第4話 2

 二人が逃げ着いた先は、二階の教室であった。走るにも体に限界がきて、二人してもがくようにそこに飛び込んだのだ。

 肺に流れ込む空気が苦々しい。

 ネムレスは男であるせいか、舞夜よりも大分と余裕があるようで、一度の深い吐息の後、早速話し始めた。


「――さっきのは、元人間だった化け物だね。いきなり俺たちに襲いかかってきたんだし、もう、理性もないだろう。かなり危険な、」


 そこまで言いかけて、ネムレスは口を噤んだ。舞夜が彼の制服の裾を握り締めたからだ。表情は俯いているため窺えないが、その華奢な体はか細く震えてしまっている。


 先ほどの光景は、舞夜にあまりにも強い衝撃を与えていた。

 恐ろしかった。意味が分からなかった。記憶すらない彼女にとって、あの現実離れした体験は、恐怖以外の何物でもなかったのだ。

 しかし何より、先ほどからずっと続いている、まるで眉間の奥を炙られるような頭痛。それが一番恐ろしい。


 舞夜は息を整えるため呼吸し、それからやっと口を開いた。


「なんであんなん知っとる気がしたんやろ、あんな怖いの、なんでやったっけ」

「き、記憶が、戻った?」

「ううん。戻ってないけど、でも、頭痛いなぁ。……私って、なんでここにおんの?」

「それは、俺が呼んだからだよ。いつもそうだけど」

「私、めっちゃお化けとか怖いよ。なのにさ、こんな所に来たのってなんで? 友だちに呼ばれたからって、それだけで来る?」

「舞夜は、」

「私って、ほんとに"マイヨ"?」


 遮って、泣き笑うような声だった。

 はっと弾かれるように顔を上げたネムレスは彼女の両肩を掴んだ。たがが外れたような強さはまるで万力で、舞夜は思わず顔を顰める。


「なっ――なんで!! なんで、そんなこと、言うんだよ……」


 今にも消え入りそうな弱々しい声に、舞夜は苦痛に閉じた目をそっと開けた。

 ネムレスは、彼女の肩に取り縋って、俯いていた。まるで泣いているようだった。しかし彼の背は震えておらず、泣き声もない。巌のように頑なに静止し、ただ舞夜の肩を握る力だけがそっと緩められた。


「君は、君は本物の舞夜だ。柊舞夜だよ。俺が――×××が、保証する」


 力強い声だった。追って舞夜を見据える漆黒の双眸には、妖しいほどの真剣さが光っている。

 相変わらず名乗られても聞きとれはしないのだが、舞夜は気づけば、彼に潜む凄みに圧倒されるように頷いていた。


 そうすればネムレスはほっと破顔して、ありがとう、と頬をゆるやかに喜びに染めるのだった。


――何がそうも嬉しいのだろう。


 不思議に思う舞夜と再び目が合うと、彼ははっとしたように表情を強ばらせ、静かに謝りながら彼女の肩から手を放した。

 いつの間にか、舞夜を焦らす頭痛は無くなっていた。




「君がここに来るようになった理由は、俺が強く誘ったからだよ。さっきみたいな化け物退治も、もう何回になるのかな……。君も初めは怖がって、いちいち悲鳴も上げて。さすがに今では慣れてきたみたいだよ。まあ、戸惑うことはあるみたいだけど」


 ネムレスはそこで一旦言葉を区切った。舞夜は、彼がそこから言葉を続けるのを待ったが、ネムレスはただ複雑そうな表情を浮かべ、口を噤んだままだった。

 さすがにこれだけの情報では物足りないのは、彼も分かっているだろうに、と舞夜は感じたが、そこでふと思い当たったことにあ、と声を上げた。


「話したくないん?」


 素直に尋ねれば、いや、とネムレスは素早いながらも歯切れの悪い言葉を返す。それからまた少し黙って、彼はやっと口を開いた。


「話すのが嫌なわけじゃないよ? 君が色々と思い出すきっかけに、なるかもしれないし。……だけど、もしそれで君の記憶が戻らなかったら、っていうのが不安なんだ」


 どういうこと、と首を傾げる舞夜にネムレスは続ける。


「例えば、そうだな。ここに来た理由は噂――というか都市伝説かな。そこで聞いた『顔剥ぎ』って化け物を倒しに来たから。そういった化け物のことを、俺は総称して『鬼』って呼んでる。……だけど入ってすぐ玄関のところで不意打ち喰らってヘマして逃げ出して、怪我こそなかったけど君は記憶喪失」


 舞夜はぽかんとネムレスの話を聞いていた。大まかではあるが、捲し立てられた内容は理解した。

 が、ネムレスの伝えたいのはそこではなかった。彼は一息吐いて、舞夜の目をじっと見つめた。


「――で、ここまでで、何か思い出した?」

「全然」


 率直な答えに、ネムレスはそうだろうと皮肉気に呟く。


「残るのは事実だけで、しかもそれは俺が喋ったことだ。だから舞夜の中には、俺の主観で説明された事実が残るだけ。君の記憶じゃないし、寧ろいつかそれが蘇るための邪魔になるかもしれない。それが、俺は、嫌だ」

「……色々考えてくれたんやなぁ。ありがとう。なんかビックリした。ネムレスはいっぱい考えとってすごいねぇ」


 舞夜の感嘆に、ネムレスは照れくさそうにはにかんだ。


「ありがとう。もちろん今のは、俺の意見だから、舞夜がどう思うかによるけど。あ、正直に答えてくれたらいいからさ。……どうかな」

「私は別に、そこまで気にしやへんけどなぁ。今は記憶が無いからさ、無いよりはある方がいいんかなって思うし、焦る…けど、実際どうなのかは分からんし」


 舞夜はうーん、と首を傾げながら喋っている。


「思い出すのもなんか怖いなって、さっきちょっと思ったし」


 無意識のうちに眉間のあたりを撫でていた。

 今では頭痛は綺麗さっぱりなくなっていて、その感覚を思い出すのも難しい。ただ痛かったという事実だけが残っている。


「怖いなら、無理することないんじゃないかな。ここを出てから、医者に診てもらった方がいいよ、絶対」

「ふふ、確かにそうやね。必要なことは知りたいけどさ、それ以外は、ゆっくり思い出してってもいいかなぁ?」

「うん。訊いてくれたら答えるから。……変な言い方だけど、俺は君が記憶喪失でも気にしない。嫌がったり、疎ましく思ったりしないから」


 ただのフォローかとも思ったが、ネムレスは本当に、舞夜が記憶喪失になったこと自体は、そこまで深刻に捉えていないようだった。もちろん舞夜自身について色々と考えてくれていることは、先ほどの話で分かったが。

 記憶が無かろうと気にすることはない、と、大らかにもほどがある態度でさらりと受け流してくれている。そのお蔭で、舞夜はこの閉塞した状況のなかでも、これ以上深く悩まずに済みそうだった。


「あ、そう言えばさ、さっき言っとったのっぺらぼーやけど、何なん?」

「『のっぺらぼう』は、目や鼻がない顔を晒しては、夜道などで人間を驚かせる妖怪だ。狸や貉が人を化かしたとも言われているけど、実際は不明。今回のヤツは単純に、顔を剥がれた者の成れの果てなんだけど」

「かわいそうやなぁ……」


 完全に、ただの被害者ではないか。しかも、恐らくであるが、舞夜やネムレスとほど近い齢の少年である。

 舞夜は男子の制服の細かい差異なんて知らないが、彼はネムレスと似たような恰好をしていたし、もしかしたら二人と同じ高校に通っていて、ともすれば擦れ違ったり、話したりしたこともあったかもしれないのに。


 舞夜はやるせない気持ちで溜息を飲みこんだ。

 ネムレスも落ち着かなさげな、いっそ曖昧な顔で「そうだね」と呟いている。彼は退治する側だから、なるほど舞夜よりよっぽど割り切れない思いをしているのだろう。

 変なことを口にしてしまって、なんだか情けなく、申し訳なくなったので、舞夜は少し話題を移すことにした。


「そののっぺらぼうって有名なん? 私も知っとる?」

「舞夜も、多分知ってるはずだ。道端で驚かされて、人にそのことを言おうとしたらまた驚かされてって話は有名だから」

「そうなんや。なんかすごい強かったりすんの?」

「いや。……確かに、のっぺらぼうは知名度こそ高い。名称と外見以外、例えばどんな物語で出てくるのかってことまで知られている妖怪は少ないからね。――だけど、ああも強力であるイメージなんて無いはずなんだ」

「あ、うん。確かにさっき聞いた感じやと、悪い奴っちゃうっぽいね」


 ネムレス曰く、のっぺらぼうは子ども向けの絵本などにも出てくるほどで、脅かしはするが、それ以上は特に問題もないらしい。


「と言っても、あののっぺらぼうは顔剥ぎに負けて出来たモノってだけだから、伝承と違っててもおかしくはないけど」

「あ、そっか。のっぺらぼうって、ネムレスがさっき言っただけやもんね」


 舞夜は記憶が無いので、詳細は分からないのだが。

 考え込んだまま、ネムレスはうーんと唸る。


「でも、あそこまで滅茶苦茶なのはやっぱり変だ……。もしかしたら、彼が顔剥ぎ本体かもしれない。俺がやられたときは不意打ちだったから、分からないけど。……見とけばよかったなぁ」


 ネムレスは疲れたようにぼやいているが、それを見た舞夜は、それを言ったら自分なんて何一つ役に立っていないお荷物だし、と口にしかけた。もちろんネムレスが気にするだろうし言わなかったが。

 代わりにちょっとでも助けになるよう、今後について提案してみることにした。


「んーと。それで、これからどうすんの? たぶんあの狐さんがこの校舎を閉めとるやろ? 頑張ってやっつけて脱出するか、頑張って抜け道探して脱出するか、どっちかになると思うんやけど……」


 舞夜の挙げた選択肢のどちらとも距離を置くように、ネムレスは「そうだね」とだけ曖昧に答えた。それからしばらく黙っていたが、やがてふと視線を遠くにやった。


「いっそ、何にもしないとかね。放っといて、時が経つのをじっと待つ。流れるまま任せて、ひたすら待機しとくだけ、とか」

「え! ど、どうしたん? なんかネム方向性変えた?」


 さっきまで意気揚揚と、場当たり的に突進していた人間とは思えない発言であった。

 えー、と腑に落ちない思いを隠そうともせず訝しむ舞夜に、ネムレスは思わず苦笑いを浮かべる。


「舞夜って、俺のことどう思ってんの」

「なんかやる気満々な……消火器とかで殴りかかる感じのやつ。アグレッシブ。アグレッシブなネムレス」

「あ、あれはちょっと、なんていうかテンション上がってたというか、気合が入ってただけだよ」


 一体何にだろう。なんかあったっけ、と考える舞夜の思考を遮るように、ネムレスはとにかく、と声を上げた。


「倒すにしても逃げるにしても、しばらくこの辺の調査をしないと。すぐ挑んでも勝てる気がしないし、逃げ道も探さないといけないし。……あの狐面がこの校舎を滅茶苦茶にしてるだろうから、探索もさっきより大変になってると思う。とりあえず……気を付けて行こう」

「こっから本気って感じやね! 回るならこの階からやんな?」

「そうだね。なんか、ふりだしに戻るって感じだ」

「早く脱出したいし、こんな校舎やけど、負けやんようにがんばろー」


 やれやれ、とネムレスは立ち上がって舞夜に合わせておー、と手を上げた。

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