縄文戦記 星の涙を持つ男

竹田康一郎

第1話

三人の後継者



 それは、まだ人々の数が多すぎず、空も海も川も絶望の悲鳴をあげていなかったころのはなし。草原を渡る風にはさえぎるものもなく、夜空は、一面にバラまかれた星々の囁きで満たされていた。

 イクタラの目の前には、縄目の模様をつけ終えたばかりの土器があった。泥だらけの手にわずかに残った肌色の部分で、額の汗をふいた。いつのまにか、顔中、泥まみれだ。でも、そんなことは、ちっとも気にならなかった。工房にいる他のみんなは知らないけれど、イクタラは、今日で十五歳になった。十五の自分に自分自身からのプレゼントの土器だった。暦などない時代だから、今日が本当に彼女の生まれた日かどうかなんて分からないけれど、彼女がそう決めたからそうなのだ。今日みたいに、春の陽射しが世界を星のようなきらめきで飾り立てていた。そうお母さんも言っていた。

「ウチおばさん、どう、これ?」

 ウチおばさんは、土器作りの師匠だ。土器作りだけでなく、刺繍や料理、酒作りから育児まで、すべての家事の師匠である。そのおばさんが、自分の土器作りを中断して腰を上げた。イクタラのそばにやってきて、無言でイクタラの作った土器を鑑定しだした。

 イクタラには自信があった。我ながら、いい出来だと思っていた。でも、もう後悔していた。ウチおばさんの評価をあおいだことを。

 おばさんは、なにも言わずに戻っていった。外には出せないタメ息が、イクタラの胸の中から胃のあたりへ落ちていった。

「おばさんは、ああいうひとなのよ」

 落ち込むイクタラを母が見下ろしていた。

「口には出さないけど、背中でほめてたよ」

「本当に?」

 思わず口から出たイクタラの声に、周囲の視線が集まった。だが、声の主が彼女だと分かると、すぐに離れていった。いつものことだったからだ。

 イクタラは、生身の母を見たことがなかった。イクタラを出産したときに死んでしまった。この時代としては、珍しいことではない。命がけで自分をこの世に生み落としてくれた母。入れ替わりに、あの世に逝ってしまった母。でも、こうして会えるし、話もできる。イクタラは、こういう力を持てた自分を幸運だと思っていた。

 イクタラは、不意に不安になった。母は、なんで、そんなに寂しそうな目で私を見つめているのだろう?

「しばらく会えなくなる」

 イクタラの問いかける眼差しに、母が答えた。

「えっ? どうして?」

「すぐに分かるわ。ほら。おつかいがやってきた」

 母は、まだ聞こえない足音に耳を傾けて、言った。


 ノンノは、丘の上の日だまりに手足を広げて、流れる雲を見上げていた。丈の高い草花のなかにいると、緑にのみこまれて大地と一帯になったみたいだった。どこかで小鳥の声が聞こえている。小鳥たちは、うまく姿を隠している餌のことと、生まれたばかりの雛のことを話していた。野鼠の兄弟が、ノンノの体を駆け上がり、駆け下りていった。どうやら彼女の体を遊び場にしているらしい。

「ノンノ! ノンノ!」

 母の声が聞こえた。ノンノが、草のなかから顔を上げると、息を切らして駆け寄ってくる母が見えた。

「やっぱり、ここにいた」

「なに?」

「急いで! ハポさまがお呼びなんだから」

 ノンノの心臓が、急にバタバタと騒ぎ出した。その鼓動を感じたのか、野鼠たちも、せわしなく動き出した。だめ。落ち着いて、落ち着いて。怖くない、怖くない。怖がると山から怖ろしいあいつがやってくる。

 ノンノは、目をつぶって体の中の空気を出し入れした。

空の上をゆっくりと雲が渡っていく。そよ風が、いつもの歌を歌っている。もう大丈夫。あいつは、やってこない。

「いま、行く」

 微笑んで、そう答えると、彼女は、ゆっくりと歩き出した。

 その後ろ姿を、動物たちが、隠れ家から顔を出して見送っていた。なかには、わけ知り顔で囁きかわすものたちもいた。


 森のなかを、十七、八歳くらいの少年たちが、武器を手にして進んでいた。そのあとを、ピリカは、こっそり尾けていた。手には弓矢を持ち、唇は「いまに見てなさい」という決意で結ばれている。兄のユポは、いつも威張って言う。「狩りは男の仕事だ」「女は足手まといだ。引っ込んでろ」でも、ピリカは納得できなかった。私の方が、ずっと上手くできる。それに、狩りは、きっと楽しいものに違いない。現に男の子たちは、楽しそうに笑い合っている。それが、また、ピリカには面白くない。

 だが、そのムードが一変した。鼻歌も冗談口もパタリと消えた。弓矢、槍、棍棒を持つ手に力がこもる。身を屈めて左右に散開した若い狩人たちは、まだ見えない標的との距離をじりじりと詰めていく。ピリカも、息を殺して、草むらの奥に目を凝らした。

 獲物の背後に回り込んでいた男の子たちが、奇声を上げて草むらのなかに踊り込んだ。とたんに大きな黒い塊が飛び出してきた。猪だった。男の子たちは、一斉に矢を射掛け、槍や棍棒を投げつけた。だが、どれも命中しなかった。辛うじて刺さった矢も、肉を深くえぐることはなく、力なく猪の体から垂れ下がっている。かえって野生の闘志をかきたてただけだ。男の子たちは、残された最後の手段に出た。逃走だ。

 ピリカがひそむ草むらの横を、男の子たちが悲鳴を上げながら通り過ぎていく。彼らを追って、猛り狂った猪が突進してくる。ピリカは、立ち上がって弓に矢をつがえた。ちょうど兄のユポが、その横を走り抜けるところだった。逃げるべきか、立ち止まって妹を連れていくべきか、彼の頭脳は、瞬時に処理できなかった。代わりに彼は立ち止まって見守った。今からでは何をするにも遅すぎる。猪は、すでにピリカの二メートル手前に迫っていた。ピリカには猪の眉間しか見えなかった。兄がなにを叫んだとしても聞こえなかっただろう。

 弓から放たれた矢は、一直線に猪の眉間へと飛んでいって突き刺さった。それでも、猪は進み続けた。ピリカの時間は、矢を放った瞬間から止まっていた。そのままの姿で微動だにしない。このままいけば、猪に跳ね飛ばされるのは時間の問題だった。だが、猪は、ピリカの寸前で急激に失速した。不意に左に傾いたかと思うと、そのまま横倒しに倒れていた。その鼻先が、ピリカの足の指に触れていた。

「すげえな! ピリカ!」

「大した度胸だ」

 さっきまで悲鳴を上げて逃げ惑っていた男の子たちが、ぞろぞろと引き返してきた。ピリカは、言わないことに決めた。体がすくんで動けなかったとは。

「ピリカが男ならよかったのにな」

 友達にそう言われて、兄のユポは、唇を噛みしめるしかなかった。

 帰り道は、ピリカのためのパレードだった。胸を張って歩く彼女のあとに、棒にくくりつけた猪を担いだ男の子たちが続いた。若者たちの大仕事に、集まった村人たちは、賞賛の笑顔を送った。だが、その獲物を仕留めたのが、ピリカだと知ると、眉をしかめる大人も少なくなかった。「女の子のくせに」という聞こえよがしの声をピリカは無視した。

「ピリカさまですね?」目の前に一人の青年が立っていた。「ハポさまがお呼びです」

 ピリカは、来るべき時が来たのを知った。


 ピリカが、巫女(シャーマン)の小屋の前に着くと、すでにイクタラとノンノが待たされていた。二人とも緊張で蒼ざめている。三人の少女は、ここへ来るのも初めてだし、イクタラとピリカは、ハポさまに会うのも初めてだった。ノンノだけが、小さい頃に会った記憶があった。陽炎のように頼りない記憶だが。

「遅いよ、ピリカ。どこ行ってたの?」

 唇をとがらせてノンノが言った。

「ちょっとね」

 猪を射殺したなんて話をノンノは聞きたくないだろう、とピリカは思った。

「やっぱり、あの話だよね」

 イクタラが囁いた。ついさっきノンノにも同じセリフを言ったばかりだった。

 小屋の中から長老のエカシが現れた。この村タアタアンワで、ハポさまを除けば、一番の物識りで、一番偉いひと。ハポさまに会える数少ない村人の一人で、ハポさまの言葉を村人に伝え、ハポさまの言葉どおりに村を動かすのが仕事だった。

「三人とも中に入りなさい」

 黒い幕をくぐると世界が一変した。時間も季節も姿を消して、あるのは、外の光を一切遮断した闇があるばかり。中央で、静かに息づいている炎だけが、世界に色を与えている。その向こうに一人の老婆が座っていた。タアタアンワの巫女、ハポさまだ。三人は、一斉にひざまずいて、床に額を押しつけた。土の床がどんなに汚れていようと知ったことではない。

「顔を上げなさい」

 初めて耳にするハポさまの声。大きな声でもないのに、すぐ耳元で聞こえた。それでも、三人は顔を上げられなかった。顔を上げようとしても、首が石のように硬くて動かなかった。

「それでは顔が見えないでしょう。顔を上げなさい!」

 語尾に苛立ちがこもっていた。三人は、あわてて顔を上げた。初めて見るハポさまの顔は、ふっくらとしたミイラのようだった。冬枯れの肌に、炎を映す瞳だけが赤々と輝いている。

「あなたたち、巫女の仕事が、どんなものか知っていますか?」

「天の言葉を聞いて、人々を良い道に導くことです」

 ハポさまの質問に、真っ先に答えたのはピリカだった。

「簡単に言ってしまえば、そういうことですが、天の言葉というのは正しくありません」

 でも、みんな、そう思っている、とピリカは心の中で唇を尖らせた。

「私は、他の者より多くのものが見えたり、聞こえたりするだけです。あなたたちにも、いつか見えるようになるでしょう。それより、巫女の務めで一番大事なことは何だと思いますか?」

「結界を張って、この村を魔物から護ること……ですか?」

 イクタラが、自信なさそうに言った。

「そのとおり」

 イクタラに先を越されて、ピリカは悔しかった。せっかく二人を一歩リードしたつもりでいたのに。このつまずきは、彼女のなかで苦く残った。彼女以外は気にもしていなかったが。

「私は、結界を張って、長いこと、このタアタアンワを魔物たちから護ってきました。あなたたちの親の親の、そのまた親の時代からです」

 外の世界には、魔物が跳梁跋扈している。そう言われて少女たちは育ってきた。結界の外に一歩でも出れば、たちまち襲われ、食い尽くされてしまう。だが、結界の中にいさえすれば、何の心配もない。魔物たちは、結界の中に入って来れないからだ。だから、村人たちは、何の不安もなく日々の暮らしを送れるのだった。だから、三人の娘は、まだ、魔物にあったことがない。ただ、大人たちから、魔物の恐ろしさを繰り返し聞かされるだけだ。もっとも、その大人たちだって、同じように魔物なんか見たことがないのだった。

「でも、私にも限界があります。いつまでも、結界を張り続けてはいられない。いつかは、誰かに跡を継いでもらわなくてはなりません。だから、あなたたちを呼びました。あなたたちには素質があります。巫女になれる」

 三人の体に電気のような緊張が走った。おそらくそうだろう、と覚悟を決めていたのに。

「あなたたちには、これから修行の旅に出てもらいます。期限は一年。外の世界に出て、いろんな人に会い、いろんなことを教えてもらいなさい。一年後、村に帰ってくるとき、あなたたちは、見違えるように成長していることでしょう。そのとき、三人の中から、私の後継者を選びます」

 三人は、そろって頭を下げ、額を床につけた。肉眼では分からないが、三人とも小刻みに震えていた。使命感と、武者震いと、体の内側から込み上げる恐怖心のために。三人とも知っていた。これまでにも、何組かの村の娘が、修行の旅に出ていることを。そして、誰ひとり帰って来なかったことを。


 翌朝が三人の旅立ちのときだった。未来の巫女の門出を村は総出で見送ることになった。ただし、そのなかにハポさまの姿はない。ハポさまは、決して巫女小屋を離れないのだ。村に危急存亡の危機が訪れない限り。

 ピリカは、家族と一緒に集合場所の村はずれまでやってきた。ユポ兄さんの目からは涙が泉のようにあふれていた、いや、目だけではなく鼻からもだ。

「おまえなら大丈夫だよ。きっと、いい巫女になれる」

「兄貴は、男に生まれてよかったね」いつも憎まれ口しか利いたことのない妹だった。「父さん、母さんのこと、よろしくね」

 そう言うと、ピリカは、くるりと家族に背中を向けた。涙が伝染するのが怖かった。

 ノンノのあとからは、ぞろぞろと村の動物たちがついてきた。リスやウサギや鹿たちが。いつもは、人間を怖れて人前には姿を現さないのに。木の枝には、鳥たちが、身を寄せ合ってひしめいていた。

 イクタラの見送りには、父親が来ていた。

「すまん。父さんは、何もしてやれない」

 そういう父は、いつもより縮んでみえた。

「ううん。そんなことない」

「母さんもいるのか?」

 ひとに気づかれないようにあたりを見回しながら父が訊いた。

「うん」

 母は、さっきから父の右隣にいる。父といるときは、いつもそうだ。

「ごめんね。私は、この村から出られないのよ。一緒についていきたいんだけど」

 夫婦そろって無力感に打ちひしがれていた。

「いいよ。帰ってきたときに、ふたりで出迎えて。その方が私の力になるから」

 夫婦は、そろって目尻の涙を指でふいた。

 三人には、五人の男が護衛として同行することになった。村一番の槍の名手ロコムと村一番の力持ちイトゥナプほか三名だ。三人にとって心強い仲間だった。けれど、その五人にとっても、結界の外は、初めての世界だった。

 村はずれには、村を円く取り囲むように、等間隔で土偶が埋められていた。上半身だけ地上に出ているその土偶は、どれも無表情で村の外を睨んでいる。この土偶のラインを一歩でも踏み越えれば、そこは、もう結界の外。ハポさまの力の及ばない魔物の棲む世界だ。

 一行は、意を決して結界を踏み越えた。何も起こらない。景色も同じなら、空気の味も変わらない。背中では、見送りの声が、まだ聞こえていた。振り返ってみても、さっきと変わらない同じ顔が、手を振っている。彼らとの間に見えない壁があるなんて、とても信じられない。娘たちは思った。本当に結界なんてあるんだろうか? 魔物なんているんだろうか? ただひとつ、おぼろげに分かっているのは、目の前に広がる世界が、彼女らに決して優しくはないということだ。

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