第12話

 美鶴が目を覚ますと、どこまでも広大な白い世界が広がっていた。

 何一つとして、人工物は存在しない。純白の世界。地平線の先で天と地が繋がっているかのような錯覚まで見えてしまう。自分という存在のちっぽけさを感じさせられてしまう世界――。

 だが、そんな世界に何故か美鶴は懐かしさを覚えていた。

「なんだ? ここは……」

 仮想現実。その名称から美鶴はプログラム的な世界や、人工的な世界が広がると思っていただけに少しばかり拍子抜けしてしまう。

 しかし、どこまでも広大な世界だ。もしも、ここで試合を行うならばどれだけ歩かなければならないか分かったものではない。辺りを見回しても、見える位置に那月はいない。目印に出来るような物も存在しない為、自分の位置を確認しながら移動するのは不可能だ。

 最悪の状況を想像すればするほどに、美鶴は途方に暮れてしまうのだった。

『弟君。弟君? 聞こえていたら返事をして貰えますか?』

 どこからか聞こえてきた聞き覚えのある薫の声。その声に辺りを確認するが、どこにも薫の姿は確認出来ない。近くから声が聞こえるのに美鶴の目にはまったく薫の姿が映らないのだ。

「どこにいるんですか? 薫先輩……ふざけてないで出て来て下さいよ」

『あの……私、別階層から話しかけているだけなんだけどな』

 薫の言葉に美鶴の顔は一瞬で真っ赤に茹で上がる。そもそも、あの部屋にあった機器は一つだけではない。それに加え、そもそもの問題としてこれはある種のパフォーマンスの要素も内封しているのだ。室内でモニターと睨み合うよりも、ネットの中で作業をしている方が絵になる。

「もしかして、先輩方もネットの中にいるって事ですか?」

『そう。私は弟君とも美香達とも違う階層にいるみたい。美香が「フォルダーが違う」って言えば、分かり易いって言っているけど、これで理解出来たかな?』

 よくよく考えてみればすぐに分かる事だ。

 オペレーターが内部と外部を繋ぐ役割であるということは、ダイヴである美鶴とハッカー及びクラッカーである美香達が直接的な意志の伝達をすることは不可能という事である。つまり、要求は必ずオペレーターを通して行うという事だ。

 そうでなければオペレーターなどという役割は不要になる。恐らくオペレーターというのは、企画者と開発者の繋ぎをするような豊富な知識と高いコミュニケーション力を問う為に設置されているのだろう。

 この役割と形式。大衆への見世物として特に目立つのはダイヴだが、実際に主役であるのはハッカーで、しかし企業に一番注目されるのはオペレーターなのかもしれない。

「それで、この世界が試合会場ですか? その割には何もない世界なんですけど……」

 何の脈略もなく話を変える美鶴に薫は思わず苦笑いを浮かべてしまった。だが、その事に触れればまた面倒な事になってしまうと考え、何もなかったかのように質問に答える。

『違うと思う。――そこはポータルと呼ばれるいわば、会場と肉体との中継点。仮想空間内で何らかの事故が発生した場合、強制的に肉体へ戻すと脳が混乱してしまうらしくて……。それを最小限に抑える為の防護システムであると同時に、強制ログアウトの際に送られる一次隔離場所の意味合いもあるみたい? 多分、保険って事じゃないかな?』

 すらすらと解説する薫の声に違和感を覚えるが、すぐにそれが解説書でも読みながら話しているのだろうと察すると美鶴は小さく相槌を打つ。そして、無闇に質問を返すような真似はせず、静かにその解説に耳を傾けた。

 美鶴と同じく本人が大まかな理解しかしていないのだ。その為、薫は解説書の必要部分では無く、全体を読んでしまっている。だから、漠然としたシステムとしての全容しか掴む事が出来ないのだ。ただ、ぼんやりとではあるが、美鶴にも脳の機能関係で押え込む役割なのだろうと理解する。

 いくら、脳波を用いた肉体の仮想投影技術(デジタイズ)とは言え、仮想空間内には三次元空間である地球の物理法則が適応されているのだ。

 つまり、その物理法則が成り立つ以上、何らかの負荷が電子体に起じた場合に何が起こるか分からない。例えば、ブラシボー効果により、現実の肉体へ脳がフィードバックする可能性も存在しているのだ。実際には確認されていないにしろ、それに対し何一つとして対策を講じない訳にはいかない。そういう高度な政治交渉的役割もあるのだろう。

「大体、掴めたんでもう説明はいいです。――それで、試合会場はどのような場所なんですか?」

 この場所が試合会場でないのならば、どのような地理であるか理解しておかなければならない。

 試合開始と同時に戦略を練るのではなく、与えられている多くの情報から既にある程度の道筋を定めておかなければ、元々が対等ではない以上、不利な局面から始まる事になる。

 那月達は何度も経験しているという美鶴が持ちえていない利点があるのだ。もしも、開始直後に奇襲に動かれてしまえば、確実に動けなくなってしまうだろう。

 薫は美鶴の言葉に資料の山を崩す為なのか、少し黙り込む。

『試合内容は開始時に与えられたヒントを基に探索する宝探しみたい。それから、多分これが一番重要だと思うのだけど、舞台は私達が通う学校の図面を基に創られた仮想世界。――ただ、油断しないでね。……何か、裏があると思うから』

 現実の学校をただ創り出して会場として利用する。それでは少しばかり不自然――何かしらの仕掛けを用意していない筈がない。それが薫の直感だった。

 私ならば、何か大量の仕掛けを用意する。――例えば、部屋割りを変える事や扉の位置をずらすなどの先入観と視覚を利用した些細なトリックだ。薫の第六感がある体験談を基にそう囁いていたのだが、その事は美鶴には伝わらない。

 何故なら、美鶴が今必要としているのは会場の情報。それ以外の事に頭を回す余裕はまったくと言っていい程、持ち合わせてはいないのだ。だからこそ、忠告は美鶴の耳には届かなかった。

「そんな事はどうでもいいんです。そんな事よりも、俺が知りたいのは会場の地形。那月を避けながら動くには開始と同時に動かないといけない事を理解しているんですか?」

 端的な要求だが、理には適っている。ただ、それだけに薫は不安を抱くのだった。

 どんなに相手を躱しても必ず那月と最低一回は戦闘をしなければならない。そして、美鶴にとっての敵は那月だけではなく、彼女の後ろにいる相良達もだからだ。

 あまり、視野が那月にばかり行くのはよろしくない。それと同時に、正攻法で戦おうとすれば確実に地の利がある那月の機動力に負ける。それを理解しているだけに薫は顔を顰める。

『弟君、解ってるとは思うんだけど……一応、聞いて欲しい事があるの。私達は正攻法で挑んでも勝率は0に限りなく近い。勝てないの。石橋を叩いて渡るような余裕を持ち合わせていないって事を理解、してるよね?』

 焦りのようなモノを感じた薫は美鶴に冷静になって貰う為に忠告を入れる。だが、それは薫の杞憂。何故なら、美鶴の方が薫よりも那月との付き合いは長いのだから――。

「分かってる。アイツは、那月は確実に正攻法――ヒント通りに来る筈だ。それに、先輩の気にしているであろう地形の変化の可能性については理解しています」

 そう告げると、美鶴は一拍開けてこう続けた。

「けど、それじゃ勝てない。極力鉢合わせない為、邪道を通しヒントをすっ飛ばして進まなければならない。その為には分かりますよね?」

 最初のヒントが指示する通りに場所へ向わなければ、試合には勝てない。だが、そのヒント通りに進めば、真正面から那月と衝突する事となる。だからこそ、美鶴には相手の行動を予測するだけではない。ヒントを更に深読みしその先を導き出す事が必要なのだ。

 確かに一歩間違えれば、取り返しのつかない事態を招きかねない。しかし、上手く進める事が出来れば、相手よりも有利な位置で勝負の主導権を握る事が出来る。

 本来ならば、このような分の悪い賭けに出る事自体が愚の骨頂。だが、元々が勝負になるかどうかが怪しく見える程に力量の差がはっきりしている。それ故に、使える手なのだ。

 一発逆転。だが、初手の時点からその方法をアドバイスするつもりはなかった為、ここは諌めるべきか薫は頭を悩ませる。初めから先を読むなど、未来視でもなければ不可能だからだ。

 だが、この試合に本当の意味で戦いを挑むのは美鶴。その本人が自信を持って、それを行うと言ったのだ。薫にそれを止める理由は何もない。

 後はなるように美鶴を最大限、サポートする事によって勝利へと導くだけだ。

『分かった。弟君の言っている事も根本的には何も間違ってないと思う。けど、あまりに無謀な賭けに出ないようにとだけ忠告しておきます。無謀と邪道の意味は全然違うから――』

「はいはい。分かってます。ただ、ある程度の無茶は覚悟しとかないと、勝てないでしょう」

 薫は美鶴の言葉に苦笑いを浮かべてしまう。美香と同じ顔をよくするからだ。そして、その顔をしている時は決まって、引かないのだ。それは美香の長所でもあり、短所でもある。

『本当に大丈夫なんでしょうか……少し、不安です』

 美鶴は薫にそのような心配をされている余所で最初の一手について考えていた。

 那月は必ず、理詰めで物事を進めてくる。それが分かっているからこそ、行動予測はし易いからだ。問題があるとすれば、VWNシステム内で使用する事になるデータ入力ツール――デバイスを構成出来ていないという点。

 アイリスの話では、デバイスを形にして構成するには最低十三時間以上、ネットに潜り、自分に最も適した形のプログラムツールを固定化する必要がある。つまり、今の美鶴と那月の間にはそれだけの絶対的な差が存在している事になる。

 ただ、ここでこれ以上、このことに考えてもどうしようもならない事だ。

 それに、美鶴はアイリスに忠告されている。

 ――もしかしたら、デバイスの構成は不可能かもしれないと、

『弟君、聞いてる……? 出来る限り、お互いに頑張ろうって言ったん筈なんだけど……』

 薫の言葉に現実へと戻ってきた美鶴は何か言葉を返そうとする。だが、目の前が突然、真っ白な光に包まれ、再び世界は漆黒の闇へと落ちるのだった。


 再び目を開けると、最初に瞳に映ったのは見慣れた校門だった。

 いつも、通学の為に利用している正真正銘の学校の校門――だが、そんな見慣れた光景が何故か、美鶴に懐かしさを覚えさせた。見知った場所であるという以上に……。

 門の奥に見える校舎は見間違える筈がない。いつも授業を受けている場所だ。

 仮想空間である事を忘れてしまうような光景。だが、そんな光景。風が運んでくる匂いには目をくれず、美鶴は適当に近場から地面の砂を掴むとそれを宙に投げた。

 投げられた砂は当然、風に流されゆっくり舞い落ちて行く。と、思いきやただ重力に従い……。

『あのー弟君、本当に大丈夫ですか? この光景を見て言葉をあげる訳でもなく、いきなり何をしているのかよく分からないんだけど? 砂なんか投げたりして……。もしかして、風があると思った? これ、練習用の試供品だからいくつかの要素を排除して運用効率を上げてるみたい』

 薫の目から見れば、今の美鶴の行動には疑問点が浮んだ。

 この仮想世界に入った時点で驚きの声を上げるのでもなく、ただ冷静なのだ。冷静にこの仮想空間に対しての認識を修正しようとしている。確かに、言葉にすれば簡単だ。

 だが、目の前の現実に対する驚愕を無視してそれを本当に行えるだろうか?

 美鶴が砂を投げた事。それ自体にはあまり意味はない。別に転がっている石でも美鶴からすれば構わなかった。ハンカチのような布でも問題なかった。

 確かめようとしていたのは他でもない。この世界で最も重要となる要素。物理法則なのだから。

「薫先輩、この空間に適応されている物理法則は三次元――現実の物理法則と同じ筈ですよね? なら、そこに当て嵌めるプログラムもその物理演算に大きく影響を受ける。それで間違いはなかったですっけ?」

 もしも、物理演算のような空間に作用する要素がプログラムの根幹に影響を与えてしまうとすれば、僅かな誤差が命取りになる。

 求められるのは極めて線密な計算、完璧な構成。要求されるモノが高過ぎる以上、それを運営する人間の隙を突くという手も不可能ではない。いくら、那月がそういう精密な作業を得意としていたとしても、精神的動揺は一瞬で精密さを瓦解させるからだ。

 美鶴の考えに薫は少しばかり、沈黙する。それはまず、前提として那月のデバイスが何であるかを掴んだ上での作戦だからだ。時期早々過ぎる。

 もしも、薫の予測する最悪の事態。那月のデバイスがその精密な操作を必要としないタイプだった場合、それを逆手に取られてしまいかねない危険性があるのだが。

『そうよ。けど、ここは私の指示に従って貰えない? 那月って子のデバイスの情報が全くない以上、その行動は無謀すぎる。無茶よ。デバイスの能力次第では勝ち目が無くなる』

 薫としての作戦はまず、那月のデバイスの情報と行動パターンを入手し、後半に仕掛けるというものだった。ただ、問題は那月のデバイスの能力を知るには、最低限としてぶつかっても一時的撤退を行えなければならないという事だ。

 しかし、それが美鶴には極めて難しい事である以上、美鶴にどういった行動を指示すべきか。

 薫の中で最初の一手がなかなか決まらない。この一手が大きく今後を左右するからだ。

 そんな薫を余所に美鶴は目を閉じ深く息を吸い込み、精神を落ち着ける。

「あんまり考え過ぎるのもどうかと思いますよ。今は状況に臨機応変に対応する以外に道はないでしょう? それに、俺にも俺の考えがありますから」

 美鶴がそう薫に告げると同時に、試合開始の合図である学校のチャイムが辺りに鳴り響く。それと同時に、一枚の写真が美鶴の目の前に出現した。

 当然、美鶴はその写真を手に取ると即座に確認する。だが、焦点がぶれているのかピンボケしている為、一体この写真が何を写した物なのか判断する事は難しい。

 唯一、分かる事があるとすれば人ではなく、風景写真であろうと言う事くらいだ。

「初っ端からこれかよ……。ピンボケし過ぎて何が写ってるか全く分からないぞ……」

『多分、それを画像処理するのが最初の問題なんじゃないかな。――弟君が出来ればいいけど、無理そうだから美香の方に処理を回していいかな?』

 最初のヒントの段階である程度の技術を必要とされる。その事実に今後の事を考えると、美鶴は頭が痛くなるが今はそんな事を言っている暇はない。少しでも前に進むしかない。

 写真が解析し終わるまでこの地点に踏み止まるのは時間の無駄だ。ヒントは風景。――考えられる選択肢は校庭か、校舎の二択。

 しかし、問題は那月のスタート地点だ。美鶴のスタート地点が校門だった事から推測すれば、対角線上の位置である可能性が極めて高い。候補地としては裏門だ。

『那月って子の位置は恐らく、対角線上にある裏門。それから、さっきの風景写真を私の方でも見て気が付いたんだけど、ある程度は高い位置だと思う』

「同感です。なら、このまま校舎に入って探索を開始した方が良さ気ですね」

 高い位置という事は一階の探索を省くべきだろうが、ヒントとしてあまりに単純過ぎて少しばかり美鶴の中で何かが引っかかっていた。

 校舎は三階建て……それだけの部屋を総当たりすれば何事もなく、終わってしまう。そんなモノをヒントとして出すのは試合の主催者から見れば、おかしい。

 薫も美鶴と同様の事を考えていた。

 だが、推測している事に確信が持てない以上、何も言わない。

『相手も此方の位置を読んでないとおかしい筈。だから、危ない橋を渡る事になるだろうけど、まずは校舎に入らないと話が始まらないから……。気を付けてね』

「分かってますよ。それで、どのルートを使います?」

 校舎への侵入ルートは三つだけしか存在しない。遭遇率は三分の一。

 まず、正面玄関を使う最短ルートであり、二階へと上がる階段に最も遠いルートだ。ここから向かえば、最短。その事から最も罠を仕掛けられている確率が高いルートだ。

 そして、学生用玄関を用いる迂回ルート。時間はかかるが、罠が仕掛けられていたとしても手薄である可能性が高く、それなりに安全なルートだ。

 最後に教職員用玄関を利用するルート。ここには絶対に罠を仕掛けられていない自信が薫にはあった。だが、その代わりといて裏門から近い為、那月との遭遇確率が非常に高くなっている。

 どれをとっても、それなりのリスクを背負わなければならない。

 問題は相手の裏を突くという事。薫が相手ならば、相良ならばどのような一手を仕掛けているか。それに加え、那月の行動予測――非常に難しい。

 第三のルートを排除すると、残るは迂回路か直進。

『弟君。罠は一つ。恐らく、職員用には仕掛けられていないみたい。罠の容量から判断して、比較的に厄介な罠が存在している筈。だから、私としては――』

「正面玄関を使いましょう。向こうは階段を上りたがってると思ってる筈です」

 薫の選択は美鶴の答えとは違っていた。

 もしも、相良が美鶴の事を侮っていたとすれば薫と同じ選択肢を選んだ。けれども、相良は美鶴の事を敵として認めた。だからこそ、正面玄関では無く、確実に来ると思われる学生用玄関に罠を仕掛けていると判断したのだった。

 最短では無く、階段への距離を最も重視して――。

『なるほど、確かにそうかもしれない。なら、最短で一気に校内に侵入すれば、罠が完成する前に突破出来るかも。弟君の言う策で行きましょう』

 確実性を重視すれば、両方に罠を仕掛けるのが一般的。そして、片方が完成している今、刻一刻ともう一方のルートにも罠が敷かれようとしている筈だ。つまり、これは時間との勝負。

 迷っているような時間はどこにも存在していなかった。

 校門から正面玄関までの距離は目測でも約百五十メートル。その距離を全力で走ったとして、二十秒弱。一気に駆け抜けてギリギリ、美香のプログラム構成速度を超過するレベルだ。

 だが、読みは的中した。

 全力疾走し、教員用玄関から校舎へ侵入。肩で息をするものの全く罠らしいものは存在しなかった。つまり、成功。美鶴は相良との駆け引きにまずは一勝したのだ。

「大丈夫だったでしょう? 恐らく、学生用玄関の方は厳重だったという事ですよね」

『それはそうだけど……。これから少し、読み合いが厳しくなるわね』

 薫としては学生用玄関を選んだ理由の一つにまだ、油断していると装っておきたかったという事もあったのだ。攻勢に移る一瞬、その時をピンポイントで突きたかったのだが、最終的には美鶴に乗ったのだ。薫には何もその事に対して言う権利はない。

 今回の行動で相良達は更に策を張り巡らせる筈だ。

 ただ、これからは選べる選択肢が極端に増える。それだけ、読み合いが難しくなるという事でもあるのだ。つまり、相手に中途半端な時期では無く、最初の時点でその迷いが生まれたという事は最大の効果は期待出来なくとも、一定の効果は期待出来るのだ。

 薫はその事を踏まえ、校舎内に侵入した事で新たに公開された一階の地図を眺めながら今後の展開を頭の中でシュミレーションする。

「確かに、そうかも知れませんね。少し、でしゃばり過ぎたかもしれません」

『そうでもないから安心して。貴方が心理戦に長けている事を知れただけでも、今後の策を練り易くなる。それに、先見で貴方にアドバイスする事が私の仕事だから私のミスよ』

 あくまでも試合を進めるのは美鶴。状況分析に徹するのが薫だ。

 今後を見据えて動かなければならない状況で、薫の指示を仰げない場面も出て来るかもしれない。どちらにしろ、全ての選択への責任は美鶴に降りかかるのである。

 そして、最善の手の選択の結果を美鶴はすぐさま思い知るのだった。

『ちょっと、待って? やられた! 急いでその廊下から離脱して!』

 どのようなトラップかまでは薫には判別出来ない。だが、気が付いた時には既に美鶴は罠の張られた廊下へと足を踏み入れてしまっていた。

「遅かったみたいですね。予想より、方針転換が早過ぎる……」

 美鶴としては息を落ち着ける程度の余裕があると踏んでいたのだが、そんな猶予は最初から存在していなかった。どのような手を使ったのかは知らないが、たった一瞬でこの場に罠を仕掛け直した。それなりに臨機応変な対応を行えるという事だ。

 しかし、今はそんな事に感心している暇はない。

 目の前に広がる長く伸びたどこまでも続く廊下をどうやって攻略するか。それが第一の問題なのだ。

 空間を改編出来ないと言う前提条件がある以上、感覚を一時的に混乱させているのだろう。しかし、美鶴からは混乱させられているのが五感の内、どの感覚なのか見当が付かない。

『解除するのに、どの系統のトラップか分かる? こっちのモニターには容量以外の情報が表示されないから美香に回しようがないのよ……』

「視覚は確実。聴覚が判定不可。ただ、ハッキリと分かるのはどこまでも廊下が長く伸びている事だけです。無限回廊っていうやつですかね? 前に進もうとはしているんですが……」

 薫のモニターでは美鶴が全く前に進んでいるように見えないのだ。だが、美鶴は前に進もうとしていると言う矛盾点が存在している。

 美鶴が嘘を知っているとは薫は到底思えない。有り得るとすれば視覚では無く、身体の感覚器全てを調整して誤認識させているという事だ。

「廊下が前に進んでも端に辿り着けない。扉に手を伸ばそうにも手が届かない。すいません、これ以上の情報は分かりかねます」

 薫にもう一度、詳しい状況を伝える中で一つの事実に気が付いた。

 声の反響自体に変化がないのだ。廊下の長さは固定値であると仮定すれば、――自身の歩幅の減少値を逆算する事は不可能ではない。

 そして、これが廊下に張られたトラップであるならば、ここを抜けてしまえば効果はない。

「薫先輩――念の為に聞いておきますが、他にトラップは存在していますか?」

『いきなり、どうしたの? 一応、それ以外は美香が潰し合っているみたい。何度も、出来ては消えてを繰り返しているみたいだけど……』

「なら、このトラップは俺の方で突破して見ます」

 一番不味かったのは廊下を抜けた先に新たなトラップが仕掛けられていた場合だ。だが、それが存在しなければ、脱出はさほど難しい事ではない。ただ、歩けばいいだけなのだ。

 最善手は美香が解除し、安全地帯を行く事なのは美鶴も理解している。

 しかし、そらは相良達に他の罠を張る猶予を与える事を意味しているのだ。美香に写真の解析という本来ならば美鶴が行わなければならない事を押し付けた結果がコレだと言うのならば、これ以上は負担をかける訳にはいかない。

『でも、美香に頼んだ方が確実な筈だと思うのだけど、本当に大丈夫?』

「大丈夫です。信じて下さい。この程度なら、問題ありませんから」

 美鶴は薫に対してそう断言すると、声の反響音からもう一度距離を逆算し、大きく足を踏み出した。そして、一気に廊下の端へと向けて走り出すのだった。

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