第二十九幕 初午の日の祭囃子



 文政六年になってから春の足音が近づくのを肌身で感じる頃合、二月の六日のことであった。


 二月の初めに到来するうまの日は、初午はつうまの日と呼ばれ、日本各地の稲荷神社にとっても、手習い所や寺子屋のような教育機関にとっても特別な日である。


 朝五つ(午前八時ごろ)からすずさんの元には、六歳か七歳くらいの小さな子供が正装した親御さんと共に大勢訪ねてきては挨拶をしている。


 この、初午はつうまの日というのは平成の時代でいう入学式と卒業式の日であり、十二くらいになった子供は己の職を見つける為に町に出る。そして、六歳くらいの子供が読み書き算盤をお師匠様に教えてもらうために師弟の契りを交わすのである。


 また、江戸中の稲荷社いなりやしろにはこの日には『正一位稲荷大明神』と書かれた赤いのぼりがいくつも掲げられて、重要なお祭りの日である事を示している。


 トントントコトン トントコトントン


 子供が何人か集まって、太鼓を鳴らしながら歩いているのが目に入る。


 この稲荷社いなりやしろでは学びを終えた子供は、この初午はつうまの日に棒でぶら下げた太鼓を打ちつつ町を回るのだという。そして、稲荷社の方で用意していた甘酒を飲んで締めくくるらしい。お神酒みきの代わりなのだという。


 朝起きてすぐに、稲荷社いなりやしろの社前に神饌しんせんとして、油揚げ、お神酒みき、赤飯、コハダを供えるなどの手伝いをし、子供達に振舞うための甘酒を作るなどの仕事を済ませ、一息ついた俺は大鳥居の前で佇んでいた。そして、稲荷社いなりやしろの前を太鼓を打ち鳴らしながら進む子供達の姿を見ていた。時間的にはそろそろ正午だろう。


 俺が子供達の晴れ姿を見ていたところ、すぐ後ろから聞いたことのある少年の声が聞こえてきた。

「よう、盛況みてぇだな。りょうよ」


 その声を発した影は、小三郎だった。相変わらず黒い着物に黒い長羽織を着て、裕福そうなオーラを存分ににじませている。


 俺は返す。

「ああ、小三郎。お祭り見に来てくれたの?」

「ああ、まぁな。今日は江戸中の稲荷社いなりやしろが祭りだろ? いつもは、烏森稲荷うのもりいなりとかの大きな社や、大岡おおおかさまの豊川稲荷とよかわいなりとかに行くんだけどよ。たまにはこんな小さな社もおもむきがあっていいかな、と思ったんだけどよ」


 俺は尋ねる。

大岡おおおかさま? 神主さんの名前?」


 すると、小三郎が笑いつつ手を振る。

ちげちげぇ、大岡越前守おおおかえちぜんのかみさまだよ。もう百年くれぇ昔のお奉行さまが分祀ぶんししたんだけどよ。ま、長崎生まれなら知らねぇよな。豊川稲荷とよかわいなりはよ、大岡おおおかさまのお屋敷の中にあんだよ」


「えっ! 大岡越前おおおかえちぜんってあのお裁きで有名な!? 実在してたの!?」


 俺がそう声を上げると、小三郎が不思議そうな表情を浮かべる。

実在じつざい? おぇ、たまにおかしな事言うよなぁ」


「あ、いや気にしないで」

 俺がそう言うと、捨て鐘がどこか遠くから鳴り響いた。正午になったということだ。


 時の鐘が深川の町に鳴り響く中、師弟の契りをあらかた済ませたすずさんが、講堂から顔を出した。

「りょうぞう、ちょいと良いかい?」


「ああ、はい。何ですか?」

 俺が近寄ると、すずさんは俺に草書体の文字が書かれた紙切れを手渡す。


 俺は質問をする。

「この紙は何ですか?」

往来物おうらいもの(教科書)の注文書ちゅうもんがきだよ。夕方まででいいからさ、すぐそこの蔓屋つるやっていう地本問屋じほんどんやで買ってきておくれ」


 その言葉に、俺は応える。

「わかりました。この紙を本屋の主人に手渡せば良いんですね? お金とかはいらないんですか?」


 俺がそう尋ねると、すずさんはたもとから縄で束ねられた四文銭の束を取り出し俺に渡す。四文銭で三十枚ほど、百二十文はありそうだった。


往来物おうらいものは、後でまとめておしろを払うから別に銭はいらないよ。今日はその銭で小三郎と遊んできな」


 その言葉に、俺は驚く。

「え? いいんですか?」


「まぁ、午前うまのまえに随分と働いてくれたしねぇ。昼飯もどこかで共に食ってきなよ」


 俺はすずさんにお礼を言い、小三郎と一緒にお使いついでに深川の町を歩く格好となった。






 江戸時代の二月というのは、段々と陽気な風が吹き始める春になりつつある季節である。春を告げる鳥の鳴き声が、どこからか町行く人たちの雑踏の音や囃し太鼓や笛の音に紛れて聞こえてくる。


 紺色の着物に着替えた俺は、深川の賑やかな町通りを歩いていた。


 隣を歩く小三郎は、口を開く。

りょうよ、深川で美味い物ってどんなもんがあるんだよ?」


「えっと……深川飯ふかがわめしとかかな? 深川はアサリが沢山取れるから、炊き込みご飯にして食べると美味いね」

「ほうほう、そりゃ美味そうだな。食べようぜ!」


 俺たちは営業している一膳飯屋いちぜんめしやに入り、昼飯を注文した。


 俺が「深川飯ふかがわめし下さい」と言っても最初は通じなかったが、「貝の身をご飯に入れたものなんですけど……」と言ってようやく通じた。どうやらこの時代では『深川飯ふかがわめし』ではなく『ぶっかけめし』と呼ぶらしい。


 江戸時代の深川飯ふかがわめしも、平成の世で食べていたものに劣らず美味かった。


 ただ、東京で食べていたもののようにアサリは使わず、バカガイの身を用いた丼飯どんぶりめしだった。ネギなどの薬味を貝の身と一緒に煮た汁をそのままご飯にぶっかけたものであって、炊き込みご飯ではなかった。


 小三郎と共に昼飯を食べた俺は、本を売っている店である本問屋ほんどんやに足を運んだ。


 本屋といっても、店から中に入ったら本棚が並んでいて、客が自由に手に本を取れるような構造にはなっていない。軒先から入ったところにはコの字型に窪んだ土間段があり、奥の方に本がいくつも横に積み重なっている本棚がある。店の主人に尋ねて本棚から出してもらって、初めて手に本を取れる格好となっている。


 深川にある『蔓屋つるや』という地本問屋じほんどんやに入った俺は小三郎と共に土間段に座り、店の人に自分が名賀山稲荷社の使いのものであることを説明して、注文書ちゅうもんがきを手渡す。


 手代てだいさん(使用人)は朗らかに対応してくれて、教科書である『往来物おうらいもの』という書物を五冊ほど持ってきてくれた。


 そこで、俺の隣に座っていた小三郎が手代さんに伝える。

「このたなにはよぉ、『膝栗毛ひざくりげ』の新刷しんすりはあるかい?」


 すると、手代てだいさんは「ええ、ございますよ」と言って、奥の方にある本棚から書物を三冊持ってきて目の前に差し出した。その本の題には『續』という文字の下に、縦書きで二行二文字で『東海道中』と小さく書かれており、その下に大きな字で『膝栗毛』と書かれていた。『十二』という漢数字とそれぞれ『上』『中』『下』という漢字が振られている。


 小三郎が、手代さんに尋ねる。

きんで今この場で支払ってもいいかい?」

「ええ、きんならば一冊につき一朱いっしゅにございます」

 手代さんが応えるので、小三郎はたもとから財布を取り出し、一朱金いっしゅきんを三つ出して渡す。


 一冊の値段が一朱いっしゅ、つまり三千円くらいであり、平成の本の値段と比べるとかなり高い。しかし、書物ではなくDVDやブルーレイディスクを買うような感覚であると考えると、わからなくもない。


 小三郎が書物を手に取り、快哉かいさいの声を上げる。

「いやー、探してたんだよこれ。京橋じゃぁすぐ売り切れちまって、新しいのはどこ探しても無くってよ」


 俺は小三郎に問いかける。

「それ、ひょっとして『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』ってやつ? ヤジさんキタさんが旅をするっていう」

「そうだよ。去年とうとうしまいのが出たって聞いてたんだけどよ、手に入って良かったぜ。りょうは読んだことあんのかよ?」


 その言葉に、俺は返す。

「いや? 読んだことはないね。古典こてんで習ったくらいかな?」


 その言葉に、小三郎は笑って応える。

「はぁ? 何で滑稽本こっけいぼんなんかが古典こてんなんだよ!? こんなの、あと百年経とうが二百年経とうが古典こてんになんざなる訳ねぇだろ!」


 小三郎の心底おかしそうな反応に、俺は苦笑いする。


 この時代に滑稽本こっけいぼんと呼ばれているような喜劇小説や、人情本にんじょうぼんと呼ばれているような恋愛小説は、庶民が生活の片手間に楽しむ俗なものであり、高尚なものとは全く思われていないのだという。


 江戸にある本をぺらぺらめくってみると、文と文の間には所処ところどころにストーリーがわかりやすいようにと場面を描いたはさまれており、平成にあったライトノベルとそんなに変わらない。


 俺は口を開く。

「俺も、何か本を読もうかな? この頃、江戸の文字もかなり読めるようになってきたし」


 そう、俺はこの頃おあきちゃんの指導の甲斐あって、江戸時代に使われている草書体の崩し文字もかなり読めるようになってきている。本当に、おあきちゃんには感謝の気持ちしかない。


 すると、小三郎が返す。

りょうは、どんな本が好きなんだよ?」


「俺は、そうだね……主役が苦労をして、色々と危なかったり辛かったりするような目に遭うけど終わりには報われるってのが好きかな? あとは、まあ漫画まんがとか好きだね」

 俺の言葉に、小三郎が応える。

漫画まんがか、あれは俺も好きだぜ。北斎漫画ほくさいまんがだろ? なぁ手代さん、このたな北斎漫画ほくさいまんがはあるかい?」


 小三郎が手代さんに尋ねると、手代さんは了承して十冊近い冊子本を奥の棚から取り出して、俺たちの目の前に並べてくれた。


 目の前に並べられた本を手に取った俺は、冊子を開く。


 そこには、様々な絵があった。あるページには、人魚や河童などの妖怪が描かれていた。鳥や小動物が精密に描写されているページもあった。またあるページにおいては、人が大勢生活している様子が活き活きと描かれていた。本当にこれは、日本の漫画文化の原点と言っても過言ではないくらい、森羅万象が描かれていた。


 俺は小三郎に尋ねる。

北斎漫画ほくさいまんがって……これ、描いたの葛飾北斎かつしかほくさい? 有名なの?」


「ん? そりゃそうだろ? 漫画まんがといえば葛飾北斎かつしかほくさいだろ?」


 俺は、蒟蒻こんにゃく長屋に住んでいた鉄蔵さんという絵描きのお爺さんが、葛飾北斎かつしかほくさいを評して言っていた言葉を思い出していた。


――あいつはまだまだ未熟者さ。一人前になるのはいつになるかな――


 この時代では既に葛飾北斎は有名なのだとしたら、あのお爺さんは何者だったのだろう。


 俺が考えていると、小三郎が嬉々とした顔で冊子本を開きエロチックな絵を見せてきた。


 二十一世紀にどこかで見たことがあるような、大小のタコが裸の海女あまさんにからまっている絵であった。


 にやにやとした顔をしながら小三郎は俺に告げる。

まことかどうかはわかんねぇけどよ、この春画しゅんが葛飾北斎かつしかほくさいが描いた絵じゃねぇかって噂があるんだよ。ごうは『鉄棒てつぼうぬらぬら』ってことになってっけどよ」


 その言葉に、俺は思い出す。

 あのお爺さんの名前は『鉄蔵てつぞう』だった。『鉄棒てつぼうぬらぬら』という名前にも、『てつ』という漢字が入っている。


――まさか、あのお爺さん……鉄蔵さん……


 俺は小三郎に告げる。

「小三郎、ひょっとしたら俺、葛飾北斎かつしかほくさいの師匠であるお爺さんと知り合いかもしれない」


 葛飾北斎かつしかほくさいは師匠である鉄蔵てつぞうさんから名前の一部を貰って『鉄棒てつぼうぬらぬら』という名前を付けたのかもしれない。


 まぁ、鉄蔵てつぞうさんが葛飾北斎かつしかほくさいってことはないだろう。今の時点でそんなに有名な絵師なのならば、もっと豪華な家に住んでいるはずだし。


 そんな事を思いつつ、俺は小三郎と地本問屋じほんどんやを後にした。






 深川の町を本を包んだ風呂敷包みを下げながら二人で歩いていると、小三郎が「湯屋ゆやはこの近くにあるかい?」と尋ねてきたので、俺はいつも神社の皆で通っている風呂屋まで案内した。


 本を買って、その足で風呂屋に行くとは少し変わっているというような気がした。だが、江戸の人はお風呂が大好きなのでそういうのもアリかなと思った。


 弓と矢が看板代わりに掲げられている風呂屋の暖簾を潜った俺は、番台のお爺さんに二人分のお金、十六文を支払う。


 すると、小三郎がお爺さんに尋ねる。

「爺さん、二階に上がるのは一人何文だい?」


――二階? 


 俺が戸惑っていると、お爺さんが「十二文でござい」と言ったので、小三郎は四文銭を六枚、合計二十四文高座に置く。


 そして、小三郎は脱衣所で着物を脱ぐこともせずに、番台の近くにあるほぼ垂直に傾いた階段のような梯子のような段差を登って行く。湯屋で、男が何人か上り下りしているのは見たことがあるが、従業員だけが入ることが許されるスタッフルームのようなものと思っていた入り口であった。


 俺は驚きの声を上げる。

「ここって客が入って良かったの!?」


 すると、小三郎は不思議そうな顔をして俺を見る。

「そうだぜ? 知らなかったのかよ?」


 小三郎に促されたので、俺も急勾配の段差に足をかけて二階に上がる。


 二階に上がったらそこはかなり広く、大勢の客の男が畳間の上でくつろいでいた。二階にいるのは男だけであり、女湯とは繋がっていないようであった。


 ある者は茶釜の近くで絵草子を読みつつ煎餅せんべいと共に茶を飲んでいる。


 小さな障子戸が開かれた窓の近くでは、囲碁の対局をしている男たちもいる。


 ある男はうつ伏せに寝転び、目を瞑ったままの坊主頭の中年男にマッサージをしてもらい、恍惚の表情を浮かべている。


 畳間には刀を二本置いてある台もあり、客の中にはお侍もいるようであった。


 ある男達は火鉢の傍で暖を取りつつ、芝居の話などをしているようだ。


 俺は、感嘆の息を漏らす。

「凄いな、二階ってこんな風になってたのか」


 すると、小三郎が返す。

湯屋ゆやの二階ではよ、書の中身とか芝居の中身とかを話して盛り上がるんだよ。将棋とか碁とかもできるしよ、銭出せば菓子とか茶とかも貰えんだぜ」


「ああそうか、サロンみたいなものなのか。なるほど」

 すると、小三郎がいぶかしげな顔をする。

「『さろん』? そりゃ西洋の言葉かよ?」

「あ……えっと、まぁね」


「まぁそれはどうでもいいけどよ、将棋でもしながら色々話聞かせてくれよ。おぇがどうやっておしのを惚れさせたのかとか、おぇの惚れている女の話とかをよ」


――ああ、やっぱりその話か。

――小三郎は、おしのさんをどういう風にしたら落とせるかを聞き出したいんだな。


「ああ、いいよ。おしのさんが小三郎に振り向いてくれるための参考になればいいんだけどね」

 そうして俺は小三郎と一緒に将棋版を借りて、欄干ある明るい窓際に腰を落ち着けた。






 俺たちは窓際にて胡坐をかいて、向かい合って将棋を指していた。


 小三郎は俺に話しかける。

「なるほどよぉ、大川端で弟の亀吉の命を助けたら、惚れられたと」


 俺も、将棋の相手をしつつ応える。

「ああ、こっちはなるべく相手を傷つけずにしておきたいんだけど」


 すると、小三郎が語気を強めて返す。

「そりゃぁ、おごりって奴だぜ? おぇがその気がねぇんだったら、さっさと断っちまった方がおしののためだろぅよ。な、だから早く振っちめぇ! そしたら俺がおしのを慰めるからよ!」

「あ……まぁ、その時が来たら必ず小三郎に言うよ」


 すると、小三郎は将棋の駒を動かしながら、こんな事を言った。

「で、りょうが惚れてるむすめってどんなのなんだ? 名前くれぇはわかってんだろうな?」


 俺は、若干照れながら返す。

「えっと……葉月はづきっていうんだけどね。俺と同い年で、手習い所みたいなところで共に学んでいたんだよ。っぱにつきって書いて葉月はづき


 すると、小三郎は眉をひそめる。

葉月はづき? また洒落た名前だな? 八月はちがつなんて、ただの町娘じゃなさそうだな?」


 その言葉に、俺は疑問を返す。

八月はちがつ? 何でいきなり八月はちがつが出てくるわけ?」

「はぁ!? おまことに神職見習いかよ!? 一月は睦月むつき、二月は如月きさらぎ、三月は弥生やよいとかあんだろ? で、八月は葉月はづきだろ。日本人ひのもとびとなら、皆知ってるぜ!?」


 小三郎の呆れたような様子に、俺は冷や汗をかく。

「あっ……そうそう、そうだったそうだった。つい忘れてたよ」


 小三郎が、俺に問いかける。

「で、りょうはそのむすめのどこに惚れてんだ?」

「うーん……一緒にいると癒されるところかな? あと、とても嬉しそうに笑うところとか……あとは、明るくて前向きなところとか……とても頑張りやなところとか……ちょっと恥ずかしがりやなところとか……挙げればきりがないけど」


 俺が葉月の好きなところを挙げていくと、本当にきりがないだろう。俺が葉月を好きな理由は、葉月が葉月であるからだ。


 すると、小三郎は目を細める。

見目みめはどうなんだよ? おしのみてぇにはな見目みめか? そうでもねぇか?」


 俺は、葉月の笑顔を思い出し、告げる。

「顔は……可愛いね。目が丸くて、鼻と口が小さい。あと、髪は黒髪で肩で切りそろえている」


 俺の言葉に、小三郎は「ん?」といいたげな顔をした。そして、口を開く。

黒髪くろかみなのはたりめぇだろ、白髪しらが老婆ろうばじゃあるめぇしよ。それに、かたかみりそろえてるって、かみってねえのか? もしかして、禿かむろっていう遊女ゆうじょむすめとかか?」


 俺は、その言葉に弁明する。

「あっ……いや、遊女の娘ではないかな……」


 俺がそう言うと、小三郎は何かをひらめいたような明朗な顔つきになる。


「わかった、あまさんだろ! 惚れてる女が仏門に入ったんで、おぇは神職になろうとしたんだな! なるほどよぉ、これで繋がったぜ!」


 なんだか小三郎が何度も頷いているので、俺も敢えて否定はしなかった。


 そんな感じで話をしていると、小三郎が欄干のある窓から外を見た。


 そして俺に伝える。

りょう、お師匠さまが湯屋ゆやにきてるぜ」


 俺が二階の窓から下を見ると、すずさんが一人で手拭てぬぐい二本とぬか袋を持ってこちらに向かって歩いてくる様子が見えた。


 おそらくは、師弟の契りや手習い所を卒業する児童の見送りなどが済んだので、一人早く汗を流しに来たのだろう。


 小三郎が、何やらにやついた目でこちらを見てきた。

りょうよ、おぇ、湯屋ゆやの二階に上がるのは初めてとか言ってたよな」

「え? ああ、そうだけど? それがどうしたの?」


 俺が応えると、小三郎は返す。


「ちょっと動こうぜ、いいもん見せてやるよ」

 そう言うので、互いに将棋を打っていた俺たちは立ち上がり、移動する。


 小三郎は、常連客と思しき男に手を立てて何かを尋ねているようだった。俺の所まで声は聞こえない。


 そして二階部屋の一角にあるでっぱりの前に移動し、そのでっぱりに顔を向けて目を近づけているようだった。そして声を出さずに、俺を手招きする。


 でっぱりに顔をつけた小三郎はしばらくそのままだった。傍に近寄った俺は何をしているのかわからなかった。


 しばらくして、小三郎が「いいぜ、見てみな」と言ってでっぱりから離れたので、俺は顔を近づける。出っ張りには穴が開いてあり、下の様子が見えるようだった。


 穴の向こうは女湯の洗い場であり、そこには全裸の女性が大勢体を洗っていた。


 真ん中あたりにはこちらを向きながら片膝を立てて座り、髪を手拭てぬぐいでまとめてもうひとつの手拭てぬぐいで背中を洗っている、はださらけ出したすずさんの姿があった。


「なっ!……」

 風呂場で体を洗っているすずさんの、全裸姿を正面からまともに見て絶句してしまった俺は、顔を赤らめて小三郎に振り向く。


 小三郎は飄々ひょうひょうと俺に告げる。

「な? いいもん見れただろ?」


 言葉を詰まらせた俺は、喉の奥から声を絞り出す。

「こ……これ……覗き穴!? 犯罪じゃないの!?」


犯罪はんざい? 『つみおかす』? いやぁ、そんな仰々ぎょうぎょうしいもんじゃねぇよ。二階に銭払って上がる男だけが見られんだけどよ。まぁ、眼福がんぷくになったろ?」


 江戸の人たちってどういう思考回路してるんだ、と思わざるを得ない出来事だった。




 その日の晩、すずさんと二人きりになったときに「あたいは別に裸くらい見られてもいいけどさ、おあきがいるときはやめときなよ」と言われたのは余談である。



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