第30話

 エムズ・ストアの北側に隣接する駐車場のさらに奥には、ベージュ色の外壁がすっかり黒ずんだ古い四階建てのマンションが建っていた。マンションの南側側面にある非常階段を使えば屋上まで移動できるようになっており、その屋上の北西の角に凌介は立っていた。そこから見下ろしたマンションの西側正面には、凌介と向かい合うようにして剛が立っている。剛は深呼吸を一回行った後、マンションの住民全員に聞こえるような大声で、屋上の凌介に対して英語による呼びかけを行った。

 「おい、まだお前の病気が治らないと決まったわけじゃねぇぞっ! 早まるなぁっ!」

 屋上の凌介もありったけの大声で言葉を返した。

 「こんな病気を抱えたまま生きていくのは、もう嫌なんだ! 楽にさせてくれ!」

 二人とも演技は苦手であった。

 マンションの屋上から飛び降りれば、誰もが無事では済まないと思うはずだ。基地の人間も病院に連れて行こうとするのではないか——この凌介の提案に、剛はなかなか賛成はしなかった。

 「失敗すれば、お前は死んで、俺は自殺ほう助罪だ。自殺の手伝いなんてごめんだぜ」

 「大丈夫、大学で実験済なんだ。義足が勝手にクッションになるから、死ぬことは無いよ。万が一失敗しても、病院はすぐそこだ」

 「病院に入れるとは限らんぜ。放っておかれたらどうする」

 「そのときはさっさと撤収しよう。パフォーマンスでした、とでも言えばいいさ」

 このようなやりとりを続けたあげく、剛は半ばヤケクソ気味に凌介の提案を受け入れた。そして、二人でマンションの屋上に上がり、計画を立てた。特に剛が注意を払わなければならなかったのが、目の見えない凌介を屋上の端に立たせ、飛び降りる位置を教えることであった。凌介に何とか屋上の柵を超えさせ、そのまま手を引いて屋上の北西端まで誘導した後、剛は凌介に説明した。

 「いいか、今お前が向いている方向がマンションの正面になる。左側にあるのが俺達のいた駐車場、その先がエムズ・ストアだ。左側十時の方向にゲートがある。右側は空き地になっていて、ゲートからは死角になるから、お前は右側に飛んで着地した後、倒れるんだ。そっちはあまり人が来なさそうだが、人が来たら中止だ。俺が空き地を確認して、問題なければ合図を送るから、合図を聞いたらすぐに飛び降りろ。合図は……そうだな、そのときだけ日本語で『もう、勝手にしろ!』だ」

 「分かった。じゃあ、病院で会おう」

 「そうなるといいがな」

 そうして別れた後、マンションの正面玄関前に立った剛は、茶番劇を始めた——

 「お前が死んだら、お前の母さんはどうなる? お前のためにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」

 「俺が死んだ方が、母さんも楽になるんだ!」

 「そんなこと、お前の母さんは望んじゃいねぇさ!」

 剛は時折、困ったというように両手で頭を抱えながら、マンションの前のスペースを一周して周囲の状況を確認した。エムズ・ストアにいた客が出てきて屋上の凌介を観察していた。基地のゲートには動きはなかった。剛は凌介がまだサングラスをしていることが気になった。

 「それにお前の彼女も悲しむぞ! 誕生日にプレゼントもらったそうじゃねぇか!」

 ——こんなセリフは予定に無かったぞ? 何でこんなアドリブを……しまった、サングラスを付けたままだった。倒れたときにこれが壊れずに残っていると不自然だ。

 「うるさい! もう、彼女とは分かれたんだ!」

 そう叫んで、凌介はサングラスを収めた。

 次第にマンションの前にも人だかりが出来た。マンションのベランダから顔を出している者や凌介に声をかける者も現れ、周囲が騒がしくなってきた。

 「もう一度考え直すんだ! 生きていれば、そのうち治療方法が見つかる可能性もあるぞ!」

 「そう思って生きてきたが、もう疲れたんだ!」

 剛がゲートの方を向いたとき、ゲートからも職員が一人出てくるのが見えた。ようやく出てきたか——剛が内心ほくそ笑んで北側の空き地に目をやると、そこには誰もおらず、飛び降りた凌介が誰かにぶつかる危険は無かった。

 ——やるなら、今だ。

 そう思った剛は、合図の言葉を叫んだ。

 「もう、勝手にしろ!」

 ——ついに来た。

 凌介は覚悟を決めた。

 「ああ! そうするさ!」

 凌介はそう言うと、バランスを失ったふりをして、右側の空き地に倒れ込んだ。凌介が前のめりの体勢で落下する途中で地面に義足を向けると、義足のカメラは地面までの距離を瞬時に計算し、地面に到達する瞬間にスプリングを収縮させ、完全に衝撃を吸収した。そうして着地した後で凌介はわざと倒れ込み、地面に頭を叩きつけた。

 ——痛いが、出血するような傷じゃない。これで病院まで連れて行ってくれるだろうか。

 そうして凌介が意識を失った振りをしていると、剛がやってきて叫んだ。

 「凌介! 死ぬんじゃない! 誰か……誰か救急車を呼んでくれ!」

 遠くから眺めている野次馬にはゲートから来た職員もいた。それを見つけた剛は、職員をつかまえて必死に訴えた。

 「あいつを……あいつを助けてやってください! 俺の友達なんです。このままじゃ、死んでしまう! あそこに病院があるんでしょう!」

 周囲の視線を浴びた職員は、たまらずにゲートに帰って行った。そして数分後、ゲートから出てきた救急車両によって凌介は搬送された。全ては計画通り——そう思われたが、剛の付き添いは許されなかった。

 「そんな馬鹿な……俺も入れてくれよ!」

 だが、剛の叫びもむなしく、救急車両は凌介だけを運び、ゲートは閉じられた。剛は閉ざされたゲートをうらめしそうに眺め、しばらくの間、ただ呆然と立ち尽くしていた。

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