箱庭へ

「やっと着いた……」

 都心部から新幹線、電車、バス、そこからさらに山奥に続くバスを乗り継ぎ、約八時間。およそビルと呼べるような建物が一切ない、人口よりも田畑の数のほうが多いような田舎町。

「いや、着いてしまったのか」

右手に手提げカバン、左肩から右わき腹にかけて革のベルトがかかる円柱型のバッグを持ち、少し汗のにじんだ四つ折りのコピー紙を開いた。

 そこに描かれているのは地図。この辺一帯の道などが描かれている……はずだ。というのも、この地図に描かれているものの八割以上が田畑と山と森で、目印のはずのこのバス停が隅っこにぽつんとあるだけ。しかも、周りを見渡しても根菜の青い葉と、稲穂の黄色しか見当たらない。

 まだ人がいれば道を聞けるものだろうが、すでに陽が傾き始めている時間で、農作業している人もいない。

 ぼくは再び地図に目を落とした。地図によれば、ここから四回、道を曲がりながら西に進んでいけば目的地である祖母の家に着くはずだ。

「……」

 母方の祖母に会ったことは、今までに二回しかない。あくまでぼくが自覚している回数だけれども、限りなく正確な数字だと思う。最後に会った時の印象は決して悪いものではなかった。むしろ、ぼくのことを可愛い孫として見てくれていたようだった。夫――ぼくから見て祖父が先に他界し、数年前からこの村に一人で生活しているらしく、やはり孤独というものを感じているのだろうか。

 ぼくの憶測が当たっていようと当たっていまいと、胸にうずまくこの不安はぬぐえない。近くのコンビニの店員より会った回数が少ないなんて、ほとんど他人に近い。他に行く宛がないとはいえ、果たしてぼくのことを受け入れてくれるだろうか。

 荷物に重心を崩され、足取りが重い。紫色に染まっていく東の空が背中にのしかかってきそうだ。

 アスファルトで舗装されていない土の道は、一歩踏み出すたびにその独特のにおいを土煙とともに巻き上げる。小石がスニーカーと地面との間で擦られ、転がっていく。

「……はあ」

 初秋の生暖かい風が、無遠慮にほほをなでた。まったくもって何の嫌がらせだ。ほんとうに。


 祖母の家に着いたのは、バス停に着いてから二十分ほど経ったころだった。道にはほとんど迷わず、立ち止まることなく到着することができた。なぜ初めて訪れる家を祖母の家だと断定できたか。簡単なことだ。単に他に建造物がない。見渡す限り周囲数百メートル、何もない。正確にいえば、この位置は村の最西端で、家のすぐ裏は山なのだ。バス停のある最南端から北西方向に移動してきたことになる。そして、家の正面は幅二メートルほどのせまい道を挟んで、豊かな稲穂をつけた稲が並ぶ田んぼが、視界の果てまで広がっているのみだ。

 それにしても、やはりこの地図は正確ではなかった。どう見ても、この地図ではひたすら西に進むように書いてあったのに、やたらと北に進むことに疑問を抱いていた。

 祖母の家は思っていたより近代的だった。思い描いていた木造トタン屋根の一階建てではなく、地方都市のモデルハウスのような、洋式のタイル壁が印象的な二階建てだった。それほど大きいようには感じない。周囲に何もないせいだろうか。それとも、さらに大きいマンションに長い間住んでいたせいだろうか。実際、面積にして五十平米かそのくらいだと思う。まあ、建築に詳しいわけでも、不動産に詳しいわけでもないから、ぼくにこの家が大きいのかどうか勘以外で判断することはできない。

 一通り観察を終え、〝姶良あいら〟という表札が掛かっている門にインターホンがあることを確認したぼくは、右手の手提げカバンを門に立てかけ、一息ついてから人差し指を添えた。わずかな押し込みで、なんの抵抗もなく軽やかなメロディーが鳴った。突起しているボタンからゆっくり指を離すと、しばらくして玄関の扉がギィと開く音がした。

「待っていましたよ」

 以前会った時とあまり変わっていないように見えた。そもそも、そこまではっきりとした記憶はないのだけれど、見覚えがある、で済まない程度の親近感はある。祖母はそこまで老いているわけではない。白髪は交じっている程度だし、腰が折れ曲がっているわけでも、梅干しのようにしわくちゃな顔をしているわけでもない。若々しいわけではないが、ぼくの母親と言っても信じられるような見た目だ。

「遅くなりました」

 おそるおそる祖母に答える。いくら身内とはいえ、なれなれしく接することができるほど親しいわけではない。

 一方、祖母はニコッと目を細めると、扉を開けたまま家の中を手で示して見せた。

「さあ、そんなところに立ってないで早くお入りなさい。孫がおばあちゃんに遠慮なんてしないものですよ」

 正直、ほっとした。まあ、身寄りのないぼくを積極的に受け入れてくれたのだから、最初から好意的であることはわかっていたけれど、不安を完全にぬぐうことはできなかったから。

 胸の高さほどの門の右側をゆっくり押して、身体を敷地内に。別に誰かに悪いとは思わなかったが、可能な限り音をたてないように門を閉めた。そのまま一歩一歩、祖母が待っている玄関口に進む。

「まずは荷物を部屋に置いてきなさい。あなたの部屋は二階に上がって、廊下のつき当たりですよ」

 玄関に入るなり、祖母は靴を脱ぎかけていたぼくに提案する。

「う、うん」

 靴を脱ぎ揃えた。きれいな木目のフローリングはひんやりしていて、じめっとした靴下の中に冷気が侵入してきた。じんわり浸透してくる心地よさに、一瞬足が止まった。

 祖母はそんなぼくを見て何も口にはしなかったが、にっこり微笑んでから一階の奥の部屋に入っていった。きっとリビングなんだろう。

 これから一緒に生活するんだ。祖母だなんて他人行儀な呼び方は良くないし、昔みたいにおばあちゃんって呼んでもいいかなぁ……。

 ぼくは玄関すぐにある右手の階段を見上げ、足を進めた。荷物はそこまで重くないから、上りづらいということはない。しかし、やはり知らない家をまわるというのは心理的に受け入れがたいものだ。ものの十秒ほどで二階につくと、廊下の左右に統一された木のドアと、奥に同じドアが見えた。

 あれがぼくの部屋だろうか。

 机やタンス、その他もろもろの家具は持ってくることなく処分してきた。今抱えている服や生活必需品だけがぼくの荷物だ。だから、あのドアの先にはぼくのものは何もない。話によると、おばあちゃんが少し用意してくれたのと、この地域の地主さんが援助してくれてちょっとした家具はあるらしいけど。

 ごくり、とつばを飲み込んでドアに手をかける。波の形をした黄金色のレバーハンドルを軽く下げ、ゆっくりと押した。

「あっ」

 思わず声が出た。そういえばもうこんな時間だ。暗くてよくわからない。二階のこの廊下も暗かったが、廊下を照らす電灯もあるだろう。しかし、もともと点いていた一階と階段の電灯が照らしてくれているおかげでここまでは問題なくたどり着いたようだった。

 この部屋の明かりをつけるスイッチはどこだろう。たぶん、入り口近くにあると思うんだけど。

 意味もなく持ち続けていた左手の地図を手放して、ドアのない左側を探す。すると、すぐに親指大の突起がみつかった。どうやら上下に切り替えるタイプのもので、今盛り上がってる方へ切り替えると、何度か点滅を繰り返した後、頭上の電灯が点いた。

 思っていたよりも広い、というのが第一印象だった。前の家での部屋に比べて物が少ないということもあるが、単純に面積が広い気がする。部屋には真新しい木製の机と、黒い光沢のタンスらしきもの、それと中央に丈の低い丸テーブルがある。床には白色のカーペットが敷いてあり、その下は廊下と同じフローリングらしい。

 部屋に足を踏み入れ、床に荷物を置いた。どうやらここは角部屋というか、二階の一角を占めているようで、入って左手に窓があった。それ以外は……あれ、ベッドはないのだろうか。

 正面に机とタンス、中央に丸テーブル。右手のドアで半分隠れているが、壁に収納スペースらしきスライドドア。やはりベッドというか寝具がない。

 もしかすると、おばあちゃんは布団で寝ているだろうから、ぼくもそうなのかな。その辺もあとで聞いておこう。

「郁くん。ごはんができましたから、降りてらっしゃい」

 背後からおばあちゃんの声が聞こえた。廊下に反響する声から察するに、一階から吹き抜けの階段に向かって呼んでいるのだろう。

「すぐ行きます」

 ぼくは返事をし、部屋の明かりを落として一階に向かった。



 夕飯は純和食だった。味噌汁に焼き魚、おひたしに漬物、白ご飯。まあ、洋食が出てきても反応に困るけど。

 しかし、こうして誰かと食事をするというのは久しぶりだ。手作りの料理も。何年前の話だろう、もう覚えていない。

「郁くん」

「はい」

 おばあちゃんが話しかけてきた。箸の持ち方や作法がとても上品だ。

「ごはん、おいしいですか?」

「う、うん」

 身体をこわばらせながら頷く。

「そうですか。お母さんと味付けが違っているのではと心配していましたが」

 おばあちゃんは安心したのか、椀の上に箸を置いた。

 もちろん、味付けが百パーセント同じだったというわけではない。それにもともと身内だったお母さんと、その母親であるおばあちゃんの味付けが似ていても不思議ではない。

 しかし、そういう問題ではなかった。

「……ありがとう」

「どうかしましたか?」

「ううん、なんでもない」

 きっと、ぼくのことを気遣っているのだろう。切り出すべき話を、おばあちゃんはしてこない。たぶん、ぼくから切り出すまではそっとしておこうということなのだろう。心の整理とか。

 なにより、ぼくは子どもだから。

「ごちそうさま」

 食べ終わると、食器を流し台のほうに運ぼうとする。

「ああ、置いといてください。今日は疲れたでしょう」

「え、でも」

「ここはもうあなたの家なんですから、そうやっておばあちゃんに気を使わなくていいんです」

 はっ、とぼくは気が付く。つい身体が動いたことが、おばあちゃんにはそう映ったらしい。

「あ、うん……じゃあお願い」

 少し罪悪感があったが、テーブルに食器を置いて、自分の部屋に戻ろうとした。

「お風呂沸かしておきますから、また呼びますね」

「はい」



 部屋で荷物の整理をしていると、少ししておばあちゃんからまた呼び出しがあった。この家の風呂も外見に劣らず新品そのもので、木の板とか薪とか、そういった田舎のイメージが壊れるような現代風のつくりだった。もしかすると前のマンションより豪華かもしれない。

 この村のことは全く知らないけど、少なくともこの家は隅から隅まで田舎という田舎の要素が欠片もない。一歩出ればコンビニすらない、舗装された道路もないド田舎なのに。

 ぼくの両親も、親族も、一般的な中層階級の家庭だと思う。なのにこんな立派な一軒家が建てられるなんて余裕があるのだろうか。

 疑念を抱きながらその恩恵を浴び、ぼくは風呂から出て部屋に戻った。

「本当に、こうなっちゃったんだなぁ」

 ここ一か月の日々を思い出しながらベッドで体を休める。怒涛の一か月だった。でも、予想外ではなかった。こうなる予想はずっとずっと昔からあった。それが二年前か一か月前か、その違いしかない。

 ふと、視界の端に制服が映った。つい数日前まで所属していた前の高校のものだ。そこそこ凝ったデザインの、紺色を基調とした制服。正直ぼくはあまり好きではなかった。どこか偉そうで、そういった競争意識が薄いぼくには不似合いな気がして。

 でも、今となっては気が軽い。明日もこの制服を着ることになるが、意味合いがだいぶ違う。大丈夫、大丈夫だ。

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