第10話 俺は知る

 逃げろ。条件反射的に俺はそう叫んだ。

 それでも周りにいた者は大声を上げた俺を不審がるばかりで、誰もその場を動こうとしない。

「ど、どーしたんだよ急に。頭おかしくなっちまったのか」

「うるせえ! アレを見ろよ!!」

 俺はスーツ姿の――恐らく男を指さし、そう叫ぶ。

「はあ? だからどういう……」

「とにかくヤバイんだよあれ! クソっ! このままじゃ!」

 スーツは俺たちが今歩いてきた道をなぞるように歩き、小学校の校門をくぐり抜けた。

 逃げろ! 逃げてくれ!

 必死の俺の思いも届かず、その時はやってきた。

 ズズズ……というノイズのような音とともにその姿もドット抜けのようにかすれ、ぼやける。

 その後キィィィ……とモスキート音のような嫌な音をその体から静かにに発すると、


 ドォオオオン!


 という爆音を上げ、そいつは本来の姿を顕にした。

 鋭い爪と牙、そして獰猛さの滲み出る眼光。

 その姿は、巨大な狼そのものだった。

 そこに怪物のような特殊性はなく、図鑑やテレビで見たことのある狼の形だったが、特筆すべきはその大きさだ。三メートルほどあるだろうか。

 そして、その大きな図体から放たれる瘴気のようなものから感じられるのは明確な悪。姿形は獣そのものであれど、その禍々しさは普通の野生生物が持ち合わせることはないものだった。

 それが先ほど人間の姿をして横を通り過ぎていったのだ、普通じゃない。ヤバイのは誰だって分かる。

 叫び声と同時に本能的に校庭へ駈け出してしまっていた俺は後悔していた。これは己の命にかかわることだと、踏み込むなと、身体が告げている。

 だが気づいたとき俺の身体は、その禍々しい姿の狼と怯える児童たちの中間地点にあった。

 俺はこんなところで、一体何をするつもりなんだ?

 変身の直後その強靭な足を踏み込み突進開始の体制をとった狼は、俺の思考が追いつかない隙に猛烈な速度でこちらに向かってくる。

 あんなのを食らったらただでは済まない。避けるべきだ。そう思うのとは裏腹に、俺の手は横へかわそうとする足を押さえつける。何をしているんだ俺は! そんなに大事なのか、そんなに尊く思っているのか。この場所が、俺にとって何だって言うんだ。

 迫り来る猛獣に対し、反射的に胸の前で腕を十字に組み受身の態勢を取る。

 目を瞑る。

 次の瞬間、俺は体の前面で衝撃を受け、後方へ大きく吹き飛んだ! ……のだが。

 その衝撃は想像していたより遥かに柔らかく、衝突時には体の前面がボスッという鈍い音を立てた。

 それでも力を受け、俺が大きく倒れこんだことは確かだ。何が起きた? 目を開けるとそこには大きな……クッション?

 何もないところから突然それが現れた……ということは。俺はあたりを見回す。

 苗加羽込がリーダーを装着しこちらに手をかざしていた。

 つまり、そういうことだな。我ながら、時代への順応が早い。現代っ子でよかった。

「クソッ! 異能バトルみたいな展開になりやがって!」

 児童たちは皆逃げ始めている。どうやら一瞬の足止めが功を奏したらしい。

 このままでは俺もただでは済まない。逃げよう。そう思った。しかし思考通りに足が動かない。俺はまたおかしな方向に走っていた。

 恐怖で動けなくなっている児童を見た途端、俺はそちらへ駆け出してしまっていたのだ。本当に馬鹿だ。リスク・リターンを測ることもまともに出来やしないのか。

 やべえ、これマジで死ぬんじゃ。駆け寄っていく間、俺はとっさに放課後の遊びに使われていたであろう、投げ捨てられた竹馬のうち一本を握りしめる。必死に思考を巡らせても、今使える最善の武器はそれくらいしか見当たらなかったからだ。もう一度苗加の方を見る。声は聞こえないが、かなり焦っているようだ。

 どうやらもうヘルプは頼れないらしい。

 児童――どうやら女の子のようだ――の前まで駆け寄ったときには、狼の身体は既に眼前にあった。

 恐怖を振り払おうと、俺は竹馬の先端を狼に叩き込む。獣との戦闘経験などもちろんなかったが、躊躇もなかった。苦し紛れの反撃、悪あがきだ。

 しかし、通じない。竹馬は無残にも大きく後方へと跳ね飛ばされる。こんなところで、意味不明な状況で、親不孝なまま死ぬのか。俺は。

 嫌だ。そんなの絶対に嫌だ。この町のことも、あの森のことも俺はまだ何一つ分かっちゃいないのに!

「お兄ちゃん!」

 腕の中にいる女の子から何かを渡される。これは、記録用ディスク?

 ダメだ、俺にリーダーは使えない。そもそも持ってもいない。

 でも、だからって……この悔しさはなんだ。もどかしさはなんだ。

 俺は知りたい。知るんだ。何も知らないままこんなところで。

「くたばってられるかァアアアア!」

 狼を受け止めようと、手をかざす。引きこもり高校生の非力な片手などでその動きが止められないことなど分かっていた。しかし、なぜだろう。それが出来る気がしたのだ。

 そう、出来る! この手のひらから、


 ――激しい豪炎が放たれた。


「なんだ……これは……っ」

 手の表面でわずかに感じる熱量。ゴオオオッっとバーナーのような音をたてたその炎は、狼の身体を焼き払い、

 ドサッという音を残してその身体を沈ませた。

「ハァッ……ハァ……ッ…………」

 荒い息が収まらない。とりあえずは、考えるな……いま頭を使うとマズイ。

 考えるのはこの動悸が収まってからでいい……。

「フーッ……フーッ……」

 意識的に長く息を吐く。それに呼応して、だんだんと脳に血が廻る。

 俺は大きく深呼吸をして、どうにか平静を取り戻した。

 取り戻したからには、考え無くてはならない。

 今、一体何が起こった?

「手から……炎が出た?」

「そんなのは特別珍しいことではないわ、議論すべきはそこじゃない」

 俺は自らが作り出したその光景自体に驚いていたが、どうやらリーダーという超科学機器が使えるこの時代では”手から炎が出る”のはそれなりに見慣れた光景だったようだ。

 全く、とんでもない時代になったもんだ。

「普通のディスクじゃないのか……? これ」

 俺は今の一件に関わっている可能性が極めて高いその円盤を取り出し、一番最初に思いついた可能性を口にする。周囲に訊いたつもりだったのだが、誰も反応を示そうとする様子はない。

「あれほどの大きな炎を収めたディスクは一般家庭向けに流通していない……。そうなると、小さな炎のデータを高速で繰り返し読み込んだ……、ということなのかしら……」

 苗加は思考にふけっているようで、ぶつぶつと何か言っている。

「でも飛沫は今!」

「ええ、たしかにリーダーを着けていなかった」

 指摘しようとしたことを先読みされ黙りこむ居鶴。苗加は続ける。

「あの女の子からそれを受け取ったという解釈であっているのよね?」

 しばしの逡巡のあと、苗加はこちらに目を向けると俺に問いかけた。

「ああ……。狼からの攻撃を食らう寸前に……。もしかしたら、何か特殊なモノなのかもしれない」

「そう……。でも残念ながらそれは恐らく違うわ」

「何でだよ。記憶媒体ってのは普通リーダー無しじゃ、その中のデータを出力できないんだろ? だったら、これは普通じゃないディスクだって考えるのが妥当じゃないのかよ」

「いい? 清水くん。リーダー無しでデータを出力できるディスクなんて存在しないの。私の知る限りではね」

 苗加は自分の有している知識が絶対的であるかのような顔で告げる。記憶媒体オタなの?

 まあつまり……、どういうことだ。

「とりあえず、今はこんなことを話している場合じゃなさそうね。事後処理が大変そう」

「うん……。とりあえず今校庭にいたのは児童たちだけだから、しぶくんがやったことはごまかせると思うの」

 真澄は状況をいかに収束させるかを思案していたようで、現状についてよく理解していた。

「リーダー無しで手から炎を出したーなんて、見つかったらいい研究材料にされそうだからねー。まあこっちから本当だと言い張っても誰も信じないレベルだけど」

「大人の証言がないだけ、信憑性も下がる。いまはとりあえずこの状況をありがたく思いましょう。そして、変な混乱がないように一度落ち着かせましょう」

 苗加は倒れこんだ狼に近づくと、ポケットからUSBメモリのようなものを取り出しリーダーに差し込むと手を狼の方にかざした。

 多分、今はUSBなんて規格じゃないんだろうけど。

「うお、消えた」

 思わず声を上げてしまった。

「切り取り、貼り付けってところね。分かってると思うけど、こいつはデータよ。アクティブな状態でもデータの移動は可能だけど、かかる時間が半端ないわ。普通はこういうふうに動かない状態にしたあとメモリに書き込みをするのよ。リーダーにはそういう簡易的なライティング機能も備わっているの」

「……なるほどな」

 本当に何でもありだ。

 分かるようで分からない超理論を聞き、納得したふりをする。

「知能データをいじった狼に人間のホログラムをかぶせていたみたいね……」

 小さく何かぼやいたのち、苗加はそこに残っている児童たちに声を張り上げて告げる。

「みんな、もう大丈夫よ! このお兄ちゃんが、悪い怪物をやっつけてくれたわ!」

 ワアアアア! という声が上がる。ゲリラで行った劇の演出だとでも言うつもりだろうが、いくら小学生でも騙しきれないだろうなと思った。

 それでも俺たちにとって、今回の事実を葬ることはできずとも、薄めるためにできることはこれくらいだった。

 苗加、居鶴、真澄の三人はディスクを俺に渡した少女に詰め寄っている。おいおい、あんまりいじめてやるなよ。

「あれはどこで手に入れたのか、教えてもらえないかしら」

 苗加は子どもとの会話にあまり慣れていないようで、いつもと変わらない口調で少女に問いかける。

 だが少女も特にそのキツめの口調を気にしてはいない様子だった。

「えへへー、お父さんがくれたの。もういらないからって」

「そう……。お願いなのだけど、あれ貰ってもいいかしら」

「うん! 助けてもらったお礼! お兄ちゃんにあげるの!」

 得意気になる少女はこちらを振り向くと、

「ありがとー!」

 と大きく手を振った。

 俺は半年間の間で凝り固まった表情筋をどうにか動かして、出来る限りの笑顔を作って手を振り返す。

 なにはともあれ、少女のこの笑顔が救われたことは喜ばしいことだ。

 混線した脳の中で唯一浮かんだ、明確な感情だった。

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