いや、学校史にそもそも風景写真を乗せる意味合いはないのか……? もしも、撮るなら社会科資料室の絵が入っているだろうし……」

 おかしい。違和感を覚えた美鶴は何か、勘違いしているのではないかとこれまでの推理を全て見直し始める。だが、いくら組み替えた所で一向に答えが見えてこない。

 必要なパズルのピースは既に大体が出揃った筈なのだ。

 写真から推測され、導き出されるヒントは全て探し出してきた。だからこそ、学校史か卒業アルバムと考えた。そして、残された選択肢の学校史をこうして調べているのだ。

『弟君、学校史の編纂って何度もされたりしてない? ある年代だけ抜けているとか?』

 薫は貸し出された可能性を示唆するが、学校史は図書室に全巻揃ってしまっており、その可能性はまず有り得ない。

 むしろ、疑うべきは全く違う可能性だろう。

「卒業アルバムは生徒が写っていたから写真の構成が違った。学校史は部屋を増設する際に最期の写真として撮影したと考えたんですが、よく考えれば部屋の内装らしきモノが写っていない……」

 そこで美鶴はある事に気が付いた。

 確かに、卒業アルバムならば毎年、写真を撮る。だが、果たして学校史が毎年、写真を撮られ何度も編纂されるだろうか? 倉庫であるが為に被写体として、あまりよろしくない社会科資料室のような部屋の写真をわざわざ……。

 どうにもその一点に美鶴は違和感を覚えざるを得ない。

 だが、すぐに美鶴はある事に気が付いた。

 これまで考えていたのは写真を撮られた時期。しかし、これまで一度も『何故この写真を撮ったのか』と言う理由に関しては全く考えて来ていないのだ。

 ならば、視点を変えれば違う世界が見えて来る筈……。

 美鶴はそう考えると、ポケットに入っていたもう一つの鍵束の事を思い出した。

『そう言えば、弟君。毎年、新入生への学校紹介用に新聞部。学校紹介誌作ってないっけ?』

 美鶴が考えていたのも同じ事だった。

 三浦が言っていた事だが、新聞部は歴史が古い。学校紹介で色々な場所への資料も集めている筈だ。つまり、まとめるとこの写真は過去の新聞という事になる。

 しかし、そうなると新たな問題が浮上する。

 バックナンバーがどこに存在しているか分からないからだ。現実では図書室と新聞部のデータバンク内にすべて電子情報化されて保管されている。だが、この世界は図書室が残っている以上、それを行っていない可能性が高い。

 そもそも、電子化したのは掲示板がモニター化したからと言う話を三浦に聞いた覚えが美鶴にはあった。けれども、判断するにはまだまだ証拠が少な過ぎる。

 そう考えた美鶴は辺りを見回すと、掲示板が目に入った。

 貼り出されていたのは紙媒体の新聞部作成の学校紹介。つまり、紙でまだ保管されているという事だ。文字が手書き。原本をコピーといった所だろう。

「新聞部の資料庫……。薫先輩なら、原本をどこに保管しますか?」

『新聞部の中……かな? 同じ教室に保管していたらいつでも見る事が出来るし、過去の記事を参考にも出来るから。過去の踏襲みたいな事をして楽も出来るだろうし』

 薫の言葉に美鶴は職員室で手に入れていた学校の部活紹介を取り出すと、それを眺める。

 必要なのは新聞部の場所だ。それなりの施設がある以上は専用の部室が与えられている筈。問題は今現在の場所と変わっていないかという事。

 そして、美鶴は見付けた。一階にある小さな一室だ。

「ありました。けど、問題はどうやって一階まで降りるかですね……」

 扉の前には那月。だからこそ、普通の方法では向かう事が出来ない。

 かと言って、このままここでずっとしていればせっかく分かった答えが無駄になってしまう。それだけは絶対に避けなければならない。

 何かここから脱出する手段はないか。頭を悩ましながら、打開策を求め、辺りを見回す。すると、先程の風景確認用に用いたロープが目に止った。

 だが、長さは社会科資料室確認用の為に二階までの長さしかない。どうやっても、那月の裏を掻くのは難しい。社会科資料室から校舎に侵入するなど袋のネズミに等しいからだ。

 出来れば、一階まで一気に下りた方が那月との遭遇率を減らせる。しかし、一度でも外に出てしまえば侵入経路が限られてしまう為、罠を張られるかもしれない。

 今の手持ちは那月が作った鎖、ロープ、図書室の鍵、文化部部室練の鍵束だ。使えるように見える鎖にしても、既に原型を留めているだけの残滓に過ぎない為、使い道がない。

 それだけに、美鶴はどうするべきか思い悩んでしまう。

『弟君、まさか飛び降りようとか考えていないよね?』

 先程は薫も安全を確保出来ると考え、提案したが今回は違う。一階までという距離になれば、それだけ加速度がついて危ない。そんな無謀な真似を馨は先輩としてさせられる筈がない。

 美鶴も考えに考え抜いた結果、薫にこう返す。

「姉貴に頼んで一階。――いや、気持ち程度、短いロープを用意出来ませんか?」

 正規の出入り口は使えない物と考えた方がいい。那月達もこちらの動きを感知して止めに来る筈だ。完全に時間との戦いになる。

 ならばいっそ、ロープを足らない状況にして切り離した方が早いと美鶴は考えたのだ。

 そうする事によって、時間短縮も出来る上、勢いを付ければ窓から侵入も可能――。

 しかし、薫はそれを容認しない。

『短いって弟君、何言ってるの? 余裕を持たせて作ってって言うのなら、理解出来るけど足らなかったら危ないでしょう! 宙ぶらりん状態になるんだよ!』

 安全を考えれば、身体を固定して降りるのだが、足らないとなると宙に浮く事を意味している。そして、地面に足が届かない状況で縄を解いてしまえばどう落ちるか分かったものではない。

 だが、それを分かっていても美鶴は断固として譲ろうとはしなかった。

「出入り口が使えない以上は窓を突き破る以外にないでしょう? 一階の窓を割って侵入するならそれが簡単な筈です。他に手がありますか?」

 時間短縮を考えるならば一番効率がいい方法だ。壁を用いて一気に降下する。危険だが、他に手がないのもまた事実だ。。

『ねぇ、弟君。そんな危険を冒すより確か、その近くにある自転車駐輪場の雨避けの上に着地してって方法じゃだめなのかな? 勢いも少なくて済むだろうし……』

「それだと、二階からの侵入になりますよね。那月との距離も取れないので、危険だと思いますから――位置も中途半端ですし」

 確かに駐輪場の雨避けまでなら高さも一階の窓程ではない上に、足場もあるのだが、問題点として二階の窓との間に高さがあり、侵入経路としては難しいのだ。

「ここは俺を信じてくれませんか? 一階廊下の窓ガラスを割って侵入するって方法を」

『分かった。けど、その前に窓ガラスを割る事が出来るのかルールを確認して見る』

 薫はそう美鶴に告げると、レベルコードに関するルール条項をもう一度読み始める。

 但し、レベルコードに関する条項は美鶴が覚えているだけでも相当な量であり、書かれている内容も完全に理解するには時間を要すると感じたのを覚えている。

 その為、薫が返答するのには時間がかかると思っていたのだが、物の数分で答えが返ってきた。

『破壊不可オブジェクト化されているのは鍵のかかった個室全体、後は重要なオブジェクトなどに適応されている。ってなってるの。多分、教室や部室の窓ガラスは無理でも廊下の窓ガラスなら割れる筈。だから、そこからなら侵入出来ると思うのだけど、問題は……』

 薫が言いたい事を美鶴は即座に理解した。

 図書室は校舎の端の教室に位置している為、窓が面している箇所は全て鍵のかかった個室に面しているのだ。廊下に降りる為には図書室から退室し、廊下へ行かなければならないがそこには那月が待ち構えている。それは今の美鶴にはまず不可能なのだ。

 しかし、美鶴はその件に関して全く問題視をしていなかった。

「廊下へ出られないなら、窓の外。下にある縁を伝って移動するしかないでしょう?」

 移動距離は最短でも数メートル。それだけの距離を移動しなければならない事になる。

 しかも、移動した場所にロープを結んで降下しなければならない。その作業にも危険が付き纏う上に、どうやって那月に気が付かれないようにして移動するかという問題が浮上する。

『でも、問題はどこにロープを結び付けて降下するかを考えないと』

 可能性として考えられるのはパイプだが、そもそもの問題としてアレに人間の全体重をかけても大丈夫なのか美鶴もさすがに不安になってしまう。

 だが、それ以外に手段がないのもまた事実だ。問題があるとすれば、那月だろう。

 そして、たった一発のチャンスを物に出来るか。全ては美鶴にかかっているのである。

「時間は僅か。成功率も低いかもしれませんが、これに賭けるほかないでしょう」

『一応、美香にロープと切断用のナイフはそちらに送られたと思う。そのナイフの柄を柄に叩き付ければ、ガラスは割れるって話よ。でも、蹴破れるみたいだからそっちの方が簡単かもしれない』

 美鶴は薫の言葉に頷くと、窓から身体を乗り出し、ゆっくりと移動を開始する。

 もしも、風があったのならば流石の美鶴も少しは戸惑ったのだろうが、生憎この世界には風という現象は起こらない為、一歩一歩は遅いものの確実に前進していく。

 息は気が付けば荒くなり、手が汗ばんで来たように美鶴は感じた。十数メートルの高さを安全ネット無しに綱渡りをしているようなものなのだ。

 だが、今更になって図書室に戻った所で何も変わらない。既に半分の距離まで来てしまっているのだ。後に引くという後ろ向きな選択肢を選ぶような事は美鶴には出来なかった

『大丈夫? 弟君……』

 美鶴の変化に気が付いたのか薫が心配気に尋ねて来る。

 しかし、そんな言葉に返答するような余裕もない美鶴はただ黙々と目的地に向かって進む。

 足を止めれば、竦んでしまい動けなくなってしまう。

 窓の向こうからは何度も扉を蹴りつけて叫んでいる那月の姿が見えてくる。

 いつ、美鶴のやろうとしている事に那月が気付いてもおかしくない状況。

 その中で急ぎ足になりそうになる感情を必死で落ち着けながらも、速度を落とし過ぎないように心がけ、なんとか目的の場所である場所まで辿り着く。

 しかし、ここまで来て更なる問題に直面した。

 ロープを結ぶパイプが予想以上に細すぎるのだ。人間の全体重をかければ、折れてしまってもおかしくないと思えるほどの細さ。だが、ここまで来た以上、他に選択肢はない。

 そのパイプになんとかロープを結び付けようとするのだが、焦りからかなかなか結ぶ事が出来ない。手が滑り、結び目が解けてしまう。

 深く息を吸い込んで、激しい動悸を抑えるように心がける。

 チャンスは一度きり。それを逃せば、巻き返せない可能性も存在しているのだ。

 ロープをしっかりと結びつけると、そのロープが問題なく結び付けられているか強くひっぱり確認する。そして、いつでも切断用のナイフが取り出せることを確認し終えるともう一度、深く息を吸み、それを吐き出した。

 唾を飲み込み、覚悟を決める。

 美鶴はロープをしっかりと掴むとゆっくりと一階の窓へと向けて降下を始めた。

 その瞬間、上部から何やら嫌な音が聞こえてくる。しかし、目の前の事に必死な美鶴はその音が聞こえていたものの、全くその音について気を留める事はなかった。

 順調に二階を突破し、一階へと近付いて来る。

 窓を割る為にいつでもナイフを取り出せるように、片手でナイフの柄を確かめた。

 その時、ロープが大きく揺れる。その事に美鶴は上を見上げると固まってしまう。

 何故なら、ロープを結んでいたパイプが大きく歪んでいたのだ。つまり、いつパイプが折れて落ちてしまってもおかしくないという事を意味している。

 時間がない。その事に美鶴は降下する速度を速めそうになるのを必死に抑える。

「落ち着け……。これ以上、急いでパイプに負担をかけたら不味い……」

 自分に何度も言い聞かせながら一階の窓へと辿り着くと、ナイフの柄へ目を向ける。

 しかし、すぐにそれを使う事を辞めた。そこまで時間が残されていないからだ。

 それよりも、一気に蹴破り侵入した方が時間だけでなく、手間も省ける。大きな音が出てしまう事が難点だが、侵入する事を第一に考えるとそれが最良の手段だった。

 窓ガラスを力任せに蹴破ると同時にその中へと転がり込む。その瞬間、身体が宙に浮いた。

 パイプが折れてロープが外れてしまったのだ。

 光を乱反射し、輝くガラスと一緒に宙を舞い背中から床に衝突。頭を強く打ち付けてしまう。

 その衝撃に肺の中の空気がまるですべて出て失ってしまったかのように言葉が出て来ない。

『弟君、大丈夫!? 返事して! 弟君!』

 床に転がり、反応を示さない美鶴を心配した薫も思わず、大声で叫んだ。

 薫の隣で作業をしていた美香もその光景に言葉を失い、プログラムを組む作業の手を止めてその光景を心配そうに見つめてしまっている。

 美鶴の周りに飛び散ったガラスの破片がゆっくりと消滅していく。

 窓ガラスという役割を行えなくなった事により、仮想空間から排除されたのだ。もしも、現実だったならガラスが散らばる場所に美鶴が転がる事になり、血の海になっていただろう。

 けれども、ガラスがなくなったかと言って美鶴が壁に衝突した事実は変わらない。

 確かに仮想空間内での身体的ダメージは現実の身体へはフィードバックされない。しかし、それを受けたという事実を精神が認識してしまう為、身体が何らかの違和感を覚えてもおかしくない。

 どうなるかは分からないが、危険である事には変わりないのだ。

 そんな凍り付いた空気の中、美鶴は大きく咳き込みながらよろよろと立ち上がる。

「大丈夫ですよ。そんなに騒がないでもちゃんと聞こえてますから」

 何でもないように美鶴は薫達に対して笑いながらそう返事をして見せる。

 しかし、全く無事だったわけではなく、顔を顰めそうになるのを何とか堪えながら何度も背中を摩り、襲ってこない不気味な痛みに堪えるのだった。

 そして、それが落ち着くと頭を押さえ、壁に手を置いて身体を支えながらゆっくりと新聞部へと向けて歩き出すのだった。

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