深緋の恵投(ふかきあけのけいとう)

銀鏡 怜尚

序章

序章

 ふかきあけ


 いま目の前を流れていくものの色を形容する言葉として、これ以上に適切なものはないのでは、といつも私は思う。そして、それを示すもののもう一方と、ついを成せる表現でもある。むらさきのある暗い赤色で、あかねこんとを重ねて染めた色らしい。その昔の日本は平安時代、えんしきに定められた服色にこの名があるというとても由緒ある色名だ。この状況はあまり伝統的なものではないかもしれないし、高貴という表現もニュアンス的に異なると思う。ただしそれ以上に、いかなるものにも代え難い強い力を発揮することがあるという。だから、私はいまこの閉ざされた空間にいる。

 多くの場合、それは名も知らない第三者への奉仕的行為としてとらえられている。しかし、私と同様な人間の多くの場合は例外的で、見知らぬ誰かのためだけでなく、他でもない自身のためにも必要なことでもある。正確には自身のあんねいうための保険でもあるのだ。

 ところが、私に限って言えば、上記のいずれでもない。特定されたただ一名の第三者へ向けてなのだ。名前こそ知ってはいるが顔は知らない。正確に言えば、会ったことはあるが、時が経過しすぎて分からなくなっていると思われるのだ。もちろん著名人でも偉人でもない。しかも、それがその使命の通りに活用されるかどうかはまったく予知できないが、どうやら他ならぬ私にしかできないということだ。一億人以上の日本国民からたった一人、私が選定された。

 と言っても、別に宝くじのような報酬がある訳でも、ニュースとなって国民からよくやったと賞賛を浴びる訳でもない。むしろ、できることなら感じたくない痛みと、その後の眩暈めまいにも似た不快感を迎えることとなる。

 私は決してマゾヒストではない。慈善にも取り立てて興味はない。しかし、なぜ私はこの空間にいるのか。それは他ならぬ使命感であろう。

 あのとき、フジイと名乗るその女性が突然家に来たことに最初はかなり辟易へきえきした。個人情報の保護とやらはどうなっているのだ、と若干のいきどおりもあって、はじめは冷たくあしらってしまったが、それでも彼女は何回も、それも遠方からわざわざ来た。みすぼらしく身なりも薄汚れていたが、化粧映えしそうな整った顔立ち、大きく澄んだ瞳、そしてその瞳からうかがえる大きな母性愛。実際、少しずつ好意を抱いてしまったのも嘘ではなかった。しかし、そんなものなどまったく太刀たち打ちできないほどの、強い情熱であった。

 あれから十余年。その女性に逢うことはもう叶わない。それでも、私の心に深く刻まれた情熱は火傷やけどあとのように容易に消え去ることはなかった。自己満足と言われても構わない。いや、もともとこれはそういうものなのかもしれない。活用されない方が幸せなのだろうが、もし活用されるような日が来ることがあれば、遥か遠くの彼方から、彼女が思いを寄せ続けているだろうその人物に、一目また会ってみたいと思う。

 ようやく、所定の十五分余りが過ぎようとしたころ、おのれの深緋の分身の一部を眺めてそんなことを考えていた。

 一杯の水を身体に流し込みながら十分間ほど待機した後、私は閉ざされた空間から開かれた空間に出た。フェニックスの並木が海風で揺らめいていた。しくもあの伝説の鳥と同じ名前だ。人間の深緋には、間違っても不老不死などという名高い効力は存在しない。しかしながら、命を繋ぐ意味では共通しているような気がする。そう考えれば、やはり高貴なものなのかもしれない。たった今、代償として得た、決して海風のせいではない一時的なふらつきを覚えることで、生命力としてのいろの尊さを身に感じながら、私はひとり家路へと向かった。

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