第五章 弥撒(ミサ)

第五章 弥撒(ミサ)  1 陽花

「優梨ぃー!!」

「大城ぉー!!」

 風岡と陽花は、何度も大声で呼びかけた。周囲の通行人から奇異の目で見られたが、そんなことはいちいち気にしていられなかった。

「あいつ、本当に名古屋駅にもう行ったのか? あんなに足が速いんか?」

 風岡は優梨の脚力を疑問視したかのように訊いてきた。

「足の速さは普通だと思うわ。少なくともアタシよりは遅いはずよ」

「そっか……曲がり角を曲がったら名駅西口まで一直線なのに、もう姿を消していた。どこか路地で隠れていない限り、見えなくなることはないと思うぜ」

「それか、他の通行人に隠れて見えなくなったのかな」

「そんなことはないだろう。大城、明るい赤の服を着ていただろう。しかも大城も身長は高めだから、ちょっと遠目でも分かると思う」

 優梨の身長は165センチくらいといったところだろうか。しかも、ヒールは高くないが決して走りやすそうなサンダルではなかった。見失うほどのことは、間違ってもないように思えた。

「ひょっとして拉致されたのかな……」

 陽花は考えたくはなかったが、一つの可能性を言ってみた。

「バカ言え! そんな、悲鳴の一つも聞こえなかったんだぞ」

「風岡。顔がっているわよ」そう言う陽花も、自分の顔の引き攣りを自覚していた。

「拉致はない……と思いたい。一つ気掛かりなのが」

「あの黒い車。怪しいよね」

「いやいやいや、ちょっと待とう! 確かに怪しいけど、まず大城に電話をかけよう」

「そ、そうだよね」

 通常であれば、拉致なんてフレーズは出てこなかっただろう。しかし、三日前に実際に優梨と陽花が襲われたという非日常的な事実が、正常性バイアスから完全に解放し、危機感を抱かせていた。

 陽花はスマートフォンを取り出した。さっそく履歴から優梨の電話番号を呼び出してダイヤルしたが、繋がらなかった。

「呼び出し音は鳴ってるんだけど出なかった。走って移動中なのかな?」

「そうかもしれんな。十分後くらいにまた電話してみようか」

「そんなに待てないよ。せめて五分後くらいで」

 その五分間は異様に長く感じた。いや、五分も経っていなかったかもしれない。おそらく四分くらいで、陽花は待ち切れずに再び電話をかけた。

「どうだ? 電話出たか?」

「ダメ。電源が落ちてるか電波が届かないみたい……」

「マジかよ。電波の届かないところにいるのか?」

「えっ!? でも優梨、タワーズって言ってたよね? 地下鉄で移動するような場所ではないよね。さすがに移動するなら連絡するでしょ!」

 通常、地下鉄走行中は携帯電話等は『圏外』になる。

「じゃあ……」

「やっぱり、さらわれてしまったんだわ」

 三日前の事件から、やはり最悪の想定を考えざるを得なくさせていた。

「でも、一瞬の出来事だったじゃないか。よくもあんなに短時間に」

 風岡の発言から、何とか最悪の想定だけは回避したい気持ちが伝わってきた。否定できる要素があれば、良い方の可能性に希望を持ちたいところだ。ところが、残念なことに、陽花本人の経験が風岡の仮定を反証するだけの充分な説得性を有していた。

「もし、三日前の事件と同じ犯行グループなら、あらかじめ優梨もしくはアタシたちを尾行して狙っていた可能性が高いと思うわ。どこかで身を潜めて風岡から離れて、人目も少ない隙に拉致したのかもしれない。そして手口までも一緒なら、マスクを当てたのかも……」

「マスク?」

「言っとくけどマスクって風邪引いたときにするアレじゃないからね。アタシも眠らされたのかあまり憶えてはいないんだけど、必死に抵抗しようとしても声が出せなかった。いや、声は頑張って出して叫んで助けを求めようと思ったんだけど、誰も気付かせることは出来なかった。逆に優梨の声も聞こえてこなかった。口元にぴったりと声が漏れないほどに強くゴム製のマスクを当てられたの」

「それで声が聞こえなかった」

「そう。そうして、今回も同じやり方で声を封じて、一気に車に乗せて誘拐した」

「なるほど。言われてみると説得力が出てきたな……よし!」

 風岡は納得した様子で頷くと、右手で陽花の左手を強く握って言った。

「俺から絶対に離れるなよ。陽花もターゲットなら、犯人の仲間が近くにいて離れる隙を窺っているかもしれない」

「ちょ、ちょっと!?」

 陽花は突然手を握られて困惑した。しかし、状況が状況なだけに、心を躍らせている場合ではなかった。

「交番に行くぞ!」

 風岡の右手には力がみなぎっていた。陽花は恐怖におののきつつも、風岡のたくましさ、力強さにちょっとした安心感を感じ始めていた。


 三日前に行った交番に、まさか再度行くことになるとは思っていなかった。しかしながら、三日前にいた警官は今日は非番なのだろうか。違う警官が対応した。

 風岡と陽花は経緯を説明した。さすがに交番では手を繋ぐことはやめておいた。

「拉致された『と思う』ではね……」警官はだるそうに言った。「そのお友達が拉致されそうな理由とか、拉致されそうな場所の心当たりとかはある?」

「場所は心当たりありません。理由は……」

 ここで以前、優梨が推理した内容を言うべきか迷った。優梨本人から言うならともかく、聞いた陽花から言うべき内容なのだろうか。しかも、これを一部始終話すとB型肝炎ウイルスやら宗教団体の話やら非常に話が煩雑はんざつになる。陽花が躊躇していると、風岡が口を開いた。

「理由は大城と陽花が若くて美人だからです」

「はい?」警官は怪訝な表情であった。

「若くて美人だから、その生き血を狙う無法者がいるんです」

「どういう意味なんだ? 話が見えてこないが。根拠は? 三日前の調査書には何も記されていないようだが」

「話すと長くなりますが、とにかく若くて美しい女性を狙って悪銭を手に入れようとする破落戸ならずものがいるそうです。それは他の被害女性も同様の理由だと思われます。これは滄洋女子学園でいちばん頭の良い大城が、確かな情報をもとに推理した内容ですから、きっと間違いありません」風岡の口調はよどみなかった。

「よく分からんが」警官は鼻で笑いながら質問を変えた。「で、その怪しい車のナンバーは分かる?」

「ナンバーまでは憶えていないです。黒いセダンです。車種までは、大城の行方ゆくえを気にしていて見てません。陽花は見てたか?」

 陽花はかぶりを振った。警官は諦めたように言った。

「たった、それだけの情報ではね……これでは、実際本当に事件が起こったかどうかも怪しいものだよ」

 今度は陽花が訴えた。

「でも、急にいなくなったんです。実際にアタシたちは三日前にも襲われています。これは事件と捉える方が自然だと思いますし、偶然襲われたとも到底思えません。同じ犯人ではないしょうか?」

「これまでのケースでは、全部夜に犯行が行われていると聞いているし、同一人物を二回狙ったと言う報告もない。同じ犯行グループとは思えないな。いや、犯行自体なくて、そもそも見間違いじゃないのかな? 実際に襲われて君たちもピリピリしているかもしれないけど、実際に犯行現場や犯人たちを見ているわけじゃないし、きっともう少し待てばお友達は戻ってくるんじゃないのかな?」

「でも、電話が繋がらないんです。繋がらなくなったんです」

「電話なんて、最近電池の持ちが悪いから、充電が切れたんだと思うよ。まあ、焦らずに。こんな人がいっぱいいる名古屋駅で白昼堂々と、人を誘拐する輩はさすがにいないと思うよ」

 ダメだと陽花は思った。何と事なかれ主義なことか。

 警察は、捜索願が家族から出るとか、身代金の要求があるとか、遺体が発見されるなどしない限り動いてくれないと言うのか。高校二年生の二人が状況証拠から推理する、単なる『誘拐されたと思う』という発言だけでは、ミステリー小説マニアの妄想と考えられても当然かもしれなかった。

 警官も運悪く、ひどく楽観的な男だった。風采の上がらない、いかにも腰が重そうな印象であった。こんな性格で果たして警官が勤まるのかと甚だ疑問であった。三日前に事情聴取を受けたときの警官が、特別印象が良かったわけではなかったが、陽花も優梨も実際に襲われた被害者であったし、もっと聞く耳を持って欲しかったと思った。

 風岡が言った。

「もう少し待ってみるか。その間に、大城があのとき一体何を閃いたかをいっしょに考えようか。ひょっとしたら、そこに何か解決へと導くようなヒントが隠されているかもしれない」

 なるほど、と陽花は思った。ただ、優梨は名門『滄女』で一位の成績を誇る天才だ。陽花も世間的には秀才の部類だろうが、疑う余地のないほど天才の優梨の思考に自分たちが及ぶだろうか。懸念はあった。でも実際にやってみないと分からない。

「分かった」陽花はうなずいた。

「よし。いっしょに考えよう」

 風岡という存在が、今は陽花にとってものすごく心のどころになっていた。『いっしょに』というフレーズに思わず心地良さを感じるとともにあんしていた。風岡は成績こそ良くないかもしれないが、この瞬間は実に頼もしく大きな存在に思えた。

 風岡と陽花は、交番を辞去することとした。

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