2. 環礁の出会い


 もう、どうしてだよ。勝手に現れて勝手に消える。この環礁にやってくるまでは、ずっと二人だったけど。それだけにあたしたちは、どこかで互いに見えない壁を崩せずにいた。


 でも、確かにルミナス自身も、どこか疲れているように見えた。それはそうだ、まだ本格的に姿を顕せるようになってから、何日も経っていない。それなのに空を飛翔している間中、彼は私を例の光の繭の中で守ってくれていた。その腕に抱かれている間は、もっとずっと穏やかな気持ちでいたのに……。


 勝手なのは、あたしの方だ……多分。そう思うと、ついさっきまでの忌々しい空腹感がどこかに行ってしまった。勿論、お腹が空いて倒れそうなのは、今も変わらないけど。改めて強い潮風に吹かれながら、砂浜に立って一人この環礁の全景を眺めた。辺りは見渡す限り海、海、海。その中程に珊瑚でできた島嶼しまにへばり付くようにしてある群れなす樹々の森。人っ子一人いない。さすがにあたしは少しばかり不安になった。


 すると、先程まであんなに晴れていた空が俄かに曇り始めた。スコールだ。あたしは僅かにその環礁にへばり付くようにして生えている森林に向かって走り出した。亜熱帯の森独特の植生の植物が生い茂る濃い緑のそこは、どこかしら鬱蒼としていた。僅かでも雨粒を凌げる場所を探す。その間にも、どしゃぶりの雨が既に身体中を叩いていた。


 しばらくジャングルをさまよった先に、こんな小さな島には珍しい、こんもりとした小ぶりの岩山が葉陰から姿を表す。その崖壁の隙間にほんの小さな洞穴が開いている。あたしはこれ幸いと、その岩穴に駆け込んだ。


 激しいスコールは一向にやむ気配がない。雨に濡れた身体を震わせ、岩屋根の軒下から不安げに真っ黒な空を見上げる。そうしていたら、先程の空腹が思い出したようにまた襲ってきて、あたしは突然心細くなり泣き出したくなった。


 沖縄本島にいた時は、こんな雨、屁でもなかったのに……さしもの強気の瑠美那さんも、かたなしですか。不意に昨日まで傍で感じていた、ルミナスの温かい体温が懐かしくなる。幽霊もとい太陽神に体温、というのもおかしな話だけど。でもアイツの身体は確かにほのかな温もりに包まれていた。


 それはまるで、どこか春の日の陽だまりにも似て……。その温もりを拒否したのは、あたし。アイツだってきっと今一人きり淋しいに違いない。多分だって、あたしがいないとアイツは……その当たり前の体温でさえ保っていられないんでしょ?決して傲慢ではない気持ちで、あたしは一人思った。


 そうしたら、急に後悔の念が襲ってくる。さっきはどうしてあんなこと言ったんだろう。あたしとアイツは、きっともう離れられない関係なのかもしれないのに。そう、あたしたちはあの時既に一心同体の間柄になったんだ。


 いつしか地べたに座り込んだ身体全体が急激に冷えてきて、ぶるっと身を震わせる。何とかしないと風邪引いちゃうよ。ふと所在無げに振り返った洞窟の奥で何かの光がちらっと揺らめいたような気がした。誰かいるの?思わずあたしは、恐る恐るその光の動く方へと足を踏み出した。


 洞窟内は意外と深いようで目の前は暗く、考えもなしに奥へと入ってしまったことを今更ながら少なからず後悔する。でも、確かにその光は奥へ奥へと何かの道しるべのように続き、あたし自身を導いた。


 その時――。


「停まれ!」

 その声にはっとした瞬間、誰かに後ろから羽交い絞めにされ、突然身動きが取れなくなる。

「んむぅっ……!」


 とっさに叫ぼうとしたが、間一髪掌で口素を塞がれ、悲鳴こえも出ない。薄暗い洞穴の中では、当然相手の顔も判然としない。同時に頬にひんやりとした切っ先のナイフを突きつけられたあたしは、いよいよ進退極まり目に見えぬ恐怖感に襲われた。ほんと心臓の鼓動が止まるかと思ったよ。


「――お前は誰だ、どこから来た?」


 それはまだ歳若い女の声だった。けれど、どことなくその声は凛とした響きを纏い、その身体の動きにも寸分の隙もないようだった。だけどこんな小さな環礁の無人島の、それも鬱蒼とした熱帯雨林の洞窟に、どうしてこんな若い女がいるのだろう。そんな当たり前の疑問も素直に湧いてこないほど、今のあたしの状況は切迫していた。


 だが雨に濡れてよほど冷えていたのだろう、口元を塞がれて碌に呼吸もできないあたしは、思わずケホケホと咳き込み出した。すると背後の女が、さすがに見かねて、すかさず声をかける。


「大丈夫か?」

 どうやら、それほど悪い人物ではなさそうだ。


     *


「よほど腹が空いていたようだな」


 あたしはその人物に促され、洞窟の一角で燃えている暖かな焚き火の前に座り、少しばかりの燻製の魚と汁物のスープを口にしていた。さっきチラチラと見えた明かりは、この焚き火の炎だったようだ。少しだけ焦げ臭かったが魚も、そして有り合わせの青菜や芋などが入った汁物も本当に美味しかった。やっぱり目の前の相手が言うように、よっぽど空きっ腹だったんだ。


 しかし、問題はこの目の前の相手である。見た目の顔つきは、まだ歳若い少女のようであるのだが……、厚手のマントを身に纏い、身長こそ低く華奢だが、それでも決してひ弱そうではない相手の、そのごつごつとした指先は、よほどの手練てだれである証拠だったのだが、極々凡人であるあたしにそんなことが解るわけもない。それより何より、その一寸の隙も見せない殺気、切れ長の眸の奥の眼光の鋭さに圧倒させられる。


本島しまの人間か?」


 確かに少女の言う通りだったのだが、訝しげに訊く少女にアイツのことを話して、はたして信じてもらえるのかどうか。なので適当にここまで来た理由を考えてみるも、それらしくまっとうな答えが見つからない。まさか漂流してきました、とも言えないし……。


「え、ええ……」


 あはは、思わず曖昧な返事で笑って誤魔化そうとする。ど、どうしよう。いきなりフツーの女子高生が、こんな無人島に……確かにあやしいと言われれば、あやしすぎますって。


「あ、あの私、決してあやしいものではっ。それにすぐお暇しますので……!」

ついつい焦って逃げ腰になり、言わなくてもいいことまで口走ってしまう。そんな風に所在無げに焦りまくるあたしを、やはりどうやら相手は不審に思ったようだ。


「お前、何者だ。返答如何によっては――」


 いきなり先程みたいな殺気を帯び始めてきたその声色に、俄かに膠着する。するとひらり、と瞬間払いのけたマントの下に隠していた重々しい長剣が姿を表し、あたしは愕然とする。少女は光のような素早さで鞘から剣を引き抜くと、眼前に構えた。


「……ッ?」

 その途端――いきなりその剣が眩いばかりの輝きを放ち始め、あたしは思わず両目を瞑り手の甲で覆う。

「こ、これはっ……!?」


 さしもの少女もこれには驚いたらしい。厳しい顔つきに歳相応の反応が現れ、その眸が見開かれる。まさか……、少女は確かに短くそう叫んだ。どうしてこの剣が光るのか、おそらく彼女にはその何がしかの理由わけが解っているようだった。あたしはというと、ただただ腰を抜かして、その場にしゃがみ込むだけだった。勿論、腰を抜かす程度の事なんてアイツと出遭ってからというもの、ほとんど日常茶飯事だったんだけど。


「まさか、お前は――、」


 半信半疑の表情で何とか剣を鞘に収めながら、少女が改めてあたしの顔を見下ろす。だが、その先の言葉は容易に出てこないようだった。いや、単に不用意に出さないだけだったのかもしれない。それはきっと、あたし自身が、とある太陽神と並々ならぬ関係になってしまったことを話せないのと同じ理由からだったのかもしれない。


 けれどでも、その相手がまさか……第一最初から何だか変だと思ってた。まるでRPGのファンタジーから飛び出してきたような相手のその容貌。それを言えばルミナスだって、余裕でそのファンタジーの住人そのものだ。


 突然の出来事に、さっきまでの静かだった空気が急にピリピリし出してきて、あたしは既にこの相手と一緒にいること自体に疲れてくる。だって目の前で妙なオーラの眼光と殺気を常に発して来られたら……、しかし、その緊張と互いの警戒心とがピークに達し始めた頃、次第に外の雨音が弱まり始めてきた。一時雨宿りのためにこの洞窟にいたのか、それとも一晩ほど仮の寝座としていたのか、どちらにしろ少女はもう出発するようである。


「……お前はどうする? やはり私と一緒に行くか」


 辺りの荷物をまとめ身支度をし始めた少女に、唐突にそう訊かれ躊躇する。

「あの……でも、やっぱり」


 はっきりしないやつだな……私はもう行くぞ――そう苛立ち紛れに素っ気なく言い放ちながら、相手はさっさと洞穴の外へ出て行く。勿論その場に留まるわけにも行かないから、あたしも仕方なく付いていく。しかし、横顔だけで振り返り背後をちらと窺うその眸は、やはり油断ならぬ光を放っていた。


 外に出ると嘘みたいにすっかり雨はあがり、南国特有の抜けるような眩しい青空が広がっていた。その日光の差している反対側の海辺には、まだ灰色の靄が立ち込め、そこに鮮やかな大きな虹がかかっている。


「虹……か」


 わぁ綺麗な虹、そう素直に言葉にして口に出したかったのだが、なんとなくこの女剣士の手前、そんなことでさえ憚られて思わず口を噤む。しかし、それを見越したのかそうでないのか、少女は何気ない風であたしに尋ねた。


「――お前は沖縄の人間だな、虹にまつわる伝承は知っているか?」

 まるでわざと試すようなその口調に、あたしは一言、沖縄には虹のことを蛇に見立てた伝説が残っている、とだけ答えた。


 その伝承について詳しくは知らないが、そういえば虹と蛇はなんとなく文字が似てる。考えてみれば、虹は太陽光が雨粒に当たって、その光のプリズムが七色に光ってできるんだっけ。その意味では太陽に決して無縁ではないどころか大有りな現象だ。たぶん蛇の鱗は見ようによっては七色に光って見えることから、大空に半円の弧を描くあの独特の細長い形もあいまって、まるでウロボロスの環のように大昔の人は虹を蛇に見立てたのかもしれない。


「そう――すべては太陽があるからこそ、」

 ポツリと呟くその後姿が、急にうら寂しげに揺らいで見えた。そして、決してそのことを忘れるな。その言葉に滲んだ警告めいた響きに、なぜだかあたしは不意に緊張する。


 確かにすべては太陽の眩い輝きによって成り立っている。あの美しい虹の輝きは、そのことを如実に物語っていた。太陽、虹、蛇、龍神……やだな、何だかすべてが一つの糸で繋がってる気がする。それでも、さすがにアイツが心配しているだろうと思って、少女と別れてから精一杯の声を張り上げて、その名を呼んだ。


「ルミナス――ッ」

 ……大声でわめくな。すぐに耳元にその声が聞こえてきて、あたしは腰を抜かしそうになる。

「もうっ急に傍で話しかけないでよ!」


 いつの間に現れたのか、傍らにすっと立つ長い髪をした長身。その黒髪に映える、煌びやかな黄金きんの飾り冠や身に纏った鎖帷子の渋い銀の輝きには、もう随分慣れたけど。


「どうやら空腹は満たされたようだな」

 あったりまえよ、沖縄育ちの野生児、瑠美那ちゃんを見くびらないで貰いたいわね!そう見得を切ったものの、例の少女が側で聞いていたら、なんて言うか。


「お前の体力も回復したようだし――さあ、行くぞ」

 さっきまでの喧嘩が嘘のように、ルミナスは毅然とした態度でそう告げた。ちょっと癪に障るけど仕方ない。めざすは、淤能碁呂オノゴロ島……! そこに待つ火竜、カグツチと、そして――。


 とうとう自己紹介もしなかったな。しかし、その時のあたしには、まさか今日出遭った同じ人物との出会いが、再びそこで繰り返されることになろうなどとは思いも寄らなかった。


     *


 古来、日本で皇位象徴の神器として尊ばれたのは、鏡、剣、そして勾玉たま、いわゆる三種の神器であった。


 その中でも最高の宝器とされているのは、天照大神の神威を象徴する鏡である。すなわちアマテラスは天皇家の祖神として祀り上げられ、鏡はその権力の象徴でもあった。しかし、鏡「カガミ」は「カガメ」が転訛した古語であり、カガはすなわち蛇のことであるというのは、記紀神話など様々な古典文献や古語などから容易に抽出できる事実だ。


 様々なものの姿を映すだけでなく、何より光を反射し輝くことから、鏡には神の威光が宿っていると信じられてきた。それはおそらく異様な輝きを放つ蛇の目の擬態であり、だからこそ、いつしか「蛇目(カガメ)」=「鏡(カガミ)」と呼ばれるようになったという説である。


 日神であるアマテラスが蛇神であるというのは一見異様な話だが、しかしアマテラスの生みの親であるイザナギ、そしてイザナミこそが海神、龍蛇の化身であることを考え合わせると、それもいとも簡単に腑に落ちる。これも興味深い話だが、東西に細長い日本列島は龍蛇の姿形をしている。まさに龍神の国、だ。


 ……その大地の形が消え失せ、すべてが海に飲み込まれた途端、“神”は再びその姿を顕した。


 太陽と月、陰と陽。しかしアマテラス、太陽神自体が世界中の神話では主に男神であるのとは反して日本では女神。そのアマテラスが鏡を表す蛇の化身だとすると同様に月も、その反射の性質や陽に対する陰の気質、そして太陽とは反する、その陰をまとった気質さながらに、記紀神話にて多くを語られぬ月神ツクヨミノミコトが海神、すなわち龍神であるというのも腑に落ち、同時に興味深い話ではあるのだが(どちらにしても日本は陰の国、ということか)。


 つまりこの国の象徴は男なのか女なのか。その本来の意味での性別で言えば、太陽でも月でもない、陰でも陽でもない。そして同時にどちらでもありえるという、実に不可解な話になってくるのだ。男でもあり女でもある。そしてアマテラスも蛇、そしてツクヨミも蛇――。だが真理などというものは、存外そうしたものかもしれない。というより、一つの物事にはプラスマイナスの両面が常にあってしかるべきだというのが本当の真実なのかもしれない。


 ――どこを切っても蛇、蛇、蛇だらけだ。


 竜崎は今更ながら、腹の底からこみ上げるくぐもった嗤いを抑える事ができなかった。蛇、か。つまり古来より日本人は知らず邪神を崇拝してきたことになる。いにしえの時代からが、この調子ありさまだ。近い未来にこの国がどうなっているかなど容易に想像できる。いや……。


 常に性善説を信じ唱えたがる人間こそが、その邪神を己のうちに宿しているのかもしれない。特に神社や神道などは潔癖こそが神聖に繋がると妄信するきらいがある。だが人間の脳のほとんどは使われずに眠っている部分が多いというが、理性の殻に固く身を閉ざしたその中心にどんな化け物を飼っているか分かったものじゃない。


 ……そう。人間の本質は、遠い進化の道筋を反時計回りの螺旋状に遡った処にこそある。ヒトの脳は確かにかつて爬虫類だった頃の記憶をその裡に宿している……眠れる竜蛇。そして畏怖こそが信仰の大本の核となる。人はおそれを抱くものこそを、その最高の崇拝の対象とするのだ。だからこそ――。


 二匹の獲物は確かに今この掌の中に入った。いつしか己自身が蛇にでもなったような気になってくる。狂気、か。時と時の狭間のエアポケットに嵌まり込んだまま、このまま時が停まればよいと思ったが、それも一時の戯れにすぎない。


 竜崎は携帯画面で時間を確認すると、仮眠を取っていた薄暗い部屋を後にした。


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