第六話:シャイニング・ザ・ブルー

 このあたりで一般的に「八神街道やがみかいどう」というと、武蔵ヶ丘市と桜野市との間に横たわる旧国道周辺を指すことが多い。

 さらに地域を限定するならば、それは武蔵ヶ丘方向から入る「八神口やがみぐち」から桜野方面へと抜ける「九十九坂つくもざか」まで続く、信号のないエリアのことだと言えよう。

 この区間を貫いているのは、広いエスケープゾーンを持った片側一車線道路が大半だ。

 決してなだらかとは言えない丘陵地帯に敷かれているため、それは、地勢に沿って複雑なうねりを描いていた。

 上空からその道筋を見ることができれば、あるいは大地にのたうつ蛇のように映ったかもしれない。

 制限速度は時速五十キロ。

 朝夕の通勤時間帯における通行量もそれなりに多い。

 新興の産業都市である「桜野市」と旧来の県庁所在地である「武蔵ヶ丘市」

 そのふたつを結ぶ主要街道という経緯もあって、国から県に管轄が移行したのちも整備自体は良好に行われていた。

 黒々とした真新しいアスファルトを路面の各所で見ることができるのは、もっぱらそのおかげだと言える。

 そんな八神街道の知名度が急上昇したのは、およそ九十年代初頭のことであった。

 アウトロー系の雑誌に掲載された記事をきっかけに、近隣に棲息する「走り屋」どもがこの地を主戦場と定めたためである。

 それは当時、警察が組織的な取り締まりを行うほどの盛り上がりを見せていた。

 「公道を攻める」という違法行為の是非はともかく、一部の若者たちに明確な熱意があったという何よりの証でもあった。

 それから十年以上が経過して、時代の感性も流れに応じて変わっていった。

 かつてあれほど夢をもって語られた自動車は、いまや移動手段のひとつへと成り下がり、単なる金食い虫としてこれを忌避する意見すらが市民権を得るようになっていた。

 しかし、いつの世にも流行に背を向けたひねくれた数寄者は存在する。

 もし八神街道の路面をつぶさに観察する機会があれば、そこかしこで無数のタイヤ痕ブラックマークが残されているのを認めることができるであろう。

 そしてそれは、この地がいまだ「走り屋の聖地」として健在であることを、百万の言葉よりも雄弁に主張していた。

 夜十時。

 眞琴と翔一郎がいるのは、そんな非日常空間の外縁部であった。

 八神口方向から坂道を登ってくると、その頂上付近に武蔵ヶ丘市街地を一望できるパーキングエリアが見えてくる。

 縁石で車道と分離されたその空間には、二十台程度の一般車輌が駐車可能だ。

 本来は散策目的の家族連れなどを考慮して設けられたそうなのだが、そうした用途にはほとんど使用されておらず、実際は若者たちの溜まり場として使われていることがほとんどだと聞く。

 そのような場所の一角に、明らかに場違いと思われるその灯火はあった。

 屋台ラーメンだった。

 改造されたボックスカーから立ち上る湯気にそこはかとなく含まれるスープの香りが否応なしに食欲をそそり、風に吹かれてかすかに揺れる古びた暖簾がまるでおいでおいでをしているかのごとく客足を呼び込む。

「親父さん、チャーシューふたつね」

 ボックスカーの側面に備えられた即席のカウンター。

 そのど真ん中に陣取った眞琴が、元気良く注文を発した。

 そのどこか厚かましい態度には、常連客の趣さえ感じられる。

 それを受け、親父さんと呼ばれた髭面の大男が小声で「あいよ」と言葉を返し、さっそくとばかりに手打ちの麺を茹でにかかった。

 見事なまでに慣れた手付きが、年期のほどをうかがわせる。

 この屋台ラーメンは、「宗義」の名前で知られていた。

 実は、知る人ぞ知る老舗のラーメン屋であるらしい。

 腕前のほうもかなりのもので、作るラーメン自体の評判はすこぶるいい。

 とはいえ、さすがに場所が場所なだけあって、客の入りはいつも寂しい。

 この時間も、カウンターに付いているのは、眞琴とその隣で苦虫を噛み潰している翔一郎の二名だけであった。

「おまえ、まさかラーメン食べるために、俺を脚代わりに使ったんじゃないだろうな?」

 どこかウキウキした感じの眞琴とは対照的に、翔一郎の全身からは不満のオーラが湧き上がっていた。

 無理もない。

 一般的な社会人と学生との間には、無駄遣いしていい私的時間の量に相応の差が存在するのだ。

「そういうわけじゃないよ」

 軽くウインクして眞琴が答えた。

「でも、とりあえずはラーメン食べよ。ここのチャーシューは絶品だよ」

 翔一郎はムスっとして頬杖を突いた。


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 こんな時間にオトコとふたりで出かけることの意味を、コイツはどこまで理解してるんだろう?

 そう思いを巡らせている彼の脳裏に浮かび上がったのは、自身が猿渡家へ眞琴を迎えにいったおり、そこの主らと繰り広げられた一連のやりとりだった。


 ◆◆◆


 チャイムを押し、返事を待ってから玄関のドアを開けた翔一郎を待っていたのは、なぜか眞琴本人ではなくその両親であった。

 平素から実直で穏和な人柄で知られている猿渡夫妻ではあったが、どういうわけだかいつにも増して満面の笑みを浮かべている。

「いやぁ、いつかはこんな日がくるとは思っていたんだが、うれしいものだね」

 何があったんだ?、と翔一郎が訝しむより若干早く、眞琴の父・猿渡さわたり哲朗てつろうが軽やかに口を開いた。

「実を言うとね、私たち夫婦はむかしから息子が欲しかったんだよ。翔一郎君、君のように堅実で真面目な息子をね」

「はァ」

「幸いにして、君の家とは古くからの付き合いでお互い気心も知れているし、君自身のことも大概のことは理解しているつもりだ。だから私たちにとって、こんな良縁は願ってもないことなんだよ」

 抑制された口調の中に押さえ切れない期待を包み、少々興奮気味に熱弁を振るう眞琴父を前に、翔一郎はもう困惑するしかない。

 そして、話が読めないんですけど、とかろうじて言葉を絞り出した直後、眞琴父の手から直接渡された数本の小瓶を目にした時、それは一気に頂点へと達した。

 漢方系の栄養ドリンクであった。

 しかも、明らかに男性機能増強をもたらすことを目的とした強精剤の類だ。

 翔一郎の目が一瞬にして点になった。

 そんな彼に向かって眞琴父は、とんでもないことをあたりまえのように笑顔で告げた。

「翔一郎君。一姫二太郎で孫は二人。いや欲を言えば性別はどちらでもいいからもうひとり、全部で三人は欲しいところだな。頑張ってくれたまえ。はっはっは」


 ◆◆◆


 いくら若い男女――まあ翔一郎を「若い男」と呼ぶかどうかは微妙としても――が夜遅くふたりきりで外出するからといって、なんでいきなりそういう方向に考えが向くのだろうか。

 完全な誤解もいいところだった。

 思い出すたびに口元が引きつりそうになる。

 そうこうしている間に、眞琴オススメのチャーシュー麺ができあがった。

 お待ちッ、という威勢のいい声と同時にカウンターへ出されたどんぶりの中身を覗いてみると、スープは見るからに濃いめの醤油味。

 太めのちぢれ麺の上に分厚い焼き豚がきっちり五枚並べられている以外は、メンマとネギが乗せてあるだけのシンプルな造りである。

 いただきます、と元気に告げて、眞琴はさっそく割り箸を割った。

 スープを飲む前に胡椒をかけるなどといった無粋な真似はいっさいせず、年頃の女の子とは思えないような勢いで一気にちぢれ麺をすすりあげる。

 そんな隣の女子高生を脇目で見つつ、翔一郎もまた、渋々といった感じで目の前のどんぶりに箸を付けた。

 元来、ラーメンを好物のひとつとする翔一郎である。

 仕草の見かけとは裏腹に、少しばかりの期待を込めてスープと麺とを口に運ぶ。

 スープの出汁は豚骨を基本に複数の魚介類を使用したものと思われ、こってりしたコクの中にもどこかさっぱりしたキレのよさが感じられる。

 加えて、コシの強い麺の存在感も濃い口スープのそれになんら負けることなく、舌の上、喉の奥で絶妙なコンビネーションを描ききっていた。

 確かに美味い。

 絶品と言っていいだろう。

 もう少しいまの気分が良かったならばこのラーメンを味わうことにもっと集中できたのかと思うと、眞琴父の大胆発言を恨めしく思わざるをえない翔一郎だった。

 駐車場に新手のクルマが進入してきたのは、眞琴がどんぶりの中身をきれいさっぱり胃の中に収めきった、ちょうどそのあたりのことであった。

 駐車場内を徐行してきた二台のクルマは、翔一郎の「レガシィ」と向かい合う位置に並んで停まる。

 黄色の塗装を施された先導車は、特徴ある四つの独立したリアランプを持つトヨタ製フォードアセダン「アルテッツァ」

 パールがかった緑色のもう一台は、同じくトヨタ製のスリードアハッチバック「スターレット・グランツァ」である。

「カナさんたちだ」

 まるでそれらの来訪を事前に承知していたかのような反応を見せ、眞琴はぱっと席を立った。

 キュロットスカートのポケットから何かを取り出し、どん、と音を立ててカウンターの上にそれを置く。

 自前の分の勘定だ。

 器を両手に濃厚なスープを堪能していた翔一郎も、その背を追うようにして肩越しに振り向く。

 二台の車からそれぞれ降り立ってきたのは、クルマと同じ数の女性たちであった。

 周囲が暗いせいでこの距離からでは判然としないが、身なりから察するにふたりともそれなりに若い感じがする。

 たたた、と小走りで彼女らに駆け寄っていった眞琴と親しげに言葉を交わしているところを見ると、どうも三人は顔見知りの間柄らしい。

 やがて、眞琴がこちらを向いて右手を挙げた。

 その手をぶんぶんと頭上で振りながら、翔一郎の名前を呼ぶ。

 やれやれ。

 正直言って気が乗らないことおびただしい翔一郎だったが、仕方ないな、とばかりに重い腰を上げ、眞琴の要求に応えることとした。

 髭の親父に御代を払い、彼女らのもとへ足を運ぶ。

 初めまして、と元気良く翔一郎を出迎えたのは、予想どおりの若い女性たちであった。

 普通免許を持っていることから眞琴よりは年上だと思われるが、それでも翔一郎と比べると十歳近くは年齢差がありそうだ。

山本やまもと加奈子かなこと申します」

 ふたりのうち、眼鏡をかけたおとなしそうな女性の側が、短く名乗り会釈した。

 少し垂れ気味の双眸とうっすら残るそばかすとが、彼女の持つ素朴さを端的に主張している。

 おそらく眞琴が「カナ」と呼んだのはこの娘のことなのだろう、と翔一郎は直感する。

 彼女はそのあと、壬生さんですね、眞琴ちゃんからあなたのことはうかがっていますわ、と笑顔で続けた。

 優しげな外見からくる印象に違うことなく、その物腰はどこまでもおっとりしていて柔らかい。

 まるで、良家のお嬢さんだ。

 それと前後するように、もうひとりの女性も口を開く。

 鋭い目尻が印象的なロングヘアのその娘は、長瀬ながせと名乗った。

 下の名前はじゅんというらしい。

 ファーストネームのほうで呼んで欲しいと、自らの口で翔一郎に伝える。

 こちらは先の加奈子とは対照的に、元気の良さを前面に押し出すタイプだ。

 眞琴とは随分と気が合うことだろうな、と翔一郎には思われた。

「壬生です」

 こちらも軽く一礼を返し、翔一郎はふたりに名乗った。

「失礼ですが、あなたがたは」

「チーム『ロスヴァイセ』のひとたちだよ」

 加奈子になり代わって、一直線に眞琴が答えた。

 クルマを走らせるのが好きな女の子が集まってできたサークルなんです、と彼女の言葉を補足したのは、純と名乗った娘のほうだ。

 見ると、確かにふたりともおそろいの白いサマージャケットを羽織っている。

 そして、その胸元と上腕の部分には、「ROSSWEISSE」と赤く記された青地のワッペンがさりげなく自己主張を果たしていた。

 ちなみに「ロスヴァイセ」とは、北欧神話に登場する主神オージンの娘たち、戦乙女ワルキューレのひとりだ。

 同じような意味を持たせるにしても、ストレートに英語で「バルキリー」とせずふた回りほど凝った言い回しでチーム名を付けるのは、どうにもこうにもマニアックな発想であると言える。

 なるほど、な。

 そんなチーム名の由来など知る由もなかった翔一郎だったが、何事かを察したように頷くと、腕組みしたままじろりと眞琴をめ付けた。


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 要するに、眞琴は自分と価値観を共有する仲間を、ここ八神街道に見出したというわけなのだ。

 しかも、それが歳の近い同性ともなれば仲間意識はさらに格別。

 それらと時間をともにするだけである種の快感をともなうなんてことぐらいは、いくぶん堅物気味の翔一郎にだってわからないわけではない。

 彼自身が、いまとなってはよく思い出せない青春時代に一度は通った道なのだから、それもまた当然といえば当然だった。

 眞琴はそうした感傷を、親しい兄貴分に思い出させようと目論んだのだ。

 走り屋を否定的に見る翔一郎を、彼女言うところの「真っ当な走り屋」相手の交流に巻き込む。

 それは、赤裸々すぎる心理戦の一角だった。

 非合法とはいえ、峠攻めだって趣味のひとつだ。

 はた迷惑な下流層だけを取り上げて走り屋全体を評価されては、まともな者がたまらない。

 せめて、そうじゃない存在がいるってことを理解してから位置付けて欲しい。

 そんな眞琴の力説が、いまにも聞こえてきそうな策謀だった。

 苦笑いを浮かべた翔一郎が俯きがちに頭を掻いた。

 すべてを看破した上で、なお眞琴側に折れようとする自分自身。

 その傾きに奇妙なおかしさを感じたがゆえの反応だった。

 仕方ない。そこまでするなら付き合ってやるか。

 声に出さずに彼は告げた。

 なんとなくだが、いまはそうすることが正解であるよう思えてならなかったからだった。

「チーム、なんて格好はつけてますけど、実はまだ三人しかメンバーがいないんです」

 そんな翔一郎の心境を知ってか知らずか、やや照れ臭そうに加奈子が告げる。

「だから、眞琴ちゃんが免許を取ったらぜひとも加入してもらわないと、って思っているんですよ」

 三人?

 翔一郎の頭上に疑問符が湧いた。

 眞琴を入れて三人じゃないんですか、と確認を入れる翔一郎に加奈子は、「眞琴ちゃんは、まだ無免許ですから、さすがに員数外ですわ」と、さらっと答えた。

 あたりまえといえばあたりまえの、至極まっとうな回答だった。

「ということは、あとのひとりは欠席ってわけですか」

「いえ、もうすぐ上がってくると思います」

 加奈子は翔一郎を促すように目線を泳がすと、八神口から伸びてくる坂道のほうへ向き直った。

 誘いに乗った翔一郎も、彼女と同じ方向へ視線を延ばす。

 見ると、麓のほうから二台分のヘッドライトが絡み合うようにして登ってくるのがわかった。

 物凄い勢いだ。

 エキゾーストノートが八神の丘陵地帯に響き渡る。

 バトル。

 公道上での走り屋同士の競争を、当事者たちはそう呼ぶ。

 間もなく翔一郎たちの目前を通過するであろうあの二台は、まさしくそうした行為に及んでいるのだ。

 翔一郎の背筋を、とうに忘れ去ったはずの痺れが痛烈な勢いで駆け抜けていく。

「全開だな」

 そんな感触を無理矢理振り払うように、翔一郎は口を開いた。

 言葉自体に大きな意味を持たせたつもりはなかったのだが、その呟きは加奈子の応答を引き出すには十分な音量で放たれたものだった。

「だってあのは、『ロスヴァイセわたしたち』のエースですもの」

 自慢げに彼女が口を開いた直後、真っ赤なスポーツカーが一台、激しくタイヤを鳴らしながら翔一郎たちの視界に強行進入してきた。

 日産の人気車種、S-15「シルビア」だ。

 後輪駆動FRのツードアクーペ。

 ターボで過給されたその心臓部SR-20は、カタログ値で二百五十馬力の最大出力を発揮する。

 先々代S-13先代S-14と続く「シルビア」系は、パワーと操縦性のバランスに優れ、峠の走り屋どもには熱烈な支持者も多い。

 いましがた山道を登ってきた一台も、ドアの前部に貼り付けられたさまざまなステッカー類やトランク上部に取り付けられたGTウイングなどから察するに、そんな連中の所有物であることは明白だった。

 八神の頂上付近、つまり翔一郎たちがいまいる駐車場のあたりで、道路は少々きつめの急カーブを描いていた。

 上り坂の終点ということもあって前荷重がかかりにくく、まともにターンインするためにはそれなりの減速が必要というのが、この区間における一般的なセオリーだった。

 だが、何事にも例外事項というものは存在する。

 ドリフト。

 走行中のクルマの後輪をスライドさせ、その進行方向を強引に変化させるテクニックの総称だ。

 このテクニックを用いれば、初めからクルマの鼻先を脱出方向へ向けたままのターンインが可能となる。

 「シルビア」のドライバーは、コーナー進入に際しその実行を決断した。

 強烈なブレーキングによりグリップを失った後輪が、旋回半径の外側に向かって振り子のように滑り出す。

 それはもう、公道を走る一般車が見せる挙動とは、完全に一線を画したものだった。

 ド派手なスキール音とも相まって、あまりにも見事過ぎるパフォーマンスだと言える。

 ひゅう、と翔一郎が口笛を吹く。

 眞琴は、その行為が彼一流の感嘆符だということを知っていた。

 そしてまた、それが滅多に見られないアクションであるということも。

 本当に驚くのはこれからだよ、翔兄ぃ。

 ちらっと横目でその表情を確認した眞琴が、心の中でそう告げた。

 その顔付きには、仕掛けたいたずらの成果を手ぐすね引いて待ちわびる、おてんば娘のニヤニヤ笑いがまざまざと浮かび上がっている。

 そして次の瞬間、ほぼ彼女の思惑どおり、翔一郎は驚愕に目を見張ることとなった。

 激しいエキゾーストノートを引き連れ豪快に立ち上がろうとする「シルビア」のまさしくその直後に、新たな一台のクルマの影を見出したからだ。

 「シルビア」よりもかなり小振りな青色の車体。

 トヨタのミッドシップスポーツ、ZZW-30「MR-S」である。

 ターボによる過給を行う「シルビア」と比べ、小排気量の自然吸気NAエンジンを心臓に持つ「MR-S」は、出力面で格段に劣る。

 その差は、カタログスペック上で優に百馬力を上回っていた。

 だが、その非力なはずの「MR-S」が、いま「シルビア」に食らい付いている。

 いや、食らい付いているなどという段階ではもはやなかった。

 アウト一杯に膨らんだ「シルビア」の右側、つまりコーナーのより内側に鼻先を突っ込んだ「MR-S」は、この時、対戦相手を追い抜きつつあったのである。

 初めから座席をふたつしか持たない「MR-S」の車重は、わずかな軽量化でたちまち一トンの枠を割り込む。

 後部座席を有しひと回り大柄な「シルビア」と比較すると、うまくすれば二百キロ以上も軽くできるのだ。

 その自重の差が、コーナーへの進入速度という形になって如実なレベルで現れた。

 そして「MR-S」のドライバーは、自らの愛機が持つそのアドバンテージを最大限に活用した。

 凄まじい速度で接近する前走車の影は、後続車のドライバーに対して相応の恐怖心を煽ったことであろう。

 しかし、「MR-S」の挙動には寸分の乱れも感じられない。

 まさしく機械のような正確さと冷静さ。

 それは、おびただしい数の走り込みを経て身に付けた愛機のポテンシャルと自己のテクニックに対する絶対的な信頼がない限り、決して発揮できない類いのものだ。

 まさに驚くべき手練れと言える。

 「MR-S」が「シルビア」のイン側へと鼻先を突っ込んだのは、ドライバーが対向車の有無を確認できるギリギリの瞬間だった。

 最小限のブレーキングののち、滑り込むようにして「MR-S」の小柄なボディが「シルビア」の右側面へと張り付く。

 強引な突っ込みによって無理矢理に獲得した、まさに一瞬だけの優速。

 しかしそれは、相対的に非力な「MR-S」が「シルビア」の鼻先へと踊り出るのに、必要十分なだけのそれだった。

 道はこのあと、緩やかにうねる左コーナーへと変化する。

 パワフルな心臓を持つ「シルビア」のドライバーにとって、それは、よだれが出るほどアクセルを踏み込みたくなる光景だったはずだ。

 だがその願いは、右側から覆い被さるように車体を寄せてきた「MR-S」が「シルビア」の立ち上がり進路を押さえ込んだことによって、ものの見事に粉砕された。

 八神街道は、このあたりから下り坂ダウンヒル中心の行程となる。

 要するに、比較的マシンのパワー差を発揮できないコースになる、というわけだ。

 言い換えれば、馬力よりクルマの軽さのほうが武器となる区域だと言ってもいい。

 なれば、馬力の優劣がまともに出る上り坂ヒルクライムでの優勢を瞬く間に奪い去られた「シルビア」のドライバーが、いまおのれの前を走る対戦相手をどうにかできると考えるのがそもそもの間違いであろう。

 決着は付いたのである。

 翔一郎を除く三名の口から、同時に黄色い歓声がほとばしった。

「翔兄ぃ、見た?、いまの光景。凄かったでしょ」

 興奮のあまり翔一郎の左腕を引っ張りながら、そう一息にまくし立てる眞琴。

 血が滾るのか、両脚が地団駄を踏んでいる。

 それに対する彼の反応は、やや遅れて発せられた。

 いかにも興味なさげな生返事。

 だがそんな態度とは裏腹に、彼は激しく身震いしていた。

 全身の肌が総毛立つような、はらわたが引っかき回されるような、そんな感覚が続けざまに襲いかかってくる。

 武者震いだ。

 両手の親指をズボンのポケットに引っかけつつ、そんな自分を宥めようと、翔一郎は意図して軽くため息をついた。

 無意識のうちに自嘲がこぼれる。

「意外と忘れないものなんだな」

 それを耳にした眞琴がひょいと下から覗き込んでくるのを、薄笑いを浮かべつつ、頭を振って彼は制した。

 変なの、という彼女が放ったひと言を、複雑な気持ちで受け止める。

 そしてその評価を、もっともなことだと是認した。

 確かに変だな、俺らしくない。

「どうでした、いまの走り」

 内々にこもりつつあった翔一郎の意識をふたたびこちら側に引っ張り戻したのは、「ロスヴァイセ」の元気なほう、長瀬純の声だった。

「部外者として、ぜひとも感想を聞かせてください」

「確かに凄いのは認めるけど」

 困ったように頭をかいてから、やんわりと翔一郎は苦言を呈した。

「暴走行為はあまり誉められたものじゃないと思うぞ」

 認めてくれるんですね、と彼が差し出した小言の一部に反応し、純は爆発しそうな勢いでこれに応じた。

「女の子でも凄い走りができるんだって認めてくれたわけでしょ? それってアタシたちがやってきたことが間違ってないって証明になるじゃないですか」

 「いや、そうじゃなくってだな」と勝手に盛り上がる純を諫めつつも、なんとなくだが翔一郎は得心した。


挿絵

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 彼女らにとってクルマで走るという行為は、あくまでも自己表現の直接的な手段なのだ、と。

 だから、その姿を誰かに見てもらいたいし、評価してももらいたい。

 しかし、そのパフォーマンスを演じるのが自分たちを代表する者でさえあれば、それが別に自分自身でなくてもなんの問題もないのだろう。

 大会に出場した母校の選手をスタンドから応援する補欠の運動部員みたいなものか。

 そこに強烈な自己主張は感じられない。

 その点からすると彼女らは、翔一郎の知る「走り屋ロードレーサー」という人種とは、少しだけ毛並みの違う種族のようだ。

 どちらかといえば、ギャラリーのほうにこそ近いかもしれない。

 まあ、あの「MR-S」のドライバーがどうなのかはわからないが。

 と、そこまで思考を巡らせて、翔一郎ははたと気付いた。

 そうか、あの「MR-S」のドライバーも「オンナ」なんだ、と。

 それは、翔一郎本人が決して認めたくない内心の偏見からきたものであったが、確かに彼を心底感心させうる事象でもあった。

 たいしたもんだ。

 加奈子や純を頭越しに飛び越えて、翔一郎はまだ見ぬ「MR-S」のドライバーに、心からの賛辞を無言で捧げた。

 午前中に出会った「エム・スポーツ」の倫子に続き、クルマの世界は男のものだという古臭い観念を爽快に吹き飛ばしてくれた勇者に向かって、思わず頭を下げたくなる。

 ただし、その意志を顔に出すことはしない。

 バトルなどといった野蛮な振る舞いを評価することに本質的なためらいを感じたからであった。

 やがて、本当の決着が付いたのであろう。

 あの青い「MR-S」が、のんびりと街道を登ってくるのが確認できた。

 対戦相手の「シルビア」とは麓のどこかで別れたらしく、その姿を見ることはできなかった。

 エンジンの回転数を落としつつ駐車場に入ってきた「MR-S」の佇まいは、先ほどのバトルで見せた剽悍さがきれいさっぱりと消え失せていて、とてもあれだけの走りをこなした戦闘機と同じクルマだとは思えなかった。

「『青い閃光シャイニング・ザ・ブルー』」

 翔一郎のすぐ隣で、眞琴は彼に囁いた。

「最近はそう呼ばれているんだよ。リンさんのMR-S」

「なるほどね」

 翔一郎の脳裏に、「MR-S」が「シルビア」を抜き去った瞬間の光景がフラッシュバックする。

「言い得て妙だな」

「でしょ」

 翔一郎の言葉を受けて、眞琴が表情を綻ばせる。

 まるで、我が意を得たりとでも言いたげなほどだ。

 その絶品の笑顔からは、彼女が「MR-S」のドライバーに注いでいる並々ならぬ敬意の量を、はっきりとうかがい知ることが可能だった。

 「MR-S」の乗り手が愛車から降り立ったのは、その直後のことであった。

 それは、すらりとした長身の若い女性だった。

 さっぱり短めに髪をそろえたその容貌からは、見るからにアスリート然とした趣が放たれている。

 ただし、あの荒々しい競り合いを制したファイターとしての雰囲気は、そこに微塵も備えられてなかった。

 むしろその清廉とした印象は、夜の路上においては場違いであるとさえ言える。

 しかし、この時の翔一郎が驚きの声をあげたのは、そんな違和感ゆえのことではなかった。

 タイトなジーンズと「ロスヴァイセ」おそろいのサマージャケットに身を包んだ彼女。

 あの卓越した運転技術の持ち主を、彼が見知っていたがための反応だった。

 そう、彼女はまさしく、あの三澤倫子そのひとだったのである。


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