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 無防備にさらされた喉元をカミソリで掻っ切ると、頸動脈から勢いよく血が噴き出て、前面の鏡を真っ赤に塗り上げる。――そんなスウィーニー・トッドじみた妄想をしながら、ヴォネッタ・マギーはカミソリの刃を丹念に研ぐ。

「よく研いでくれよ。切れ味のイイヤツで剃ったほうが気持ちイイからな」

 若い白人の客が言う。顎と口まわりにシェービングクリームを塗られ、サンタクロースみたいに滑稽な姿で。

 奇妙なものだとヴォネッタは思う。ほんの数十年前なら、白人が黒人にヒゲを剃らせるなんてことはありえなかっただろう。特に、公民権運動がさかんなころであれば。ヴォネッタの妄想するような惨事を怖れて。『ミシシッピー・バーニング』を観たかぎりでは、むしろ白人の側がやりそうなものだが。むろんどんな時代と状況であれ、ヴォネッタにそんな真似をする気はサラサラない。人種差別なんて今どき時代遅れだ。

 やわらかな肌に、研ぎ終えたカミソリの刃を当てる。横へは引かずに、上へと剃り上げる。

「イイ切れ味だ。こうでなくちゃアな」客が満足げにつぶやく。

 ヴォネッタは慣れた手つきでヒゲを剃っていく。亡くなった父から、このオンボロ理髪店を受け継いで早五年。地元ではそれなりに評判もいい。客の半分以上は彼女の腕というより、彼女の胸が目当てだが、別に悪い気はしないし儲かるなら同じことだ。尻を触られるのも大目に見る。

 だからドアベルが鳴ったとき、当然ながら常連客が来たものだと思った。今ヒゲを剃っている白人のような新顔は珍しい。

 ヴォネッタは新たな客に振り向きもせず、「すぐ終わるから、適当にプレイボーイでも読んで待って――」

 嫌な音を聞いた。アメリカ人なら、絶対にその音を聞き間違えはしない――ポンプアクションのショットガンをシゴく音。

 油を注し忘れたブリキのきこりのように、ヴォネッタの首はなかなか動かない。ゆっくりとそちらを振り向く。

 明らかにカタギではない男がショットガンを構えて、「見つけたぞ。クラウス・キンスキー」

「人違いだ」クラウス・キンスキーと呼ばれた白人は知らん顔で即答。

「とぼけてもムダだぜ。知ってンだろ? てめえの首には、一〇万ドルの懸賞金がかかってる」

「俺の記憶では5万ドルだったはずだが」

「それは2週間前まで。相場は常にチェックしてないと大損するぜ。かつては黄金よりも高価だったアルミニウムが、たった数十年で二束三文に暴落した話を知らないか? てめえの値は今が天井、売りのタイミングだ」

 闖入者はショットガンの銃口をキンスキーに向ける。このままではヴォネッタも確実に巻き添えをくらってしまう。早く逃げなければと思うが、恐怖で凍りついて両脚が動かない。冷や汗が額を伝う。

生死を問わずデッドオアアライブ、ってのはイイよなァ。生きてる人間より死体のほうが運ぶ手間がねえ。つーわけで死ね」

 ――銃声。ヴォネッタは甲高い悲鳴を上げて目を閉じ、耳を押さえてその場にしゃがみ込んだ。

 だが、いつまで立って自分がまだ生きていることに気づく。

 おそるおそるまぶたを開くと、床にショットガン男が倒れていた。胸から血を流して死んでいる。

「とっくに手遅れだろうが、ひとつ教えておいてやる。床屋でヒゲを剃られているときは用心しろ」

 キンスキーは前掛けの下でひそかに抜いていたピストルを撃ったのだ。その言葉で、ヴォネッタは自分がヒゲを剃っているあいだ、ずっと銃口を突きつけられていたのだと知って、震え上がった。

「店を騒がせてすまなかったな。おわびに向こうのバーで1杯奢らせてくれ。だがその前にヒゲの続きを頼む」

 呆然自失として、言われるがままにヒゲを剃ろうとするヴォネッタだが、発砲の際に思わずカミソリを落としてしまったことに気づいた。見ればキンスキーの頬に、ひと筋の切り傷が出来ているではないか。浅いが若干血も出ている。

 大変なことを仕出かしてしまった。ヴォネッタの顏から一気に血の気が引く。殺される――しかし、その傷が、次の瞬間には跡形もなく消えた。

 けっしてヴォネッタの見間違えではない。確かに傷がふさがるところを見た。まるで早回しの映像だった。傷口の内側から肉が盛り上がって、何ごともなかったようにキレイサッパリ元通り。

 ――“竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威を与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。”

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