【短編集】ラストダンスはあなたの為に

雨宮由紀

ビル風の熱病

 事実は小説より奇なり。そんな言葉を聴いたことはないだろうか?

 現実に起こりうることは、物語よりも奇妙なことが起こる。そんな意味だったかのように記憶しているけれど、まさか実感するような立場になるとは思っていなかった。

 現代の社会において、民間企業が強大な力を持っていることは、誰にでも理解できることだ。国家というものも当然のように力を持ってはいるものの、直接的に影響を受けること少ない。仮に影響を受けるのだとしても、国民全体に適応されるもの、不特定多数の人間を対象としているから、随分と薄まっている。

 けれど、企業が主体となり先導しているものは、ターゲットとなる層を絞っていることが多いから、自分が属している場所がターゲットになった場合は、逃げられないようなシステムが既に組まれていたりするから、中々に難しい。何より、企業が動き出す時は準備が終わっているからこそ、後は結果を求めるだけ。求めている人が企業の元へと集ってくるから、後は回収するだけ。

 例えば、今私の目の前で喋っている女の子は、企業の面接会場で自己アピールを行っている。いかにこの企業がすばらしいか、自分がどのような役に立てるのか、売込みをかけることに夢中になっている。失礼にならないように落ち着きを払いながら、目を輝かせるようにして口を開いている。

 まったく、こんな企業に入って彼女はどんな夢を見ようというのか。社員を使い捨てるのは当然で、成績が悪い営業は容赦なく左遷される。本社にいなければ出世の見込みはなく、コネがなければ失敗の責任を取らされることも珍しくはない。会社の方針に従わないのなら許されることはなく、懲戒免職をちらつかされている社員もいる。

 そんな企業だというのに、社員のことなど考えていない企業だというのに。知らないということは、恐ろしい。知っているなら、この面接会場には来ないだろう。準備をするだけ無駄だと諦め、他の企業の研究に励むべきだと、私は彼女にお勧めしたい。

 先日も幾人かの社員が去ったばかりだというのに、新卒でこの会社を選ぶ学生は絶えることがない。優秀な人間であればいつでも雇い入れると、そんな看板を掲げているからこそ、年に何度も入社試験が開かれ、その度に希望者が集まってしまう。人事業務を一部兼任させられている身としては、正直なところ勘弁して欲しい方針だけれど、こうした入社試験で人手を確保していかなければ絶対数が足りず、際限なく増え続ける業務に対して対応が出来なくなってしまう。

「田中さん、あなたは当社に入社できた場合、やってみたいことはありますか?」

 自分の口から漏れる言葉には温度がない。冷たくもなければ、面接官としての熱意すら感じられない、形式的な物。何も期待していないのに、まるで期待しているかのような質問が、自分の口から自動的なまでに流れていく。何度繰り返したかも分からない質問だから、どれだけ読み返したかも分からないマニュアルだから、頭の中に刷り込まれている。思い出そうとしなくても、意識をしなくても、自然なまでに出てきてしまう。

 自分のことなのに気持ち悪い。自分の中に別の人格があるような、誰か別人が住み着いているような、落ち着かない感覚が離れてくれない。自分の手なのに、感触がない。会社という組織に溶けてしまっている私の人格というものは、これほどまでに脆弱だったのだろうか? 自分の口なのに、開こうとした覚えさえないのに――どうして、こんなになってしまったのか。入社した当初は私も楽しみにしていたのに、この会社で過ごしていく日々に夢を見ていたというのに、今はそんなものなくしてしまった。僅か5年ほど前の出来事のはずなのに、わざわざ確認しなければいけないほどの時間は流れていないはずなのに。夢を見ることを忘れ、新しいものを探すのを諦め、現状を維持していくだけで精一杯。指示を受け、それを処理出来る社員に渡す。それだけの繰り返し。

 中途半端に肩書きだ付いてしまったから、部下をかばう必要もあるし、会社の行く末を心配する必要もある。本当に面倒な立場だなぁ。昇進なんかしたくないと言っていたはずなのに、どうして私が部下へ指示をするような立場にならなければいけないのか。

「そうですか、ありがとうございました。結果は1週間ほどでお知らせいたしますので、少しお待ちください」

 彼女が話していた内容なんて、全く覚えていない。苗字が田中さんであり、成績は優秀であること。運動部に所属していたため、礼節にはそれなりの期待が持て、体力の面でも問題が出てくることはなさそうであること。それくらいしか覚えていない。

 幸いにして当社の面接は、質問をすることを許可していないから、個人的には楽である。これは、仮に入社の運びになった場合、質問をさせないという社風であることを理解させるためということらしいが、意味があるとは思えない。質問が出来ないからこそ、この会社のことが分からない。不安な気持ちを抱えたまま、大勢の同期がいる会議室に集められ、集合教育という名の洗脳が始まる。会社の為に尽くし、会社の為に生きることが当たり前だと思えるまで、教育が続く。もちろん、ちゃんと教育を行うから営業的なスキルや技術的なスキル、その他この会社で生きていくために必要なものが、頭の中へと叩き込まれる。

 まぁ、洗脳的な側面があるのは仕方がないとして、教わることの出来る内容については充実しているから、そこだけはしっかりと学んでもらえばいいと思う。この会社で学んだことをスキルとして身に着け、他の会社で頑張るという人生も悪くはないよ?

 おっと、考え事をしたり、懐かしい気持ちに浸っている内に、応募者は帰ってしまったみたいだね。最近、仕事の忙しさが恐ろしいレベルになってきているから、疲れているのかもしれない。健康診断にひかかったりしないよう、体調を整えておかなければ、査定に響いてしまうのに、面倒だな。

「部長、今回の面接、どうされますか?」

 面接が終われば、採用に関する人事関係の会議にシフトする。100人近くの応募者を相手にしていたから、結構な時間がかかってしまったけれど、この会社では時間は有限だ。経費という考え方が叩き込まれているから、どのような会議であったとしても1時間以内に終わらせることになる。特に生産性のない人事の会議ともなれば、下手をすると10分以内にまとめられてしまったりするのも珍しいことでもない。

「お前はどう思っているんだ? 業務の状態と、社員の現状。それを与して考えれば難しい話ではないだろ?」

「そうですね。大体20人といったところでしょうか? 新しく動くプロジェクトと辞職する人数を考慮すれば、25人ほど採用しても問題はないように感じますが」

 本社人事部部長。他の会社での事情は知らないけれど、この会社においては絶大なる権力を誇る地位にいる人物。平社員程度であれば、彼の気分次第で首が飛んでしまう。何かトラブルが発生した時には、最終的な生贄役を選ぶのも彼の仕事だ。社員を切り捨てることによって、会社を守る。会社の為に、社員を消耗する。組織を活かすための人物だ。

 そんな人に意見を述べなければいけないというのは、精神的に厳しいものがあるけれど、求められたからには口にするしかない。その時に必要な根拠は、短く述べ、無駄なところを省いておかなければいけない。

「悪くない意見だ。選定はお前に任せる、好きなように割り振れ」

 満足しているのか、それとも面倒になっているだけなのか。動くことのない表情からは読み取ることは不可能だ。

「分かりました。こちらで処理します」

 ついでに、はた迷惑なことに、人選まで任されてしまった。私には私の仕事があるというのに、平社員でなくなってしまった私には課長としての職務もあるのに。まったく、昇進してしまった人は下の者を気遣えなくなってしまうのだろうか? 悲しいものだね。

 この会社にいる限りはこれに慣れなければいけないんだろうけれど、結構な負担だよ。たまにはどこかで、愚痴でもこぼさせてほしいものだ。

 

 

     ◇ 



 昼食を食べ終わった残りの時間、昼休みというのはサラリーマンにとってはとても大切な時間だ。会社側が許してくれるのなら昼寝をするのもいいだろう、勉学に励み勝利の為の知識を溜めるもいいだろう。時間いっぱい食べ続けたり、気の合う仲間とおしゃべりをするといいだろう。

「君もイヤになっているのかい?」

 そんな憩いの時間であるはずの昼休みも、役職者となれば楽しみな時間だけにはならない。悩みの相談を受けてみたり、あがってきている申請書を処理してみたり、上司に呼び出されてみたり。中々に忙しい時間となり、自分自身の為に時間を使うのが難しかったりする。

 今の私は文字通りその形で、部下の相談を受けるために缶コーヒーを片手に、ベンチに座っている。秋口である今は、それなりに寒いのだけれど、そこについて相手に文句を言うのはお門違いだろう。

 数年前の面接を経て、元は同僚として、今は部下として、一緒に仕事をしている間柄。出来ることなら、同じような立場で会社の愚痴を言いながら、この先も一緒に仕事をしていきたいところだけど――営業二課の課長としては、そうも言っていられない。複合企業である当社において、1つの商品の売れ行きが落ちた程度で経営に響くようなことはありえない。そんな穴のある経営の仕方はしていないし、経営陣はそれだけに特化できるように隔離されているのだから、社員を顧みていないことさえ除けば、優秀だ。

 最も、経営状態すら安定させられないようであれば、こんなふうにノルマで悩んでいる部下の話を、わざわざ聞いている私の立場がなくなってしまう。まったく、今日も昼食抜きになりそうだね。たまには、優雅にランチタイムを横臥してみたいものだよ。

「別に、イヤになってはいませんよ」

 伸び悩んでいる程度なら、私も詮索したりはしない。種をまいて、それが収穫できるようになるまで待つというのも、営業職としては必要なことだと、元々現場にいた私も理解はしている。特に大型の契約を前提として企業に働きかけることの多い当課としては、そこについて部長陣に上手に報告するのこと、私がやるべき職務ともいえるだろう。

 そこで報告説明をするための情熱は、部下たちの頑張りがくれるもの。建前上としてはそういうことになるのだから、話を聞きながら同調することも求められる。

 ただし、だ。私には課長としての責務もあるわけで、会社の方針を伝える必要もあるし、ノルマの達成が厳しそうな社員を叱咤激励するのも求めれることだ。相反するように見えて、この2つのバランスを取れないようであれば、私は無能な課長としての烙印を押され、田舎への左遷ルートが待っていることだろう。営業というのはどうしても、取ってきた数字で判断されてしまうところがあるから、努力の過程というのは見てもらえないものである。納得できるものではないけれど、事実として存在している以上はどうしようもない。それを受け入れ、飲み込んだうえで、対応できないのであれば、この会社に居続けることは出来ない。

「先輩ほどの人に言われると、凹むんで勘弁してください」

 もっとも、目の前にいる人物、元同僚の現部下については、個人的に思うところもあるから、そろそろ退社を促したほうがいいのかもしれない。この会社のシステム、見ないほうが情熱を持って働けるシステムについて、どのくらい感づいているのだろうか? 噂ならいくらでも流れているし、初耳ということはないはずだけれど。まったく、かわいいと感じる部下が出来てしまうから、課長という立場は嫌なんだよね。今積まれている程度の手当では、到底足らないぞ。

「君は、笑わないからダメなんだよ? 相手に警戒させちゃ、取れる契約も逃げてしまう」

 ただ、そんな私的な思いはまた今度だ。そのうち退職を促すというだけ、もしくは左遷コースとされる田舎行きを、自ら志願するように促すだけだ。今すぐにいなくなられては、こちらとしても困ってしまう。

 何より、この契約を取って来れば成績には繋がるんだ。将来的に私の部下として面倒を見ることができなくなったとしても、例え生贄役の候補に挙がったとしても、現場にいるべき戦力として見てもらえたのなら、延命できる余地が生まれるのだから。将来を考えた場合は、ここで手を引くのはもったいない。

 営業のイロハは叩き込んである。一緒に回ったこともあるし、プレゼンの様子を見ている限りは、けして問題のある営業方法を選んでいるわけではない。ひかかることがあるとすれば、誠実さに重きを置きすぎて、笑顔を忘れていること。商品と一緒に、営業としての自分を売り込んでいるかという一点くらいか。

「そのアドバイスを頂くの、5回目ですかね」

 手元に視線を落とし、低いトーンで語る顔には、影が落ちてしまっている。本人も真剣に悩んでいるらしく、こちらとしてもアドバイスのしがいはあるのだけれど。数える前に実践して欲しいものだ。アドバイスというのは所詮、言葉でしかない。どれだけ響いたとしても、実行に移されないようであれば、まったく意味をなさないのだから。

「努力しているつもりではいるんですが、中々上手くいかなくて」

 賢い子ではあると思う。客先にだって好かれているし、自分を売り込むのが下手であっても時間をかければ、揺るがない信頼を得ることも可能だろう。商品への知識も十分で、提案資料に関しては私よりも上手なのではないかと内心では思っている。

 けれど、笑顔になれないというのは営業としては、大きなマイナス点だ。それを理解したうえで実行できないようでは、無能の烙印を押されたとしても、文句は言えない。数字で優っている不良社員の方が、客先とトラブルを起こさない限りは、この会社では好まれる。

「はっはは。つもりじゃダメだよ。ちゃんと実践することに意味があるんだよ。心がけじゃ、成績は伸びないさ」

 だからといって、悩んでいる人間にあまり真剣に話しすぎるのもよくはない。詰め寄るようなやり方や、詰問するような形をとってしまうと、相手を委縮させるだけ。こちらの意見を肯定していたとしても、心の中に届くことはなく、記憶にとどまったとしても重要な部分が抜け落ちてしまったりするものだ。それでは、何の意味もない。この時間、私の貴重な時間を割いている意味がなくなってしまう。

 明るく、相手の笑顔を誘えるような話し方で、受け入れやすいテンポで話すしかない。タイミングを計りながら、君なら大丈夫だと付け加えるのも忘れてはいけない。相手が否定をするのなら、肯定した上で改善されるように言葉を選ばなければいけない。

 プロのカウンセラーとはいかなくても、真似事程度のことができないようであれば、上司として胸を張ることは出来ないものだ。

 自分の選ぶことの出来る言葉の中から、柔らかいものを選び出す。暗くならないように、抑揚にも気を払いながら、相手睨まない程度に見つめるようにする。この程度の芸当なら、すぐにでも身につくものだ。

「それに、笑顔が大切といわれても、突然笑うなんて出来ませんよ。お客様のところに伺って、大切な話をしているのですから」

 良くも悪くも、君は素直過ぎるんだよ。思っていることがそのまま口に出てしまう。表情に、感情が出てきてしまう。だから難しいのだろう?

 けれど、見かたを変えてしまえるのなら、とても楽に理解が出来るはずなんだけどね。お客様に会えたこと自体に、提案できることに、ありがとうという気持ちを乗せられたら笑顔になれるはずなんだけどね。やっぱり、契約が取れていない状態で感謝するというのは、難しいのだろうか? 契約の可能性だけでは、感謝出来ないだろうか?

 そこについては、慣れてもらうしかないのだけれど、どうだろうか? これを口に出して伝えたとして、理解してもらえるものだろうか?

 私は必要だと感じたから笑っているだけであって、その会話自体が大切かどうかは別だと思っているけれど、君にとってはそうではないというころだろう? 大切な話だから、笑顔で会話を進めるのは失礼にあたると考えているわけだろ?

「んー、笑顔でいるのは、別にバカにしているからじゃないよ?」

 真面目な君には難しいことかもしれないけれど、相手の緊張をほぐすための笑顔というものもあるんだよ。楽しいから笑っているわけではないんだが、理解するのは難しい感じかな?

 真剣だからこそ、笑顔でいることが大切なんだよ。こちらまで緊張していたら、相手に伝えたいことをすべて伝えられないし、相手の反応を読み違えたり、見逃してしまう可能性もあがるからね。誠実さを売りにするのもいいことだけど、何事も適度にやって、バランスをとるように、心がけた方が賢いと、私は思うんだよね。

「安心してもらう必要があると思うから、私は笑っているんだよ」

 笑顔で進んでいく話というのは、相手にプラスの印象を残す。例え話の中に難しい内容が含まれていたり、分かりにくいことが含まれていたりしても、笑顔で回答をしてくれる相手にはプラスの感情を抱きやすいものなんだ。そこから契約の締結につながることだって珍しくはないし、その場ではダメでも後日連絡をもらえたりすることもある。何より、プラスの印象を与えておけば、次の営業の機会へとつながることも多いからね。そろそろ、君にもそれを理解して欲しいのだけれど、どう説明したものだろう?

 私の顔、いや笑顔を見ながら考えている君の表情は素敵だけれど、何を悩んでいるんだい? 言いたいことがあるのなら、ちゃんと口にしたまえ。我慢していたとしても、良いことはないよ? ここで話していることすべてがオフレコだなんて言えないけれど、少なくとも上層部に伝わるような、私の失態を晒すようなことにはならないさ。何より、君の感じていることが、私の経験以上に役に立つ可能性だって、十分ありえるのだから。言葉が定まったら、その口から吐き出すといい。

 このタイミングで私がやるべきことは、促すことではない。のんびりと、相手が口を開くまで待っていることだ。相手が話すための準備をしているのなら、その出鼻を挫くような真似をしてはいけない。向こうから飛び込んでくるのが分かっているのだから、待ち構えていれば良い。

 空になった缶を両手で抱きしめるようにしているのは、不安だからだろう? 自分が言葉を発した途端に、私の機嫌が悪くならないか、怒られないかと心配しているのだろう? 大丈夫だ。余程無意味に私を怒らせるための言葉をぶつけない限り、簡単に怒ったりはしないさ。そうでなければ、うなずきながら待ったりはしないよ。続きを促すようなことは、しないさ。

「……先輩の笑顔、仮面みたいで怖いんですけど?」

 そうくるのかい? それが君の答えで良いんだね? 怯えながら、勇気を出して伝えた言葉がそれで、後悔はしていないんだね?

 なるほど、それなら私もそのままで受け取ろう。君にとって、私の笑顔は仮面のように感じると、恐怖さえ感じるものだと。うむ、悪くないね。下手に隠されたり、お世辞を使われるのよりはずっと好感が持てるさ。

「ほぅ。なるほど、なるほど。君は面白いことを言うね」

 頭を悩ませながら、君の話を聞いたかいがあるよ。無駄になる可能性を考慮しながら、聞いただけの価値があるね。今後の私の会社人としての生き方に、大きく影響を与えそうだよ。

「ふふふ、私は素直な子は好きだよ? 怯えることなく、ちゃんと伝えられるその勇気は称えよう」

 君のことだ、怯えるのと同時に失礼にならないかと、心配したのだろう? いや、心配した割合の方が高いのではないかい? だから、時間がかかり、口から出てこなかったのだろう?

 構わないさ、それが君の個性なのだから。誠実でいようとする、君の心の表れなのだから。何も気にする必要はない。

「ただし、蛮勇は別だ」

 私が笑っていられるのも、ここまでかな? 表面まで崩れてしまうほどではないけれど、いつもの笑顔が保てるのは、ここまでだ。

 君のことは優秀だと常々感じていたけれど、ここまでのものだったとは、正直なところ予測していなかったよ。もう少し愚鈍でいてほしかったのだけれど、仕方がないか。先のある話は、もう出来そうにないね。賢いことは、必ずしも優秀だとは限らないのだよ。

「戸惑っているのかい?」

 その上で、私の変化に気付けてしまうんだね。あぁ、本当に残念でならないよ。気付いてしまったのなら、もう庇えないよ。君のことを、かわいい部下として見られる期間は、もう終わってしまったんだね。悲しいけれど、これが現実である以上は受け入れるしかないのか。

「なるほど、君は感受性が豊かなようだね。素直なところもあるし、詐欺の被害にあわないように気をつけたまえ。我々は騙す側であって、騙される側であってはならないのだから」

 企業に勤めている以上、見えていても指摘してはいけない部分がある。分かっていたとしても、言葉にしてはいけないことがある。それは暗黙の了解と呼ばれていたり、ローカルルールと呼ばれていたりするけれど、そこに逆らおうとするのは、残念ながら自らの寿命を縮める以外の効果をもたらす可能性は低く、プラスにつながるような結果を引き寄せられるようなものではないことが多い。

 今回、私のミスとしてはそれを君に伝えられなかったことだろう。世の中には見てはいけないもの、見たとしても口外してはいけないものがあると。組織の中で生きていくつもりなら、時には流されているのも、長いものに巻かれるのもテクニックだと、そう伝えれれば良かったんだね。残念でならないよ。

「私のアドバイスを聞く必要はない。君には君のやり方があるだろう?」

 すべてに従えとは言わないさ。気に入らないことがあるのも構わないさ。それが君の心が感じている事実であり、君の眼を通して存在する世界なのだから。それらを全て塗りつぶしてまで、ズル賢くなれとは言えないよ。そう、言えないんだよ。無駄なことだから。

「ただし、それを突き詰められないのであれば、何も意味がないぞ? 結果を出せない以上は、君は私の下にいるしかないんだ」

 私が会社の指示の下に働くことを求められるように、君には私の指示の下で働くことが求められていた。この企業にいる、特に本社にいる間はそれを貫かなければいけなかった。ここで生きていたければ、ここのルールに従っていなければいけなかった。ただ、それだけの話さ。

 君のルールを私が侵すことはない。けれど、君が私や会社のルールを侵すことは、許されない。相成れないのなら、離れるしかないんだよ。簡単な話だろう? 下にいられないというのなら、他のところに行くしかないんだよ。さみしいけれど、組織というのはそういうものなのさ。

「んー、入社3年目か。そろそろ、新人として扱い続けているのは、失礼に当たるかな?」

 感受性が豊か過ぎるのも考え物だね。私の変化にすっかり怯えてしまっている。顔色は悪いし、呼吸だって安定していないのだろう? 今の君の視界の中に、私以外のものは存在しているかい? 君がおびき寄せてしまった、崩れた笑顔以外のものは映っているかい?

 もしも映っていないのなら、その程度の余裕すら持てない状況に陥っているのなら、私には助けられないよ。こちらも、万能というわけにはいかないんだ。所詮、会社の歯車、課長でしかないんだ。私に出来るのは、与えられている権限の中で、対応するということだけ。それ以上の手段というのは、あいにく持ち合わせていない。

「しかし、今の君の成績では、別の部署に推薦することも出来ない」

 成績が残せているのなら、今回の契約をすでに取れているのなら、他の部署へ推薦することだって不可能ではなかった。私の下でなければ、働けたのかもしれない。見破られてしまった、上辺だけの会話を続けられなくなってしまった、そんな私の下でなければ、まだ本社に残してあげられたのかもしれないけれど。無理だね、これでは足りないんだ。

「このままだと、田舎への転勤という可能性があるんだけど。どうする?」

 田舎への転勤なんて誤魔化してはいるが、これは左遷の通知でしかない。本社、つまりはエリートとして採用されたのに、田舎へ飛ばされるというのは、余程のコネがない限りは戻ってこれないから。役立たずとしての烙印を、文字通り押された状態で、田舎へ隔離されるんだ。本社から監視されることもほぼなくなり、その土地に合わせた形で成績さえ残していれば何も言われない。そんな田舎への片道切符。

 まぁ、それでも、今のまま本社にいるよりは随分と明るい未来が待っているんだけどね。そこまで説明してあげる義理はない。私の役職程度では、それを正式な形で、部下へ伝えることは出来ないんだよ。権限が足りないんだ。なぜ、自由になれるかを、左遷されることにより明るい未来が待っているのかを、教えてあげられない。

 ただ、君も感じているんじゃないのかい? ここで私に睨まれたまま震えているのと、私に関わることのない場所で、営業として再出発するのと、どちらが健全であるか。今後の自分にとって、プラスとなるのはどちらか。君なら判断できると信じたから、私はこういう態度に出るんだよ?

 視線が安定せず、唇に至っては徐々に白くなってきている。けれど、そんな姿を見せられても、私は同情するわけにはいかないんだよ。その程度では、私は同情出来ないんだよ。

 私に出来ることは、君がこの場で返事を出してくれるのを期待して、黙って待つことだ。促すことさえ、下手をすれば社則にふれてしまうところだから、下手なリアクションを起こすわけにもいかない。私自身の首だって常に天秤の上に乗せられせいるのだから。決して安全なところにはいないんだ。悪いが、無償で救いの手を出せるほどの善人ではないよ。

「い、異動申請は出せますか?」

 どれくらい待ったのだろう。やっとの思いで絞り出されたような、エリート街道から外れることを希望する、苦しい願い。それが本心から来ているものなのか、明るい未来を想像してきたものなのか、それとも逃げることだけを望んだ声なのか。私には、胸中を図ることは出来ない。

 ま、別に私が理解できるかどうかなんて、些細な問題でしかなく、考慮しなければならないほどに、意味のあるものではない。だから、私は君の希望だとして言葉をそのまま受け取るよ。

「ん? 君は田舎へ行きたいのかい?」

 先ほど、移動の手段もあると口にしたのは私だが、あくまで相手の意思のみで、部下の希望により叶えたという形を取らなければならない。もちろん、こんなものは建前にしかず過ぎず、実際のところは成績が悪く使えない部下を、自らの元から切り離しているだけなのにね。組織というものは面倒だ。メンツと建前の上に成り立っているから、どうしても動きが鈍くなる。上辺だけの会話で、本心を伝えるとか、どこまでの腹芸を求められているのか。個人の努力で対応できる範囲なんて、しょせん知れているというのに。社員を使い潰すことを前提にしているから、こういった方法もとれるのだろう。とても、この国で有数の企業がやることとは思えない。

「ま、良いよ。君みたいに誠実さを売りにするのなら、こんな狭い都会ではやり辛いかもね。どうしても、騙しあいの世界になるからね」

 営業として、切磋琢磨した結果として、潰しあいになり左遷されるのは、仕方のないことかもしれない。営業というのはどうしても成績を競い合うようにできてしまっているから、納得もいくだろう。

 それが会社側から作為的にもたらされているのだとしたら? せめてその事実を知らないところで、頑張りたいものだ。契約の取れない地域、取り辛い地域というのはどうしても存在しているから。

「それにしても異動申請か」

 田舎への片道切符。戻ることの出来ない左遷先へ、自ら異動を願う。

「私に見られていると、書き辛いだろ? 今日はもうあがって良いから、明日の朝一で提出してくれたまえ。なに、悪いようにはしないさ。きっと君の願いが叶うよ」

 この移動願いが聞き入れられなかった試しはない。待たされたことすらない。

「ふふ、良い子だね。私は、君のそういうところが気に入っているんだ。ちょっと残念だけど、合わないなら仕方ないね」

 どうしてだろうか? 私が気にいたっ子ほど田舎への片道切符を手に入れたがる。本社でエリート街道を突き進んでくれそうなのに、営業として一級品の戦力になってくれそうなのに。どうして会社は人材を放出させるような、勿体ない真似をするのだろうか?

 この移動の話をしているのだって、私がとても気に入って可愛がっているの、僕っ子だというのに。神様はなんていじわるなんだろう? 実はうちの社長が、神様を兼任してたりしないよね? もし、仮にそんな世界だったとしたら、ロクでもないことに巻き込まれるのも、納得はできるんだけどね。

 

 

     ◇



 人の気配の減った、真夜中のオフィス。存在している仕事の山さえ除けば、中々快適な空間だ。残っているのは殆どが係長以上の人間のみであり、聞こえてくるのは書類をチェックする音と、タイピングの音ばかり。

「ふぅ……まったく、こんな役割ばかりだ」

 そんな中で私が処理を進めているのは、昼間の話し合いで左遷の決まった子の移動先選定。一言んじ田舎といっても、それは本社以外を指す言葉でしかないから、行先なんて決まっていないに等しい。だから、急に決めたりするとこんな感じで苦労する。

 元々同僚でもある彼女の実力は知っているし、得意分野も知っているから、成績を伸ばせる地域へと送り出してあげたい。

「また、左遷か?」

 そんな私に話しかけてきてくれたのは、この会社にしては常識人な部長。まだまだ中年と呼べる年齢なのに、この会社において部長職へと上り詰めてしまった苦労人。給料は良いのかもしれないけれど、私は絶対的にそのポジションはイヤです。胃に穴が開いてしまいますね。

「いい加減、お前の評価自体もやばいんだ。諦めて、部下を差し出せ」

 いい人、なんだよね。本来部長クラスになってくると経営陣へ加わっているから、係長程度の社員を心配している暇なんてないはずなんだけどなぁ。この人のこういったところは好きだけど、苦手だ。私に優しくしたところで、彼に得なんてないはずなのに。何を考えているか分からない。

「あー、うん。部長が心配してくれているのは分かるんですよ? でも、今時ありえないでしょ? 会社の為に全力を尽くせと、命を捧げろなんてことはいえませんよ」

 どうしても、歯切れが悪くなってしまう。私に優しくしてくれる理由が思い当たらなくて、警戒を解くことが出来ない。私よりも社歴が長く、私よりも高い役職に就いているということは、それだけ酷い行為を重ねてきたということだ。この会社は、そういったことを平気な顔でやれる人材を、求めているのだから。部長クラスまで上がるには、どれだけのことをしなければいけないのだろう? 何を犠牲にして、彼は今の地位にいるのだろう?

 正直なところ、そこまでして部長職を手に入れて、欲しかった未来に手が届いているのだろうか?

「お前もお人好しだな。俺達の役割、分かっていないわけじゃないんだろ? この会社にとっては、必要な役割なんだ」

 疲れたように笑う、笑顔とは呼びたくもない仮面のような顔。おそらく、私の顔に張り付いているのとは、全く別の仮面なのだろう。流石の私も、この顔と同じだといわれてしまったら、多少のショックは受ける。私と部長の間には、立場的な違いが大きく隔たっている。私は所詮係長でしかなく、平社員にケガは得た程度にしか仕事がない。深すぎる会社の闇にはまだ触れることも出来ず、人事に絡んでいなければ社員の出入りを見るようなこともなかったでしょう。

 それだけでも十分に気持ちが重たくなるのに、それ以上のものを抱えた上で会社に勤められるのは、恐ろしいと感じてしまう。

「生贄役の選定が出来ないのなら、お前のポジションは奪われるぞ?」

 そして、私の役割を思い出させるためのセリフ。ええ、分かってはいますよ。私の役割は、スケープゴーストとして役立つ社員を部下から選定し、会社の所持しているリストに加えていくこと。トラブルがあれば、そこのリストから生贄となる、社員が消費されていく。その結末は様々で、終結させるのはお金の力だけれど大体不幸になるのがお決まりだ。

 だから、私としてはお気に入りの社員は絶対に乗せられないし、そうでなくとも嫌いだからといって、リストに載せてしまえとはいかない。

「はっはは。別に構いませんよ。この会社での地位は、外で役に立ちますからね。年収を吊り上げつつ、転職すればいいんですよ」

 他の会社での係長というのが、どれほどの価値があるのかは分からない。武器になる程度のものなのか、それともただの肩書き程度に終わってしまうのか、そこについて私には見えない。

 けれど、この会社で係長をやっていたという事実は、他の会社へ転職する時に随分と役に立つ。年数としてもそれなりのものにはなっているし、条件の良い会社へと転職するのも難しくはないでしょう。

「都会の風って、冷たいですよね。私もそろそろ、暖めてくれる人を探したほうがいいのかもしれませんね」

「結婚か? 家庭に入っている君の姿は想像できないが、それもありかもしれないな」

 想像できないって、さすがにひどくありませんか? これでも私はれっきとした女性ですよ? やり口は随分と男性的かもしれませんし、バレンタインよりはホワイトデーに悩みますし、女性から告白された回数もそれなりにはありますが。それでも、性認知は女です。

 温かい家庭というものに、それなりの憧れはあるんですよ。料理も一通りは習得していますから。

「あら、部長祝ってくれるんですか?」

「どうだろうな? 俺が出席したりすると、迷惑だろ? 特に、退社するつもりがあるんなら、会社には絡まないほうがいいだろ」

 仮に結婚式を開くとして、この会社の人間を招待した場合、関係性を断ち切るにはそれなりの時間と、骨が折れる程度の労力は支払わなければいけなくなるでしょう。そのことを差し引くなら、部長を招待しないほうが賢いのかもしれませんね。

「部長は個人的にきてくれたりしませんか? 部長のトーク、私結構好きなんですよ」

 部長としてではなく、個人で来ていただけるのなら、問題はないですよね? まぁ、私としても部長の私服姿とか、会社の外を歩いている姿とか、全く想像できませんけれど。そこはお互い様でしょう。

「行かないさ。俺には俺の役割がある。何より、お前が辞職するというのなら、代わりを探す必要があるからな。結婚式に招待されているような、暇な時間は存在しない」

 暇な時間、ですか。まぁ、相手もいないような女の、結婚式の予約なんかされても困りますよね。なんとも、部長らしいご意見です。

「相変わらず冷たい人ですね。まぁ、そういったところも魅力的ではありますが。諦めましょう」

 優しすぎず、厳しすぎず。意外と心地の良い距離感で付き合えたから、部長と離れるのは少し残念ではありますが。もう、私は会社に残れそうにはありませんね。身の回りの整理をして、会社に返却すべきものは戻して、転職の準備でも始めましょうか。立ち去るとなると、こんな会社でも寂しさは感じるもの。それでも、私は脚を止められないから。

 

 口の中へと流れてくる黒い液体。その苦味だけが、私の心に染み渡る。

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