魂の殻

終夜 大翔

プレミス

――生きるためには、血の雨が必要だった。



 重い曇天が星空を覆い、月さえ見えない。さらに中くらいの雨粒が地上にいるものに等しく叩きつけられ、そこにいるモノたちの姿を朧にしていた。そんな夜。

 一人の男が、水のたまった地面に放り投げられた。男は、力なく崩れており、その目に光はない。鼻からは赤いものが流れ出ている。

 放り投げたのは、女。雨に濡れた絹のような黒髪を、顔から剥がし、その切れ長で目尻の上がったきつい紅い眼を覗かせた。顔の線が美しすぎてまるで彫刻といった造形物を見ているような気にさせる。その白磁を思わせる白い肌は、弱さを見せずむしろ潔癖さの象徴の様だった。

 それに慌てた男たちの焦った足音が騒がしく雨音を汚す。女はそれを冷静に見つめていた。合間に男たちの怒号が夜を侵す。

 男たちは、一人の女を取り囲むように半円状に位置取った。みな手には拳銃を携えている。数は五人。奥に三人。狙いは、奥の一人。

 少々面倒だが、遺憾なことに面倒だが、目の前に立ちはだかる壁は粉砕する。そうやって生きてきたし、そうやって生きていくつもりだ。

 女は、手についた赤いもの――血をさも愛おしいものを食べるかのごとく妖艶に自分の指に舌を這わせた。名残惜しそうに舐めとると、不敵な笑みを浮かべて周りを見渡す。

 自分に抵抗したらどうなるか、知らないはずもないだろうに。

 そんな憐れみのこもったような、愛おしさのこもったような、そんな笑み。馬鹿な子ほどかわいい。どうやっても自分の手で殺したくなるほどに。

 男たちが、血を舐める仕草に戦慄を覚えているのが手に取るようにわかった。それもそのはず。血は命の通貨。血を喰うこと、それは人間を喰うことに他ならない。人を喰う。それに怯えない人間なんか、狂ってるに決まってる。生き方は誤ったが、ここにいる人間たちは、みなまともらしい。

「素晴らしい」

 それはなんに対する言葉か。血の味? 人間のまともさ? 生きる意思? 全部。

 狼狽したのは、標的の男。

「お、おい、あんたシエリールだよな? なんであんたが来るんだよ? 俺がなにしたってんだよ?」

 女こと、シエリールはおやと少し不思議な顔をした。

「なにをしたかは聞いてない。聞いたって報酬が上がるわけじゃないからな。だが、おまえが誰かに気にくわないと思われたのは間違いなさそうだぞ? 私が来る理由なんて、そう多くないんだからな」

 なんのことはないといったふうで、親しみのこもった表情をし肩をすくめてみせる。

「化け物が人間にすることなど、数えるくらいしかなかろう?」

 口を限界までつり上げ、笑う。それが相手にどう見えるか重々承知した上で。

 案の定、標的の男を始めとして一団がみな怯えを見せる。それは、いっそ心地いいくらいに。自分の輪郭が手に取るように感じとれる。

「ちきしょう、ちきしょう! ぶち殺せ!」

 諦観と共に男の口から開戦の宣言が放たれる。一斉に男たちは銃を構えた。殺意がいささか悲しいが、仕方ない。どいつもこいつも顔から服から銃から水を垂らし、とても――うまそうだ。

「仕方ないよな」

 無意識に舌が唇をぞろりとなぞる。

 シエリールは黒、いや闇色といってもいいくらい深い色のジャンパーを着ていた。その下には、赤いシャツ。そして、黒のスカートという出で立ち。ほぼ三百六十五日その格好だ。

 だから、シエリールを今日初めて見たにもかかわらず標的も彼女のことがわかった。そして、狙われる意味も知っている。

 各人の銃が同時に火を吹いた。シエリールは、腕で頭をかばう。正確には顔を。

 シエリールの着るその闇色のジャンパーは銃弾を一発も通さない。袖も、体幹部分も。だが、彼女は前を開けて着ていたため、腹や胸の部分には弾があたり、血しぶきを散らす。それは確かに弾が当たっている証拠で、男たちにすれば勝利と同義であるはずであった。

 今までは。

 なんの冗談かと思っていることだろう。シエリールは倒れない。むしろ、弾が当たったことが見間違いのように平然としている。

 頭に一発かすり、その白い肌を伝って血が流れた。それはそのまま口元へ流れていく。それを舐めとった。

「不味いな」

 そう呟いた。戦場のしかも射撃の渦中にあって、シエリールはあまりに悠然としている。

 その様子を見て、ここに来て男たちは、先ほどの化け物という言葉の意味を真に理解した。この街の裏の人間たちの間に伝わるもっとも現実味のない怪奇譚を思い出す。

 昼間から、街をうろつく吸血鬼。一度見たら死ぬまで忘れられない。例え、どんな馬鹿でも忘れる暇を与えない。殺しの達成率は百パーセント。――白昼悪夢ホワイトメアの噂。

「ひいぃ。死ねよ! 撃たれたんだから死ねよ!」

 愚かにも、確認するように男の一人が叫ぶ。人間じゃないと声高らかに。

 シエリールは、短く跳ぶと男の懐へと飛び込んだ。

「すまんね。伊達で化け物を自称してないんだ」

 そういいながら、掌底で顎を砕いた。一緒に首が折れる音も聞こえる。その男が持っていた銃を空中で拾うと、そのまま次の男に撃ち込んだ。

 オートマチックの銃の銃把を両手でしっかりと構え、慣れた動作で一人二人と撃ち殺していく。男たちの反撃は、恐怖のせいで意味をなさず、奔放に散らされていた。

 弾が切れた銃を惜しげもなく捨てると残る二人の元へと走り込む。ジャンパーの袖で頭をかばいながら、その速度にうろたえている間に、懐へと入り腹へ拳を叩き込んだ。あばらの折れる感触に背筋にぞくりとした感触が走る。そのまま男の腕を取り盾にした。

 そうして、もう一人の男の元へと走る。腕を取られた男はそのまま最後の男に撃ち殺された。シエリールは、その死体を男に押しつけると、自身は空中に舞い、死体ともつれて転んだ男の顔へ跳び蹴りを食らわせる。スカートの裾から覗くブーツを履いた白い足は美しい。恐ろしいから故に美しかった。その足は男の首をあっさりと砕いた。

 スカートの裾を直しながら、残る男たちに向き直る。

「さて、残るはおまえたちだが……」

 雨の中だろうと構わず、堂々と姿勢良く立つその姿を見てシエリールは、眉間に皺を寄せる。紺色に黒い縁取りの入った法衣を着た男が二人、今の殺戮を傍観していた。

「忌々しいな、白昼夢」

 髪を後ろになでつけた年上に見える眼鏡の男はそう口を開いた。先輩神父だろうか。

「清々としてるな、とでも言えばいいのか。私は、白昼夢デイドリームみたいに儚くはない。白昼悪夢ホワイトメアだ。私の認知に問題がなければ、おまえたちは神父に見えるのだが」

 今回、シエリールの標的は暴力団幹部。今この手で朱に染めた連中も暴力団構成員。繋がりが見えない。

「見ての通りだが」

 もう一人の若い方の神父が答えた。髪を短く刈り込み、神父と言うよりは軍人のように思える。もう一人の年上の男よりずっと短気で凶暴そうだ。

「ほう、最近の神父は金を積まれると暴力団でも守るのか。それはそれは失礼した。おまえたちを偽物ではないか、と疑ってしまったよ」

「金? 面白い冗談だ。我々はおまえが来ると言うからたまたま一緒に待っていただけだ」

「じゃあ、そこの男をよこせ」

 シエリールは涼しい顔で要求する。

「断る。おまえの言うことを聞く理由はないし、こんなんでも人間だ。化け物の餌にはできんよ」

 シエリールは苦笑しながら、肩を大仰にすくめる。

「やれやれ。おまえたちの恨みを買うような真似はしてないはずなんだが。誰も死んでないだろう?」

「死ななければいいというものではない。おまえは我々顔にいささか泥を塗りすぎた」

 先輩神父はずれた眼鏡を直しながら、胸を張る。

「面子か。どいつもこいつも教会の人間はそう言う。面子で腹が膨れるなら是非その方法を教示してもらいたいものだ。いや、拷問して吐かせるのも一興か」

 シエリールはわざとらしく、頬を緩ませ邪悪な笑顔を見せる。

「ふん、さすが野蛮な生き物は発想が違う。おまえら下賤な存在にはわからないかもしれないが、人間は腹を満たすだけで生きてはいけない」

「面子とか、一見正論ぽく飾るのはよせ。正直に言えよ。私が単に気にくわないと。すすれるものは泥でもすすって生きてきたことのないやつにはわからんだろうが、そういう欺瞞で生きていけるほど我々は強くない。不快だよ、おまえら」

 いかにも不快だと顔をしかめて見せる。

「好きにさえずれ。それが全ておまえの遺言だ。評価としては冴えたものではないな。主の照覧の元、貴様は塵に還る」

 先輩神父は大口径の銃を。後輩神父は、一対のコンバットダガーを懐から取り出した。

 始めに先輩神父の銃が吼えた。シエリールは左腕の袖で受けようとしたが、その腕が大きく弾かれる。その跳ね上がった腕の隙間を狙って後輩神父がダガーをねじ込んできた。狙いはわかりやすく心臓。吸血鬼の弱点の一つだ。

 その閃く白い軌跡は、恐らく銀でできているからなのだろう。それで刺されると少しばかり損傷が大きくなる。有り体に言ってしまえば、痛い。

 跳ね上げられた腕の勢いを力任せに殺すのではなく、そのまま半身になる形でダガーをやり過ごす。

 魔力を通すことで鋼鉄にさえ傷をつけられる爪を伸ばし、ダガーを捌いた。狙われるのは、心臓、首、足。無言で無表情でひたすら逸らし続ける。

 一瞬、シエリールの口角が上がった。動きが単純になりつつあり次の行動が読めたのだ。首を切り裂くために伸ばされた左腕を紙一重で躱し、その腕を取り地面に顔から落とす。後輩神父は、なんとか右腕をついたが顔を強打したらしく呻いた。

 シエリールはそのまま腕を折ろうとしたが、先輩神父の銃が再び轟音を響かせる。その弾丸は彼女の額を捉え、体を大きくのけぞらせた。後輩神父はその隙に彼女の元から這い出るようにして身を転がす。

 シエリールは、短く舌打ちをした。面倒だ。心底面倒だ。大量の血が流れ出たせいで右眼が開けられなくなっている。だが、左眼は光を失わない。むしろ、力を増すように妖しく光を灯らせた。

 状況としては、二人は敵であるシエリールを凝視している。

「腕を下ろせ」

 シエリールは、相手を操る意思を込めて命令した。

 その言葉は、一種の呪いのようなものだ。後輩神父は気の抜けた顔で本当に腕を下ろした。

「くっ、魔眼か」

 先輩神父は、その命令には従わなかった。

「そのまま、おやすみ」

 後輩神父は、水の張った地面に水音を立てながら倒れ込んだ。先輩神父も目眩を覚えたようで、足下が一瞬怪しくなったのがわかった。

「ほう、抵抗するか。達者なのは口だけではないと見える。面子とやらも役に立つんだな」

 感心半分嘲笑半分。

「やかましい!」

 なにかを振り切るように、大きな声で先輩神父は叫ぶ。そのままの勢いで銃を撃った。

「Listen.ミーズ」

 シエリールは、短く呟いた。銃弾は、シエリールの体に大穴を開けていく。だが、それは、銃で体が欠けているのではなく、霧状になったシエリールの体が弾の威力で霧散しているだけだった。

「逃げるか!」

 先輩神父は、懐から瓶を一つ取り出して、放り投げる。瓶は中身の聖水をまき散らした。先輩神父が呪文を唱えて十字を切る。だが、シエリールは不敵な笑みを残して霧になってしまった。

 この雨だ。霧状になった相手の位置などわかりはしない。先輩神父はここに来て初めて不安な表情を作った。思い至ったこと。多分それは、標的の男を狙ってくるだろうということなのだろう。そっちに向かって踵を返した瞬間。

 シエリールの気配を背後に感じて振り返ろうとしたしたが、そのときにはもうすでに背後に実体化したシエリールがいた。銃を握る右腕を掴んでいる。

「逃げる? なぜだ? 私は、米を一粒残らず食べる主義でね」

 そのまま、人間とは比べものにならない握力で腕を握りつぶす。

「うぐあぁぁぁ!」

 聞き慣れない音と共に先輩神父の腕は砕けた。

「そういい声で鳴いてくれるな。私の嗜虐心に火がついたらどうしてくれる?」

 言いながら、先輩神父の腹に強烈な拳を叩き込む。それで彼は動かなくなった。

「やれやれ、おまえらの主とやらはどんどん見て見ぬふりが得意になっていくな」

 そうして、六つの死体と、意識不明が二人、転がっている。

 最後の一人にして、標的の男へと近づいていった。男は完全に腰を抜かしている。

 男は、思い出したように、懐から銃を取り出し、震える手で照準を合わせ放った。弾はあちこちへ飛んでいって、一発だけ、頭に当たった。血が流れるが、死ぬような雰囲気などなく。流れてくる血を舐め、やはり不味いなとこぼした。

 一歩一歩、悠然と歩み寄っていく。男は、半狂乱だ。その様すら愛でるに値する。

 やがて銃の弾が切れ、男にできることは、叫ぶことか、命乞いをすることだけとなった。

「覚悟は決まったか? 今度からはもっと上手く生きろ。あるならば、だが。後、私を相手にするなら銀製品を使え。気休めだがな。では良い黄泉路を」

 シエリールは男の首を両手で挟んだ。男の首は雨ですっかり冷え切っていた。

「ま、待て。金ならやる。だから、命は助けてくれ!」

 男は最後の手札を切った。

「いくらだ?」

 シエリールは話に乗ってもいいと思った。

「は、八百万!」

 シエリールは親密そうな笑顔を浮かべる。男は、一瞬希望を見いだしたような表情になった。

「喜ぶが良い。おまえの命は千五百万だ」

 そのまま、首をへし折った。そのまま首筋に牙を突き立てて、血もすする。

 仕事を終え、今日も生き延びることが出来た。だが、胸に去来するこの虚しさはなんだろう。いつも満たされないなにかがある。財布と腹は満たされた。だけど、それは今日も満たされなかった。

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