3. 睦月とリリアン

 ガイアが再びこの世界を安定へと導いたのは、まさにその高度な科学技術によるところが大きい。無論それは崩壊する以前の前時代から引き継がれ、保たれたものであったが、実質それ以上の何かがあったことは事実である。そうでなければ、世界は再び歩みを始めることなど出来なかった。


 まるでこの世のものとは思えぬ、天高く聖都に聳えるセントラルタワーにしても、広大な全土をあまねく繋ぐネットワーク機能にしても。ライフライン完璧に敷かれ、政治経済など社会機構は整然とし、かつてのコンピューター社会以上の全能なる力が随所に満ち満ちていた。機械はいつか壊れる。だが生命は無限である。そう、たとえ一度死に滅びに瀕したとしても、再び生まれ変わる力を持っている。


 だから必要なのだ。その永遠ともいえる再生の力を持つ生命の力が。


 地球そのものは、その巨大な生命とも言えた。その共振する自然エネルギーこそがガイアの力の源だった。地球共鳴、大いなるレゾナンス。あらゆる物質生命が持つ固有振動数。その固有振動に電磁波などをぶつけ周波数をチューンすることで、その共鳴は可能となる。それは当然、前時代の原子力や石油エネルギーとは次元そのものを異にする、いわば究極のエネルギーであり兵器であった。文字通り無から取り出すことのできる無限大の力。だが……。


 かつての人間社会が、その行き過ぎた消費経済の発展のうちに、いつしか疲弊し、最後には見えざる手によって葬られたように。いつの日か終わり来る未来ではなく、未来永劫続く真の理想社会を築くために。それを人はユートピアと呼ぶのだろうか。


 だが“少年”は、それを壊しにやってくる。何のために? かつてなくした双児の片割れを取り戻すために――それは“彼”であって彼ではない。太陽と月がこの地上で二元的観点から、あつらえたように人々から迎えられたように。本当は彼方に存在する天球の星々こそが唯一の神であるのに。その唯一神、北極星ポーラスターが、たとえどこにあっても……。


 『ル……ミ……ナ……ス』

 まぶしげに閉じられたひとみに、有無を言わさず差し込んでくる光。

 そう、それはアイツと初めて出逢った瞬間の記憶だった。


 その時はまだ、あたしは何も知らなかった。でも今は違う。たとえ理不尽にこの身を支配され操られたのだとしても。たとえどんな運命に自分自身が翻弄されても。ただの幼子だった過ぎ去りし日の涙。アマテラスという、二重にアイツを縛るクビキがある限り――。


 悲しみは終わらない……。


 はたしていているのはアイツなのか、それともあたし自身なのか。“記憶”はどこまでも曖昧で、真実ほんとうのことを悟ることを容易に許さなかった。

 

     *


 かつて世界の裏社会を支配したといわれるイルミナティの秘密結社。その血脈がギルガメシュ財団の先駆けとも噂されている。大地の地母神ガイア。それに対し、龍神に守られ海を統べる海人族。人類の発祥、始祖とも考えられているメソポタミアはバビロンの地に興ったシュメール文明は、まさに天と海とを崇めた太古の文明であった。古代シュメール神話の海の神ティアマトは、その語が転じてヤマトとなったのか。そう、それはかつての日本、イザナギである。シュメールとは、すなわちスメル、スメラミコトの語源となったとの説もある。


 世界のはじまりが、かつて全てひとつでなかったという証拠はない。むしろそうであった可能性の方が高い。ガイアもイザナギ(日本)も、もしかしたら、その起源は一つ処に集約されるのかもしれない。神が創った人間の社会。シュメール=崇高なるものという語源が意味するものは……。


 かつて世界の主権を握っていた合衆国が解体し、国連がその意味を成さなくなり、人種の坩堝と化した混沌の大地を再び一つの連合国家にまとめ上げたのは、まさに神の力なくしてはありえなかった。それが人智を超えた存在でなかったなどと言えるだろうか。例え軍事専制国家として未だ混乱の収まらぬ世界をその手の内に力で支配していたとしても。


『人々は自由という名の鳥籠の中に飼われていた方が幸せなのだよ』

 ――かつてギルガメシュ財団を束ねていた元老院メンバーであった父が言っていた。


 確かにそうだ。秩序という名の檻がなければ、途端に世界はたちまち瓦解する。確固とした法がなければ欲望という欲望があたりかまわず跋扈し、人類の社会秩序そのものが著しく乱される。その当たり前の囲いがなければ、人間は人間としての理性と尊厳を見失う。だが何かがおかしい。


 リヒテルは、先日のイザナギは奄美諸島近海の孤島で起こった戦闘により、拉致されたテロ組織パルジャミヤの若き首領の言葉を思い出していた。


『我々は決して屈しない――我らが神ナーガラージャの加護の元、その光の奇蹟が指し示す限り……!』


 半ば傷ついた身で……そして大半の仲間を、あの容赦ない龍神が放つ烈しい焔火によって失いながら。確かに最初に砲火を発したのは、我が軍の方ではあったのだが。だが、あのアグニという首領の放つ異様な眼光に胸騒ぎを覚える。


 デュナム様……。


 イザナギも、そしてパルジャミヤの母国であるインディアナ共和国も、同様の神を崇めている。ただその名と姿形が変化しただけで、実は元は一つだったのではないか。それこそが唯一無二の命の源であるところの龍蛇の神。かつて大地母神ガイアの怒りが沈めた幻の大陸と、再びこの地に集い大国を興した神秘の光。一〇数年前にイザナギ――日本列島を海に沈めた原因不明の大地殻変動。それは再びガイアの鉄槌がこの地上に下されたことに他ならないのではないか。


 それでも人は再び起き上がる。たとえ地球上が混乱し、人類の大半が失われたのだとしても。その復興を支えたのは、何よりこのガイアの科学技術なのだ。かつて科学と宗教は相反するものだった。しかしその実、両者は同じ目的のために存在していた。ガリレオ・ガリレイら中世ヨーロッパの科学者らは宗教によって神の名の下に弾圧された。だが今、神は自らが科学を用い、その全知全能の力で世界を治めている。ガイアの国家元首は確かに存在しているが、それもデュナム様の力によって操られているに過ぎない。


『――本当は彼でさえ、見えざる神によって操られているのかもしれませんね』


 ふとワイズ博士の発した言葉が脳裏に蘇り、リヒテルはかぶりを振った。そんなはずが……! 彼にとって「白のメシア」は唯一絶対の存在であり、だからこそこの身を財団に、国のために捧げたのだ。たとえその聖なる少年が出自の知れない、まるで天使そのものの実体を持たぬ者のようであったとしても。


     *


「ねえ、待ってよデュナン!」

 少女は、ようやく追いついた少年の背を呼びとめた。


「お前は……確かリリアン・パスティム……だったか」

「だったか、じゃないわよ。転校生に同じ班の班長のあたしが校内を案内するのは当然でしょ?」


 なのに、さっさと一人で行ってしまって――、リリアンはそこまで言いかけて、待って! それでも無視して去って行こうとする目の前の少年の手を不意に取ろうとした。

「……触るな!」

 触れかけた左手をさっと避けると、少年は低く鋭い声で静かに制止した。

「……っ」

 少女は思わずその手を引っ込める。

「――すまない。一つだけ教えてくれ」

 デュナンと呼ばれた少年は、一瞬凍りついたように黙り込んだ少女に謝ると、ある場所を尋ねた。

「大学の教授棟は、どこだ?」


 アマテラス・ドームの中心地に位置する、トウキョウ市に校舎を構える天照大学付属学園、通称アマテラス校。そこはイザナギは勿論のこと、多くのガイアからの学生が通う文字通りのエリート校であった。ガイア人、すなわち白人であるブリティッシュには、類まれなる優秀な生徒が多かった。だからここでは、通常の授業は勿論のこと、普通の高校なら学ばないような、大学研究以上の高度な授業も多数行われていた。


 リリアンは、見た目ブリティッシュでも、転向してきたばかりのデュナンは、何かと不慣れを感じていると思い親切心から、いや班長として当たり前のことをしようとしただけだった。


 ――でも、どことなく東洋系の顔立ちでもあるわね?


 リリアンはデュナンの少々迷惑そうな仏頂面を思い返していた。デュナン・リトラス。何よ、人がせっかく……そこまで思って、先程のデュナンの瞳に一瞬走った氷のように鋭い光を思い出して、理由わけもわからず身震いする自分を不思議に思った。


「でも、教授棟に一体何の用があるのかしら?」

 ふと呟いてから、海堂教授に提出する物理学の授業の提出物があったことを思い出す。


     *


 やはりエリート校として名を馳せる天照大学の付属高、それも中心基地とも言えるアマテラス校のエリートアカデミー科だけあって、いくつもの棟に分かれた立派な校舎が林立する広い校内が続く。その広大な敷地内で、たった一人の教授を探し出すのは困難に思えた。ただでさえ忙しい身の有名大学教授だ。幾つかのクラスの授業が終わってからも、自身の研究対象における研究目的で執務室に篭ることもあれば、大学図書館を徘徊したり、教授同士の研究会などの会合に出席したりすることもある。


 だが――。


 デュナンは独特の鋭い勘によって――実際はそうではないのだが――、半ば閑散とした放課後の広い校内を、まるで海洋の中に紛れた一滴を探し出すイルカのように黙って泳いでいく。


『リリアン・パスティム……あの女……彼女あいつは使えそうだな』

 そう胸の内で念じると、ダメ! 消え入りそうな、もう一つの声が木霊する。

『――大丈夫だ、悪いようにはしない』

 それでも、少年の中の“少女”の心は不安だった。


 ……ダメ、ダメよ。もう誰も傷つけないで……。


     *


「――お願い、もう誰も傷つけないで……!」


 不意に響く、その半ば泣き叫ぶような声にビクッと身を起こす。睦月は、ずっと放心したままだった一人の少女を共に連れ帰ったことを思い出した。


 あの島で唯一生き残ったキリアン部隊に所属していた睦月真吾。捕虜として拘束したパルジャミヤの頭領と、その数名の手下達。おそらく銃殺刑は免れないだろうものを生かしておく選択を取った上層部の判断を不審に思いながら、それでも、心のどこかでほっとしていた自分がいた。


「お願い……ルミナス……」


 ルミナスって一体誰のことだ? 龍神と共にいた少女、金城瑠美那。自分は隊長から、彼女の身柄の保護と監視を命じられた。それだけに緊張は高まる。しかし。見たところ同い年のようだしな――、そう言って茶目っ気のある笑いを含んだキリアンの瞳に、冗談きついっすよ。と思いながら、本当はどことなく興味があったのは事実だ。


 “龍神”のことなのか、ルミナスって。僅かに伝えられていた情報では、龍蛇、龍神は光り輝く神でもあると聞く。実際は霊体、アストラル体が実体を伴ったものなのだろうが、それをルミナスと呼ぶ少女、金城瑠美那。


 島の片隅で発見された時、彼女の瞳は酷く涙で濡れていた。こんな可愛い子を泣かすやつは、まったくのヒトデナシだな。そう胸の内で呟いてから、ふと相手が人でなかったことを思い出す。……なのに、どうして。どうして彼女は、それほどまでに深く悲しんでいたのだろうか。


 おそらく、そこまで精神を侵されてしまうほど、龍神の少女は禁忌の神に文字通り魂を吸い取られてしまっていたのだ。キリアン隊長や上層部は多分そう判断するだろう。でも……。睦月には、それだけであるとは到底思えなかった。


 イオリゲルの母艦アステリウスは、明後日アマテラス・ドームに立ち寄る。最重要危険人物である、パルジャミヤの幹部を連行していることもあり、実際はそのまま本国へと帰還しなければならないのだが、諸々物資の補給と共に、傷ついた兵士達の一時移送や医療品の確保を隣接するツクヨミ・ドームで行わなければならなかった。さらに当然、D-2の整備も同様にスサノオ・ドームにて事足りる。


 それまでに“彼女”を落ち着かせたいところだが……。時折、真夜中に思い出したように泣き叫ぶ以外、彼女・金城瑠美那は、何か言葉を掛けても何も応じる気配もなく、ただカタカタと身を震わせるばかりだった。……可哀想に。


「君はどうしてあの島にいたの?」――当然そう訊ねても答えはない。


 睦月は上から命じられていた一切の尋問を一時やめることにした。無理に訊き出そうとしても、きっと無駄だ。それはキリアン隊長もおそらく了解してくれるはずである。それよりも、彼女の心を覆っている悲しみの感情と恐怖心を取り除く方がまず先決だ。


 そっと毛布で冷えた身体を包み、ホットミルクの注がれたマグカップを差し出す。「大丈夫。心配しなくても大丈夫だよ」


 そんなことを言っても、せん無いことは重々承知の上だった。それでも閉じていた心が光を取り戻し、次第に開いていく。それを確信しているのは、やはり彼がデュナミスのエリート部隊であるイオリゲルの一員だからか。


 ……どうしてだろうな。なぜだか君とはどこかで会っていたような気がする。そう心で呟くと、少女のとび色の瞳が不意に見開かれる。


「初めまして、僕は睦月真吾。あらためまして、金城瑠美那さん」

 そう初めて自己紹介すると、俄かに少女の唇が動くのが分かった。

「睦月……真吾」


 そう、そうだよ。特に失語症にかかっていたわけでもないけれど、初めてこうして向き合って言葉を交わせたような気がする。何より睦月の温かい人柄と穏やかな優しさに満ちた瞳が、彼女を幻影まぼろしの牢獄から救い出したのかもしれない。でも。


「ルミナス……」

 相変わらず彼女は時折、その名を呟いた。そんなにアイツのことが好きなのか。そんなわけもないだろうに、不思議と睦月はその“ルミナス”とやらに嫉妬する自分をいつしか発見していた。


    *


 “その瞬間とき”少女は、「もう一人の自分」に意識を明け渡してしまった。でもそれは、心の奥深くで心底彼を信じていたからだ。そう……もう一人の自分。大丈夫、大丈夫だよ。――誰かがどこかで、そう囁いた。それは鏡の向こうから響いてくる声のように、この世界に新たに生まれ出る熱い息吹を吹き込む。たとえこの世界が仮初の映し鏡なのだとしても。


 ……ルミナス。


 絶望と希望が交錯する。それはまさに光と闇。手を伸ばせば、すぐ届きそうなのに、この声を涸らして叫んだら答えてくれそうなのに。なのにその人は遠く微笑む。今もここにいる。この胸の中で、あたしを温めてくれてる。すぐ傍らで息づく、あたしの太陽神。ねえ、あの時の微笑みは嘘だったの? 違う。あたしは今も彼を――ルミナス、あなたを。


 ああ、父さん。


 あたしが眠っている時は彼が。彼が眠っている時はあたしが。彼はあたしで、あたしは彼で。メタモルフォーゼ……一つになった、あたしとアイツ。でも、心と身体はもう、こんなに離れてしまった。だのにどうして、こんなにアイツを近くに感じるの。


 その罪も罰も――背負った運命の重みまでも。


    *


「瑠美那……瑠美那!」

 ハッとして見上げると、開け放った部屋の扉の前に睦月が佇んでいた。

「もうすぐアマテラスだよ。明日の朝には到着する予定だ」

 ――ごめんなさい。あたしはアマテラスには行けない。だって、あそこにはアイツが。意識の底であたしはそう言い淀む。しかし、睦月は続けた。


「君はニライカナイの天照大付属高校に通っていたんだったね。じゃ、ちょうどいい。実は僕の双子の弟がアマテラスドームの同じ高校に通っているんだ」

 睦月は翌日、久しぶりに一日だけ休暇を取り、その弟に会いに行くのだという。


「勿論、追々君は沖縄に帰してあげるつもりだけど、色んな手続きが終わるまで、君をアマテラスの知人に預けようと思うんだ」

 ――いや、それはガイアの、イオリゲルの上層部が……、その言葉を飲み込み、人知れずかぶりを振ると睦月は明るい笑顔を作った。


「大丈夫だよ、君もよく知っている人の知り合いだから」

 “その人”が、叔父の島嶺黎司の知人――上司だと知るのは、もう少し経ってからのことだった。

「う……ん、ありがと――睦月」


 でも、あたしはもう少し、この人の側で過ごしていたかったな。何だかとっても安らげる。そう、忘れられるものなら、忘れたかった。きっと睦月だったら。……この人だったら、あたしをはてしのない闇の呪縛から救い出してくれる。なんとなく、なんとなくそんな気がしたんだ。


    *


 その地下牢はコンピューターデバイスによって完全制御されていた。いや、本当はそんなものなど真の意味で必要なかったのかもしれない。なぜなら、ここはデュナミスのエリート部隊、イオリゲルの母艦内部であるからだ。アステリウス、怪物ミノタウロスの別名。怪物――彼らはまさに本能に支配された、人と獣の合いの子であるのかもしれなかった。


「くっ……!」


 死なぬ程度に治療されたとはいえ、未だ血の滲む傷跡の残る身体が軋む。両手首を電子ロックの鎖で縛られたまま、海賊パルジャミヤの青年首領は唇を噛んだ。本当ならこのまま生き恥を晒すより、自ら舌を噛み切って自害するという選択も残されていたが、そんなことは己のプライドが許しはしない。――それは彼が母国インディアナ共和国の皇族出身であるばかりでなく――、そうだ、俺は生きねばならない、決して死んではならない。あの孤島の海で命を落とした多くの同胞達のためにも。


 ――そう、あなたは生きなければならない。

「……っ! 誰だ!?」


 ふと、脳裏に響いたその声にアグニは眸を見開いた。聞き覚えのある女の声だ。まさか……。不意に気丈な女剣士の厳しい眼差しが瞼の裏側に蘇る。


 そうだ、あの時俺はアイツを庇って。彼女はそのまま海に落ちた。少女とはいえ、よく鍛えられた身体はたとえ高波であろうとも、無事泳ぎきれるはずだ。そう信じたからこそ、アグニは潔く正面からこの傷を受けたのだ。


 それはある意味で一つの“洗礼”であるのかもしれなかった。たとえ俺が捕らえられたとしても、ヴァルナと、そして残された仲間達が必ずやパルジャミヤを建て直す。それより、あの龍神は――光と闇の交差する場処で輝く、あれはまさにナーガラージャ……。


 そうだ、俺は生きねばならない! この鎖の拘束が解かれるものなら、今すぐにでも……! 今すぐ。あの龍神が導く光に手を伸ばす。


     *


 掌にずっしりとした重みが伝わる。クロエはその神剣の重みを改めて胸に刻んだ。それはあの時も、そして今も同じだ。この心に刻まれた想いは変わらない。たとえ忠誠心という言葉に固く隠されていたとしても。“アイツ”はきっとここにいる、ならば。


 たとえ移し身であるカグツチが傷ついたとしても、かの人のプライドは傷つかない。いや、それどころか、怒りという名の紅蓮の焔が地上という地上をことごとく灼き尽くすだろう。だが、そのために彼らを犠牲にしてしまった。その償い――と呼ぶには、あまりにも傲慢だが。そう、私は必ずや彼を救い出す。


 ……待っていてください、クスヒ様。いいえ――、

 ぐっと飲み込んだ言葉に、喉元が不意にツンとした痛みを伴い一瞬啼いた。


    *


 どこまでも続く海原を背後に湛えたその島は、未だくすぶる硝煙の匂いで満ちていた。


 まるで生命という生命が根絶やしにされてしまったようだ。すべてが薙ぎ払われたあとには、絶望という嘆きの想いしか残されてはいない。が、そこにはまだ、希望という光の残滓が残されていた。


 かつて夢にまで見たかの人の姿はそこには既になかった。全身に滴る重い雫と何度も波に打たれた鈍痛いたみを引きずるようにして、クロエはようやく立ち上がった。ほのかに潮の香りを含んだ微風が頬を撫でていく。それでもあからさまに死が横たわる砂浜にただ一人、打ち捨てられた枯れ木のように蹲る儚げな人影を見た。


 そう、あの神の孤島しまで再び合いまみえた時、アイツは心を失っていた。メタモルフォーゼ。“奪われた”のだ。圧倒的な悲しみに打ちひしがれる背中に、それでも力を込めた。


「立て!」


 そう声をかけ叱咤した。決して自分を見失ってはならない。己の裡に眠る日の光を。それは、かの人に心奪われた少女自身を呪ったからではない。もう同じ過ちを犯してはならない。ただそのために私はクスヒ様を。かの人の辛苦を理解できるなどという、おこがましさは持たない。だが。


 神と人間。その不条理極まる次元の壁を超えて……かの人は神代の娘を見出し、神代の娘はかの人と――、その強固な絆は決して事切れることはないのだ――だから。


 お前は立ち上がれ……!


 世界を両断する使命を帯びた、パルジャミヤの頭が救ってくれたこの身で波を掻き分け岸を目指したのは、かの人そのものを目指したからではなかった。それが翻ってかの人自身をも救うことになる。必ず伝えねばならない。“お前”は生かされている、そう今も生きていることを。龍神の娘ならば、そのことに気付くはずだ。いや、それは生きる者すべての至上命題といってもいい。たとえクスヒ様の魂が離れても。依代の力で新たな肉体に分離したとしても。誓約の儀式を終えた者は常にその心身と共にある。


 クロエ――か。仮初のこの名はアイツの父が付けてくれた名だ。たとえあの無人島しまで初めて出会った時名乗ったとしても、アイツに何か分かっただろうか。……そんなはずはない。それでも。


「ルミナス……」

 ふっ――神々しい、美しい名だ。

 うわ言のようにそう呟き続ける、既にあの方のものとなった少女の唇に、ふと嫉妬した。


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