第6話


 誰もいなくなったマンションの廊下にこれ以上、いても仕方ない。

 美鶴はそう判断すると、電気の消えた玄関、暗い廊下を抜けてダイニングへと皿洗いをする為に向かった。雑務をしていれば、少しは気がまぎれると考えたからだ。

 水道を捻ると水が流れ始め、手を伝い排水溝へと向かって行く。

「それで、まだ何か用があるのか? お前は」

 美香のNPCであるアイリスが台所に備え付けられている電子モニターから顔を覗かせているのに気が付き、美鶴は少しばかり意外そうな顔を浮かべてしまった。

 確かにNPCである以上はネットの繋がる場所を自由に行き来する事が出来る。だが、美香の事を心配して一緒に帰ったと思っていた。美香が本当の意味で気を許せるのは美鶴を除けば、アイリスだけなのだから……。

 そんな美鶴の態度が気に喰わなかったらしく、アイリスは少し拗ねたのか美鶴を睨み付ける。

『何か邪魔ものみたいな言われようね……。まぁ、それはいいわ。それより、本当に美香の力になってあげないつもりなの?』

 アイリスの言葉に皿を洗っていた美鶴の手が止まった。

 持っていたスポンジが力抜けた手から零れ落ち、シンクを泡立たせる。

 部屋の中には水道から流れる水の音とそれを飲み込む排水溝の音だけが響き渡っていた。

 美鶴はその中でじっと、弱々しい手を見詰めていたかと思うと、力任せにシンクに叩き付けた。

 当然、手は真っ赤に腫れ上がる。熱を持った痛みだけが現実を告げていた。

「さっき美香に言ったのを聞いてなかったのかよ! ろくにプログラミングすら出来ない奴が、何をどう協力するんだ。足を引っ張るのが関の山だろ!」

 赤く晴れた手を水で冷やす。だが、痛みは冷えても熱くなった美鶴の頭は冷めない。

 それ程までに美鶴の触れられたくない部分にアイリスは触れてしまっていたのだ。美鶴も甘んじていた訳ではない。無理と、届かないと分かって――普通にすらなれなかった。

 それを他人に知られない為に気にしていないフリをする。自分の事すら笑ってみせる。

 ――美鶴のような出来損ないが生きていくにはそれが最善だと考えたからだ。それしかなかったからだ。選べる選択肢など在りはしなかった。

 悔しくない筈がなかった。辛かった。そんな自身が嫌いだった。だからこそ、美鶴は必死に抗おうとした。けれども、現実と言う壁は余りに大きく立ちはだかる。

 頬を小さな滴が零れ落ちる。その滴は静かにシンクを流れる水流に飲み込まれて消えた。

『そ、そんな事は一言も言っていないわよ! 私は貴方が美香の力になるつもりがあるのかって純粋に聞いただけ。それ以上の意味なんてないわ。だって、私にはどうしようもない問題だから……』

 美鶴はそのアイリスの言葉に何も言う事が出来なかった。

 生きている現実――世界の違い。近いようでとてつもなく遠い。

 アイリスから見ればこの世界は夜空の星に等しいのだろう。どんなに手を伸ばしても決して届かない。眺めている事しか出来ない。

 何故なら、ネット内からでは現実へ干渉する事は出来ないのだから……。

 そんな明確に存在する壁を曖昧にしてしまうのがVWNシステムだが、いくらその境界面が曖昧になったとしても、現実の問題にNPCであるアイリスが現実に干渉出来る訳ではない。

 アイリスの胸中に気が付くどころか、見当外れな思い違いをしてしまっていた事に美鶴は思わず反吐が出てしまう。結局、自分の事しか考えず、悩みを押し付けてしまっていたのだ。

「悪い……さっきは自分の事しか考えてなかった……」

『こっちこそ、少し感情的になり過ぎてた。貴方のこれまでの事を考えたらそう言いたくなるのも当然よね……。けど、私は美鶴なら美香の力になれると思うの。だって、プログラムの仕方も何もかもがこれまでとは違う。嫌味に聞こえるかも知れないけど、もしかしたら美鶴のどんなプログラムも壊してしまうと言う欠点も才能として認められるかもしれない』

 真直ぐと自身を見据え、そう断言して見せるアイリスの様子に美鶴は溜息を吐かずにはいられなかった。本気で言っているのだ。美鶴ならば力になる事が出来ると、

「本当に嫌味にしか聞こえないんだがな。……まぁ、その件は放置するとして、何があったんだ? さっきの姉貴の話だけだと、何かがしっくりこないんだよ。まだ、何かを姉貴が隠してるんじゃないか? 話していない何かが。――どう考えても単純な仲違いだけとは思えないからな」

 アイリスの言いたい事は美鶴も理解した。だが、美鶴にも色々とある。それだけにこれ以上、こんな平行線を行く話をしていても仕方がないと判断すると話題を切り替えた。

 結果から派生した新たな目的ではなく、何故こんな事になったのかと言う過程についての話だ。

 だが、アイリスは話をする事を渋ってしまう。美香が話すのを躊躇った事なのだ。美香のNPCである以上は当然の迷いだろう。しかし、何かを決心したのかアイリスは画面の中で小さく頷いてどこか嬉しそうに微笑んだ。

『えぇ、本当に鋭いわね。……それで、どこから語ればいいのか分からないんだけど――そうね。一年から一人、EWC大会参加チームに登録されたのは知っているかしら?』

 アイリスの言葉に美鶴は小さく頷いた。

 那月の事だ。だが、まさか那月がこの件に関わっているとは美鶴は考えてもいなかった。ただ、よく考えれば一年で大抜擢されるならば誰かの推薦があってもおかしくはない。

 そして、この流れだ。推薦した人間は恐らく一人しかいない。美香だ。

 しかし、那月の実力は美鶴から見ても一年の中で群を抜いており、それは周知の事実だ。実力も申し分なく、何か人材として問題があるとは思えなかった。

 だからこそ、美鶴も思わず首を傾げてしまう。何が問題なのか分からないだけに。

「岩倉那月だろ? よく絡んで来るから知ってるが、一年の中では相当優秀な成長株。実力的に考えても何も問題ないだろ? 姉貴が卒業した後の事も考えれば必要な事な筈だ」

 現在の主力メンバーは三年で構成されている。だからこそ、次の世代という物を必要になってくる。それを考えれば、十分にこの抜擢には妥当性のあるものなのだ。

 しかし、アイリスは首を立てには振らず、小さく溜息を吐いた。

『確かに言っている事は何も間違ってないわ。だって、美香も太鼓判を押すほどだもの。けれど、問題はそこじゃないのよ。――元から在籍していたメンバーは快く思わなかったの。まぁ、美香が半分独断の形で引き入れたっていうのが大きいから……』

「つまり、改善策のつもりで行なった事がメンバーとの間にある溝をかえって深くしたって事か」

 何となくだが全容が掴め始めた美鶴は思った以上の面倒な状況に唖然としてしまう。

 恐らく、美香としては新たな風を入れる事で団体戦の敗因である総合力の改善を図ろうとしたのだろうが、優秀な一年を選んで入れた事が返って仇となったということだ。

 この手の部活ではレギュラー争いは激しい。だが、優秀ならば一年からもメンバーに選ばれる事は有り得ない事ではない。十分にあり得る事だ。

 問題は国内予選で惨敗した公立高校以外は圧勝している事だろう。

 プライドやしがらみのような下らないモノが原因……どこにでもある現実と美鶴は結論付けた。互いの認識の差異。それ以外には考えられない。

 だが、アイリスはまだ首を縦に振らない。ただ、静かに俯いていた。

『確かにそうだけど、勘違いしないで。それはキッカケに過ぎないから……。ただ、美香とチーム全体の関係に亀裂が入るのには十分過ぎた』

 亀裂――それは、団体戦を戦い抜く中で最も危険な要因だ。だからこその出場辞退。自分が抜ける事によってチームのまとまりだけは守ろうとした結果という事になる。

 そこへ、学校側の不用意な介入が事態をややこしい状況へと持って行ってしまったのだろう。

 ただ、美鶴がどうしても理解出来ないのは美香がこんな馬鹿げた勝負に何の勝機も見えない状況下で乗った理由だ。いつもの美香ならもっと上手い手を考えて行動する筈なのだ。

 美鶴はその事だけが信じられなかった。しかし、何故か嫌な予感がする。

『色々と事情があって今大会に限り個人戦が廃止されたの。つまり、団体戦のみ。だから、連携こそ重要になってくる。美香は気が付いて欲しかったの――自身の自惚れに』

 そこで、アイリスは一度、言葉を切ると一呼吸置きこう続けた。

『その一環で一年を入れたのは良いけど、逆に内情を混乱させて亀裂を生んだ。連携すら取れないチームになってしまって……。そんな時、貴方の事をバカにされたの』

「馬鹿だろ……俺は何を言われようが全く気にしてないのに」

 結局、最後は白浜美鶴という自身の存在が足を引っ張り、引き鉄を引かせていた。その事実に呆れ果てると同時に思わず、笑ってしまう。

 そんな下らない事で全てを棒に振ろうとしている美香。何故、美香がそこまでするのか分からないが、美鶴は自分自身にそこまでの価値を見出すことは出来なかった。

 ただ、自虐的な笑みを浮かべ、言葉もなく項垂れる。それが今の現実だ。

 美鶴は無言で皿洗いを再開し、それを手早く終えると電子レンジに牛乳をいれた陶器のコップを二つ投入する。美鶴の物と来客用のコップだ。

 そして、温めが終了した事をレンジが告げると、美鶴は手早く片方のコップにココアパウダーを溶かし、ホットミルクとホットココアを作り上げた。その二つのコップをトレイに乗せると、メープルシロップ、ココアパウダー、ラム酒を持ち、夕食を食べたダイニングの机へ腰を下ろす。

「お前はホットミルクとココアどっちがいい?」

『あの、私は飲めないんだけど……』

 台所の電子モニターから美鶴のPDAの電子モニターに乗り換えたアイリスは自身の前に置かれたホットミルクに戸惑いを隠せない。ホットミルクもココアも現実の物質。仮想世界の物質ではない以上、それをアイリスが手に取ることは出来ないからだ。

 それに加え、夕食時に美香と美鶴の間を取り持つ為に食べたいなどと発言しているものの、NPCに食事の概念はない。飲食というモノが存在しないのだ。

 そんなアイリスの戸惑い様を眺めながら、美鶴は喉を潤す為にココアを一口含む。

「気分だけでも味わえるだろ。アイリスはお客様。客と話をする時にお茶を出すのは常識だろ。それがNPCであっても例外ではない。――まぁ、流石にお菓子はないから出せないけどな」

『――――そうね。なら、このままでいいわ。このままで、何も加えない自然な状態で』

 お客様にお茶を出すのは礼儀だ。だが、NPCは物。道具なのだ。道具にお茶とお菓子を出すなど聞いた事がない。そのおかしさにアイリスは笑いを堪えるのに必死だった。

 だが、こういう道具でしかない自身すらも人間扱いする美香と美鶴が姉弟なんだなとアイリスは心の底から実感する。そして、自分がとても恵まれた環境にいるということも――。

『本当にそっくりね……。そういう所、美香に』

「どこら辺がだよ……。あの姉貴に似てるとか言われても全く嬉しくないんだが……」

 美香なら目を輝かせて喜ぶ場面を美鶴は至極嫌そうな正反対の反応。だが、そのやり取りが心の底からの物ではない事をアイリスは知っている。だからこそ、苦笑いを浮かべてしまった。

 そんなアイリスの様子を眺めながら、美鶴は再びココアに口を付ける。

『まぁ、話を戻しましょう。それがキッカケで大喧嘩になって売り言葉に買い言葉で三日後に試合の流れになったの……。今にして思えば、美香もハメられたのかもしれない』

 学校での美香は他人を見下す事を酷く嫌う人間だ。そこでわざわざ弟である美鶴を出せば、確実に喰い付いて来る事は容易に想像が付く。例え、重度のブラコンを知らなくてもだ。

 しかし、三日という時間。確かに長いようにも見えるが、試合の準備を考えるとあまりに急な入れようだ。試合監督、準備会場、その他諸々を用意するには一週間時間があってもギリギリの筈。これではまるで、最初から用意されていたと言っているような物ではないか。

 だとすれば、既に裏で工作が行われており、美香への妨害の根回しが済んでいても別段、不思議な事ではない。つまり、学校側も敵に回してしまっているという事だろう。

 美鶴はこの状況に言葉も出ない。こんな状況で三日という時間は余りに足らな過ぎるからだ。

 そもそも、試合そのものが公平に行われるかも分かったものではない。不利すぎる。

「姉貴もアレだな。……もっと、言葉で示せばいいのに本当に行動ばかりで示して言葉にしないからな。言葉にしなくても伝わると、それが当然だと思っている節があるし……。でも、言わないと伝わらない事もあるだろうに」

 昔からの美香の悪い癖だ。

 美鶴としては確かにその美香の姿勢を否定する事は出来ないが、流石にこうなってしまうと協調性の無いという部分が際立ってしまっている。自分に出来る事は相手も出来る。言葉を交わさず、意思疎通を図ろうとする。どこか走り続けている印象すら受けてしまう。

「実力を見抜く目はあるんだから、精神面も見るようにすればいいのにそれをしないっていうのが、確かに姉貴らしいのかもしれないな……」

 美鶴の辛辣な皮肉にアイリスも若干呆れながらも、静かに首を縦に振った。

 前を向き過ぎて背後を見ない。周りが追い付いて来れていない事に気が付けていない……。見ているモノが違い過ぎる結果――その差が美香を孤立させているのは疑いようがなかった。

 今回の事態は話し合おうとした結果なのか、話し合わなかった結果なのか。

 美鶴に会いに来たのも、そういった様々な事情が重なっての危機的状況の意味合いもあったのだろうとアイリスは考えていた。何せ、美香に友達と呼べる人間はあまりに少ないのだから。

『貴方達って本当に互いの事を知っているというか、理解しているわね。……まぁ、分かってると思うけど、学校も絡んでるから余計にややこしくなって引くに引けなくなってるの』

 学校が生徒同士の対立。部活内での抗争に首を突っ込んで来たのか。

 答えは一つしかない。その答えに美鶴は今回の件の裏にあるもう一方の問題に至極面倒臭いと思わずにはいられなかった。大きな問題が重なり過ぎている。

 確かにこのご時世、教育を選ぶ権利の事もあり、生徒数獲得競争が激しくなっている。

 その為、公立より学費の高い私立は学校の特徴的な教育方針やブランド力の強化をしなければならないのが現状なのだ。特色を持つ事により、公立の安い学費よりも魅力的な要素を作るという意味合いでその行いは極めて重要になっている。

 だが、最近では公立も特色強化を強めている為、私立も並大抵の特色では対抗できなくなっている。だからこそ、VWCの優勝経歴のような他者に無い強みが必要なのだ。

 その看板要素として、前VWC世界大会個人戦優勝者である白浜美香の名前も大々的に利用されていない筈がなかった。

『ほら、学校側も外部からの支援を受けているでしょう? 設備投資、資金提供っていう様々な形で企業から優秀な生徒を育成するという意味合いで……。その手前、結果を残さないとならないから――白浜美香に抜けられては困るってわけよ。……人間って大変よね。面倒なしがらみに雁字搦めに囚われてさ……』

「それは姉貴レベルでの話だと思うぞ。あいつが特殊過ぎるだけだ。少なくとも、俺には関係の無い遠い世界の話だしな。だけど、根本的に腑に落ちない点があるんだが、生徒に対する情報統制と協力拒否の確約を良く行えたな。一年の方では殆んどデマって流れてるし――」

 行動を起こせば、必ず噂という形で流れて来る。それは一度流れ出すと、止める事は難しい。

 だが、それを完全にコントロールしているのだ。ただ、美鶴はどうしてもそこが引っかかっていた。

 何故、そこまでの事を行えているのかという点だ。

 美香が自身に声をかけるまで追い詰められているようには美鶴には思えない。

 そもそも、那月を代表するように美香を慕っている生徒は多数在籍している。数合わせならば、その生徒達に声をかければすぐにでも人数が集まる筈なのだ。

 だが、その答えは先程のアイリスの会話に上がっていた。

『そうよ。学校側も問題にしたくないからこちらへの行動を押え込んでるの。デマという形で処理したいから……。完全に妨害よ。それに、慕ってるからと言っても技術がある訳ではないし、試合となれば引いてしまう。良さ気な人材は先手を打たれて断られてばかりだし、なんとか二人を確保したのはいいけど、それ以上は難しいっていうのが現状みたいなの』

 時間が経てば経つほど、手回しが進み人数の確保は困難を極める。確かにやり方としては認められたものではないが、実にうまい方法だ。

 勝負をする事無く、事を終える事が出来れば話もあまり拡がらない。火消作業も楽に済む事を考えれば妥当な方法と言えるだろう。

「向こう側は勝負すらさせないつもりなんだろうな……。その方が、敗北の可能性を最大限に減らせるし、美香に味方がいない屈辱を味あわせられるだろうから……って、あの姉貴がその程度の屈辱を感じるとは到底思えないけどな」

 美香の性格からして、あの場を自分の力を伸ばす為の修練場と考えている節がある。だからこそ、一人になっても構わないと考えている事も有り得るのだ。

 だが、それは学校側が決して許さないだろうが……。

 後一年。卒業までは大人しくしておいて貰いたいというのが根幹としてある筈なのだ。

『確かに美香ならそんな気がするわね……私もそう思うわ。けど、問題はそこじゃないの。……厳しい条件。学校側も納得するにはこれしかなかったにしても少しばかりやり過ぎよ! 負けたら引き戻される上に、土下座して謝れなんて!』

 アイリスの言葉にやはり、美香が危惧しているのはチームに戻される事。そうなれば、これまで必死に美香が打った手が全て無駄になってしまう。それだけは避けたいのだろう。

 美鶴は少しばかり乾いた喉を潤す為に冷めてしまったココアを一口含んだ。

「それで、話を変えるようだが――もしも、その勝負が成立した場合、美香にはどの程度の勝率。分があるんだ? まぁ、当然勝率は厳しいんだろうが……」

 美鶴の言葉にアイリスは視線を逸らすと、難しげな顔をする。

 そのアイリスの様子だけで、美香が極めて不利である事は美鶴にも伝わって来た。

『前提条件である人数確保が出来れば……時の運ってところなのかな? 大体、三割強くらいは勝てる可能性が残っていると思う』

 美鶴はアイリスの様子からその数字が甘く見積もって出している事を察した。

 NPCは人工知能だ。運のような要素の計算はしない。つまり、濁さなければならないほどに難しいという事を意味している。

 相手は学生とは言え、ハッカーの卵と雛。ド素人などが手も足も出る筈がない。しかも、EWCに出場出来るだけの腕を持った人間だ。相手になるなど普通なら有り得ない。

 結果は目に見えて明らかであり、赤子の手を捻るよりも容易く捻じ伏せられてしまうだろう。

 団体戦ともなれば能力の掛け算。一人のマイナスをくわえれば、いくら大きなプラスがあろうが全てがマイナスに傾いてしまう。

 美鶴はその事に薄々勘付くが一切、口には出さなかった。

「三割か……微妙な数字だな。――せめて、五割なら考えるが、七割となると結構な博打になるだろ。――姉貴の将来もかかっている事を考えれば勝負する確率じゃない」

『でも、0じゃない! 勝負は始まって見なければ分からない筈よ。どんなトラブルが起こるか分からない。それが勝負ってモノでしょう? 勝利の女神がほほ笑むのは最後まで諦めずに必死に抗った者だけの筈だもの!』

 だが、アイリスの言葉は理想論に過ぎない。

 確かに些細な事で大きく流れが変わる事があるのは事実である。けれども、それはあくまでも運が左右する場合だ。技術を競う勝負でそれを期待するのは難しい。

 ただ、NPCであるアイリスが理想論を語っているにも関わらず、人間である美鶴が先に諦める訳にはいかないだろう。

 確かに極めて分が悪いのは認める。しかし、そんな中でも美鶴にはこの勝負にはまだ付け入る隙がある。――そう確信めいた何かが頭の中を過ぎっていた。

「まぁ、確かにアイリスの言う事にも一理あるかもな……。そうだな。もしも、最後の一人が集まらなかったらかんがえてやるよ。さすがにそこまで聞いておいて、『俺は無関係だ!』なんて言うと。身勝手過ぎる気がするからな」

 アイリスは美鶴の言葉に先程までの暗い表情は露と消え、目を輝かせて喜び始める。

 そんなアイリスのあまりの喜びように恥ずかしくなった美鶴は照れ隠しに咳払いをすると、話題の内容をその勝負へと大きく一歩踏み込んだ。

「それで、勝負形式はなんなんだ? そう言えば」

 これまで理由ばかりでどのような事をするのかまでは全く話をしていないのだ。

 ハッカーとしての競い合い。しかも、団体戦となるのは間違いないが、その勝負形式によっては大きくやるべき事が変わってくるだけに重大な事だ。

 その問いにアイリスは一呼吸を置くと、あるファイルを画面内に展開した。

『VWNシステム――仮想現実を用いた模擬戦よ。それよりも、美香にちゃんと謝っておきなさいよ? 結構、気にしていたみたいだから』

「ンな事、言われなくても分かってるよ。明日にでも謝りに行くつもりだ」

 思わず、美鶴はアイリスの言葉に顔を真っ赤にして反論してしまう。

 だが、その裏では仮想現実――相手の土俵――での勝負という事実が美鶴の中で回り続け、嫌な予感を増幅させていた。

 仮想現実におけるプログラミング技術の根幹は現在のモノと同じだが、事実上発展形となっている為、現行利用されている物と比べると、遙かに難しい。

 現在のプログラミング技術を理解出来ていない美鶴にはとても厳しいものがある。

 その壁は今の美鶴に乗り越えるには少しばかり、難しい。時間が足らない。

 そんな美鶴を余所にアイリスは満足気に頷くと、自身のいるモニターの隣りに新たに別の電子モニターを開き、勝負形式を詳しく解説し始める。

『今回の試合は本来の形式と違い、四人一組のチームによる「探査」と呼ばれる系統の勝負になるわ。勝利条件は隠された「鍵(キー)」と呼ばれる情報体を相手より早く見つけ出して手に入れる事よ。役割は大きく分けて外部のプログラマーとクラッカーが“合計二人”、内部と外部を繋ぐオペレーターが一人。それから、内部から情報体を創作するダイヴが一人。これらが互いに協力して戦うチーム戦よ』

 チーム戦。ここまでは美鶴の予想通りだ。だが、問題はそこから先。これから関わろうとするモノのレベルの異常な高さだ。その予想外の形式に思わず耳を疑ってしまう。

 自身に外部のプログラマーは務まらない。内部に潜るダイヴも勤まる筈がない。

 自分の実力の幼さを良く知っているだけに、美鶴は恐る恐るアイリスにこう尋ねた。

「なぁ、ところで美香は俺に一体、何をさせるつもりだったんだ? 俺がやれるとすえばオペレーターが関の山だろう? じゃなけりゃ、足を引っ張る事になるだけだろうしな」

 美鶴の質問にアイリスはおもむろに目を逸らし、モニターの中で指を弾く。すると、何故かダイヴの説明が拡大されて提示された。

 それが意味している事は一つしかない。美香は美鶴をダイヴの要員と考えていたという事だ。

 それを理解した美鶴は半分、呆れ果てながらもその説明に目を通し始める。

 けれども、そこにかかれていたのは美鶴の技術では到底出来るような事では無く、目を疑いたくなるような説明の数々だった。美鶴はその内容の難しさに思わず、頭を抱えてしまう。

「おい……これってどう考えてもクラッキングの技術が必要だろ?」

 ただのプログラミングではない。相手の作り上げたプログラムを破壊、逆にトラップを仕掛けられるだけの技術が必要になってくるのだ。しかも、それは相手が相手になればなるほど、求められる技術の度合いも非常に高くなる。

 今の美鶴と比べると月とすっぽん以上の差だ。勝負にすらならない。一体、美香が何を考えてこんな所に自身を投入しようとしていたのか美鶴には到底、理解出来ず首を傾げてしまう。

 そんな美鶴に対し、アイリスは追い打ちをかけるようにこう付け足した。

『それだけじゃないわ。外部にいるクラッカーやプログラマーとの連携も必要ね』

「ちょっと、待ってくれ。まず、根底にある問題から行こう。アイリスはプログラミングすらまともに熟せない俺がクラッキングなんてとんでも技術を使えると思うか?」

『それは……その……』

 美鶴の言葉に返す言葉が見付からず、アイリスは思わず言葉を濁してしまう。

 そんなアイリスに対して、残念そうに美鶴は事実を突き付けるのだった。

「俺が参加すれば、確実に負ける要因になる。……お前なら解るだろ? アイリス」

 美鶴から参加の可能性を引き出した。

 だからこそ、アイリスはここで踏み止まり、なんとか説得を試みようとする。だが、言葉も見付からない。苦し紛れで美鶴の心に訴えかけるのが関の山だった。

『でも、美香は貴方の事を信頼してる。それは連携する上でとても大事な事だとは思わない? それについてはどう思う?』

 美香の目的が掛け算という事を思い知らせるという事ならば、それも間違ってはいないのかもしれない。だが、勝てなければ負け犬の遠吠えでしかない。耳には届かないだろう。

「信頼でどうにかなれば、苦労はしないと思うがな。……今から足掻いた所で敵う筈もない」

 美鶴から飛び出た言葉にアイリスは少しばかり意外そうな顔をした。

 完全には否定していないのだ。今から足掻く。つまり、最後まで諦めないで戦う意志があるという事。――まだ、美鶴ははっきり出ないとは断言していない。

 アイリスは何やら嬉しそうに美鶴の方へ画面を乗り出しそうになるほどに顔を近づける。

『へー。真面目に勉強しても力になるつもりなんだ。――そこまで、美香の事を心配しているのなら、もっと素直になればいいのに』

「おい、何を勘違いしているのかは分からないが、『力になる」ってさっき約束しちまっただろ。……こんな事になるなら、軽々しく協力するって約束するんじゃなかった」

 約束と言っても所詮は口約束。そこまでの拘束力はない。

 正式な契約と違うのだ。知らぬ存ぜぬではぐらかせば、いくらでも押し通せる。にも関わらず、律儀に守ろうとする姿にアイリスは思わず、笑みが漏れてしまう。

『律儀というかなんと言うか……。別に美香と直接約束した訳じゃないんだから。ここで逃げたとしても私は絶対に黙っているわよ? こう見えても口が堅い方なんだから!』

「ハマグリみたいにだろ……」

 胸を張って断言するアイリスに対して、美鶴は目を逸らしながら小さく呟いた。

 その言葉の意味を理解出来ないアイリスは説明の片手間にハマグリについてネット上で検索をかけ、その言葉の指し示す意味を理解すると顔を真っ赤にして怒りを露わにする。

『ちょっと! 誰がハマグリよ! 別に熱を与えても口を開けたりしないからね。ちゃんと、記憶からデータを削除して美香にも気が付かれないように処理するんだから!』

「はいはい。クラッキングか……座ってるだけじゃダメなのか? 人数合わせなら」

 怒りを露わにするアイリスの言葉を軽く受け流し、美鶴は提示されていた資料に目を通す。

 その様子に完全に無視されたアイリスは不貞腐れて口を尖らせてしまう。

『無視? ……って、座ってるだけなんて出来る訳じゃない! それが出来たのなら、美香だってここまで悩んだりしていないわよ!』

「なら、レベルコードを破って鍵を直接外部から転送って作戦はどうなんだ?」

 アイリスは美鶴の仮想世界に対する認識の無知さに声も出ない。

 本来ならば、情報科学を習う上で基礎中の基礎であるレベルコードすら知らないのだ。それを考えると、先行きの見えない不安しか抱けない。

『本当に何も知らないわね……こんなので大丈夫なのかしら? 簡単に言うとレベルコードって言うのは不正禁止の為の保護コードでその解読は未だに誰一人として成し得ていないの。毎分書き換わる上に規則性すら存在しないコードを解析するのは人間には不可能とすら言われている程なんだから! 美香ですら挑戦して半分も解析が進まなかったのに、いったい誰がそんなコードを解析するのよ!』

 唯一、勝てる可能性を否定された美鶴は普通に戦う以外には思い付かない。

 ただ、美鶴はこのアイリスの答えに安心していた。

 美香が成功していないのならば、この方法は相手側も使えない。勝負になれば、同じ土俵で戦わなければならないという事だ。少なくとも、インチキや贔屓はありえない。

 美鶴にとっての目下の問題はこうなると、やはり技術という事になる。

「はいはい……それよりも、そろそろ帰ったらどうだ? 俺も風呂入って寝るからさ」

『そこは「これから徹夜してでもクラッキングについて勉強しないとな」とかじゃないのね……。本当に大丈夫なの? ちょっと心配なんだけど』

 モニターの中で溜息を吐くアイリスを余所に空になったココアのコップを持つと流しへと向かう。

 そして、手早く水洗いを済ませると、水に濡れた手の水分をタオルでふき取る。

「そんな事で技術が向上するなら……苦労はしてないだろ……」

『そう……だったわね。……まぁ、何かあったら呼んで? 美香がいない時はネットの中をぶらついているから飛んで駆けつけるわよ。なんなら、私が教師をしてあげましょうか?』

 今は諦めてしまっているが、美鶴が人一倍努力していた事を知っているアイリスは自分の失言に気が付いた。美香と同じ、学校に入るのにも血が滲むような努力をした結果だ。

 だからこそ、レベルコードの事を知らない筈がない。その上、一朝一夕で簡単に技術力が伸びない事を一番よく知っているのが美鶴なのだ。

 そんな失言にアイリスは慌てて美鶴を励まそうと話を変えようするが、逆に美鶴に苦笑いを浮かべられてしまう。

「はいはい……。そう言えば、プログラムにプログラムを教わるっていう状況はなかなかにシュールだな……。それじゃ、そろそろお休み。姉貴にはこの事を言うなよ?」

『随分な返しね。そっちは分かってるわよ。愚痴を聞いて貰ったって誤魔化しておくから任せておいて! それと、これが適当に選んでおいた参考書だから読んでみて』

 アイリスはそう告げ、敬礼すると参考書の電子データの山という置き土産を残して美鶴のPDAから実家にあるのであろう美香のPDAへと帰ってしまう。

 一応、残された参考書データに軽く目を通そうとするのだが、英語で書かれている高度な技術書に美鶴は思わず顔を引き攣らせてしまう。

 美鶴はその事を振り払うように脱衣所へと向かうと、そこでようやく帰って来てからずっと、美香とアイリスの相手で風呂を沸かしていない事に気が付き、大きく落胆した。

「風呂を焚くのを忘れてた……時間も時間だし、仕方ないからシャワーで済ませるか……」

 シャワーを捻ると冷たい水が美鶴の身体目掛けて噴出される。

 美鶴へと落ちて来た水滴は肌を伝い、床へと流れると排水溝へとただ、吸い込まれていく。

 そんな水が噴出する音だけが響き渡る浴室で、美鶴は先程のアイリスの話を思い起こしていた。

 技術、関係、その他云々の要因――予想以上に様々な問題。話があった。

 その中でどうしても理解出来なかったのはやはり、美香が自身をチームにいれようとしていた事だ。しかも、ダイヴという勝負を左右する極めて重要な役割を任せるというのは美鶴に全てを委ねる事に等しい。非常に危険な賭けだ。

 ただ、いくら考えても答えを知っているのは美香だけであり、そんな事を考えるのは時間の無駄だと結論付けると、美鶴は軽く頭を振って水滴と共にその考えを吹き飛ばす。

 そして、美鶴は正面に設置された鏡に手を置いた。曇り何も見えない。何も映っていない。

 そんな鏡を覆う幕を先程、美鶴が頭を振り払った際に飛び散った水滴がゆっくりと振り払い、濡れて髪がへばりついた自身の姿が浮かび上がる。

 弱弱しい姿。美鶴はそんな自分の姿に苦笑いを浮かべると、鏡を拭い、深い溜息を吐いた。

「簡単に向上したら苦労はないか……力があったら力になりたいって……姉弟なんだから」

 美鶴の口から洩れた呟きは水の滴る音と共に浴室の中に響き渡るだけだった。

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