010

 白い肌の異常な夜だった。

 雨だ。降りしきる雨。雨音がすべてを消し去った。

 銃声も。悲鳴も。何もかも。

 愛があった。団らんがあった。しあわせだった。それらが永遠に続くものだと信じていた。

 だが、悲劇は何の前触れもなく訪れた。運が悪かったとしか言いようがない。しいてそこに理由があるとすれば、ほかの家族より少し裕福だったから。――いや、実際にはそんなこともなかった。けれども裕福そうに見えたから。しかも、若くて器量良しの花嫁ブライドがいたから。強盗にとっては、理由なんてそれだけで充分だった。

 金目の物はひとつ残らず奪われた。食料はすべて食い散らかされ、酒も好きなだけ飲み干された。それで満足してくれればよいものを、わめき散らしてうっとうしいからと、生かしておく理由もないからと、妻にとってよき夫を殺した。

 そして強盗は、未亡人になったばかりの女を手篭めにした。あの時の屈辱は今でも憶えている。意に添わず濡らされたことを。だらしなくあえがされて、絶頂させられたことを。死ななかっただけありがたいなどと言わせるものか。

 あの憎たらしい強盗の顔を、けっして忘れない。醜悪に老いさらばえたその相貌。たとえあらゆる証拠が彼の無実を証明したとしても、深く刻み込まれたしわの1本1本が、犯した悪事を饒舌に語る。

 ああ、そうだとも。ドラゴンの呪いなど関係ない。呪われていなくとも、人間は最初から欲深かった。そもそも欲深くなければ、禁断の果実など食べなかったに違いないのだから。

 そして欲望が彼女を奈落へ落とし、欲望が彼女を復讐へ駆り立てた。

 彼女はラヴィニアと違い、仇を討ってくれるタイタス・アンドロニカスがいなかった。たとえ舌と両手を切り取られていても、自分自身の手で復讐を果たさなければならなかった。

 ――許さない。絶対に許さない。地の果てまでも追い詰めて、ツケを支払わせてやる。報いを受けさせてやる。たとえこの身を犠牲にしてでも。

 ゆえに彼女は大淫婦となった。汚らわしいバンパイア相手に股を開き、その力を一滴残らず搾り取った。


「しくじった……わたしとしたことが、なんて不覚……」

 危機一髪逃げ延びたローラは、駆け込んだモーテルでひと息ついていた。泡に満たされたバスタブで身体を洗う。

 キンスキーを逃してしまったのは痛手だった。しかも、自分という復讐者の存在を知らせてしまった上で。単なる賞金目当てではない、やっかいな敵の存在を。今後は間違いなく、狙撃に対する警戒を強めてくるだろう。次の襲撃ははるかにやりづらくなる。やはりよけいなことをせず、一撃で仕留めるべきだった。どうせヤツはローラのことを憶えていなかったようだし。今さら悔やんだところでもう遅いが。

 そう、今は過ぎたことに囚われている場合ではない。目下の問題はあのバンパイアハンター――フランク・モリスだ。キンスキーを追い続けるかぎり、またヤツと鉢合わせる可能性は高い。というより、確実に鉢合わせるだろう。

 ローラ自身がキンスキーに問われたのと同じように反芻する。「あの男、いったい何者なの……」

 本人の言葉を信じるのなら、竜の息子ドラキュラということになるだろうが――そんなことが本当にありえるとでもい? ナンセンスだ。

 だってそうだろう? ヒトとドラゴンがどうやってセックスするというのか。身体のサイズが違いすぎる――いや、ムリをすればセックス自体は何とかなるとしても、異種間で受精できるはずがない。ライオンとトラのように近縁種ならともかく。

 いや、そもそも実際のドラゴンがどういう生き物か知っているわけではないのだから、アタマのなかでいくら考えたところで不毛だ。というか、ヤツがドラキュラなのが事実かどうかはこの際関係ない。そこにどんなカラクリがあろうと、ヤツの不死身が現実問題とてつもない脅威なのは同じことだ。狂えるオルランドに勝るとも劣らない、金剛石ダイヤモンドのごとき不死身は。

 全身を守る赤い鱗の鎧。あの鱗を攻略しない限り、モリスは殺せない。どこかに弱点はないものか。ジークフリートはドラゴンの血を浴びた際、背中に菩提樹の葉が貼り付いていたせいで、その部分だけ生身のまま残ってしまった。しかしモリスの場合、その血を直接受け継いでいるのだから、万に一つも穴は期待できない。細胞のひとつひとつが難攻不落の要塞を造り上げている。

 かと言って、正面から撃ち破るのも絶望的だ。あの至近距離で.458ウィンマグ弾を防いだとなると、耐久性は並ではないだろう。次はアンチマテリアルライフルを試してみるか? それともロケットランチャー? はたして通じるだろうか。あいにくそうは思えない。

 ダイヤモンドは砕けない。

 ダイヤモンドは永遠に。

 ダイヤモンドを削りたければ、ダイヤモンドを使えばいい。それがもっとも確実な手段だ。同じドラゴンの鱗同士、あるいはそれよりも硬い爪と歯さえあれば――。だが、そんなものがその辺の銃砲店に売っているはずもなく、まさかドラゴン退治をして手に入れるわけにもいかない。それでは本末転倒だ。

 つまるところ、武装に頼らない攻略法を見つけなければならない。例えばそう、灼熱の溶岩が煮えたぎる火口へ投げ落としてみるとか――。

「……いえ、でも、そうね……しょせん鱗は鱗なわけだから……」

 思索にふけっていると、いきなりバスルームのドアが開いた。

 そこに現れたのは、大口径のオートマッチクピストルをかまえた中年の男だ。どうやら右腕がないらしく、カラの袖が所在なげに揺れている。

 男は、ハダカでバスタブに浸かるローラの姿を確認して、そのブサイク顔に勝ち誇った笑みを浮かべた。

「よう、久しぶりだなクソアマ。あのときの、右腕の借りを返しに来てやったぜ。――ああ、どれだけこのときを待ち望ん」ローラは泡のなかに隠し持っていたワルサーPPKで、男の心臓に全弾撃ち込んでやった。

「ムダグチたたいてるヒマがあったら、さっさと撃つべきだったわね。『サイコ』みたいに容赦なく。まァあれはナイフだけれど。……ああ、ところで、あなたはいったいどこのどちら様かしら?」

 死人はもはや答えなかった。ゆいいつ語り得るのは、そのブサイク顔と失った右腕のみだが、ローラの記憶にさざ波ひとつ立たせることはできなかった。

 それに、どうやら頑張って思い出している余裕はない。新たな足音が近づいてくる。この男の仲間か、それとも……。ローラはピストルのマガジンを交換して、銃弾を再装填リロードする。

「落ち着けシスター。何もおまえさんを殺しにきたわけじゃアない」その声は、ローラが今もっとも聞きたくない声だった。「まァ弾丸をムダ撃ちしたけりゃア、話は別だが」

「ドラキュラ――どうしてここがっ?」

「ここのモーテルの売上金もいただくのか?」

 その一言で、ローラはすべて理解した。してやられた。モリスがローラと最初に遭遇したのは、スコープ越しに目が合ったときではなかったのだ。実際にはもっと前から尾行されていた。

「このストーカー野郎」

「天上からおれたちを見下ろしてるクソッタレには及ばねえさ」

 キンスキーの首を奪い合って競争になるのは、むしろ比較的マシな展開だった。それよりローラが恐れていたのは、モリスが先に邪魔なライバルを排除しようとすること。財宝の前で待ちかまえるドラゴンのように。どうやら財宝だけいただいて帰るわけにはいかないようだ。

 だが、それなら殺し合いが目的でないとはどういうことなのか。

 モリスはローラのワルサーPPKを指さして、「なんだよ。ライフル至上主義じゃなかったのか」

「確かにライフルのほうが優れているけれど、だからといってそれ以外を使わないとも言っていないわ。適材適所ってものがあるでしょ。そういうあなたは、なんだって.44口径のマグナムなんか」

「狙った獲物を逃がしたくないからだ。.357も悪くないが、.38は当たっても貫通力が弱い」

「わかるわ。つまり、スカッと貫きたい」

「おまえさんは何でもセックスと結びつけるのか?」

 ハダカで下ネタなんて口にしたことに、ローラはバツが悪くなった。「単なるフロイト的な精神分析よ……。そんなことより、いったいわたしに何の用?」

「何の用だって? おいおい、心当たりがないとでも?」

「少なくとも、あなたとデートの約束をした憶えはないわね。入浴中に入って来られる筋合いもない。それともやっぱり、あの戦いの続きをしようということ?」

「確かに続きと言えばそうだな」身を固くしたローラにモリスはほくそ笑んで、「だから言っただろ。おれはおまえさんと敵対する気はないんだ」

 ローラは銃口を下ろした。「……このままじゃア落ち着いて話もできないわ。とりあえず場所を変えましょう。何か身につける物を取ってくれない?」

「正直もうしばらくそのままでいてくれたほうがうれしいが、おれは紳士だからな」

 モリスは笑顔で靴を差し出した。

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