第一幕 好きな娘の御守り


 初恋はつこいひとゆめをみたのは、いつくらいぶりだったろうか。


 ゆめなかいていたおれはまだ五歳ごさいだった。


 東京都とうきょうと江東区こうとうくのマンションビルなら街中まちなかで、せみこえひびく、ある陽射ひざしのつよなつおれはそのひと出会であった。


 しろいブラウスにしろいスカート。しろ日傘ひがさしたつややかななが黒髪くろかみながしていたその細身ほそみのおねえさんは、かよっていた幼稚園ようちえんわか保育士ほいくしさんとおなじくらいのとしえた。


「ぼうや、どうしたの? おかあさんとはぐれちゃったの?」

 そのひとこしをかがめてやさしく微笑ほほえみかける。


「いえがわからなくなったの、かえれなくなったの」

 五歳ごさいおれきじゃくる。


「じゃあ、おねえちゃんがぼうやをおうちまでれてってあげる」

 その柔和にゅうわ言葉ことばに、おれくのをやめる。

「ほんとう?」


「うん、ほんとうよ。ぼうやのお名前なまえは?」

 おんなひとやさしいみに、おれ自分じぶん名前なまえかえす。

「りょーや、きみしま、りょーや」


 そこで、おんなひと何故なぜ見開みひらき、すぐにほそめてうれしそうに、にっこりとわらった。


「そっか、りょーやくんか」

「うん。おかあさんはりょーくんっていってる」


「じゃあわたしもりょーくんってうね。ねえりょーくん? おうちかえりたいならおねえちゃんとひとつだけ約束やくそくしてくれる?」


 おんなひとおれあたまやさしくで、おれこえげる。


「やくそく? かえれるならする! やくそく、する!」

「じゃあ約束やくそく、もしもかえりたいなら、どんなことがあってもけっしてあきらめないで」


「うん! する! あきらめない!」

「じゃありょーくんとおねえちゃんとの約束やくそくよ、指切ゆびきりしよ?」

「うん! する! ゆびきりする!」


 おんなひとおれ小指こゆびす。おれ自分じぶん小指こゆびをその小指こゆびとからめる。

 

 そして、そのおんなひと指切ゆびきりの呪文じゅもんとなえる。


「ゆーびきーりげーんまーん、うそついたらはり千本せんぼんのーます」


 おれ復唱ふくしょうする。


「ゆーびきーりげーんまーん、うそついたらはりせんぼんのーます」

ゆびったっ!」


 おんなひとあふれるような笑顔えがおせる。


 そのひと何故なぜあんなにうれしそうな笑顔えがおせてくれたのか、いまだにわからない。


 おねえさんにいだいたそのあわ初恋はつこいは、そのひと五歳ごさいおれいえおくとどけてくれたときわりをげた。



 ◇



 ピリリリリリリリ

 ベッド脇の机に置いていたスマートフォンのアラーム音で目が覚めると、俺は上体を起こす。


 紛れもなく俺の部屋、マンションの一室だ。


 6時30分を表す時刻がスマートフォンに表示されたまま、アラーム音を鳴らしている。ベッドから降りアラーム音を切ると、速やかに俺は自分が十五歳の男子高校生である事を思い出す。


 今日は高校生活最初の終業式。明日から始まる高校生活最初の夏休みへの期待を胸に、俺は着慣れた寝間着を脱ごうとした。



 


 東京都江東区こうとうく、その中でも昔から深川ふかがわと呼ばれている地区にある某都立高校の一年生の教室。俺、君島きみしま亮哉りょうやの所属する組の生徒は皆浮き足立っていた。


 中学時代からの親友の一人である布施ふせ忠弘ただひろが、自席に座る俺の近くで声をかけてくる。


「皆そわそわしてんなー、亮哉りょーや

「無理もないだろ、海とか山とか、計画立てている奴ばっかりだし」


 俺は自分の席に座ったまま、そっけない声を返すと、忠弘は明るく言う。


「部活入っている奴は合宿とかもあるからな」

忠弘ただひろ、お前も合宿だろ?」


 忠弘は陸上部だ、当然のごとく合宿がある。なお走るのはかなり速く、中学時代に中距離走にて江東区で一位を取ったことがある。


「合宿もいーけどさー、折角の高校最初の夏! なんだから彼女とお祭りとかいきてーじゃん」

「お前、彼女いたっけ?」


 コイツは高一なのに身長が180センチあり、ガタイも良い。顔も爽やかな男前で、男気のある真っ直ぐな性格なので正直かなりモテる。しかし彼女を作ったという話は寡聞かぶんにして聞かない。そっちの趣味があるのかと疑った時期もあったが、本人には全力で否定された。


 忠弘が額に手を当てて豪快に笑いつつ、江戸っ子口調でこんなことを言う。

「はははっ! 今はいねぇけどよ! もうじきできっかもしんねぇぜ!?」


 コイツの考える事は単純明快で読みやすい。おおかた、目星をつけた女子生徒に終業式である今日、告白して彼女とする腹づもりなのだろう。そして色鮮やかな夏休みをエンジョイするつもりなのだろう。


 そこに、女子生徒の軽快な声が俺達にかけられる。


「りょーくん、ついでにただひろ、おはよう!」

「あー、おはよ、永谷ながたに

「ついではひどいぜ、葉月はづきちゃん」


 黒髪を肩で切り揃えたこのセミショートヘアーの女子は、入学式の日から元気な口調で俺達によく話しかけてくる。おおかた、忠弘が目当てなのだろうが、いつもこんな感じで忠弘をついで扱いする。


 よく笑う可憐な可愛い女の子。それがこのクラスメイトの女子生徒、永谷ながたに葉月はづきに俺が抱く印象だった。大きな丸っこい瞳が人懐っこさを現すかのように輝く。


「だから永谷じゃなくて葉月でいいってば、わかんないかなー」


――忠弘はちゃんと葉月と言ったから、これは俺に言った言葉だな。


「下の名前は慣れないんだよ、なが……葉月は夏休み予定とかあるの?」


「男の子との予定は特に無いけど? でも誰かとお祭りとか行きたいなとは考えてるんだけどね。あー、誰か誘ってくれないかなー」


――これは俺を誘っているとみて実は忠弘を誘っているパターンだな。

――中学時代の宮口みやぐちさんの件からもう慣れっこだ。危ない危ない。


「えっ! 本当!? 誘われ待ち!?」

 忠弘の語気が強くなる。


「といっても、お祭りに行けるのはバレー部の合宿が終わってからになるけどね」


 葉月は女子バレー部でマネージャーをしていて、夏休みに入ってからすぐに合宿に行くらしい。


「そっか! じゃあ葉月ちゃんと遊べるのはお互い合宿が終わってからだな!」


 忠弘がそう言って笑い、葉月がそれに返す。


「そうだね、お互い夏休みを楽しもうね! わたし、高校での夏休みは初めてだから楽しみ!」


――こいつら、本当にいい顔で笑い合うな。お似合いだと思う。


 だから、俺はもし仮に葉月が忠弘と付き合うようになったとしても、祝福しようと心に決めていた。


 そう、たとえそれが、俺の心の奥底にある葉月に対する紅い恋心を否定することになっても。





 一学期を終える終業式を体育館でつつがなく終えた俺は、教室へ戻る際に葉月に声をかけられた。


「ねえ、りょーくん? 渡したいものがあるから、放課後に教室で待っていてくれない?」


 意外な突然の申し出に、俺はうなずく。


「ああ、じゃあ待ってるよ」


 一体どんな用事なのだろうか、翌日に夏休みを控えてわざわざ渡したいものがあるということは脈があるということか。ひょっとしたら葉月が好きなのは忠弘じゃなくて俺なんじゃないかという淡い期待を持っていいのか、まさかな。


 葉月はそれだけ言うと、群れて歩いている女子集団に戻る。天真爛漫てんしんらんまんな性格が幸いしてか彼女の友達は多い。


 後ろから、忠弘が肩に手を回してきた。


亮哉りょーや、なんか悪いな」

「何がだ?」


「お前も葉月ちゃんの事、可愛いなって思ってるんだろ?」

「……まあな、お前もか?」


 悪いな、とはどういう意味か俺は理解した。


「正直言って、あんな可愛い娘見た事ねーよ。内も外もな」


 そんな忠弘の言葉を、俺は心の中で深く肯定する。


――確かに性格も見た目も良いからな。良すぎるほどに。


 忠弘は言葉を続ける。

「どうなっても恨みっこなしだぜ、亮哉りょーや


 おそらく、帰りのホームルームが終わった直後に忠弘は葉月に告白する気なのだろう。で、カップルが成立してから懸命に夏を楽しむのだろう。俺はため息をつくと、諦めの境地に達して廊下の影を引きずった。




 教室にて担任教諭から夏休みに行うべき宿題の範囲と、夏休みに高校生が気をつけるべき注意事項が提示され、チャイムが鳴り終わる。時計の針は正午をわずかに過ぎている。記念すべき高校生活最初の夏休みが始まった。


 高校生として最初の夏休み、期待に胸を膨らませざわめく若人たち。実にテンプレな光景だ。


 葉月は、教卓の前にある自分の席で鞄に色々なプリントや本を詰めていた。葉月は鞄に物を閉まい終わると後ろから寄ってきた忠弘に声をかけられ、二人して教室の外に出て行った。


――お幸せに。


 だが、やはりというかなんというか、好きな女の子が親友とカップルになるという、いわゆる吐き出し所のない失恋というのはそれなりに辛い。


 ふと、今朝見た夢を思い出した。葉月は夢の中に出てきた初恋のお姉さんと、目がなんとなく似ていた。それは彼女に恋心を抱くには充分なきっかけだった。


 しかし、今頃葉月は忠弘に告白されているのだろう。俺は窓から入道雲をたたえる夏の紺碧こんぺきの空を虚ろな目で見上げる。


――俺は初恋をまた失ったのかもしれない。


 教室の人影がまばらになっても、俺は自分の席にぼんやりと座っていた。葉月に『教室で待っていて欲しい』と先ほど言われたからだった。


 五分か十分を過ぎた頃、俺が一人だけとなった教室に葉月が入ってきた。葉月は気持ち頬を赤らめている。俺は席から立ち上がり、平常心を装いつつ声をかける。


「永谷、用事ってなんだ? 忠弘ただひろとの話は済んだのか?」


「だから葉月で良いって。ただひろとはなんでもなかったよ」


 そこまで言うと沈黙。そして再び葉月が口を開く。


「ちょっと、ただひろにわたしが好きだから付き合って欲しいって言われただけ」

「ああ、そうなの」


 俺は興味が無いように振舞う。


「りょーくんは、どう思う?」

「別に、お似合いだと思うけど?」


 俺は強がる。


「でも断った。他に好きな人がいるからって」


――えっ。


 俺は目をしばたかせて葉月を見つめる。


「それで、今日声をかけた訳だけど」

 葉月は顔を赤らめながら制服のポケットからお守りを取り出す。


 そして言葉を続ける。

「このお守り、わたしからの贈り物。りょーくんにあげる」


 俺は葉月から両手で差し出されたお守りを受け取る。一瞬だけ触れた手はほのかに温かかった。


 俺はお礼を言う。

「あ……ああ、ありがと」


「できれば、肌身離さず身につけておいてくれると嬉しいんだけど」

 葉月はますます顔を赤らめて、うつむく。


「わかった」

「じゃあわたし、バレー部合宿の買い物あるから! またRINEラインで連絡するね!」


 きびすを返し、教室の後ろの扉から飛び出そうとする葉月。そして扉を一歩でたところで振り向き、笑う。

「わたしの誕生日、来月の十五日。覚えておいて」


 満面の笑顔を魅せたまま手を振り、視界から消える。


 一人残された俺は、誰もいない教室で静かに微笑んだ。


 この夏は、良い夏になりそうだ。蝉の声が教室の窓を通り抜け、俺の心の内を表すかのように響いていた。





 自宅マンションに帰った俺は葉月に貰ったどこかの神社の厄除けのお守りをどうしようかとあれこれ考えていたが、結局いつも持ち歩いているナップサックに取り付ける事にした。


 夕方になって共働きの両親に代わって、小六の弟である慎司しんじにきつねうどんを作ってやった俺は、自分の部屋に戻りスマートフォンの前で考える。


 スマートフォンにはコミュニケーションアプリである『RINEライン』の文字が浮かんでいる。


 俺のライン名は『りょう』で葉月のライン名は『はづき』となっている。


――なんと送ればいいのか。


 どういう文章が良いかしばらく考えていた。何としても葉月をお祭りに誘いたかった。結局俺は十分ほど考えてからラインで葉月に伝えた。


りょう『今日はお守りありがとう。いつも持っているナップサックにつけました』


 三分ほど経って、返信された。


はづき『どういたしまして』

りょう『バレー部の合宿いつから?』

はづき『しあさってから、明日は朝からお昼までミーティング』

りょう『午後は暇?』

はづき『ごめんね、午後はお母さんとお墓参り』


――お墓参り? 七月下旬でお盆はまだなのに。


りょう『ご先祖様の?』

はづき『明日はお父さんの命日なの』


 地雷原に迷い込んだ。


 胸の鼓動が速くなる。何と返せばいいか考え、文章を送る。


りょう『そっか、じゃあお父さんのご冥福をお祈りします』


 心臓の音が聞こえる。正しい返答だったのか。


はづき『ありがと、やっぱりりょーくん優しいね』


――なんとか正解だったようだ。


りょう『俺は明日、学校の近くの図書館にでも行くよ』

はづき『わかった。じゃあ、あさって会わない?』

りょう『わかった、俺はいつでもいいからまた連絡して』

はづき『お守り忘れないで身につけておいてね』

りょう『了解』

はづき『じゃあ、あさってね、また』

りょう『また』


 そこでやり取りは終わった。


 しかし、あのいつも底抜けに明るい葉月の父親が、既に亡くなっていたなんて初めて知った。人間の表だけを見て、裏を知る事の難しさを噛み締め、俺はベッドの上に仰向けになった。





 翌日の午後、俺は濃い目の色のジーンズに、肌着の上に灰色のTシャツとダークブルー色の薄手の木綿コットンジャケットという格好で、江東区にある図書館にて涼をとりながら小説を読んでいた。外からは絶え間なく蝉の声が聞こえてくる。


 日が傾き、夕方の赤い光が斜めから射してきたところで脇に置いてあったナップサックの中にあるスマートフォンが震えるのが聞こえた。取り出して画面を開くと葉月からラインが来ていた。


はづき『ごめん! 部室にバッグを忘れてきちゃった! 届けて欲しいんだけど、ダメ?』


 俺はすぐさま返す。


りょう『別にいいよ』

はづき『ふたつあるよ? 本当にいいの?』

りょう『いいよ、明後日はもう合宿なんだろ?』

はづき『本当にごめん! まだ恵理がいると思うから!』


――恵理というのはバレー部員かな?


りょう『わかった、その恵理さんって人に言えばいいの?』

はづき『うん。りょーくんが部室に来るって今から伝える』

りょう『わかった、今から向かう。どこに届ければ良い?』

はづき『わたしの家に来て』


 俺はそこで考えた。葉月の家を知らない。スマートフォンが震え、直後にマップが添付されて送られてきた。その場所は、意外なことに俺の家とそんなに離れていない。


 併せてマンションの名前と部屋番号が送られている。


はづき『ここのマンション。本当にごめん』


 江東区の深川地区の北西、地下鉄を乗り換えて清澄白河駅で降りてから、大きな交差点を西に向かってすぐの所。


――しかし、昨日あんなことを言われて今日にもう家に上がれるとは。


りょう『わかった、すぐに学校に行ってバッグを取ってくる』

はづき『うん、じゃあ最後に一つ』

りょう『何?』

はづき『迷わないでね』


 俺は、『わかりました』と返信すると、彼女から貰ったお守りのついたナップサックを背負いつつ図書館を後にした。



 学校で葉月の友人から円筒形のスポーツバッグふたつを受け取った俺は、地下鉄を乗り継いで降車した駅の階段を上がっていた。愛用のグレーのスニーカーを履いた足で一歩一歩階段を登る。


 地下鉄の駅から地上に出ると、辺りは既に薄暗かった。両脇にそれぞれ肩紐を交叉してかけたスポーツバッグを抱え、後ろにナップサックを背負い、スマートフォンのマップを確認する。


 『ハイツ八城 81号室』


 どうやら葉月の家は、ハイツ八城はちじょうというマンションのおそらく八階にあるらしい。歩いて五分もかからない。


 薄暗い住宅街の車道を走る車は既にヘッドランプを光らせて走っている。定間隔に立つ街灯は白い光を放ち、舞い踊る羽虫をおびき寄せていた。


 大きな交差点から歩道をしばらく西に歩くと、一階に店内から漏れる蛍光灯の光まばゆいコンビニがあり、二階に学習塾の看板を掲げたマンションが見えてきた。


――あれだ。


 二階の学習塾の看板の文字が見える。『八城塾』。おそらくあのマンションが葉月の住むマンションだ。


――しかし、マンションの名前と学習塾の名前が同じという事は、オーナーが同じなのか?


 そんな事を考えているうちに、俺はマンションの手前に妙なものを見つけた。


 人が一人やっとこさくぐれそうな、二メートルもない小さな木製の朱の鳥居だった。


 葉月の住むマンションと、手前のビルのちょうど隙間。奥まで続く細道のような闇が鳥居の向こうに続いていた。


 こんな所に神社があるのかと軽く思っただけで、俺は深く考えずに鳥居を少しの間だけ見た後、葉月の住むマンションの入り口の前に立った。既に太陽は沈み、街を深い群青色ぐんじょういろの夕闇がおおい始めていた。


 大きく深呼吸する。


 すううう はああああ。


 初めて想い人の家に上がるのだから、この緊張も当然かもしれない。


 しかし、何か足りない気がする。二つのスポーツバッグを両脇に抱えたまま俺は考える。 


 そうだ、おみやげだ。チーズケーキでも持っていって父親の命日にお墓参りをした葉月を、それとなくいたわってやるのが人の道だ。


 俺は目の前のコンビニに入った。するとそこには思いがけない人物がいた。


 忠弘が少年漫画雑誌を立ち読みしていた。


「た、忠弘ただひろ!?」

 俺は思わず叫ぶ。


「あれ? 亮哉りょーやじゃん? どうしたんだ? 大きなバッグ二つも持って」

 忠弘は悪びれた感じも無く、ごく自然体で反応を返した。


「いや……お前こそ! 何でこの建物にいるんだ?」

 ひょっとしてはかられたのかという悪い考えが心に浮かび、嫌な汗が流れる。


 すると、忠弘が他意なく返す。

「何って……塾だよ塾、このビルにある塾の夏期講習を申込みに来たんだ」


「へ?」

 俺は口をぽかんと開ける。


「実はな、俺昨日ちょっと失恋しちゃってさー。だったらもう合宿終わった後、勉強に身を奉げるしかないと一念発起してな」

「……そ、そうか。そりゃ凄いな」


――コイツは本当に大した奴だ。


 俺が感心すると、忠弘が返す。

「で、お前は何でここにいるんだ?」


 ぎくり。


「あー、えっと、実は友達にお使いを頼まれたっていうか……」

 俺はしどろもどろになる。


「まさか、葉月ちゃんか?」

 

――何故バレた。


 俺がそんなことを思っていると、忠弘が指摘する。

「そのスポーツバッグ、バレー部のだろ?」

「中々鋭いな」

 俺は忠弘に見抜かれ、冷や汗をかく。


 忠弘は嘆きの声を上げる。

「あーもう! 何で葉月ちゃんが亮哉りょうやをそんなにたよるってんだよ!? 何で俺じゃダメってんだよちきしょう!?」

「いや、俺もまだ告白された訳でもした訳でもないんだが」


 俺はまだお守りを渡され、誕生日を伝えられただけで正式に付き合える保証はない。


「この馬鹿野郎! 俺の気持ちも知らないで! ライン送ってやるぜ!」

 忠弘がポケットから自分のスマートフォンを取り出し、何かを入力した。


 即座に俺のジーンズポケット内がバイブレーションで震える。何らかのメッセージを俺のスマートフォンに送ったらしい。


「おぇみてぇな奴は爆発しちまえ! あと、せめてアイスおごれ!」


――こいつ、こういう性格だったのか。


 俺は親友の知らなかった一面を知らされつつ、観念して財布を取り出した。




 結局、手のひらサイズのチーズケーキを一個と、70円のスティックアイスであるガリゴリ君を二個買った俺は忠弘と一緒にコンビニを出た。マンションの近くでアイスを両方袋から取り出す。とりあえず頭を冷やしてクールに行かなくては失敗を免れるべき状況においても失敗する。熱くなってまわりが見えなくなってはいけない。


 棒アイス一本を忠弘に贈呈ぞうていした後に、自分の分の袋を開けて棒アイスにかじりついた。両わきにスポーツバッグを携えたままの俺はチーズケーキの入ったコンビニ袋を下げつつ棒アイスを半分食べ終わった。


 コンビニを出てから、多分二分も経過していなかったと思う。先ほどの薄暗い鳥居から、小さな人影が飛び出した。


 和服を着た女の子。


 しかも、上等とは言えない、お召かし用とはとても思えないような地味な赤茶色の着物。派手な柄とかでもない振袖を着た五歳か六歳くらいの小さな女の子だった。


 女の子は周囲を見渡し、まるで形容しがたいものを初めて見たかのような驚いた声で叫ぶ。


「え!? 何!? 何!? これ!? なにきたの!?」

 

――こっちが訊きたい。


 よく見ると頭は時代劇に出てくる女児のようにふっくらとまるく髪を結っている。桃割ももわれというやつだろうか。


 自動車のヘッドランプが不意に女の子を照らすと、女の子はいっそう怯えた顔をして目を背けた。忠弘が脇腹を小突いて俺に小声で話しかける。


亮哉りょーや、あの子七五三かな?」

「まさか、まだ七月の下旬だぞ」


 女の子は林立するビルディングをさながら悪魔の住まう城を見るかのような表情で見上げつつ、怯えた顔で叫びだした。

「おぇ! すずぇ! どこ!?」


 俺は見ていられなくて、手に持った食べかけの棒アイスと、コンビニ袋を忠弘に渡して、女の子に駆け寄った。俺はこういう困っている人を見ると放っておけない性分だ。


「ねえ君? どうしたの? お姉さんとはぐれたの?」


 女の子は驚いた顔を見せたが、すぐに口元を引き締めてから、俺に告げる。


「すずぇがいない! すずぇの所へ戻らなきゃ!」


 どうやらこの女の子には保護者たるお姉さんがいて、すずぇと呼ぶらしいという事はわかった。そして、俺は女の子の着物の袖口から出た手の甲が、すりむいたのかこけたのか血に濡れていることに気付いた。 


「あれ? 君、その手怪我してないか? ちょっと待って、多分バッグに消毒液あるから」


 俺は親切心で右のスポーツバッグを下ろそうとしたが、左のバッグの肩紐が邪魔をして下ろせない。女の子はそんな事を気にせず、きびすを返し自身が出てきた鳥居の方へ駆け出した。


「すずぇ! すずぇ!」


 幼い叫び声がビルの狭間にある小さな朱の鳥居の向こう、闇の中へ消えていく。俺はスポーツバッグを下ろす手間ももどかしく、追いかけて鳥居を潜る。


 ぞくり。


 背筋の凍る思いをした。温度にして二度から三度は下がった気がした。女の子はなおも叫び続ける。


「すずぇ! いるの!? お願い!」


 鳥居の向こうは思ったよりずっと細長い闇が伸びていて、住宅街の明かりがやっとこさ届くか届かないかという薄暗がりとなっていた。


 追いついた俺は女の子の怪我をしていない方の手を掴んだ。そして、あからさまに動揺している女の子を落ち着かせようと、ゆっくりとはっきりと伝える。

「怪我しているから消毒しなきゃ、お姉さんは多分その辺りにいるよ」


 女の子は俺に顔を向けて振り返り、口を開く。

「……ここは……隠り世かくりよ?」


――かくりよ?


 聞きなれない言葉に俺は頭の上に疑問符を浮かべる。女の子もきょとんとしている。


 きょとんとした女の子の手を取りつつ顔を見つめてしばらくして、遥か遠いところから叫んでいるような、小さく力強い声が聞こえた。


「…………おあき! おあき! そこか!?」


 驚いた事に、その声は足元の暗闇から発せられたようだった。


 しかし、真に驚いたのはその後だ。


 足元の影から人間のものらしき腕がにゅっと伸びてきたかと思うと、即座に女の子の足首を掴んだ。瞬く間に影から伸びた手は女の子を影の中に引きずり込み、咄嗟とっさの事に判断が追いつかなかった俺は、女の子の手を掴んだまま一緒に影の中に引きずり込まれた。


 ふと、先日お守りをくれた時の葉月の笑顔が頭をよぎった。

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