二章:ドッグファイト

第八話:マーフィーの法則

 最悪の事態は、常に最悪のタイミングで発生する。

 これは、「マーフィーの法則」として知るひとも多いフレーズだ。

 ただし、その法則がいざ自分の身に降りかかってきた時に整然とそれに対処しうる人間は、この一文を知る人ほどには多くない。

「翔兄ぃ、大変ッ! リンさんがッ!」

 その日の夜、仕事を終え、若干の寄り道を経たあとに帰宅した翔一郎めがけ、血相を変えた眞琴が自宅の玄関から飛び出してきた。

 何事か、と話を聞くと、あろうことか、倫子の駆る「MR-S」が自損事故を起こしたというのだ。

 それは、彼女が芹沢聡との対決バトルを明後日に控えた昨日の深夜のことだった。

 場所は八神街道の頂上付近。

 翔一郎たちが倫子と「シルビア」とのバトルを観戦していた、まさにその周辺での出来事である。

 眞琴のほうも加奈子からの又聞きらしく、具体的な状況を把握しているわけではなかった。

 ただし、彼女がいま病院に検査入院していることと、その愛車がかなりの損傷を被ったことだけはほぼ間違いない情報だそうだ。

 さすがに翔一郎は、眞琴のように取り乱したりはしなかった。

 ある程度彼女との付き合いを持つ眞琴と違い、彼にとっての倫子とは、しょせん馴染みの店の従業員メカニックでしかない。

 とはいえ、顔見知りが遭遇したトラブルに対してあっさり他人事を決め込めるほど、翔一郎は薄情者になれなかった。

 うろたえている妹分を助手席に積み込み、倫子が入院しているという県立病院に向け、彼は愛車を走らせる。

 出発してしばらくの間、眞琴はじっと押し黙ったままであった。

 その陰鬱とした様子は、兄貴分である翔一郎がこれまでに見たことのないほどのものだ。

 恐らくだが、親戚の類が同様の有様になったとしても、この娘はこれほどの顔付きを見せたりはしまい。

 三澤倫子とは、眞琴こいつにとってそれほど重要な人物なんだろうか──…

 不埒な好奇心が鎌首をもたげ、つい彼は、少女に質問を飛ばしてしまう。

「なあ眞琴。おまえと三澤さんって、実際どんな関係なんだ?」

 聞き様によれば、それは誤解を招きかねない問いかけだった。

 いつもの眞琴なら、真っ先にそこを突いてきただろう。

 翔一郎も、十分そのことはわかっていた。

 だから彼は、「言いたくなければ言わなくてもいいが」という予防線を張ることを忘れなかった。

 しかしこの時の彼女は、翔一郎の予想に反してまったく素直に返答してきた。

 「うん」と小さく頷いたのち、少女はやんわり口を開く。

 それは、偶さかの出会いをきっかけとする、ちょっとした人生譚の一説だった。

「ボクがリンさんと出会ったのはね、去年の夏休みのことだったよ」

 遠い目で街の灯りを眺めつつ、眞琴はゆるりと言葉を紡いだ。

「始まりは、あのひとの青いクルマMR-Sを街中で見かけたこと。車高が低くて見慣れないマシンが、ボクの目の前をミズスマシみたいに走り抜けて行ったんだ。右に左にヒラリヒラリ。それはもう、アクション映画のワンシーンみたいなスピードだった」

「ほう」

「でね、本当ならそういう運転を『危ないな』って思うのが普通なんだろうけど、なぜだかその時、ボクはそのマシンとドライバーの両方を『カッコいいな』って思っちゃったんだよ」

 眞琴の声が昂ぶりを帯びた。

「人生ってさ、モノに例えたら『道』みたいなものでしょ? 遅いクルマ速いクルマ、下手なドライバー上手いドライバー、それぞれいろんな種類がいるのに、みんなそろって同じ流れに乗ろうとしてる。みんながみんな同じ規則に従って、足並みそろえて似たような向きに走ってる。そんな停滞した『道』をね、スイスイスイって駆け抜けていく青いスポーツカーを見て、ボク、物凄く感動しちゃったんだよ。ああ、世の中にはこんなもあるんだなって。そしたら急に、そのクルマの運転手に会いたくなっちゃってさ」

「で、それを実行に移した、と」

「うん、そういうこと。たぶんそのひとは走り屋だろうって簡単に目星をつけて、夜の八神街道に何度も通ったよ。両親には大会前のロードワークだって嘘ついて」

「まったく。年頃の娘が危ない橋を渡るもんだ」

 呆れたように翔一郎が言った。

「世の中にいるのは善人ばかりじゃないんだぞ」

「あはは、それは自分でもそう思う」

 自虐気味に眞琴が笑う。

「その時は、まさかその運転手が女性だなんて思ってもみなかったしね。でもその甲斐あって、ボクはカナさんたちチーム・ロスヴァイセと知り合えた。あのリンさんシャイニング・ザ・ブルーとも仲良くなれた。あのひとたちはボクのの先輩で、特にリンさんは心の師匠でもあるんだよ。だからボクは、あのひとたちみたいに自分の生き方を自分で決めたい。挫けるにしろ叶えるにしろ、自分の意志でそれを決めたい。翔兄ぃの言うとおり、走り屋っていうのは社会的に認められない生き方なのかもしれない。けどボクにとって走り屋っていう生き方は、胸を張ってそうだと名乗れる自己表現の手段なんだよ」

「生き方の先輩に、心の師匠ときたか──」

 翔一郎の表情に、取り繕った笑顔が浮かんだ。

 軽く頭を掻きながら、納得したように深く頷く。

 間を置くことなく彼は言った。

「そんなのがトラブったのなら、そりゃあ正気じゃいられないわな」

 翔一郎たちが目的地に到着した時刻は、すでに午後八時を回っていた。

 残念ながら、正規の面会時間はとうに過ぎ去っている。

 にもかかわらず、ふたりは倫子のいる病室になんの問題もなく入ることができた。

 そのことから、彼女の容態がさほどのものではないだろうことを翔一郎は察した。

 だがいくぶん冷静さを失い気味だった眞琴は、彼の口からその推測を告げられてもなお、病室内で本人と直接対面するまで気が気ではなかったようだ。

「ごめんなさい。心配かけて」

 いまにも泣き出しそうな顔をしている眞琴の頭に手をやって、倫子は心底済まなさそうに口を開いた。

 上体を起こし本のページをめくっていた姿勢をやめ、ベッドの端に腰かけるようにして翔一郎たちとまっすぐ向き合う。

 その頭部にこそ白い包帯が痛々しげに巻かれているが、彼女の外見にそれ以上の負傷箇所は認められなかった。

 倫子自身も、素っ気ない寝間着に身を包んでいるとはいえ、行動に支障をきたしている様子はうかがえない。

 それを見る限り、検査入院という加奈子からの伝聞は間違った情報ではないようだった。

 事故は自分の不注意のため、と倫子はきっぱり断言した。

 さらに詳しい状況を尋ねると、その夜、いつものごとく八神の表コースを攻めていた際、クルマの操作を誤ったことでガードレールに接触してしまったのだ、という回答がその口腔よりもたらされた。

 その結果、「MR-S」は左側フロント部分を激しく破損し自走不能。

 割れたガラスが車内に飛び込んできたため、彼女も額を数針縫う怪我を負ったのだという。

 魔が差したのかしらね、と自嘲気味に倫子は笑ったが、彼女らしくないと言えばらしくない、どこか奥歯にものが挟まったかのような物言いだった。

 それに引っかかるものを感じた翔一郎が倫子に向かって問い質した。

「何か別に原因があったんじゃないんですか? ただ単に『自分のミスだ』なんて聞いたって、そこの小娘は納得しやしませんよ」

 軽く眞琴のほうに視線を振って倫子の回答を促すと、彼女はほんのわずかにため息をついてから、しずしずとその重い唇を開いた。

「頂上付近のブラインドコーナーをクリアしている最中、対向車にハイビームを浴びせられたのよ」

「対向車?」

 眞琴が言葉の一部をを反芻する。

「見落とし、ですか」

「そうじゃないッ!」

 倫子は叫んだ。

「あの時、間違いなく対向車のヘッドライトはなかった。あのライトは、わたしがコーナーに進入した直後にいきなり現れたのよッ!」

 爆発的に感情が噴出する。

「警察は信じてくれなかった! 目撃者もいない! 当然だわ。でもわたし、嘘は言ってないッ! 嘘だけは言ってないッ! もちろん事故を起こしたのは、わたしの責任よ。それはいいの。だけど、あんなのがきっかけだなんて、わたし、絶対納得がいかないッ!」

 対向車のヘッドライトがなんの兆しもなく突如として眼前に出現する──…

 翔一郎もむかし夜の八神を数え切れないほど走ったことがあるのでわかるのだが、あの場所でそれだけはありえないと断言できる。

 なぜなら、対向車からのヘッドライトは、必ずコーナー外側に設置されたカーブミラーにくっきり映り込むからだった。

 だから、もし倫子の証言がそのとおりなのであれば、その重要な兆しを彼女が見落としたか、あるいはほかの人為的な――…

「リンさん」

 倫子の感情がひと段落したのを見計らうように、眞琴が恐る恐る口を開いた。

「週末のバトルはどうなるんでしょう?」

「不戦敗、ってことになるでしょうね」

 力なく倫子は応えた。

「相手が日時を改めてくれるなら別でしょうけど、芹沢はそういったタイプのオトコじゃないわ。望む結果を得るためだったらどんなことでもする」

 言い終えるや否や、彼女はふっと相好を崩した。

 無理矢理にこしらえた、どこかいびつさのある笑顔だった。

 無言でそのやりとりを聞いていた翔一郎が、しばしの間、目をつぶる。

 きっと口元を引き締め、難しい表情で何やら考えを巡らせているようだ。

「眞琴、そろそろ帰るぞ」

 まぶたを開けた彼は、そう言ってふたりの会話を断ち切った。

 渋る眞琴を引きずるようにして病院をあとにした彼だが、しかし、その脚を直接自宅に向けようとはしなかった。

「ちょっと、翔兄ぃ、どこ行くつもり?」

 訝る眞琴に応えることなく彼が向かったその先は、倫子の起こした事故現場であった。

「確かめたいことがある。付き合え」

 有無を言わせぬ口調でそう告げた翔一郎は、付近の路肩に「レガシィ」を停めた。

 そしてひとりでクルマを降り、倫子の「MR-S」が突き刺さったと思われるガードレールの手前まで、すたすたと足早に歩み寄っていく。

「このあたりだな」

 衝突の衝撃で無惨にひしゃげたガードレールには見向きもせず、翔一郎はその場からうかがえる夜の峠道へと目をやった。

「何見てるの?」

「当時の状況さ」

 言われたとおりにあとを追ってきた眞琴の質問に対し、翔一郎は手振りを加えて解説を始める。

「ブラインドカーブに進入する際、三澤さんは対向車の存在をギリギリまで確認するため、こんな風にクリッピングポイントを奥のほうに取ったはずだ」

 眞琴が頷く。

「だとすれば、コーナーに進入するポイントはどこかこのあたりだろう。確かに、ここで操作ミスしたのなら、あそこらへんにクルマが突っ込んだのも納得できる」

「ふんふん」

「だが」

 翔一郎は眞琴のほうに向き直って言った。

「この位置からなら、そこのミラーに映ったヘッドライトを見落とすなんて考えられない」

 それは、聞きようによっては倫子の発言に対する完全否定だった。

 彼女の崇拝者、その最右翼ともいえる眞琴の顔色が、その台詞を受けてさっと変わる。

「翔兄ぃ、それって」

「まあ待て、話を最後まで聞け」

 脊髄反射的に噛み付いてきた眞琴を軽くいなして、翔一郎は言葉を続ける。

「俺も、あのひとが嘘を言ってるとは思ってない。でも、状況はいま言ったとおりだ。余所見でもしてない限り、対向車のハイビームを見落とすなんてわけがない。だったら答えはひとつだろ?」

「?」

「光のほうが突然現れたってことさ。どこの輩かは知らないが、誰かが仕組んだタチの悪いいたずらだよ」

 方法はいたって簡単。

 コーナーの向こう側からは見えない位置にクルマ――この場合は二輪だって構わない――を停めておいて、倫子の「MR-S」が顔を見せた瞬間を見計らって、タイミングよくその鼻面にハイビームをお見舞いすれば片が付く。

「でもいったい誰が」

 翔一郎の説明を聞き終えるや、眞琴の口から至極まっとうな疑問がこぼれ落ちる。

 そして次の瞬間、彼女の耳に倫子が病室で発した言葉が鮮明に蘇った。

『芹沢はそういったタイプのオトコじゃないわ。望む結果を得るためだったらどんなことでもする』

 まさか──眞琴は両目を見開いた。

 ヘッドライトの件もあいつらカイザーが仕組んだことじゃ――…

 眞琴は、もはや彼女の中では確信に近いものに成長した推測を翔一郎にぶつけてみた。

「かもな。だが証拠がない」

 さらりと翔一郎は言い放った。

「証拠がなければ公の組織は動かんよ。残念だがな」

 突き放したかのような翔一郎の言葉に、眞琴は素直に沈黙した。

 意外な反応だった。

 いつもの彼女なら、咄嗟に反発してきたことだろう。

 翔一郎も、眞琴がそういった反応をみせるだろうことを予測して、その上での会話を続けるつもりだった。

 だが、彼女はそうしなかった。

 その代わり、じっと唇を噛み締め、うっすらと悔し涙さえ浮かべながら小刻みに両肩を震わせた。

「悔しいよ、そんなのってないよ!」

 彼女は叫んだ。

 眞琴が感情を爆発させたのを目の当たりにして、翔一郎は、しまった、とばかりに髪の毛を引っかいた。

 不覚にもこの件に感情移入してしまっている自分自身を、いまはっきりと認識してしまったからだった。

 荒ぶる眞琴をなだめながら猿渡家まで送り、自らもその足で帰宅した翔一郎は、用意されていた夕食にも手を付けず、自室のベッドにどさりと身体を投げ出した。

 そのまましばらく天井を眺めてみたが、眞琴の泣き顔がまぶたの裏から消えてくれない。

 思えば、あいつが泣くのを目にしたのは、いったいいつ以来の出来事なのだろう。

 少なくとも、それは二、三年というスパンの話ではない。

 何しろ、思い当たる記憶がまったく存在しないのだ。

 十年以上前、いや、ひょっとしたら初めてなんじゃないか、とすら思いなおす。

 正直な話、できるものなら何か力になってやりたいと翔一郎は思った。

 だが、走り屋同士の抗争に一介の事務屋風情が出しゃばったところで、大きく何かが変化するとも思えなかった。

 そのことに、出所不明のいらつきを覚える。

 そして、その矛先は、知らないうちに当事者である倫子へ向けられるようになっていた。

 そもそも、勝つために手段を選ばない対戦相手を持ちながら、彼女は脇が甘過ぎだ。

 そんな連中が大勝負を前になんらかの小細工をしてくることぐらい、ある程度は予想していてしかるべきではないか。

 俺だったら、あんな子供だましには引っかからない。

 そう、「俺」だったら──…

 この、「俺」だったら──…

 翔一郎の胸中で、奥底に封じ込めたはずのケダモノが獰猛な唸り声をあげだした。

 血液の温度が無意識のうちに上昇を始める。

 唐突に、「エム・スポーツ」で倫子から放たれた問いかけが、幻のように蘇って脳裏に響いた。

『あなたもしかして、「ミッドナイトウルブス」のミブローさんなのではありませんか?』

 その瞬間、翔一郎はがばっと弾かれたように上体を起こした。

 てのひらで顔を覆い、畜生、畜生、と呪詛の言葉を吐き捨てる。

 苦渋の色が、その面相を埋め尽くしていた。

 それは、自分で自分に嘘を吐き続けていたという現実を、否応なしに突き付けられたがゆえのアクションであった。

 ふぅーっと大きく息を吐いたのち、翔一郎は顔を上げた。

 右の拳でこめかみを打ち、おのれ自身に活を入れる。

「まさに『毒を食らわば皿まで』って奴だな。こいつは……」

 そう呟いた彼は、すぐさま携帯電話を手に取った。

 アドレス帳を呼び出し、そのうちのひとつに連絡を入れる。

 電話に出たのは「エム・スポーツ」の水山店長だった。

 単刀直入に翔一郎は告げた。

「夜分申しわけありません。実は、至急のお願いごとがありまして──」

 それは、壬生翔一郎という男がある意味で腹を括った、その明確な証であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る