第三十九幕 七歩毒蛇との戦い


 五月の十五日からの、梅雨のどんよりとした叢雲むらくも雲間くもまから、ちらりちらりと満月が顔を覗かせているような夜の事であった。


 俺たちいつもの三人は妖怪退治のために、木綿問屋の管理している運河沿いの蔵の前に来ていた。


 なんでも、深夜にこの蔵の中に入った人間が立て続けに変死したらしい。何かいるのかと昼間に色々調べてみてもわからず、妖怪変化の所業ではないかと名賀山稲荷社に持ち込まれた案件であった。


 俺の近くにいる、狐火を脇に浮かせているすずさんが口を開く。

「一応、夜にはこの蔵に近づく奴がいないように商家に言っているからさ。この辺りではどんだけ暴れてもかまわないよ」


 俺が応える。

「はい、とはいっても、こんな深夜ならば歩いてる人は見当たりませんけどね」


 俺は蔵の入り口の前で、周りを見渡す。


 蔵の前には舟で運んだ商品を積み下ろしできるような運河が巡っているのが見える。この時代において運河とは、物品の大量輸送を可能にする高速道路のような存在なのである。だから、運河のすぐ近くに商品を保管しておく蔵をつくることは商売上の摂理なのである。


 舟から荷物を揚げ降ろしするために石でできた急勾配の階段の下には黒い水面が波打っていて、杭に縄で繋がれた小舟が一艘ある。


 俺と手を繋いでいるおあきちゃんが、口を開く。

「すず姉ぇ、亡くなった人ってどんな風になってたの?」


 すると、すずさんが応える。

「蔵からちょっと出た辺りで倒れてたらしいねぇ。しかも、体のどこかに小さな牙で噛まれたようなあと一対いっつい必ずついてたんだとさ」


 俺はその言葉に、妖怪の正体を考える。

「小さな牙ですか? じゃあ、獣ですかね? ねずみみたいな」


「それはわかんないけどねぇ、まあ、お調べしてみようじゃないのさ」

 すずさんはそう言うと、巫女装束の白衣びゃくえたもとから鍵を取り出した。おそらくは、商家の主人から預かった蔵に付いている錠前の鍵だろう。江戸時代の和錠の鍵は、ゲームとかでよく見る典型的な鍵アイコンの形をしていた。


 俺はすずさんに声をかける。

「すずさん? 影を通り抜ければ鍵は外さなくていいんじゃないですか?」


 その言葉に、すずさんは鍵を錠前に差し込む前にぴたっと手を止める。

「いや、あたいだけじゃなくてりょうぞうとおあきがいるからさ。中に入って危なくなって、逃げ口がないとなると困るだろさ?」


――ああ、そうか。


 俺が納得すると同時にすずさんは錠前に鍵を入れて回す。すると、金属でできた和錠のロックがかちゃりと音を立てて外れた。


 錠の門戸を固定する金属部分、いわゆるかんぬきを外して扉を横に開ける。蔵の中は当然の事ながら真っ暗であった。


 すずさんは、脇に浮かせている狐火を二つに割り、その片方を入り口を通して蔵の中に移動させる。


 蔵の中の暗闇くらやみが、狐火に照らされてぼうっと仄明ほのあかるく照らされる。蔵の中には当然の事ながら、所狭しと木綿糸もめんいとの束が積まれている。そして、蔵の中はどうやら二階部分があるようであった。


 すずさんは、蔵の中の空間に狐火を浮かばせながら、注意深く速やかに蔵の中に入る。


 俺も、手を握っているおあきちゃんに拳銃ベレッタに化けてもらい、すずさんの後から続き蔵の中に入る。


 拳銃ベレッタをその手に握った俺は蔵に入ると、すずさんと背中同士を合わせる。そして、狐火の白い灯りの中ですずさんに問いかける。

「すずさん、妖怪の気配は感じますか?」


 すると、すずさんは俺の頭の後ろで応える。

「ああ、感じるねぇ。どこにいるかはわかんないけどさ、間違いなくあやかしが潜んでいるよ」


 蔵の中には、運河から運んできたのであろう荷物である木綿糸の束が沢山詰まれている。そして、入り口近くには二階に上がるための木でできた階段状の立て板がある。


 すずさんが、口を開く。

「気配の主は、どうやら上にいるようだねぇ。りょうぞう、あたいが上に登るから、現れたらその小さな鉄砲で撃ちな」


 俺はその言葉に「はい」と言ってうなずく。


 すずさんが立て板の段差に足をかけて一歩一歩登っていく。俺は、いつ二階から妖怪が飛び出してもすぐさまバックアップできるように、銃口を階段の上の方に向ける。


 そして、すずさんが段差の一番上まで登った次の瞬間だった。

「ちぃっ! いたよ!」


 すずさんの叫び声とともに、俺は意識を集中させる。蔵の中の闇の天井を、しゅるしゅると素早く這い回る影が視界に入った。


 それは、赤い小さな蛇であった。蛇と言っても通常の蛇ではなくて、トカゲのように四本の脚がついていて、ヤモリのように天井を這い回っていた。


「今行きます!」

 俺はそう叫び、すずさんに続いて階段に手を掛けて上に登ろうとする。


 すると、すずさんが叫ぶ。

「りょうぞう! 上だよ!」


――え。


 俺が上を見ると、体長四寸(約12センチメートル)ほどの脚の生えた小さな蛇が、俺の顔の上に落ちてきた。


「うわっ!!」

 俺は焦って、銃を持っていない左手で、その蛇を払おうとした。


 かぷり。


 蛇が、俺の左手指先をかぷりと噛んだ。


「りょうぞう!」

 すずさんが叫ぶと同時に俺は身を反らし、階段から一階に飛び降りる。蛇は素早く俺の体から這い逃げて、そそくさとどこかに隠れてしまった。


――逃がすか。


 俺がそう思い足を踏み出そうとした寸前にすずさんが叫ぶ。

「歩くな! 歩いたら死ぬよ!」


 すずさんの叫び声を聞いて、俺は足を止める。


 俺は、すずさんに大声で問いかける。

「どういうことですか!?」


「こいつは七歩蛇しちふじゃだよ! 噛まれてから七歩しちほ歩いたら死ぬのさ!」

 その言葉を聞いて、俺は青ざめた。階段から飛び降りたときに両足を地面についたから、もう二歩歩いてしまったことになる。


――つまり、あと五歩歩いたら死ぬということだ。


 二階にいるすずさんが、俺の方に向かって飛び降りる。


 身を跳躍させ、すずさんは二階の部分から土間の一階部分に飛び降り、たもとの影から出した小刀で闇を払う。


 そこには、あの七歩蛇しちふじゃと呼ばれた蛇がいた。小刀で払われた蛇は体をしならせ、蔵の中の壁に貼りつく。


 そして七歩蛇しちふじゃは俺たちのいる方向に鎌首を上げ、二つに分かれた舌をチロチロと出す。


 すずさんが、俺の傍で叫ぶ。

「なるほどねぇ! 七歩蛇しちふじゃの仕業だったのかい! 丁度いい蔵があったので、ねぐらにしてたってとこだねぇ!」


 すずさんはそう叫ぶと、手を蛇に向かって掲げ、中空に炎を浮かばせた。


「焼き尽くしてやるよ!」


 すずさんがそう叫ぶも、俺たちの目の前に浮いていた炎は、あっという間に掻き消えてしまった。


 そして七歩蛇しちふじゃが口を開くと、目の前にはいくつもの氷の塊が浮いていた。


 シュッ シュッ シュッ!


 氷の粒が散弾のように俺たちに向かってくる。死ぬほどではないが、むちで何度も何度も叩かれているような痛さを全身に浴びる。


 俺は、あの七歩蛇しちふじゃの使うもう一つの妖術は、氷を操る妖術であることを理解した。おそらくは、すずさんの生み出した炎のある座標に氷を生成することで、実質的に炎を生み出すのを妨げることができるのだろう。


 全身に何百もの小さな氷の粒をぶつけられた俺は、隣にいるすずさんが氷の粒を腕でガードしながら、目をつむってしまうのを見てしまった。


 その瞬間だった。


 七歩蛇しちふじゃは俺の傍に瞬く間に近寄り、俺の足をもう一度噛もうとした。


「りょうぞう!」

 すずさんが叫んで、俺の足元の蛇を薙ごうと小刀を振るう。


 蛇は、その瞬間を見逃さなかった。小刀を薙ぐために下方に腕を下ろしたすずさんの斬撃をするりとかわし、小刀の上を素早く這う。そして、小刀の上を這って手元に近寄った七歩蛇しちほじゃは、これまた俊敏にすずさんの手の甲をかぷりと噛んでしまった。


「ああっ!」

 すずさんが叫ぶ。


 蛇はまたもや素早くするりと逃げ、蔵の中の荷物の影に隠れてしまった。


 俺はすぐ隣にいるすずさんに問いかける。

「すずさん! 二度噛まれたらどうなるんですか!?」


七歩しちほ歩かずとも、その場で死ぬんだよ! 決して噛まれるんじゃないよ!」


 つまり、あの蛇の毒は妖術としての七歩ななほ歩くと死ぬってだけではなくて、スズメバチの毒のようにアナフィラキシーショックも起こすということなのだろう。相当に凶悪な毒を持つ蛇だということがわかる。


 すずさんもその毒蛇に噛まれてしまい、あと七歩ななほ歩けば死ぬということだ。


 闇の中に浮かび上がる入り口の方を見て、すずさんが声を出す。

「りょうぞう! あたいの影の中に入れ! あたいが三歩か四歩で外まで連れてってやるからさ!」


 すずさんがそう提案するも、俺は首を縦に振れなかった。

「すずさん! あの入り口近くの闇の中には蛇が隠れているような気がします! その案には乗れません!」


 出入り口からは、外の満月の光が蔵の中に差し込んでいるが、その周りにある暗闇の中に蛇がいるような気がした。


 俺たちが外に出ようと決死の覚悟で出ようとしたところを、もう一度かぷりと噛むくらいのことは考えていそうだ。


「じゃあ、どうすんのさ!? 横の壁から外に出たら蔵と蔵の隙間だから身動きが取れないよ!?」

「俺の荷を影の中から出してください! いいものがあります!」


 すずさんにスポーツバッグを影の中から出してもらった俺は、足を動かさないよう注意しつつ荷物をまさぐる。


――あった。


 俺が手に取ったのは、ワンタッチで開く折り畳み傘であった。俺が折り畳み傘のボタンを押すと、傘はばさりと開いた。


「この傘の影の中に入って出ればいいんですよ!」

 すると、すずさんが承服しかねた顔で返す。

「で、その傘の中にあたいたちが入ったとしたら、誰が外まで持ってくんだい!?」


「それも考えてありますよ! この蔵の中にある木綿糸を使うんです!」

 俺はすずさんに、毒蛇の潜む暗がりの蔵から脱出する算段を伝えた。






 すずさんは、たもとの影の中から弓を出す。そしてその弓に矢をつがえて、思いっきり引き絞る。


 矢を射る先はもちろん、満月の光が漏れている出入り口である。入り口近くの闇の中に蛇が隠れていようが、矢のスピードには追いつけまい。


 シュッ!


 すずさんの射った矢が、風切り音を立てて蔵の中を飛び出し、地面に刺さる。


 すると次の瞬間には地面に刺さっていた矢は、忠弘の姿になった。あの矢は、おあきちゃんに化けてもらったものであった。


 今、蔵の外にいるおあきちゃん扮する忠弘は、手元に長い木綿糸の先を持っている。この木綿糸は矢に結んでおいたものであった。外から蔵の中に長く伸びる木綿糸の先は、折り畳み傘の先っぽの部分に結わえている。


 俺は叫ぶ。

「すずさん! 傘の中の影に潜みましょう!」

「あいよ!」


 すずさんが威勢の良い声を出して、俺の手を掴み、自分の体ごと俺の体を折り畳み傘の中に沈みこませる。


 シュシュシュシュ!


 毒蛇が這いよってくる声が聞こえてきた。俺はすかさず影の中から手を伸ばし、折り畳み傘を閉める。


「おあきちゃん! 引っ張って!」


 闇からにじり寄った小さな蛇の影は、俺たちがいたところを這い回り、あごをしきりに開閉させていた。獲物を取り損ねた毒蛇を尻目に、俺たちは折り畳まれた傘ごと、忠弘に糸を引っ張られて外に出る。


 すかさず、俺とすずさんは蔵の外にて、満月の月明かりの下に現れる。近くには転がった折り畳み傘と、おあきちゃんが化けた忠弘がいる。俺は忠弘の手を取る。


「おあきちゃん! 刀に化けて!」


 すると瞬時に忠弘の姿が日本刀に化けて、俺の手に握られる。


 すずさんも、俺の隣にてたもとの影から小刀を出し、柄を握り構える。


 忘れてはいけないのは、俺もすずさんも七歩ななほ歩いたら死ぬという毒が体にまわっているということだ。


 俺は既に影から出てきたときに二歩歩いてしまったので、合わせて四歩歩いた。つまり、あと三歩で死ぬ。


 すずさんは俺と同じく影から出たときに二歩地面を踏みしめたので、あと五歩で死ぬ。


 すずさんが叫ぶ。

七歩蛇しちふじゃはあたいらをもう一噛みして殺すつもりみたいだねぇ! 心しな!」


 その言葉に、俺は足を移さないよう注意しつつ日本刀を構える。


 今、蔵の中から七歩蛇しちふじゃが這い出てきた。


 満月の白い明かりに照らされたその小さな蛇は、炎が全身で燃え盛っているかのようにおどろどろしく赤かった。有毒動物は身を守るために己の身を派手な警戒色にすることがよくあるとは聞いたことがあるが、まさにそれを体現しているような妖怪であった。


 そして七歩蛇しちふじゃは、そのトカゲのような四本足を交互に移し、俺たちから三メートルくらい離れたところで鎌首を上げる。


「シャァァァァァァァ!!」

 蛇が大口を開けて叫ぶと同時に、ひょうのような氷の塊が何十個何百個と宙を飛んで襲ってきた。


 俺は、その攻撃は予想していたので、足元にあった開いたままの折り畳み傘を拾い上げ、蛇に向かって突き出して防いだ。


 氷の散弾が絶え間なくナイロン製の生地に当たる音が聞こえる。


 しばらくすると、七歩蛇しちふじゃが疲れたのか、氷の散弾が止んだようであった。


――今だ!


 俺はそう思うと傘を折り畳み、蛇に向かって思いっきりぶん投げた。


 折り畳み傘は、蛇のすぐ近くに落ちた。蛇は俺の狙いがわからず、余裕の面持ちで先の割れた赤い舌をチロチロさせている。


 がしり。


 傘の影から出てきた妖孤の手が、七歩蛇しちふじゃの尻尾を掴んだ。氷の散弾を受けている間にすずさんが折り畳み傘の影の中に入っていたのである。


――やったか!?


 俺がそう思ったところ、尻尾を捕まれた七歩蛇しちふじゃは鎌首を曲げ、尻尾を掴んでいるすずさんの手を噛もうと動く。


――危ない!


 俺は、すずさんの腕が生えている折り畳み傘に結わえられた木綿糸を咄嗟に引っ張って、手元に引き寄せる。


 折り畳み傘は宙を舞っている最中に、伸びた手が開閉ボタンを押し、ばさりと音を立てて広がった。


 すずさんは、宙を舞う折り畳み傘の影の中からふわりと舞い降り、両足で地面に降り立った。


 すずさんが噛まれてから合計四歩歩いた、つまりあと三歩で死んでしまうということだ。


 俺は隣に降り立ったすずさんに問いかける。

「すずさん! 何で掴んだときに炎で殺さなかったんですか!?」


 するとすずさんが俺に、蛇を掴んだほうである左掌を見せた。すずさんの手の平は、まるで南極で遭難した探検隊の皮膚のようにどす黒く変色していた。


凍傷とうしょうですか!?」

 俺が驚きの声を上げると、すずさんが冷や汗をかきながら俺に伝える。

ひど霜腫しもばれさ。あの蛇、掴んだら雪みたいに冷たいんだよ。炎を注ぎ込むこともできなかったのさ」


 すずさんがそこまで言うと、すぐさま日本刀がおあきちゃんの姿に戻る。そしてすずさんの凍傷を治すと、日本刀に戻って俺の手に握られる。


 俺は、どうすればいいのか策を考える。


 すずさんが宙に炎を浮かばせても、蛇はその部分を冷たくして炎を消してしまう。        


 だからといって蛇の体を掴めば、こちら側の体を直接凍らせてしまう。そして、近づいて刀や薙刀で切りつけようとすると素早く武器の上を這い寄ってこちらの手を噛んでしまう。


 俺がそんな事を考えて頭を働かせていると、すずさんが叫ぶ。

「ああいうのはね、水の中に誘い込めばいいのさ! 水の中で身を冷たくしたら凍っちまって身動きが取れなくなるからねぇ!」


 その言葉に、俺は後ろを振り返る。


――段差の下には運河の水面が波うっており、あの中に蛇を誘い込めば良い訳だ。

――しかし、七歩蛇しちふじゃが俺たちの挑発に乗って運河まで来るか?


 そう思った俺は、蛇に向かって視線を移す。


 七歩蛇しちふじゃは鎌首を上げたまま、ジロリとこちらの出方を伺っている。


 その時、俺の頭の中にアイディアが閃いた。あの蛇は、俺たちがあと数歩歩けば死ぬことを知っているのだ。と、いうことは俺たちが七歩歩いて死んだ後ならば、あの蛇は俺たちの傍に寄って死んだのを確認しに来るはず。


 俺はあと三歩歩いたら死ぬ、それは七歩蛇しちふじゃもおそらく判っている。  


 俺は、すずさんに顔を向ける。

「すずさん! 俺をかわまでぶん投げてください! その後すずさんもかわに二歩歩いた後に飛び込んでください!」


 俺が叫ぶと、すずさんが大声で返す。

「泳ぐつもりかい!? 泳いだらますます蛇を捕まえるのは難しくなるよ!?」

「詳しくは言えません! でもお願いします!」


 俺の願いをすずさんは聞き入れてくれたようで、その手で俺の刀を握っていない方の手首をしかと握り締めた。


「わかったよ! 信じてみようじゃないのさ!」

 すずさんはそう叫ぶと、俺の手を取ってぶん回し、運河の方へ俺の体をぶん投げてしまった。


 宙を舞った俺の体は、おあきちゃんの化けた日本刀と共に運河の水面に吸い込まれていく。


 そして次の瞬間には、すずさんがその巫女服の袴の下にある脚を大きく広げて、一歩、二歩、と運河に向かって駆ける。そして死ぬはずの三歩目で、段差から暗い水面へと飛び降りた。


 俺は、あの猛毒を持った七歩蛇しちふじゃが油断して、段差から鎌首を覗かせてくれることを祈った。



 ◇



 七歩蛇しちふじゃは、このところすこぶる機嫌が悪かった。


 せっかく人のいる里で安楽に過ごせるねぐらを見つけたというのに、その新たなねぐらは大勢の人が出入りして騒がしいことこの上なかった。


 先ほどから自分に襲い掛かっている妖孤二匹と人一匹も、さっさと片付けてしまうつもりであった。


 人の子が妖孤にぶん投げられて河の中に落ちていって、妖孤も後を追うように河に飛び込んでしまった。逃げたのかと一瞬考えたが、どっちみち毒が回ってすぐにでもくたばるはずであった。


 しかしおかしい、妖孤二匹の気配は消えていない。待てど待てどその向こうにある段差には妖孤の気配が消えない。


 さては、息を殺して待っているのだな。もう一度噛んで殺してやろう。


 そう思った七歩蛇しちふじゃは、しゅるしゅると四本の脚が生えた胴体を這わせ、運河に近づいた。


 首を運河の段差の先に出し、ほの暗い水面を見る。すると、神職の白衣袴を着た人の子が、小舟の繋がれた杭につかまって水に浸かっていた。


 今にも死にそうではないか。よし、飛びかかってもう一度ひとたび噛んで殺してやろう。


 そう七歩蛇しちふじゃが思ったところ、段差の影の中からにゅっと伸びてきた金物でできた何ものかが、己の鎌首を挟んだ。


 七歩蛇しちふじゃは焦った。


 何だこれは!?


 白く光る金物の棒の先に、己を捕まえる奴床やっとこのようなものが付いている!


 そう七歩蛇しちふじゃが思った刹那せつな七歩蛇しちふじゃの体はその棒により宙に持ち上げられ、水面に叩きつけられた。



 ◇



 すずさんにぶん投げられて宙を舞った俺は、手に握り締めていたおあきちゃんの化けた刀に叫んだ。

「俺の思ったものに化けて!」


 そう叫んだところ、俺が運河の水面に接する寸前に、おあきちゃんは駆動エンジンがついた小舟に化けてくれた。


 二十一世紀では、モーターボートと呼ばれるその舟の船腹せんぷくに勢いよく着地した。そして水面に大きな波が立ち、衝撃を吸収してくれる。


 これで二歩、合計六歩歩いた。もう一歩も歩けない。でも、それでもいいのである。


 俺はそのまま、モーターボートの後ろに付いている舵を切り、蛇から見えない川岸の影に隠れた。


 タッ タッ


 すずさんの足音がこちらに向かってくるのが聞こえる。俺はエンジンを駆動させ、すずさんを受け止める格好になる位置に舟を移動させる。


 バッ!


 今、すずさんが飛び降りた。すずさんは俺が乗るモーターボートに向かって放物曲線を描いて降下する。


 そして、俺がすずさんの胴体をしかと抱きしめる。ボートは大きく揺れて、大人の女性の髪の香りが俺の鼻をつく。


 俺は、声を出さずに石組みの河岸の影を指差す。すずさんに、その河岸の石組みの影の中に入って欲しいということを伝えるためだ。


 俺が舵をきってモーターボートのスクリューを回し、川岸の影につける。あの猛毒を持った七歩蛇しちふじゃからは見えない所だ。


 すずさんが、足をつかないように注意しつつ、河岸の段差の影に己の腕と体そのものをずぶりと沈み込ませる。


 そして、俺はすずさんに小声でこう告げた。

「おあきちゃんに、蛇を捕まえる未来の道具に化けてもらいます。おあきちゃん、化けなおして」


 俺がそう言うとモーターボートはその場から消え、ばしゃりと音を立てて俺の体が水面に落ちる。その代わりに俺の手には、長さ三メートルを超えるアルミニウム製のヘビ捕獲棒が握られていた。


 川の中に入った俺は近くにあった杭で体を支える。そして、片足が水底につかないように注意しつつ仰向けに水に浮かぶ。胸から下は深夜の冷たい水にすっかり浸かってしまうが、いたしかたない。


 ヘビ捕獲棒を手に持ったすずさんは、手元のグリップを何度も握り、先っちょにあるヘビバサミの開閉を繰り返している。


 そして、すずさんが自分自身の口元に指先をあて、上を見上げた。七歩蛇しちふじゃが俺たちが死んだかどうか確かめるためにやってくるのだろう。


 すずさんは河岸の石段の影の中に入り、蛇がやってくるのを待っている。俺は杭で体を支えつつ、冷たい夜の水にちゃぷちゃぷと浸かっている。


 今あの赤い体をした七歩蛇しちふじゃが、段差の上からひょいと首を出した。すずさんはその瞬間を逃さなかった。


 ヘビ捕獲棒にて素早く七歩蛇しちふじゃくびを挟み込んだすずさんは、そのまま叩きつけるように蛇の体を水面に落とした。


 妖怪を水に叩き付けたときのすずさんの表情は、とても嬉しそうに笑っていた。





 四本の脚が生えた赤い蛇の体が水面に叩きつけられると、その妖怪は暴れる間もなく凍りついた。


 ばしゃばしゃと水音を立てる間もなく、周囲の水がぴきぴきという音と共に凍っていく。そして、その七歩蛇しちふじゃは動けなくなってしまった。七歩蛇しちふじゃは動けなくなったのをまずいと思ったのか、術を解除したようであった。蛇の体の周囲にあった氷が、瞬時に溶けて水に変わる。


 すずさんは、その好機を見逃さなかった。


 手元のグリップがあるヘビ捕獲棒を白衣のたもとの中に沈み込ませ、反対画の先にあるヘビバサミで挟まれている七歩蛇しちふじゃの体を引き寄せると、がしりと左手で掴んだ。


すべを解いちまったかい。うらまないでおくれよ」


 すずさんは、その言葉と共ににたりと笑った。


 七歩蛇しちふじゃが大口を開け、シャー! といななききを発したが、既に時は遅かった。


 すずさんの左手から出た炎が七歩蛇しちふじゃの体をあっという間に包み、ぶすぶすと煙を出す細長い黒こげにしてしまった。


 七歩蛇しちふじゃだった燃えカスから、しゅっと大きな光点が飛び出した。石組みの段差から上半身を出しているすずさんは、胸元から紙を出してその御魂をうやうやしく折り畳んだ。


「調伏、終わりだね」

 すずさんがそう言ったところ、体の下半分を運河に浸からせている俺は、くしゅん! とクシャミをしてしまった。


 すずさんが、俺に話しかける。

「いやぁ、りょうぞう。今回もご苦労だったねぇ。かわに入るような真似までさせちゃって何か悪いねぇ」


 すずさんが俺の方に向かって手を伸ばすので、俺はその手を取る。


「気にしないでください。今回も誰も死ななくてよかったです」

 俺が返事をすると、すずさんがこんなことを言った。

「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ。あたいらもそろそろ、やからあやかしの調伏を任せても良い頃合かもね」


 そう言うすずさんの微笑みは、俺にはとても魅力的に思えた。


――違う、この人は違うんだ。


 俺の心の中の葛藤など気にもせずに、すずさんは笑っていた。


 そして俺の心の中に、初恋のお姉さんが俺に見せてくれた笑顔が浮かぶ。


 子供の頃からずっとずっと、どうしてもわからなかった疑問が再び沸き起こる。


――あのお姉さんは、何故あんなにも嬉しそうな笑顔を見せてくれたんだ?


 五月の空の満月は、恥ずかしそうにしきりに雲に隠れていた。風の強い水面波立つ夜のことであった。

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