六章:ミッドナイト

第三十四話:夢と思い出

 それは、「わたし」がまだ小さい女の子だった頃の話だ。

 「わたし」の家族とお隣に住む「おにいちゃん」の家族とは、むかしからずっとずっと仲良しさんの関係だった。

 よく一緒にごはんも食べたし、お互いの家を普通に行き来もしていた。

 この時の「わたし」にとって、それはまるでひとつの家族そのものだった。

 だからというわけではないけれど、その週末は、両家がそろって遠くのお山へピクニックに出かけた。

 クルマで一時間ちょっと走ってようやく到着したそこは、新緑のまぶしい、自然がたくさん残った本当にきれいな山野だった。

 都会の近くにこんな場所が残っていたなんて、いまとなっては信じられない現実だ。

 澄んだ空気はとてもとてもおいしくて、流れる小川に足を浸すのも最高だった。

 兄弟のいないひとりっ子の「わたし」は、みんな一緒のお出かけがもう嬉しくて嬉しくてたまらなくって、周りを気にすることなく元気いっぱい緑の山を駆け回った。

 当時から、「わたし」って女の子は、随分とおてんばさんだったんだと思う。

 そういえば、膝小僧にはいつも擦り傷をいっぱい付けていたっけ。

 あ、これはいまでも変わりないか。

 とにかく、気が付くと「わたし」は、ひとりきりで水や草花と戯れていた。

 お父さんとお母さん、そしてお隣のおじさんとおばさんは、渓谷を流れる小川のほとりに道具を広げて、忙しそうにお昼ごはんの準備をしていた。

 炭火を使ったバーベキューだ。

 鉄板の上で油が弾けるジューって音が、あたり一面に響き渡る。

 どうも「わたし」のことを構っている暇はなさそうな雰囲気だった。

 「わたし」が可愛らしい小さな花々を見付けたのは、まさにそんな時のことだった。

 花の種類はおぼえていない。

 白くて小さい、可憐で素敵なお花だった。

 その小さな花は、大人の背丈よりもずっと高い断崖の上のほう、それも端っこギリギリのところにまとまって咲いていた。

 いまいる場所からは、とてもじゃないけど手が届かない高さだった。

 登って行けるほど緩い傾斜の断崖でもない。

 でもよくよく見れば、少し離れたところからなら、それらが咲いているところまで回り込んで行けそうだった。

 それを知った「わたし」の好奇心は、「わたし」の乏しい警戒心を一気に丸ごと飲み込んでしまった。

 いわゆる視野狭窄という奴だ。

 ただし、コドモだから仕方がない、という言いわけは通用しない。

 そこへ行く危険は、誰の目にも明らかなものだったからだ。

 にもかかわらず、無邪気な衝動に突き動かされた「わたし」は、小走りで目標に向かって走り出していた。

 それに気付いたお父さんが、慌てて「わたし」のことを呼ぶ。

「眞琴! 危ないからそっちに行っちゃ駄目だ」

「俺が連れ戻してきますよ」

 そうお父さんに告げて「わたし」のあとを追ってきたのは、お隣の家の「おにいちゃん」だった。

 「おにいちゃん」も大声で「わたし」を呼んだ。

 何度も、何度も。

 何度も、何度も。

 でも、浮かれすぎてとっくに危険水域を越えていた「わたし」には、その声が全然聞こえていなかった。

 傾斜が緩くなったところをよじ登って、「わたし」は目的地点にたどり着いた。

 ブラシみたいな小さく白い花が、「わたし」の足下でたくさんたくさん生えていた。

 下の方に集まったお父さんたちが、口々に「降りてきなさい」を連呼している。

 その時、おてんばな「わたし」には、お父さんたちに心配をかけているという実感がなかった。

 例のお花に目を落とす。

 町の中では見られない、お姫さまみたいなかわいいお花だ。

 これを持って帰ればお父さんたちも喜ぶかな、なんて愚にも付かないことを考えてしまう。

 「わたし」は、跳び付くようにそのお花へと手を伸ばした。

 先日降った雨のせいで付近の地盤が緩んでいたことが災いした。

 両手を突いた断崖の端が、体重を支え切れずにぼろっと崩れた。

 そして、まだ大人の足腰を備えていなかった子供の「わたし」は、前のめりに倒れ込む自分の体を後ろに引き戻すことができなかった。

 小さな「わたし」は、文字どおり頭から下に落下した。

 悲鳴をあげる暇もなかった。

 物凄い恐怖だった。

 生まれて初めて直面する死の予感。

 お父さん!

 お母さん!

 おじさん!

 おばさん!

 心の中で必死になって助けを求めた。

「眞琴!」

 その刹那、誰かが「わたし」の名前を呼んだ。

 伸ばされた手が、重力に引かれる「わたし」の身体をぎりぎりのところで掴み取る。

 それは、「わたし」のあとを追ってきたお隣の「おにいちゃん」だった。

 何かを叫びながら、「おにいちゃん」は「わたし」を強く抱え込んだ。

 自分の胸に引っ張り込んだ。

 振り向いた「わたし」の目に、その姿が一瞬だけ映った。

 透き通る青空を背にしたその時の「おにいちゃん」は、まるで天空から降りてきてくれた神さまみたいだった。

 次の瞬間、どすんという強い衝撃とともに、目の前が真っ暗になった。

 長い距離を、「わたし」はひたすらに滑り落ちた。

 もの凄い勢いで、何度も上下が入れ替わった。

 心から人生の最期を覚悟した。

 子供の時にそんなことを体験できる人間なんて、日本中を探したってそうはいないに違いない。

 それは、まるで現実離れした経験だった。

 人間って本当に死ぬ時には痛みも何も感じないんだな、なんて思ったりもした。

 落下はなんの前触れもなく終了した。

 自分の意識がしっかりしていることが、「わたし」にはとても不思議だった。

 またしても頭の中が混乱する。

 乱れまくった「わたし」の頭を現実へと引き戻したのは、「おにいちゃん」から発せられた苦痛の呻きだった。

 「おにいちゃん」?

 恐る恐るまぶたを開いて「わたし」は見た。

 知った。

 なぜだかまったくの無傷である「わたし」の身体を。

 そして、そんな「わたし」とは真逆に、全身傷だらけの血塗れで「わたし」の下に横たわる「おにいちゃん」の姿を。

 その時になって、ようやく悟った。

 「わたし」は、「おにいちゃん」の身体に守られながらこの断崖を滑落したのだと。

 「わたし」は、「おにいちゃん」の献身によって命を救われたのだと。

 「おにいちゃん」の身体に刻まれた無数の生傷は、本来なら「わたし」が受けなくてはならなかったものなのだと。

 「おにいちゃん」は「わたし」の代わりに傷付き、そして血を流している。

 それを幼い心で認識した「わたし」は、ぐったりと力なく横たわる「おにいちゃん」にすがり付き、わんわんと声をあげて泣きわめいた。

 それだけしかできなかった。

 「おにいちゃん」の左足が普通ではない方向に捻じ曲がっていた。

 いまでもたまに、夢で見る。

 完全に骨折していたのだろうと思う。

 「わたし」はいままで骨折の痛みを経験したことはないのだけれど、きっと信じられないくらい痛かったのだろうと思う。

 でも、その時の「おにいちゃん」は、気丈にも「わたし」に向けてとびっきりの笑顔を見せてくれた。

 気力を振り絞って苦痛に耐え、「わたし」に心配をかけないよう顔中に脂汗を滲ませながら、それでもにっこりと笑って「わたし」の髪の毛をくしゃくしゃってしてくれた。

 それは、「わたし」にとって絶対に忘れようがない笑顔だった。

 振り返れば、「わたし」が「おにいちゃん」を「おとこのひと」として意識しだしたのは、それがきっかけだったんだと思う。

 随分とおませな女の子だった。

 そう言われても仕方がない。

 自分でもそう思う。

 でも、「おんなのこ」であれば、その時の「わたし」をきっと理解してくれると信じている。

 「おにいちゃん」は、「わたし」の人生に初めて降臨した「わたし」だけの「英雄ヒーロー」だったんだもの!

 その後、「わたし」は入院した「おにいちゃん」の側から片時も離れようとしなかった。

 雨の日も風の日も、時間さえあればお母さんに駄々をこねて「おにいちゃん」がいる病院におもむき、一日中「おにいちゃん」の近くに身を置こうとした。

 そして、当時の「わたし」ができるわけなんて絶対になかったのに、いろいろと「おにいちゃん」の世話を焼こうとまで試みた。

 もちろん、まだまだ小さな「わたし」は失敗ばかりだ。

 リンゴの皮をむこうとしてナイフで指を切ったり、「おにいちゃん」の着替えそのほかを無理矢理に手伝おうとして看護師さんを困らせたりもした。

 でもしばらく経つ頃には、お父さんもお母さんも、そして「おにいちゃん」のお父さんとお母さんも、「わたし」の熱意に呆れ果てて何も言わなくなっていた。

 時々お見舞いにくる「おにいちゃん」のお友だちだけが、「わたし」の存在に素直な感想を述べていた。

「壬生はロリコンだったんだな。結婚式はいつにするんだ?」

 完全無欠な冗談を真に受けたような態度で、「莫迦野郎」と「おにいちゃん」が拳を振り上げる。

 笑いながら。

 もちろん、「おにいちゃん」もその言葉が本気でないことぐらいわかっていた。

 その発言を真に受けることができたのは、この世でたぶん「わたし」だけだったに違いない。

 けっこん?

 「わたし」が「おにいちゃん」のおよめさんに?

 小さい子供の考えることだ。

 あたりまえだけど、オトコが、オンナが、なんて具体的な認識が当時の「わたし」にあったわけじゃない。

 でも、それでも、「わたし」は「おにいちゃん」の隣で花嫁衣装をまとっている自分自身を想像──いやむしろ妄想か──して物凄く嬉しい気分に浸っていた。

 そのことを、いまでもはっきりとおぼえている。

 恥ずかしながら、それが「初恋」だったと自覚したのは、随分とあとになってからの話だ。

 それは、ある日のことだった。

 少し目を離した隙に病室からいなくなった「おにいちゃん」を探して病院内を駆けていた「わたし」は、周りに人気のない通路の窓際で、いまにも雨粒が降ってきそうな鉛色の空を呆然と眺めている「おにいちゃん」の姿を発見した。

 これまで「わたし」が見たことのない暗い沈んだ表情を、その時の「おにいちゃん」は浮かべていた。

 それは、放っておいたらつい泣き出してしまうのをぐっと無理矢理我慢している、そんな表情だと「わたし」には思えた。

 「わたし」の知ってる「おにいちゃん」は、いつでもにこにこ笑ってて、子供の「わたし」が口にするとりとめのない発言を、ちゃんとまっすぐに受け止めてくれるひとだった。

 この時の「わたし」にとってオトナのひとと言えば、お父さんでもお母さんでもなく、お隣のおじさんおばさんでもなく、間違いなく「おにいちゃん」のことだった。

 「わたし」だけの、本当に「わたし」だけの「英雄ヒーロー

 その「英雄ヒーロー」が見せていたつらそうな顔付きに、さすがに子供の「わたし」でも声をかけることをためらってしまった。

 あとになってお父さんが話してくれた。

 「おにいちゃん」は、通っている学校の代表として選ばれて駅伝の全国大会に出場する予定だったのだと。

 そして「おにいちゃん」は、高校時代からずっとずっとそれだけを目指して頑張ってきたのだと。

 でも、「わたし」を助けることで受けた「おにいちゃん」の怪我が、それを台無しにしてしまったのだと。

「残念ですが、もうもとどおりには走れないものと思われます」

 担当のお医者さんがそう「おにいちゃん」の怪我を診断したことも、包み隠さずお父さんは教えてくれた。

「矛根には応援にきてくれよ、眞琴」

 毎朝の日課となっているランニングを終えた「おにいちゃん」が、流れる汗を拭きながらそう言っていたことを思い出す。

「新年の矛根を走るのは、俺の積年の『夢』だったからな。それが現実になるんだ。少しでも悔いの残る真似はしたくない」

 でも、「おにいちゃん」はその「夢」を失った。

 永遠に。

 何年も何年も懸命に積み重ねてきた努力の成果を、世に試す機会も与えられずに諦めるしかなかった。

 「わたし」のせいだ。

 「わたし」のせいだ。

 それを聞いた「わたし」は、お父さんが見ている前で声をあげて泣いた。

 次から次へと大きな涙が溢れ出て、左右の目からこぼれ落ちた。

「おまえのせいじゃないよ」

 お父さんは、全然泣きやもうとしない「わたし」を、そう言って慰めてくれた。

 でもそれが真実でないことぐらいは、子供の「わたし」でもわかっていた。

 大好きな「おにいちゃん」にあんな顔をさせているのは「わたし」なんだ。

 大好きな「おにいちゃん」に悔しい思いをさせているのは「わたし」なんだ。

 だから、子供心に「わたし」は誓った。

 これから「わたし」は「ぼく」になる。

 本当は「おれ」になれたらよかったのだけど、きっとそこまでのことを「わたし」はできないと思ってた。

 だけど、「わたし」から「ぼく」になれば、いまよりももっと「おにいちゃん」の近くにいられるはずだ。

 そして、そのままの場所で少しでも早く大きくなって、「ぼく」は「おにいちゃん」の役に立つ「おんなのこ」になる。

 リンゴの皮だってむけるようになるし、お掃除だってお洗濯だってできるようになる。

 そうすれば、きっと「おにいちゃん」は喜んでくれる。

 微笑んでくれる。

 あんなつらそうな顔は、この「ぼく」が二度とさせない。

 「おにいちゃん」がなくした「夢」は、絶対に「ぼく」が取り戻してあげるよ!

 その日から、「ぼく」はお母さんに色々なことを教えてもらった。

 お料理も、お掃除も、お洗濯も。

 そしてそれまでお父さんお母さんと一緒におやすみしていた習慣もやめて、ひとりで眠るようにもした。

 必要とされ、求められて「おにいちゃん」の側にいること。

 それが、「ぼく」にとって生涯かけての目標となった。

 もちろん、いっぱいいっぱい失敗したし、火傷も切り傷も数え切れないくらいその手に作った。

 正直、凄く痛かった。

 でも泣かなかった。

 そんなことぐらいで泣くなんて、この「ぼく」が「ぼく」自身に決して許しはしなかったからだ。

 そのおかげなのかな。

 気が付けば、「ぼく」は「おにいちゃん」の役に立ってる自分自身を見出していた。

 当然だけど、大したことができていたわけじゃない。

 だけど、生まれて初めて「ぼく」が作った焦げ目だらけの目玉焼きを「おにいちゃん」がとても美味しそうに平らげてくれた時の感動は、いまでも忘れようがない。

 いつの間にか、「ぼく」は「おにいちゃん」の役に立つことが嬉しくて楽しくてたまらないようになっていた。

 このままの時間がずっと続いていくのだと、なんとはなしに思っていた。

 「おにいちゃん」は、「ぼく」の前ではいつも笑っていた。

 時々不満そうな顔をすることはあったけど、終わってみればその表情は必ず最後に微笑みを浮かべていた。

 その笑顔は「ぼく」だけのものだと心の底から信じていた。

 少し考えれば、そんなはずがないことぐらいわかりそうなものだったのに。

 やがて、「おにいちゃん」は自分のお友だちと一緒にいる時間が多くなっていった。

 それはつまり、「おにいちゃん」の「ぼく」と一緒にいる時間が少なくなるということに直結する。

 寂しかった。

 「おにいちゃん」の側にいていいのは「ぼく」だけなんだと本気で思っていた「ぼく」にとって、それは本当につらい日々だった。

 夕方になると、決まって「おにいちゃん」をクルマで迎えにくるお友だち。

 一度だけ「一緒に連れてって」と強くお願いしたことがある。

 でも「おにいちゃん」は、「もっと大きくなったらな」と「ぼく」の髪の毛をくしゃくしゃってしながら、優しく「ぼく」のお願いを拒絶した。

「どれぐらい大きくなれば連れてってくれるの?」

 曖昧な答えに納得できなかった「ぼく」は、「おにいちゃん」に尋ねた。

 それを受けて「そうだな」と困ったように首を傾げた「おにいちゃん」は、「眞琴がクルマを運転できるようになったらな」と笑いながら「ぼく」に答えた。

 その時の「ぼく」は、諦めることしかできなかった。

 「おにいちゃん」がお友だちと一緒に笑っていた。

 「ぼく」にだけ向けてくれていたあの笑顔を、「おにいちゃん」はそのひとたちにも分け隔てなく見せていた。

 もう「おにいちゃん」には「ぼく」が必要ないのかな。

 そう思うだけで自然と涙が溢れてきた。

 その夜は、ベッドの中で声を押し殺してひとりで泣いた。

 でも、誓いの成就を諦めることだけはできなかった。

 「ぼく」は、いまの「ぼく」がなんで「おにいちゃん」の横にいられないのかを必死になって考えた。

 結論はすぐに出た。

 それは「ぼく」がまだ「コドモ」だからだ。

 自分の足で「おにいちゃん」の横に立つことのできない「コドモ」だからだ。

 だったらどうすればいい?

 簡単なことだ。

 「オトナ」になればいい。

 「おにいちゃん」の横に並ぶためには、「おにいちゃん」の役に立つ「おんなのこ」になるだけじゃ駄目だ。

 きちんと自分の足で世の中を歩ける、そう周りに認められる「オトナ」にならなくちゃ駄目なんだ。

 そう、「おにいちゃん」みたいに。

 「ぼく」の大好きな「おにいちゃん」みたいに。

 そんな日が何日も何日も過ぎた。

 ある日の夜のことだった。

 それは随分と遅い時間だったと思う。

 ふとベッドの上で目を覚ました「ぼく」は、窓越しに、とぼとぼとどこかにお出かけしていく「おにいちゃん」の姿を発見した。

 普通に考えれば、自動販売機に飲み物でも買いに行くのかな、とでも思うのが当然だ。

 だけど、その時の「ぼく」はなぜだかそう思わなかった。

 理由などない。

 素直に勘だとしか言いようがなかった。

 無理矢理に理由をこじつけるなら、その時に見た「おにいちゃん」の背中が「ぼく」の知っている「おにいちゃん」の背中と明らかに違っていたからだ。

 なんだろう。

 嫌な予感がした。

 「ぼく」は、深夜であるにもかかわらずパジャマ姿のまま階段を駆け下り、小さな足をフル回転させて「おにいちゃん」のあとを追った。

 「おにいちゃん」が向かった先は、近所にある小さな児童公園だった。

 日中は小さな子供たちが遊び場としてよく使っている、実に日当たりのいい憩いの場だ。

 その公園の敷地には、真ん中に一本の大きなポプラが立っていた。

 そのおかげで、「ぼく」たちはここを安直に「ポプラ公園」って呼んでいた。

 「ぼく」が「おにいちゃん」に追い付いた時、「おにいちゃん」はその木に両手を付き、額を押し付け、立ったまま大声で吠えていた。

 泣いてるみたいだった。

 苦しんでるみたいだった。

 そして「ぼく」が見ている前で、「おにいちゃん」はその両の拳をポプラの木の幹に勢い良く叩き付け始めた。

 ごつんごつんと鈍い音が夜の公園に響いた。

 白い街灯が照らし出す「おにいちゃん」の拳骨が、見る見る間に真っ赤な血で染まっていく。

 「ぼく」は、それを黙って見ていることができなかった。

 なんとかして「おにいちゃん」を止めようと、弾かれるように飛び出した。

 いや、正確には飛び出そうとして誰かの手に止められてしまった。

 それは、いつの間にか「ぼく」の後ろに立っていたお父さんの手だった。

「どうして止めるの?」

 振り向いた「ぼく」は、感情的になってお父さんに抗議した。

「『おにいちゃん』、怪我をしているんだよ。止めないと駄目だよ」

 いま考えても、「ぼく」の言葉は正論だったと思う。

 でも、なぜだかその時のお父さんは、首を縦には振らなかった。

 そして、「ぼく」を諭すようにゆっくりと語り始めた。

 「ぼく」は知った。

 昨日、「おにいちゃん」の大切なお友だちが事故で亡くなったのだと。

 そして、その責任の一端は明らかに「おにいちゃん」自身にあるのだと。

 少なくとも、「おにいちゃん」は心の底からそう信じているのだと。

 法律的には、その件で「おにいちゃん」が責任を問われることはないらしい。

 「おにいちゃん」に罰を与えられる決まりごとはないのだそうだ。

 だから、いやまさにそれだからこそ、いまの「おにいちゃん」はそんな自分が許せないに違いない、と、お父さんは「ぼく」に言った。

 自らが犯した過ちに対し、きちんとした罰を受けその罪を償うことを許されない「おにいちゃん」は、もしかしたら今後ずっとずっと自分自身を許せないままでいるのかもしれない。

 そして、誰からも許されない罪人としての自分を、これから永遠に望み続けるのかもしれない。

 それが、歪みきったひとりよがりの「贖罪」であると知りながら──…

「『ぼく』が許すよ」

 自分でも覚えのないまま泣いていた「ぼく」は、無意識のうちにそう言っていた。

 「おにいちゃん」がいけないことをして、たとえ世界中のみんなが「おにいちゃん」を許さないって言っても、「ぼく」だけは「おにいちゃん」を許す。

 たとえ誰ひとりとして「おにいちゃん」の味方をしなくても、「ぼく」だけは「おにいちゃん」に味方する。

 だから「おにいちゃん」

 泣かないで。

 ひとりで泣いちゃ嫌だよ。

 「おにいちゃん」が泣く時は、「ぼく」も一緒に泣いてあげるよ。

 約束する。

 約束する。

 だから、「おにいちゃん」

 笑って。

 いつもみたいに、「ぼく」に笑顔を見せて。

 「おにいちゃん」

 「おにいちゃん」

 「おにいちゃん」

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