第二章 ニライカナイ

1. 金城瑠美那


「ねえ、母さん――母さんは淋しくないの?」

 瑠美那は日焼けした顔を不意に後ろの座席の母に向けた。


 学校帰りの長いようで長くもない道のり。青い空はどこまでも青く、すぐ傍に見える海も、いつもと変わらず青かった。けれど瑠美那には、時折それが酷く哀しく思える瞬間があった。


「そうねぇ……淋しくないって言ったら嘘になるわ。でも」

 一瞬言葉の途切れた母の顔がやけに懐かしそうに優しく凪いでいる。その顔を見ていたら、急にそんなことどうでもよくなった。


「うん、そうだね。なんとかなるなるっ!」

「もう瑠美那ったら、それ言ったらナンクルナイサァでしょ?」

「アハ、ごめん……でも、やっぱ地元の言葉って何だか恥ずかしくってさぁ」


 あたし金城瑠美那は、この沖縄県の属するドーム都市、ニライカナイの女子高生。出身は沖縄だけど、理由わけあって一四歳まで本土――だったところにあるアマテラスドームの叔母さんの所で育った。だから実際は沖縄で過ごすのは、これが三年目。大きくなってから、こうしてお母さんと生活するのも、これが三年目。いわゆる出戻り娘ってことなのかな。


 でも沖縄は確かに隆起する昔からここにあって、近代化されたドームなんか特に必要ないほどの活気に溢れていた。この賑わいは都市、いわゆる都会とはまた全然違った、生活感という味わいのある活気なのだ。母さんは優しいし、いつもつるんでる友達との会話も毎日楽しい。


 そうだよ――父さんをなくした淋しさも忘れられる。そう、忘れさせてくれる。ここ沖縄は。……きっと、たぶん。


 ちょうど今から一七年前。あたし自身はよくは知らない。でも、世界中を揺るがすような、とてつもない大異変が起こった。


 それは一〇年の歳月をかけて、世界地図の形をすっかり作り変えてしまった。大地の崩壊。日本列島は東西に引き裂かれ、海中に沈んだ。そして、そればかりか南米北米併せたかつてのアメリカ大陸は、いつしか大西洋を越えユーラシア大陸と一つになってしまった。実際は何万年、何億年かかけてそうなるはずが、たったの十数年で――そう、それは人智の及ばない大自然の力。


 一説には惑星間の重力などによる宇宙規模での要因も考えられたが、それは、まるで人間のこれまでの好き勝手な行いに怒り狂った大地の神様が下した鉄槌のように、全世界を混乱の坩堝へと叩き込んだ。ガイアとは、文字通り大地の神の名である。神様か……昔は日本と呼ばれていた、このイザナギにもいたんだよね? ねえ、父さん。


 その神様の怒りが父さんを……もう二度と会えない遠い国へと連れて行ってしまった。なんだか、あたしにはそう思えてならない。


 かつての日本列島はすっかりなくなってしまった。確かに地震大国だったし、太古の昔から火山活動も各地で活発だった。でも、誰もが俄かには信じられなかっただろう。絶対に磐石だと思っていた地面が突然なくなってしまうだなんて。


 母さんはもとより、大災害を越えた未曾有の天変地異である、それを目の当たりに体験した叔母さんなんかは、瑠美那は何一つ覚えてなくてよかったって言う。確かにまだ生まれたばかりの赤ん坊だったしね。


 でも、そのせいで、あたしは父さんを助けられなかった。父さんが死んだことさえ六つになるまで知らなかったんだ。こんなことってある? あたしにとっては大地がなくなってしまうことより、切実な重大事件だったんだよ……。


 沖縄の海や空がとてつもなく青く澄んでいるのは昔から変わらない。でも、日本はその形ばかりか気候までをも、すっかり変えてしまった。それは勿論日本ばかりじゃないけど、加速度的に進行した地球温暖化――昔の人たちは結局何一つ努力してくれなかったのかな。そう想像すると何だかすごく淋しい。イヤだな。また鬱モード全開だよ……。


 そんな青い海よりブルーになってるあたしを、それでもこの沖縄は優しく包んでくれる。イザナギ自体が今では元の沖縄みたいな亜熱帯の気候になっちゃってるし、相変わらず有害な紫外線も強いけど、それでも工夫すれば全然住めないってわけでもない。だからあえて、あたしたち親子は本島にあるこの一軒家に住んでるんだ。だってドームの光ファイバーによる人工太陽じゃ、なんか、ねぇ……。ともかく世の中がどんな風に変わったって、人間なんとかなるもんだ。


 そうよ、ナンクルナイサもとい、なんとかなるなるっ!


 ――その学校からの帰り道、あたしは“アイツ”と出遭った。


     *


 実際、一度国土をなくした民族の末路など酷いものだった。

 そう……だからこそ決断したのだ。たとえ全てを何ものかに受け渡してしまおうと。


 大地殻変動の混乱も未だ尾を引く世界の中で、誰が国力そのものを失くした、実質的な難民である日本人たちをたすけようなどと思っただろう。それほどまでに世界は崩壊し混沌としていた。しかしその中で日本はかろうじてガイアの力を借り、海洋都市国家イザナギとして独立し、新たに出発した……表向きはそうだった。


 それには一つの条件があった――それは文字通り傀儡としての未来。その意味ではイザナギは、本当の意味で独立したとは言いがたかった。未だその細胞の奥深く浸透する大国の支配。強いものが弱いものを制し駆逐する、弱肉強食の掟。


 そう、かつての日本という国は、ほぼその内部から腐りかけていた。際限なく広がり続ける少子高齢化社会。指導者不在の政治、そして次第に生きる意義を見失い疲弊していく国民たち。無論、それらは何も日本だけの問題ではなかったのだが、継続し続ける根源的な食糧難など外からの重圧と内側からの腐敗。中国やインドなど周辺アジア諸国に圧され、とうに失われた、かつての経済大国としての隆盛……先細りするばかりで、どこまでも脆弱な、その未来あした――。


 国土があろうとなかろうと、既に日本という一つ国は、随分前から行き詰まりを迎えていたのかもしれない。“それ”は、既にぐずぐずと崩れつつあった日本そのものを木っ端微塵に粉砕してしまうには十分事足りた。経済的発展と全体を無視した個の群れとしての一つの大きな集合的欲望という坩堝の結末――その瞬間、大地を割り裂けていく未曾有の大地震とともにすべてが終わりを迎えた。小規模とはいえ、ついに始まった富士山をはじめとする各地の火山噴火。この世の終わりとも思えたそれは、ここが火の国であったことも今更のように人々に思い起こさせた。


 それでも人々は、ここが変わらぬ自分たちの故郷であることを忘れなかった。例えどんな姿に変貌したとしても――この海がある限り。生き残った命がここにある限り。そして……。


 “あたし”は、今ここに生きている。

 金城瑠美那という一女子高校生は、今日も変わらず元気なのです。


     *


 人々は確かにこの国で生きている。今も変わらず、何一つ疑わず。その一人一人の心を優しく巧みな愛撫で騙し続ける。マツリゴトと呼ばれる行為の頂で、その男は今宵も“神”に祈り続ける――。


 海洋都市国家イザナギとして再びよみがえった日本。今やそれを支えているのは、超大国ガイアの科学技術によって生み出されたアマテラス、スサノオ、ツクヨミと呼ばれる三大ドーム都市を中心とする、海洋ネットワークである。各都市は大小のドームとなり海底トンネルによって結ばれており、無論、以前と変わらず航空便の数も充実している。


 ただそれ以上に画期的だったのは、これまで日本国土が大いに悩まされていた台風による水害、あるいは地震などの被害を徹底的に防げるようになったことである。例え大地震が起こったとしても、その揺れを地下のドーム基盤が瞬時に吸収する。そして無論、台風などの激しい雨風も未然に防ぐ。ドーム都市はそれ自体が巨大なシェルターなのだ。


 さらにドーム全体に配置された従来のものより画期的にエネルギー変換率の高い太陽光発電装置に加え、豊かな海洋資源は基よりイザナギ近海の深海底に大量に存在するメタンハイドレートといった新エネルギーの採取により、格段に以前のエネルギー問題を容易に解消することが可能となった。まさに海は資源の宝庫である。


 すべてがガイアの高度な科学技術による賜物。事実、かつての大地殻変動時にも、それは日本にとって最初の一歩を踏み出すことを実現させてくれた。世界人類の混沌のさなかにもかかわらず、いやだからこそ、かつてない地球規模での巨大地震を察知予測していたのか、ガイアの技術開発チームは日本国民を避難させるべく、その方舟の建設を急いだ。


 それが現在イザナギの首都ともなるアマテラスなのである。アマテラスは文字通り、海洋上に浮かぶ難攻不落の要塞であった。その大要塞は、かつての日本沈没の際、満を持したかのように海上に浮上した。


 その“方舟はこぶね”は、まさに生き残った日本国民の心の拠り所、故郷となった。事実、災害難民として各国からの受け入れを拒否され行き場を失い、流浪の民と化した日本人たちは、アマテラスこそを仮初の大地とした。その技術を提供したガイア本土でさえ、混沌の坩堝と化し、最早地球上の大地といえる大地は人類の安住の地ではなかったのだ。


 確かに――そう考えれば、あたしたちは恵まれていたのかもね。


 後から聞かされる大災厄の怖ろしい爪痕の真実を振り返るたび、そう思う。まさにイザナギはアマテラスから始まった。その大要塞が浮上する瞬間、あたしの父さんは、あたしたち母娘をアマテラスに乗せるために……その犠牲になって亡くなったって叔母さんから聞かされてる。


 そういえば子供心に覚えてる気がする。頑丈なドーム隔壁の向こう側から聞こえるはずのない波の音を。その波音に混じって、父さんがあたしの名を呼ぶ声を――死んじゃいやだ、嫌だよ、父さん。


 瑠美那……美那……る……みな……。


     *


「雨が降るのか……」


 夜半、御統みすまるは、ふと総理官邸内から窓外を見やった。

 このドーム都市アマテラスの天候を司るのも、最早人の力。巨大な人工の天蓋からポツリポツリと思い出したように雫が落ち、窓を叩く。


 “神”とともに歩むために我々日本人はいにしえの神々の声を封じ込めてしまった。その自然の息吹きを伝えるはずの雨粒も緑の木々も、既に作られた何ものかでしかない。ただ巨大な要塞とも思えるドーム外に広がる青い海原だけが、ただひとつの真実のように全てを支配していた。そう、海――。時折御統には、その直接耳に届くはずのない無音の波音が、酷く猛り狂った神の声に聴こえて仕方なかった。


「デルフォイ……か」


 それは熊野とともに中央から遠く離れた神々の籠もりの場所。太陽が生まれいずる、まさに子宮。どうして自分は正式に調査団を派遣することを決定してしまったのだろう。それと同時に天照大の海堂教授に依頼してしまった。もし、その新たな“神”が目覚めるのなら、イザナギというこの国の名が御印を穢していることになる。


 御統は怖ろしかった。神の声は、確かにそこここに満ちていた。その声は告げていた――いつの日か喪われ、奪われたヤシマを取り戻すと。そして、その声を感じ取ることのできる巫女が、最後の聖地ニライカナイ、その沖縄にいるのだということを。



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