第四十八幕 人模天狗との決戦



 俺たちが玉兎ぎょくとたおして名賀山稲荷社みょうがやまいなりやしろに神様として合祀してから、既に五日が経過していた。


 暦の上では八月二十二日の未明である深夜のことであった。


 俺とすずさんとおあきちゃんの三人は、本所にある荒れ果てた家屋敷のある庭に来ていた。


 この屋敷は元々は地方大名の下屋敷だったのだが、手放されて数十年が経過し、もう長い間人の手が入っていないらしい。立派な庭木がかつては生えていた証拠として、庭にはかなり多くの切り株が点在している。


 上空にはどんよりとした雲が覆い、風によって乱暴に流されている。雨こそ降っていないものの、大気が湿っぽく肌にまとわりつく。


 嫌な風を肌全身に感じている俺のすぐ傍には、狐火を両脇に浮かせている巫女服姿のすずさんがいる。おあきちゃんは、いつでも武器に変化できるようにと俺の手を握り締め続けている。


 俺たちがぼろぼろの朽ちた庭園で見たのは、石灯籠の上にて膝を曲げて座っている天狗てんぐと呼ばれる妖怪であった。


 身長は170センチメートルくらいで、修験者しゅげんじゃが身に着ける山伏やまぶし結袈裟ゆいげさと呼ばれる丸いふさを垂らしている。


 黒い布でできた鈴懸すずかけと呼ばれる袈裟けさまとい、太腿の部分にはふっくらとふくらんだ黒いはかまが見える。


 黒い袈裟けさの下には大きなたもとのある白衣びゃくえを着ており、両脛りょうずねには白い脚絆きゃはんを付けている。


 両足には地下足袋じかたびをつけて、山岳を登るための一本歯の下駄を履いている。


 そして、明らかに人ならぬ物の怪もののけの特徴として、黒々とした鳥の羽が一対いっつい背中より生えていた。


 腰には小刀を入れているのであろうさやが二本くくり付けられていた。黒々とした髪を風になびかせているが、明後日の方を向いているので顔はこちらからは見えない。


 薙刀なぎなたを片手に持ったすずさんがその後姿に呼びかける。

「おい、こないだ大波を起こしたのはおまいさんかい!?」


 すると、背中を見せていた天狗は音もなく回転するように身をひるがえし、こちらにゆっくりと振り返った。


 その天狗は黒髪の下に赤ら顔で鼻の高い天狗のお面を被っていたので、その顔は見ることができなかった。しかし天狗は、石灯籠いしどうろうの上に座ったままこちらに対して確かな声を発した。


「そうじゃよ? なんじらは本所ほんじょあやかしのくせして仲間なかまである物の怪もののけどもをあやめておる罪深いきつねどもじゃな?」


 その口調は老人のようであったが、声は随分と若々しく、二十くらいの男のような声であった。


 すずさんが、天狗に返す。

「なにが罪深いきつねだよ! 大風で百人超えてあやめたおまいさんの方がよっぽどじゃないかい!」


 すると、天狗が返す。

「おやおや、随分な口上こうじょうじゃな。わしは天狗で、大風を起こすのがつとめなだけじゃよ。それが故に人が死んだとしても、それはわしがあやめたのではない。風があやめたのじゃ。雨風あめかぜの仕業ならば、逆らわずに宿命さだめとして受けるべきものじゃろ」


「なんだよその言い草はさぁ!」

 すずさんが、激昂しているのがよくわかる様子で歯を見せてうなごえを上げる。


 そして、てのひらを天狗に見せて構える。


 天狗が声を発する。

「ほう? 何をする気じゃ? きつねらしく炎でも浴びせるか?」


「その通りさ!」

 すずさんのてのひらから、炎が噴出する。そして、四方八方どこにも逃げ場がないように石灯籠いしどうろうとその上に座る天狗を輪っか状に囲む。


「燃えちまいな!」

 すずさんがてのひらをぎゅっと握ると、石灯籠いしどうろうの周囲で輪っかになっていた炎の束が半径をきゅっとすぼませ、一点に集中した。


 もしもこれが人間だったら、あっというまに焼く尽くされていただろう。そう、


 目の前の炎の束が掻き消えた。その中心にて天狗は片手を掲げただけで、平然とした挙動を見せていた。


 天狗が声を発する。

「わしのような天狗が持つじゅつは、このように風を操るというじゅつじゃ。炎なぞ、風を与えないようにしてやればすぐにでも消えてしまうわい」


――やっぱり、風を使う天狗に対して炎で対処するのには無理があったらしい。


 俺はおあきちゃんの手を握り締めつつ叫ぶ。

「おあきちゃん! 未来みらいの鉄砲に変化して!」

「うん!」


 瞬く間におあきちゃんが変化して、自動小銃に変わって俺の手に握られる。


 俺は照準を合わせて引金トリガーを引き絞る。


 ダダダダダダダン!


 十発から二十発近くの弾の全発が天狗に命中した。天狗は迫り来るマシンガンの連弾に体をもてあそばれたと思ったら、どさりという音を立てて石灯籠いしどうろうの上から地面に崩れ落ちる。


「すずさん! やりました!」

 俺が快哉かいさいの声を上げ駆け寄ろうとすると、すずさんがいなす。

「いや! まだ生きてるよ! 用心しな!」


 天狗に駆け寄ろうとした俺は、その言葉に用心して足を止めた。すると石灯籠いしどうろうの近くにて倒れていた天狗が音もなく、ぬっと立ち上がった。


 そして、石灯籠の近くにあった切り株の上に立ち上がり、その余裕綽々よゆうしゃくしゃくの声を響かせる。

「なんじゃなんじゃ、見る目はあるようじゃな。近づいて来た所で喉を掻き切るつもりだったのじゃがな」


 天狗は、あんなに弾丸を撃ち込まれたのに血すら流していなかった。


 俺は、再び天狗てんぐに照準を定める。次は体ではなく頭に当てて、きっちり一発で絶命させる。その意気込みで引金トリガーを引き絞った。


 ダン! バカン!


 乾いた一発の炸裂音が深夜の庭園に響く。その弾丸はスイカを割るような音を響かせて、天狗の頭蓋骨に当たって側頭を吹っ飛ばす。


――やった!


 俺がそう思ったのも空しく、天狗は頭が半分吹っ飛んでしまったことなど気にしないかのように、自らのやられた頭の部分に片手をかざした。すると即座に、天狗の負った傷はしゅるしゅると修復されて治ってしまった。


 俺は衝撃を受ける。

「……攻撃が効かない!? 治す能力か!?」


 俺がそう呟いたところ、天狗がこちらにむかって両手を前後に構えるように突き出した。空中にはない何らかの道具を握っているような仕草をしている。


 天狗が声を発する。

「いやぁ、わしは千年生きとるがの。未来から来た者に会うのは安土あづちしろありしとき以来いらいじゃよ。くすしきこともあるもんじゃわい」


 その言葉に恐怖のような本能の直感を感じた俺は、手に持つおあきちゃんの化けた自動小銃に叫びかける。


変化へんげして!」


 ダダダダダダダン!


 瞬発的に何十発もの殺人的な鉛玉が襲ってきた。破滅的な速度で飛んできた鉛の連弾が、おあきちゃんの化けてくれた鋼鉄製の防弾シールドに浴びせられる。


 見ると天狗の手には自動小銃が握られていて、硝煙の煙立つ銃口をこちらに向けていた。俺はその自動小銃の連弾を浴びせられたのだが、おあきちゃんの化けてくれた防弾シールドによって危うくも助かったのであった。


 鋼鉄製の防御シールドに、銃弾を受けなかったこちらの面からでもわかるくらいの何十個もの歪んだ弾痕が現れていた。一発でも俺の胴体か頭に当たっていたら間違いなく致命傷であったろう。


 天狗が声を響かせる。

「ほう、なかなかにくようじゃな。その鉄のたても、このつづけてつことができる鉄砲てっぽうと同じく未来みらい武具ぶぐのようじゃのう」


 自動小銃を手に持つ天狗はそう言うとお面を外し、そのお面を頭にかかるように被せた。


 お面の下にあったその顔は、化け物の顔とはとても思えないような整った美しい顔立ちであった。その中性的な美少年の顔は、若い男のようにも見え、若い女のようにも見える。


 すずさんが叫ぶ。

「なるほどねぇ! おまいさんのすべは、近くにいる奴のすべ真似まねすべかい!」


 すると、天狗が応える。

如何いかにも。わしはひとまねじゅつを使う天狗てんぐじゃ。この顔も、なんじらの顔を全て混ぜ合わせたものに過ぎん。まことのわしの顔は、何百年も昔にとうに失っておるわい」


 俺は息を呑んだ。


――俺たちの能力全てをコピーしているということは、すずさんの炎を操る妖術と影を操る妖術、おあきちゃんの治癒の妖術と変化の妖術、そして俺の未来知識まですべて手中に収めているということだ。


――だとしたら、俺たちの能力を全てコピーしているのならば、そんな化け物にどうやって勝てばいい?


 石灯籠の近くで天狗はてのひらを上に向けた。明るく輝く炎の塊がてのひらからゆっくりと現れる。炎の塊が放つ光は地面に落ち、天狗の近くに影を落とす。


 今、天狗が口を開いた。

「妖術や知恵だけではないぞ。このように、近くにおるなんじらがひいでしちからならば、なんなりと我が身に宿やどすことができるのじゃ。例えばそこにいる小僧こぞうの、さくちからとかもじゃな」


 天狗は、手に持つ自動小銃の銃口を地面に現れた自分の影に向けて、引金トリガーを引き絞った。


 ダダダダダダダダダン!


 十数発の弾丸が、炎の作り出した天狗の影に吸い込まれる。


 次の瞬間には、宙に浮いていた炎が天狗の背後にすっと移動し、その長い影がすずさんの近くまで到達した。


「すずさん!」

 俺は叫んで、防弾シールドを天狗の方に向けながらすずさんに飛び掛った。


 ダダダダダダダダダン!


 すずさんの近くまで伸びてきた天狗の影から弾丸が十発以上撃ち出されて、すずさんがいた場所に荒い精度で降り注ぐ。


――天狗は、影に銃弾を潜ませて影を移動させて、そこから発射した!


 脚に銃弾を受けた俺は痛みに叫ぶ。

「ぐあぁぁ!」


 すずさんは助かったが、俺はシールドに隠れてなかった両脚の太腿や脛の部分に数発の銃弾を浴びてしまった。


「りょうぞう!」

 すずさんが叫ぶ。


 俺が持っていた鋼鉄製の防御盾がおあきちゃんの姿に戻る。そして泣きそうな顔で俺の脚に手をかざした。

「りょう兄ぃ! 治してあげる!」


「危ない! 戻って!」

 俺が叫んだのは、天狗がおあきちゃんに向けて銃口を向けていたからだった。天狗は治癒の妖術を使うおあきちゃんを先に片付けようとしていた。


 シュタッ!


 すずさんが、薙刀なぎなたを構えて天狗に突進した。蜂の巣になってもいいという覚悟を持った挙動であった。


 天狗はすぐさま、向かってくるすずさんに照準しょうじゅんを合わせ直して引金トリガーを引き絞る。


 ダダダダダダダダダダン!


 撃ち出された弾丸の全てが、すずさんの体に着弾した。しかし、突進するすずさんはそんなもの意に介さないかのように天狗に対して駆け続ける。


 俺は、何故なぜ自動小銃の連弾がすずさんに効かないのかを理解した。


――自分の影の中に、全ての弾丸を沈み込ませたのか!


 天狗が不敵な笑顔を見せる。

「ほう、これは面白い」


 ガッキーン!


 天狗が腰につけていた鞘から小刀を抜き、すずさんの薙刀の斬撃を受け止めた。天狗の持っていた自動小銃はぽとりと地面に落ちる。


 ガッキーン! ガッキーン!


 何度も何度も、すずさんは薙刀なぎなたで斬撃を加える。しかし、それら全ては天狗の持つ小刀で受け止められてしまう。


 すずさんは決死の形相で顔を大きく歪めているというのに、天狗は余裕の面持ちであった。天狗は身を巧みに動かして攻撃を避けつつ小刀で受けつつ攻撃をかわす。


 顔を大きく歪めているすずさんにに対して、涼しい表情をしている天狗はまるで子供にさとすかのように声をかける。

「ほれほれどうしたどうした? もっと気合を入れんかい」


 ガッキーン!


 すずさんの薙刀なぎなたの刃が、天狗の持つ小刀に大きく弾かれた。そして、すずさんは薙刀なぎなたから片手を離してしまった。天狗は手に持つ小刀のやいばですずさんの喉下のどもとつらぬくモーションに移行した。


 パスン!


 今、天狗の脳天を横一文字に弾丸が貫いた。脚を治してもらった俺がおあきちゃんに化けてもらった拳銃ベレッタの弾丸で撃ち抜いたのであった。


 すずさんは、にやりと顔を歪めて天狗の胸に掌を向けた。

「これでどうだい!」


 ダダダダダダダダダダン!


 すずさんの掌から、先ほど天狗がすずさんに浴びせた鉛玉の連弾が飛び出した。影に閉まってあった銃弾を放出したので、それらの弾丸を全て天狗の胸に浴びさせてやったのであった。


 しかし、胸で全ての銃弾を受けた天狗は涼しい微笑ほほえみを浮かべたまま、すずさんの顔に対して掌を向ける。


 俺は叫ぶ。

けてください!」


 ダダダダダダダダダダン!


 天狗の掌から、銃弾の雨がすずさんに向かって降り注ぐ。天狗はすずさんの影に潜ませる妖術の応用をそのまま利用し、自分の影の中に銃弾を潜ませてそれを放出したのであった。


 今度はすずさんは何が来るのか理解できたようで、その攻撃を咄嗟に横にかわすことができた。結果として銃弾は明後日の方向へ飛んでいった。銃口から発射された弾丸ではないので射撃精度が荒いのが救いであったようだ。地面に落ちていた自動小銃は、いつのまにか消えていた。


 天狗が自分の頭に片手をかざし、頭に開いた横一文字の銃痕を治癒する。そして、その羽を大きく羽ばたかせ上空へと逃げる。


 天狗は俺たちを見下ろしつつ、声を響かせる。

「いやはや、やはり三対一では分が悪いのう。もしあたまかんを撃ち抜かれてしんぞうが止まっていたら負けておったわい。剣呑けんのん剣呑けんのんじゃ」


 羽毛の生えた黒い翼で空に浮かんだ天狗は、冷徹かつ余裕の微笑みで俺たちを見下ろす。


 俺は考える。


――こんな奴に、どうやって勝てばいいんだ!?


――この天狗は自分自身の持つ力の上に俺たち三人の能力を全て兼ね備え、それらを組み合わせて使うこともできる。勝てるわけがない。


 天狗は堕天使のようにも見える漆黒の翼を羽ばたかせ、空中にてホバリングしたまま声を響かせる。

「わかるぞ、こういうじゅつを使うことを未来では『ちぃと』と呼ぶんじゃろ? 近くにおるなんじの持つ未来のおぼえじゃな」


 俺は絶句する。


 未来にあった小説の中で、異世界に転移した主人公が神様にズルとも呼べるチート能力を与えられて、格下の魔物相手に無双するという物語ならば読んだことがある。しかしそれとは逆のシチュエーション、異世界にいる魔物が自分たちの能力を凌駕するチート能力を持っていたとしたら、どれほどまでに絶望的なのか。俺は恐怖に震えた。


――どうすればいい? 


 すると、すずさんがげきを飛ばす。


「りょうぞう! 迷うんじゃないよ! いつものおまいさんを保ちな!」


 すずさんは、宙に浮かぶ天狗のいる位置に炎を噴出した。


 しかし天狗は、片手を軽く仰いだと思ったらその炎の塊を風で全てすずさんの方角に吹き返した。


「ぐぅっ!」

 炎に身を焼かれそうになっているすずさんが叫ぶ。もしすずさんが炎使いでなかったら、あっという間に全身を灰に変えられていたであろう炎であった。


 すずさんのその行動は、俺のために作ってくれた好機だ。


――落ち着いて、落ち着いて。

――さっき天狗は、心臓が止まっていたら負けていたと自嘲じちょうしていた。

――ということは、心臓を一発で撃ち抜けば治癒の妖術も使えなくてそのまま死ぬはずだ。


 俺は手に持つ拳銃ベレッタの照準を、かつてないほどの集中力で天狗の左胸に見定める。


――神様!


 タン!


 全神経を集中させて発射した拳銃の弾丸は、確かに天狗の左胸に吸い込まれていった。しかし天狗は、ダメージを負ったそぶりはみせなかった。


 銃で撃っても、影に沈み込ませるだけだから効かなかった。


 先ほどより深い絶望感が俺を襲う。


 天狗は、その翼を羽ばたかせながら切り株の上にゆっくりと降り、てのひらをこちらに向けた。


――沈み込ませた銃弾を撃ち返す気か!

――おそらく、俺が逃げても天狗は当ててくるだろう。

――それならば、いっそのこと――


「おあきちゃん! 変化して!」


 俺がそう叫ぶと、手に握っていた拳銃ベレッタは戦車を破壊するために創られた携帯用攻撃兵器、RPG-7と呼ばれる対戦車擲弾発射器グレネードランチャーに姿を変えた。


 タン! ヒュン!


 天狗の手から放たれた銃弾の起こした鋭い風は、グレネードランチャーの重さでバランスを変化させた俺の頭のすぐそばをかすめていった。けない。それが俺の選んだ選択肢であった。


――吹っ飛ばす!


 俺がそう思ってスイッチを入れたところ、グレネードランチャーの先についている火薬の詰まった弾頭が、ロケット噴射と共に天狗へと向かっていった。


 天狗は驚いた顔も見せず、手を軽く掲げたと思ったら風を起こして弾頭の飛翔軌道をずらしてしまった。そして、反対側にいたすずさんの脇をかすめて、グレネードランチャーの弾頭部分は天狗のかなり後ろにある塀に着弾し、大爆発を起こした。


 ドッガァァアァッァン!


 天狗の後ろにあった、屋敷の内と外とを隔てる白壁でできた塀の一部分が粉々になった。崩された壁からは外の道と、向かい側にある大名屋敷の塀壁が見えている。


 俺は、手元にあるグレネードランチャーの本体部分に叫ぶ。

「刀に変化して!」


 すると、ぎらぎら光る日本刀のが俺の手に握られた。俺は日本刀の刃を天狗に向け、叫びつつ突っ込む。

「うぉぉぉぉぉぉぉ!!」


「なんじゃ? 死ぬ気かの?」

 切り株の上に立っている天狗は呆れた口調で、迫り来る俺の方に向き直った。


 そして掌を俺に向けて構え、中空に炎の塊を浮かべる。炎の妖術で俺の体を焼き尽くすつもりなのだろう。

「人の子じゃったら、あっという間に消し炭になるじゃろうな」

 天狗は、俺の体に炎の渦を叩き込む直前であった。


 俺は叫ぶ。

「すずさん! 影を伝って移してください!」

「あいよ!」

 天狗を挟んで反対側にいたすずさんは、おのれの頭の後ろに狐火を浮かべていた。そしてすずさんの長い影が、天狗と俺がいる方に向かって長く伸びていたのであった。


 ボワァァァァァァアッ!


 さっきまで俺がいた場所を、炎の渦が襲う。その場所にいたならば、一秒経たずに消し炭になっていただろう。


 しかし俺はすずさんの影に潜み再び現れることにより、瞬時に場所を移動して天狗の背中に回っていた。


 ザクリ


 黒い羽の生えた天狗の背中の、心臓があると思われる位置を刺してやった。


「ぎえぇぇっ!」

 悲鳴を上げて天狗の左腕がぴんと伸び、左のてのひらが空を向いた。一瞬だったが、天狗の筋肉にある神経を刺激したらしい。


 しかし――


――心臓には届かない!?


 羽を動かすための筋肉なのであろう、天狗の背中には人とは比べ物にならないくらいの分厚い筋肉があってやいばはばんでいた。


 天狗は切り株の上ですぐさま身をひるがえし、こちらを向いた。眉間にしわが寄り、憤怒ふんぬの表情を見せている。


「いまのは、ちぃと痛かったのぉ」

 天狗は片方のてのひらをこちらに向けて、炎を宙に浮かばせた。そして言葉を続ける。

「焼き尽くしてくれようぞ!」


 俺は、手元にある日本刀に叫ぶ。

「おあきちゃん! !」


 瞬時に日本刀がおあきちゃん本来の小さい女の子の姿に変わり、切り株に手をかざす。


 シュルシュルシュルシュル!


 まだ根を地面に張っていた生命の残っている切り株は、おあきちゃんの治癒の妖術によって、その上に立っていた天狗を枝に巻き込んで大木へと戻っていった。天狗は葉っぱの茂る枝に絡めとられ、上へと昇っていき見えなくなった。これで少しだけ時間が稼げる。


 後ろにいたすずさんが俺たちに叫びかける。

「よし! 逃げるよ! りょうぞう! おあき!」

「はい!」

「うん!」

 俺はおあきちゃんの手を取り、さきほど崩れた壁に向かって駆け出す。


 あの壁をグレネードランチャーで破壊したのは、何よりであった。


「こら待てぃ!」

 生い茂った木の枝の上の方から、天狗の叫び声が聞こえる。しかし、天狗はその羽を枝に絡みとられて中々動けないようであった。


 崩れた壁からすずさんとおあきちゃんと一緒に外に出て、道の向こうを見定める。


――あの道の向こうには水路があったはずだ。


 後ろを振り返ると、かなり離れた所にある木の上にて天狗が上半身だけを見せつつ羽を枝にからませてもがいていた。顔はすでに美少年のものではなくなり、のっぺりとした白い顔に歯の生えた口と木のうろのような窪んだ目をふたつ覗かせていた。


 つまり、俺たちの能力をコピーできる距離の射程圏外に到達した、ということだ。


 すずさんが、おあきちゃんの手を取りスナイパーライフルに変化してもらう。


 ダァン!


 枝に絡まったままの天狗は、おそらく風を起こしてスナイパーライフルの銃弾の軌跡を変えてしまったのだろう。銃弾は天狗のこめかみ近くにある葉っぱを撃ち落とし、明後日の方向へ飛んでいく。


「やっぱり効かないかい! りょうぞう! かわまで走るよ!」

 すずさんが叫ぶので、俺も返す。

「わかりました!」


 走る。走る。運河に向かって走る。


 天狗はおそらく、すぐにでも木の枝から抜けて後ろから飛んでついてくる。十秒もせずについてくる。


 細い道を抜けて、運河のある大通りに到達した。


 シュタッ


 俺はスナイパーライフルを持ったすずさんと一緒に、運河の水面へと向かって跳躍する。


 スナイパーライフルが、しゅるりとモーターボートに変化した。


 俺とすずさんはモーターボートの船腹に着地する。大きく運河の水面が波立つ。


 今、遠くの空から天狗の激しい声が聞こえてきた。


 「おのれぇぇぇぇ!!」


 天狗はようやく絡まっていた木の枝から解放されたようだ。すぐにでも空を飛んでここまでやってくるだろう。


 俺はエンジンを入れ、モーターボートの舵を握って発進させる。


 ドゥルルルルルルル!


 勢い良くボートの後ろに波が立ち、馬に乗っているかのような速さで江戸の町を巡る水路を走る。


 空を見上げると、後ろから天狗が飛びつつ着いてくる。


 すずさんは、空を飛ぶ天狗に対して度々炎の塊を打ち出し、援護えんごの役目を果たす牽制けんせいをしている。近づけてこちらの技をコピーされたら終わりだ。


 江戸の町には水路が縦横無尽に張り巡らされており、水路を伝えばどこまでも行くことができるようになっている。


 モーターボートで逃げる。それが俺たちの出した答えだった。


――そして、どこまで逃げるつもりかなんて決まっている。


 その場所とはこの江戸の町において唯一、俺たちがあの天狗に勝てる場所までであった。



 ◇



 天狗は、若干油断していた。


 それはこれまで千年近く、この日本ひのもとで空を我が物として堂々と生きてきた、天狗てんぐとしての天狗てんぐたるゆえのおごりだったのかもしれない。


 あんな若い人の子と、若いきつねどもに一杯食わされた。


 それは、天狗の鼻をへし折られたという表現がぴったりであった。


 故に、天狗は沽券こけんにかけてあの人の子ときつねどもをほふってやるつもりであった。


 しかし、追いかけてもあの人の子がきつねに化けさせた小舟が早くて中々にして追いつけない。


 舟の上にいるもう一人の女狐めぎつねが遠くから炎の塊を飛ばしてくるので、それをも風で吹き飛ばさねばならぬ。


 ええい、忌々しい。


 天狗がそう思ったところ、馬のような速さで走る小舟が、直線的な運河にかかる大きな橋の近くにあった桟橋にて止まった。


 よし! 


 天狗がそう思ったところ、小舟の上の人の子と女狐が桟橋に上がり、小舟は大きな男の姿に変化した。その大男は、実に奇妙な着物を着ていた。


 似たような着物を西洋から船で来た南蛮人が着ていた、と天狗は思い返した。


 人の子と女狐がその大男の影の中に入るやいなや、石の階段を駆け上がり南に向かって走り出した。


 好機なり、と天狗は思った。


 空を飛ぶわれが、すぐにでも追いついてやろう!


 そう思い天狗は飛翔して追いかけるも、その大男は思いのほか足が速かった。


 まるで飛脚のように足が速い。


 しかし、天空を駆ける我には無駄の極み。


 近づく。近づく。やあやあ、もう追いつく。


 後ろから蹴りを入れてくれよう!


 天狗はそう決意し風を切って、一本歯の下駄を大男の背中に対して激突させた。


 ボガッ!!


「やぁぁぁぁっ!」


 女子おなごのような声を出し、大男は地面に転げた。


 そしてその大男の影から、女狐めぎつねが一匹、人の子が一匹、するりと出てきた。


 女狐めぎつねが声を響かせる。

「おあき! 変化へんげを解いて傷を治しな!」


 人の子も声を出す。

「おあきちゃん! よく頑張ったよ!」


 大男に化けていた幼いきつねが、本来の女子おなごの姿に戻り己の傷を治した。


 女狐めぎつねも人の子も、若干笑みを浮かべている。


 何がそんなにおかしいのだ? 天狗はそう思った。


 これくらいの近さならば、こいつらの力を全てまねることができる。


 今度こそ、跡形もなくほふってやる。


 しかし、ここはどこなのだ。深川と南本所を結ぶ高橋たかばしのすぐ南西だということはわかる。見たところ、朱色の鳥居があるなんの変哲もない稲荷社いなりやいろの近くのようだが。


 近くにある朱色の大鳥居を視界の隅に置きつつ、天狗は人模ひとまねの妖術を使った。



 ◇



 モーターボートで江戸の運河を疾走し、忠弘ただひろに化けたおあきちゃんに懸命に走ってもらい、俺たち三人はここに来ることができた。


 そう、ここはまさしく名賀山稲荷社みょうがやまいなりやしろの真ん前である。


 今、天狗が俺たちから十メートルくらい離れた場所で人模ひとまねの妖術を使った。天狗ののっぺらぼうの顔が、俺たち三人の顔を全て混ぜ合わせたと称する中性的な美少年の顔になる。


 俺たちと向かい合って立っている天狗は、並んでいる俺とすずさんにてのひらを向けた。そして一言だけ口走る。

「死ね!」


 ボワァァァァァァァァァッ!


 天狗の掌から炎が噴出し、俺たちを襲う。


 しかし、俺たちはその地獄の業火のような炎に焼かれることはなかった。


 すずさんが大きな半球状のバリヤーを張り、俺たち三人を炎から防いでくれていたからであった。


 これは、以前に稲荷社いなりやしろ御魂みたま合祀ごうしした鉄鼠てっその使っていた妖術だ。


 この稲荷社いなりやしろの近くでは、すずさんは今までに調伏ちょうぶくして合祀ごうししたあやかしの妖術全てが使えるのである。


 威風堂々とすずさんが叫ぶ。

「ここなら、あたいは敵無てきなしだよ!」


 すずさんがバリヤーを解除して、すぐさま目をピカッと光らせた。


 雷獣らいじゅうの使っていた妖術、雷を落とす妖術だ。


 ドッカーン!


 天空から天狗に向かって電撃が走る。


 天狗は黒焦げになってしまう……はずであった。


 すずさんはあからさまに動揺し蒼白そうはくの表情になる。俺も目の前で起こった絶望的な光景に冷や汗が流れる。


 天狗も、自らの身の周りに半球状のバリヤーを張っていたのであった。


 美少年の顔をしている天狗が冷笑れいしょうと呼ぶに相応ふさわしく歪んだ表情を見せて口を開く。

「何を驚いておるのじゃ? わしのじゅつものじゅつまねじゅつじゃ。なんじ敵無てきなしならば、わしだって敵無てきなしじゃわい」


 そんな、無茶苦茶だ。こっちが無敵になったら相手も無敵になる。そんな相手にどうやって勝てばいいんだ。


 しかしすずさんは青ざめつつも闘うことを諦めず、たもとの影から薙刀なぎなたを出し構える。


 今、憫笑びんしょうしている天狗が何もない宙に手を構えた。そして武器を空中から顕現けんげんさせる。それは、俺がさっき使ったRPG-7と呼ばれる対戦車擲弾発射器グレネードランチャーであった。


 天狗は冷ややかな声を響かせる。

「爆発の音で気を失わせてしまえば防ぎの壁も使えまい。しかるのちに皆殺しにしてくれようぞ」


 バシュ!


 天狗は俺たちにグレネードランチャーを発射した。たとえバリヤーで衝撃波を防いでも、戦車を吹き飛ばすほどの炸薬の爆発音は俺たちを気絶させてしまう。そうしたら天狗は俺たちをすぐさま皆殺しにしてしまう。


 俺の頭の中で神経回路がスパークした。


 叫ぶ。


おにすべを!」


 俺の言葉が終わるより前にすずさんが目を見開いた。


 俺たちに猛スピードで直進していたグレネードランチャーの先端炸薬は虚空に掻き消えてしまった。


 天狗の顔は中性的な美少年の顔から、人間の歯の生えた口と木のうろのような目があるだけののっぺらぼうの顔になってしまった。


 すずさんのたもとの影から、ばらばらと武具がこぼれる。俺の影からは、スポーツバッグが現れて地面に浮き出る。


 北本所の東にあった雑木林で闘った悪鬼あっきの妖術。使の効果であった。


「ちいぃっ!! 小癪こしゃくな!」

 天狗が叫んで腰の鞘から小刀を抜く。


 シュタッ


 すずさんが薙刀なぎなたを構えて突進する。


 ガッキーン!


 薙刀なぎなたやいば小刀こがたなくろがねが激突し、火花を散らす。


 俺は、後ろにいるおあきちゃんに大声で伝える。

「おあきちゃん! 君は下がっていて!」


 妖術を使えなくなった今、おあきちゃんの治癒の妖術も使えない。つまり、攻撃を受けてしまったら治す手立てがない。だから、おあきちゃんをこの戦いに参加させる訳にはいかない。おあきちゃんは大鳥居の影に隠れた。


 俺は地面に転がっていた日本刀を拾い取り、天狗と堂々たる決戦を繰り広げているすずさんの元へ駆け寄る。


「すずさん!」

「りょうぞう!」


 俺の声にすずさんが応える。その掛け合いだけで充分であった。一年以上共闘し続けてきた信頼関係がそこにあった。


 日本刀を持った俺と薙刀なぎなたを持ったすずさんで、天狗の両サイドから攻める。天狗はもう一本の小刀を腰元から抜き、二刀流で俺たちと応戦する。


 ガッキーン! ガッキーン!


 天狗は超人的な身のこなしで、右から左から迫り来る俺たちの斬撃を次々とはじき返す。


 天狗は声を荒げて叫ぶ。

「弱い弱い弱い! 弱い弱い弱い! なんじらの力量なぞ、じゅつを使わなくともわしの半分に満たんわい!」


 ガッキーン! ガッキーン!


 すると、すずさんが絶え間なく薙刀なぎなたを振り抜きながら叫ぶ。

「ふざけんじゃないよ! つよさがかずはかられてたまるもんかい!」


 俺も日本刀で何度も何度も斬りつけつつ叫ぶ。

「何があっても絶対にお前はたおす!」


 そうだ! すずさんの言う通りだ! 強さのレベルやステータスの数値なんて、現実にはあるわけがない! この世界はゲームなどではない! この現実世界では小さなねずみでも追い詰められたら大きな猫を噛み殺すことだってある! 小さな国が大きな国を打ち倒すことだってある! 如何いかに強さの差が隔たっていても、如何いかに分が悪くても、そんなのは重要ではない!


 戦う俺の脳裏に、初恋のお姉さんの言葉が浮かぶ。


――どんな事があっても、決して諦めないで――


 そうだ! 重要なのは諦めないことだ! 目に見える差がありありと判っていたとしても、その力量と長所短所を決して見誤らずに勝機を掴む事こそが重要なんだ!


 俺は、日本刀の斬撃を天狗に振るう。天狗が二刀流でそれを弾き飛ばし続けていたが、その天狗の挙動は経験として俺の中に降り積もっていく。


 あがいてあがいてあがき続けた江戸での日々は、決して無駄じゃなかった!


 ガッキーン!


 俺の加えた日本刀の斬撃が、天狗が左手に持つ方の小刀をはじいた。小刀は天狗の手を離れ宙を舞う。


――いける!


 俺はそう思って天狗の喉下に突きを喰らわそうとした。


 すると天狗は黒い羽を動かし、その場から大きく跳躍した。高さにして四メートルは跳んだ。


 着地地点は――


 大鳥居の前、おあきちゃんのいる場所であった。


 天狗がその左手で、おあきちゃんの首根っこを掴んだ。


武具ぶぐを捨てよ!」

 おあきちゃんをの首根っこを掴んで持ち上げた天狗が、大鳥居を背に大声を張り上げた。


 すずさんがその様子を見て犬歯を見せて叫ぶ。

ころす!」


「近寄らば、このむすめころす! 武具ぶぐを捨てよ!」

 翼を羽ばたかせながら天狗が叫び、おあきちゃんも叫ぶ。

「あたしはいいから! いいから!」


 膠着こうちゃく状態が五秒ほど続き、すずさんが薙刀なぎなたを空に掲げた。


畜生ちきしょうが! おまいさんの背中を刺せるもんなら刺してやりたいよ! りょうぞうがさっき刺した場所をさぁ!」

 すずさんはそう言うと、ぽいっと薙刀なぎなたを遠くに投げ捨てた。


 俺は息を呑む。


 おあきちゃんの命は今、あの天狗の手に握られている。


 そして、俺はおあきちゃんを見殺しにする訳にはいかなかった。


 俺は日本刀を片手だけで持ち、刃の切っ先を地面につける。


 そして天狗に伝える。

「武具は捨てる。その代わり、おあきちゃんの命だけは助けてくれ」


 天狗はそののっぺらぼうの口をにやりと歪め声を出す。

勿論もちろん勿論もちろん、このむすめの命は確かに助けてやろう」


 おあきちゃんが泣きながら叫ぶ。

「やめて! りょう兄ぃ! 刀を捨てちゃ駄目!」 


 俺は心の中で思う。


――駄目だよおあきちゃん。


――いまここで、君が傷ついちゃいけないんだ。


――あの天狗のコピー能力を封じるため、すずさんは能力を無効化する妖術を使っている。


――つまり、致命傷を負ったらそこで終わりなんだ。


 俺は地面に日本刀の切っ先をつけ、手をゆっくり離した。


 日本刀の柄の部分がいま、地面へと倒れようとしていた。


 天狗のうろのような目の視線が、倒れつつある刀に注がれていることがありありとわかった。


 ザクリ

「ぎぇぇぇっ!」


 背中を小刀で刺された天狗が左腕をのけ反らせ、おあきちゃんを掴んでいたてのひらを開く。


 天狗の後ろには白衣に白袴を着た徳三郎さんがいて、さっき俺が日本刀で突いてやった箇所、着物の破れた部分を小刀で突いたのであった。徳三郎さんは天狗からは翼の死角にいたので、見えなかったのであった。


 すずさんがさっき大声を出して攻めるべき場所を伝えたのは、本殿にて祈りを捧げていた徳三郎さんに伝えるためであった。


 徳三郎さんは俺たち三人が妖怪を調伏している夜はいつも、本殿にて寝ずに祈りを捧げてくれていたのであった。妖怪を調伏していた夜にはいつも、徳三郎さんは起きて俺たちの帰りを待っていてくれたのである。


「おのれぇ!」


 ザシュリ!


 天狗の右手に持っていた小刀が、おあきちゃんをかばうために抱きしめた徳三郎さんの胴体をかすいだ。


 徳三郎さんは大きな血管を怪我したのだろうか、血がどくどくと吹き出して着ていた白衣が大きく血でにじんだ。


 俺は、地面に倒れこむ寸前だった日本刀の柄を握り、天狗に向かって大声を上げて突っ込む。


「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 日本刀の切っ先を天狗に向けて突っ込む。何処どこねらうかなんてわかりきっている。


 心臓、左胸、ただ一点を狙う。


 以前におあきちゃんが、妖狐ようこも心臓は人と同じ左胸にあるということを教えてくれた。だったら、天狗も同じように左胸に心臓があるに違いない。


 それは、二秒か三秒にも満たない寸時すんじの間であった。


 俺が江戸に迷い込んでからの一年余りの出来事が、走馬灯のように脳内を駆け巡る。


――一介いっかいの高校生に過ぎない俺が、何故江戸の町に迷い込まなければいけなかったのか、その意味がやっとわかった!


――この江戸の町で体得した出来事は全て、この瞬間のためにあった!


――江戸の町をかげからまもっているすずさんを護るため!


――そして何よりおあきちゃんをまもるためにこの江戸につかわされたんだ!


――俺は、葉月のいたはずの未来みらいまもってみせる!


 ザクリ!


 俺の日本刀の切っ先が、天狗の左胸を捕らえた。日本刀のやいばの部分が天狗の左胸に突き刺さり、切っ先からはドクンドクンという力強い拍動が伝わってきた。確かに心臓を捕らえた感触であった。


 それと同時に天狗の右手に持った小刀は、俺の喉を貫いていた。表面だけではなく、頚骨けいこつ頚椎けいついを貫通して首の前から後ろまで刃が突き抜けている。


 ドサリ


 俺と天狗が、ほぼ同時に地面に倒れこむ。


「……りょう兄ぃ!……りょう兄ぃ!……」

 だんだんと弱くなっていく聴覚が、おあきちゃんの声を俺の頭の中に届けていた。


 おあきちゃんは俺に近寄り、すがっている。


――よかった、おあきちゃん。


――君が無事で、本当に良かった。


 すぐ近くにいるおあきちゃんの叫び声が、遠くから聞こえてくる。

「…………いて!……なおさせて!……」


――駄目なんだよ、おあきちゃん。


――天狗の御魂みたまが飛び出すまでは、すずさんは無効化の妖術を解けないんだ。


――もし迂闊うかつに解いてしまったら、天狗はすぐにでも復活してしまう。


 ごぼり。


 俺の口から血が吹き出た。


 痛みは感じない。


 俺の五感は、もうほぼ完全に麻痺しているようだった。


 目がとろんとしてくる。


 眠い。


 ひたすら眠い。


 そんなことを思っている俺の脳裏に、葉月の笑顔が浮かんだ。





――なあ葉月、俺はきっと底なしの大馬鹿野郎なんだろうな。


――もうちょっとで未来に帰れたのに、結局帰れなかったよ。


――でも、それでも俺はいいんだ。


――葉月、俺は君のために生きることができなかった。


――でも、君の生きる未来のために死ぬことができた。


――だから俺は今、とても満足だよ。


――葉月、俺は俺をしたってくれた小さな女の子をまもることができたんだ。


――だから俺のことを、二度と会えなくなった俺のことを、おあきちゃんに免じてどうかゆるしておくれよ。





 心臓の音がゆっくりと止まっていくのを実感しつつ、俺の意識は虚空こくうやみの中に沈んでいった。

 

 


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