第三章 述懐(ジュッカイ)
第三章 述懐(ジュッカイ) 1 優梨
高校二年生の夏休みが始まり、蝉が本格的に
去年までは、夏休みの部活動のない時は、陽花とプールに行ったり、海に行ったりしたものであった。他校の男子高校生を交えたりしたこともあれば、女子だけで行ってナンパされた男たちと楽しんだこともあった。進学校ながら、いかにも高校生らしい楽しい青春ライフを送っていた。
優梨のような美女を男達が見逃すことは決してなかった。メールも含めれば、かなりの数の交際の申し込みをされた。しかし、いかに顔立ちが良くても、話が面白くても、性格が優しくても、ましてや金満家でも、何か優梨の心を強く揺り動かすものがない限りは、好きな気持ちへと発展することはなかった。よって、交際の申し入れを受諾することはなかった。そういう意味では優梨は、自分のことを陽花に『変わっている』とか『
今回は去年までの夏休みだけでなく、これまで人生でかつてない気持ちが優梨を支配していた。百回好きになられることよりも、たった一回の好きになる気持ちの方が、大事だと思っている。
優梨は、さっそく父親の職場に足を運んでいた。父親の職場にわざわざ面会のアポイントを取ってから行くのも何だか奇妙な感じがしたが、地域の一拠点病院の医師という職業柄、仕方がないことだと思った。
大城医療総合センターは、社会医療法人の総合病院として、大城優梨の父、
優梨は、病院内の面談室に案内された。足達医師がこのために部屋を確保してくれたという。部屋は無機質な白い壁で囲まれており、中にはシンプルな白い机と向かい合うように椅子が四脚配置されていた。
しばらくすると、小柄で細身の妙齢と思われる白衣の女性が入ってきた。栗色のポニーテールの髪を携え、丸顔で瞳は大きく、顔立ちは幼いが美形であった。助手だろうか。いや白衣を着ているのであれば研修医か。しかし、彼女は鈴を鳴らすような声で、優梨におもむろに話しかけてきた。
「お待たせしました。お初にお目にかかります。あなたが大城センター長のご息女の優梨さんね。さすがは義郎先生の娘さんだけあって、とても凛々しくて聡明そうな顔立ちをしているわね」そう言って、目の前の女性はにこやかに笑う。
「は、はじめまして。大城優梨と申します。本日、足達先生にはお忙しいところお時間を作って頂きありがとうございます」
「はじめまして。心療科、非常勤医師の足達です。こちらこそよろしくね」
よく見ると、名札には『心療科医師
優梨は仰天した。まず女医であったこと、さらに目の前にいる医師は二十代後半くらい、いや、白衣でなければ二十代前半に見えるかもしれない。足達医師は影浦の初診時からずっと担当していると聞いていたから、きっと十数年はフォローをしていることだろう。きっと壮年ないし中年期の男性医師なのだろうと勝手ながら想像していた。しかし目の前の医師はあまりにも若い。ひょっとしてこの外見でこの声色で、四十を超えているのだろうか。傍から見たら、自分と年の近い姉妹くらいに見えるかもしれないと思った。
「ほ、本日はよろしくお願い致します!」慌てて優梨は挨拶をした。
「改めて訊くけど今回はどういったご用件で?」と、足達医師は問いかける。
用件は問診票や紹介状などであらかた分かっていても、目の前にいる患者(優梨は患者ではないが)の言葉で聞きたいのが、総合病院で働く医師の性なのであろう。
「影浦瑛くんの、解離性同一性障害について知りたいんです」
「知ってどうするわけ?」
「えっ?」
足達医師は、かなりぶっきらぼうに訊いてきた。その口調が、可愛らしいとも言えるその外見や声色からはミスマッチであり、優梨も戸惑いを隠しきれなかった。
「彼は、確か五歳か六歳くらいに初めて担当してから、今でも経過を見ているわ。確かに解離性同一性障害だけど、今は周囲の協力もあってとても落ち着いているわ。今さら改めてどうこうすることもないと思うわ」
「ですが、私は医学部志望です。先日父の蔵書から精神医学の本を手に取った読んだときにちょうど偶然にも解離性同一性障害を疑う生徒に出会ったので、興味を抱いているのです。私はまだ高校生ですが、精神科か心療内科に将来従事したいと思っています。将来のために知りたいんです。そして彼の力になってあげたいんです。悩みから解放してあげたいんです」
さすがに『影浦くんが好きです』とは、初対面の人間、しかも父の職場の医師には打ち明けられなかった。そして、足達医師の回答は冷酷なものだった。
「それは、独善的な使命感というものよ」
優梨は、何を言っているのか瞬時には理解できなかった。
「ど、どういうことですか?」
「解離性同一性障害というのは、
「だから、私がその周囲の一員になりたいんです。私にはその任務を担えると思います」
自意識過剰な表現にも思えたが、足達医師にはこれくらいの強い情熱を語らないといけないような必要性を感じていた。
「そう思うのは勝手だわ。でも却って逆効果だわ。まず精神科医師ですら、熟知していない医師が多いと言われているわ。そもそも病気の存在自体に懐疑的な先生もいるくらいだから。それはまず患者が少ないこと。精神科領域ではまだまだレアな疾患だわ。日本では増加傾向と言われているけど、まだまだ欧米よりは少ないわ。そんな疾患を、現役高校生のあなたが治しますと言ったって、残念ながらリスクしか見えてこないのよ」
「なぜ、そう言い切れるのですか?」
「素人の中途半端な介入は、人格の統合ができないどころか、新たな交代人格を生む可能性だってあるのよ。
「そうなんですか」
足達医師の滑らかな弁舌に、進学校で特待生の優梨でさえも完全に
「そして、患者に絶対やっちゃいけないことは三つ」そう言って足達医師は、優梨の前に右手の人差し指、中指、薬指を立てた。「一つ、虐待があると決めつけること。二つ、中途半端な知識で治療を試みること。三つ、興味本位であれこれと問いかけ交代人格を呼びだそうとすること。どうかしら? あなたの発言から憶測すると、全て当てはまっているようにしか思えないわ。残念だけど」
「……」
「いま、マスメディアの影響で、患者の稀少さとは裏腹に『多重人格』という言葉ばかりが独り歩きして、ミステリアスな病気として認知度だけは高まったけど、いざ患者に出会ったとき、
優梨は谷のどん底に突き落とされた気分だった。
「……すみません……私もういいです」
「悪いけど、影浦くんのためなのよ。分かってちょうだいね」
「今日はどうもありがとうございました」
優梨は、抑揚のない小声で、
今まで、神童とか才色兼備などともてはやされ、しかも総合病院の院長のご令嬢として、ちやほやされてきた優梨にとって、これほどにまで全否定されたことは十七年間の人生でおそらく一度もなかった。はじめて味わった強い挫折感であった。しかも、見た目の若い女医に、さらには父と仕事上の繋がりが少なくともある者に、
もう、この件から身を退こうと思った。影浦のことは好きだが、影浦本人の意思とは違うところで、好きでいられ続ける自信が既になくなりつつあった。優梨が好きになってはいけない不可侵領域に影浦は存在しているような感じがしていた。一瞬、また風岡に話を聞いてもらいたいような気がしたが、すぐにそれは空しさを増強させるような気がしてやめておいた。時は既に夏休みであり、誰にも打ち明けることができなかった。
優梨はこのストレスを消化することができず、しばらく
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