抗争の終わり

 時代というものは常に連続していて、結果には必ず原因となる出来事が存在するものである。そして原因から生じた結果が、ある事象の原因となり、脈々と受け継がれる人類の歴史が形成されていくのだ。

 しかし、そのような中でも区切りとなる出来事が、いくつか存在する。垓下の戦いにおいて項羽が死んだという事実は、まさにそのうちのひとつであり、当時の人々にとっても、確かにひとつの時代が終わったと認識させる事象であった。

 だがそれによって社会が激変したという事実はない。生き残った者たちの間には、新たな対立が生まれつつあった。

 項羽の死は確かに時代の区切りではあったが、やはり次に生まれる事象の原因であった。


 一


 未明には八百騎いた味方が、淮水を渡り終えたころには百余騎しかいなかった。いなくなった者たちは、討ち取られたのか、方々に逃げ出したのか、それとも単にはぐれただけなのか、項羽にはまったくわからなかった。目の前の光景が現実かどうかさえ、頭の中ではっきりしない。

 しかし、耳を澄まさなくても漢軍の閧の声は聞こえてくる。確かに彼は追いつめられているのであった。


 ――天運に見放された。

 対等の条件で戦えば、絶対に負ける気がしない。にもかかわらず、こうまで自分が追いつめられているのはなぜか。


 ――天がわしを滅ぼそうとしているのだ。

 項羽はこれまで常に実力を誇示し、そのことによって天下を支配しようとしてきた。

 彼の武勇は天下随一のもので、そのことは彼自身のみならず、この時代の誰もが共有する認識であった。


 ――実力のない者に、このわしを滅ぼせるはずがない……わしを滅ぼそうとしているのは、天以外にありえぬ。

 そう考えたのは項羽の自尊心の高さゆえであろうか。彼は同時代の他の人物によって自分が滅ぼされるとは、決して考えようとしなかった。


 しかし、実際に項羽を追いつめたのは、対陣を続けて楚軍を飢えさせた劉邦の軍略であり、四方を制圧し楚を孤立させた張良の戦略であり、さらには項羽の性格を見抜いてその軍の大半を砦から引きずり出して殲滅した韓信の戦術であった。


 それゆえに項羽が滅びるのは天命によってではない。むしろ、己の武勇を信ずるあまり、知恵の部分をないがしろにした自分自身の罪であるといっていいだろう。


「項王の首には千金と万戸の邑がかかっているんだぞ。逃すな!」

 迫りつつある漢兵たちの叫び声が聞こえた。

 逃れようとした項羽は、このときひとりの農夫に出会い、道を尋ねた。

「左の方角に向かうがよい」

 農夫はそう言い、項羽はその言に従った。


 が、思いがけず沼地に馬の脚をとられることになった。

 農夫は項羽を騙したのである。すでに付近の住民は漢によって買収されていたのであった。これにより項羽は漢軍に追いつかれ、従うのはわずか二十八騎のみとなる。


 項羽を滅ぼそうとしているのは、やはり天などではなく、人の意志であった。


「呉中で兵を起こして以来、八年になる……。今までに七十あまりの戦いを経験し、わしは常に勝利してきた。そしてわしは天下を得たのである……したがって今ここに困窮しているからといって、それはわしの戦い方のまずさが原因ではない。天がわしを滅ぼすのだ」

 項羽はわずかの部下を前に最後の自己主張をした。ついに死を覚悟せざるを得ない事態となったが、どうせ死ぬのであれば最後まで自分らしく死にたい、ということであろう。


「今わしはそれを証明するために、諸君のためにこの囲みを破ってみせよう。三回戦って、三回とも勝ち、敵将を斬ってその旗を折ってみせる!」


 項羽はそう言い放つと部隊を四つにわけ、円陣を敷くと四方に向かって突撃させた。


「君らのために、まずあそこに見える一将を斬ってみせるぞ!」

 項羽は自ら先頭に立ち、愛馬である騅を疾風の如く走らせた。すると包囲していた漢兵たちは一様に恐れ、剣や鉾を落とし、地面にひれ伏した。

 そして項羽はその言のとおり、漢の一将を斬ってみせたのである。


 ちなみにこのとき、漢の楊喜という人物が勇気を振りしぼって追撃したが、項羽に一喝され、それだけで辟易して数里の距離を後退したという。

「辟易」という語には、相手の勢いに圧倒されて尻込みするという意味があるが、このときの故事がこの語の由来となった。


 二


 この戦いで項羽らが討ち取った漢兵は数百人、対して彼らが失ったのはたった二騎のみであった。


「どうだ」

 項羽は従う者に向かい、胸を張ってみせた。

「大王の仰せのとおりです」


 項羽が自分の戦いぶりのまずさゆえに、現在の困窮があるわけではないと言った、そのことである。

 しかし、この段階に至って局地的な戦いに勝利しても、大勢を覆すことにはならない。そのことは項羽自身もわかっていた。あくまでも自分の生き様を最後まで貫こうとしたのである。


 この後、項羽一行はやや東に進路を取り、烏江うこうという地にたどり着き、そこから長江を渡ろうとした。そこに船を用意した烏江の亭長にあたる人物が待っていた。


 その亭長は言う。

「大王、早く船にお乗りになり、江東の地で再起をおはかりください。この近辺で船を持っているのは私だけです。漢軍が来ても、彼らには乗る船はありません。お急ぎを」

 項羽の脳裏に先刻農夫に騙されて沼地にはまった記憶が呼び起こされる。この亭長もまた、自分を欺こうとして……。


「お急ぎを!」

 亭長の目に必死さを見た項羽は、また心を動かされた。元来、感じやすい男であった項羽は、このような必死に自分を救おうと努力する者を見ると、優しくなるのである。


「君は、長者だな」

 そう言って、項羽は微笑んだ。

「わしははじめ江東の子弟八千人を引き連れてこの川を渡った……しかし、今その中で生きている者はひとりもいない。たとえそれでも江東の父兄がわしを哀れみ、王として迎えてくれたとしても……わしには彼らにあわせる顔がないのだ。また、彼らがわしのことを責めずに許してくれたとしても……わしはそれほど厚顔な男ではない。自分の心の中に恥を感じずにはおれぬ」

「それは……」


 亭長は言葉を失った。それでは項羽は川を渡らない、というのか。

「天がわしを滅ぼそうとしているのに、川を渡ったところで運命は変えられぬ」

 亭長の目に涙が浮かんだ。項王は、ここで死ぬつもりだ、そう思ったのであろう。


「亭長。せっかくの君の好意だが、わしは受けることができぬ。せめてもの償いとして……わしの馬を君に授けよう。わしはこの馬に乗って五年、向かうところ敵なく、一日に千里を走った。よって……殺すには忍びない。君が世話をしてくれたら助かる」

 こうして項羽は愛馬の騅を手放し、以後は徒歩で行動した。従う者たちも皆馬を捨て、自分たちの運命に愛馬を道連れにすることを避けた。


 ここで彼らは再び漢軍の追手と遭遇し、激しく戦闘を交える。既に手元には戟や戈などの長柄の武器はなく、おのおの剣のみで接近戦を挑まざるを得なかった。

 しかしここでも彼らは漢兵数百人を斬り、楚兵の戦闘力の高さを証明するに至る。だが、この戦いで項羽自身は十数箇所の傷をこうむった。


 彼は、戦場で苦しみを感じたことはなかった。まして傷の痛みを感じたことなど皆無に等しい。

 彼はほとんど負けたことがなかった。しいてあげれば、かつて韓信という若造に腹を蹴られたことがあったが、それも実際には彼に深刻な痛みを与えたわけではない。


 傷の痛みは、自分の運命がここで尽きることを実感させた。物事に感じやすい項羽は、自分の滅びゆく運命をいとも簡単に、あっさりと受け入れた。


 ――どうも、このあたりで最期のようだ。

 初めての傷の痛みを、じっくりと味わうように気持ちを落ち着かせる。常に勝利してきた彼にとって、敗者の気持ちは一生に一度しか味わえないものであった。

 貴重な体験を無駄にはできない。この一瞬、目に見える光景を頭の中に焼き付けるのだ。


 そう思い、周囲を取り囲む漢兵たちを観察しようとすると、圧倒的優位にたちながら、自分を恐れ、攻撃をたじろいでいる彼らの姿が見える。

 臆病者どもめ! 彼は漢兵たちの不甲斐なさに心の中で笑った。


 ――やはり、わしを滅ぼすのは、漢ではない。天がわしを滅ぼすのだ。

 項羽の自覚は、死の間際に確信に変わる。このうえは、それを敵兵に向かっても証明したい、と考えた。


 その方策を考えながら、視線を動かすと、ある男の顔が視界に入った。見覚えのある顔。それは幼き頃、会稽の地でともに遊んだことのある男の顔であった。

「お前は……ひょっとして呂馬童りょばどうか?」


 三


「間違いない。馬童……久しぶりだな。近ごろ顔を見ないと思ったら、漢にいたのか……」

 項羽は決して呂馬童という青年を責めたわけではなく、むしろ死を前にして旧友に会えたことを喜んでいたのである。


 しかし、一方の呂馬童はそう思わなかった。項羽を前にして足の震えをとめることができない。

「俺が、漢軍に入ったのは……当然のことだ」

 呂馬童は恐怖心を抑えながら、やっとのことでそう言った。


「当然……? わからんな。どういうことだ」

「俺は……幼いときから、お前のことが恐ろしかったのだ!」


 これを聞いた項羽は、なんとも残念な表情をした。

「それは……実にすまないことだ」

「今さら遅い……おおい! ここにいるのがまさしく項王だぞ!」

 呂馬童はそう叫び、応援を呼んだ。仲間がいなければ、恐ろしくてたまらない。昔も今も変わらず、目の前の項羽という男が恐ろしくて仕方なかった。


「馬童よ」

 項羽は悠然と構え、来援する敵兵に対抗しようとする構えも見せなかった。

「聞けば、わしを捕らえた者には千金と、万戸の封地が報奨として与えられるそうだな」

「そうだ」

「旧友の誼である。わしは自分の体をお前のために恵んでやることにした。もはや恐れることはない。わしの首を劉邦のもとへ届け、以後の生活を保障してもらうがいい」

 項羽はそう言い放つと、呂馬童の目の前で剣を自分の首に当てると、いきなり頸動脈を斬った。


 激しい血しぶきをあげながら、どう、と倒れ込んだ項羽の遺体に数人の漢兵たちが群がった。彼らは報奨金や封地を目当てにして互いに項羽の遺体を確保しようとし、その争いの中で何人かの死傷者まで出した。


 結局激しい争いの中、項羽の遺体は五つに切り裂かれた。


 頭部を指揮官の王翳という人物が確保したほか、騎司馬の呂馬童が右半身、郎中の呂勝と楊武が片足づつを確保した。左腕に当たる部分は、先に辟易して数里後退した郎中騎の楊喜がものにした。

 彼らはそれぞれ封地を与えられ、それぞれに侯爵の地位を与えられたのである。


 項羽は最期まで自分が滅びるのは、実力によるものではなく、天に与えられた定めとし、漢兵の手にかかることを拒み、自害を果たした。

 敗勢が決まってからも自らの生き様を証明しようと、武勇を最期の瞬間まで見せつけ、それによって漢兵の数百人が命を落とした。

 雄々しい最期ではあったが、彼の見せた最後の抵抗は、軍事的に無意味なものであり、道連れにされた漢兵たちは、ほぼ無意味に殺されたといって差し支えない。彼らは、項羽という男の自分を飾ろうとする欲に付き合わされただけなのである。

 さらに項羽の遺体に群がって報奨を得ようとした者たちの姿は、戦時下にも尽きることのない人間の欲を象徴するかのようであり、醜態そのものであった。


 しかし、人間社会を動かす原動力は、往々にしてそのような欲なのである。


 四


「なんと美しい……」

 数十名の部下を引き連れ、垓下の砦の内部を検分して回った韓信は、楼台に横たわる若い女性の遺体を前に足を止めた。

 二十代前半か、あるいは十代後半かもしれない。そこに寝ている女性には首から背中にかけて大きな傷があり、激しい出血の痕があったが、それにも関わらず天女のような面影が残されていた。


「項王の寵姫ちょうき、虞美人にございます」

 傍らにいた女官の生き残りのひとりが、そう告げた。

 ――項王の愛妾……。


「どんな娘であったか」

 興味を覚えた韓信は、女官に向けて質問した。


「口数の少ない、しとやかで、おとなしい方でございました」

 それきり女官は涙を流し、話ができなくなった。


 ――項王はあれほど多くの人を殺してきておきながら、最後には類い稀な美女までも道連れにする……しかし、項王に殉じた者がこの女のみだということは、喜ぶべき結果には違いない。

 だが、項羽が死ぬことになり、その結果この美女が自らの命を絶ったということは、韓信に感傷を起こさせる事実であった。


 ――あるいは、この娘を死に至らせた原因も、自分にあるのではないか。

 そう思うと、いたたまれなくなる。


 ――なにも死ぬことはないだろうに。

 敵将である自分に対する当てつけかとも思われてくる。


 ――この娘がもし蘭だったら、やはり死ぬだろうか。

 いや、そんなはずはない。あれは、ひとりでも生きていける女であった。確かに美しいが、いかにも王家の後宮に住む姿が似合うこの女とは……違う。


「斉王は、このような女がお好みですか」

 ふいに発せられた配下のひとりの質問に、韓信は答えた。

「いや、……どんなに美しいといっても死んでしまっては、咲かない花と同じだ。あるいは枯れた花か……。いくら枯れた花を愛でてみても、寂寥を癒すことはできず、かえってそれは増すばかりだ。……項王のそばに葬ってやるよう手配せよ」

「は、ですが項王はまだ……」

「いずれ死ぬ」

 このとき項羽の死はまだ確認できないでいたが、韓信にとってそれは既定の事実であるかのようであった。


 戦いは終わり、韓信は兵を引き連れ、斉への帰途についた。残党の始末をしつつ、臨淄に帰ろうとしたのである。


 天下はあらかた定まった。にもかかわらず、韓信の心には、晴れ晴れとしたものはない。

 かつて、魏蘭は彼に言ったことがある。

「統一の後も、天下は乱れる」

 内乱の可能性は否定できない、というのである。


 それは正しいことのように思えた。今日まで絶えることのなかった戦いが、明日から急になくなるとは、どうしても思えない。

 しかし項羽が死んだ以上、内乱を起こすにしても新たな首謀者が必要で、それが誰なのかが当面の問題であった。


 韓信は思う。自分は世に戦いがあれば、必要とされる男だと。

 つまり、内乱が起こったとしても自分が鎮圧するつもりでいたのである。


 五


 項羽が自害して死んだのは紀元前二〇二年十二月である。

 かつて楚の令尹であった宋義は項羽のことを「猛キコト虎ノ如ク」と評したが、猛虎とはいかにも彼を呼ぶにふさわしい通称であるかのように思われる。敵と見れば見境なく噛み付き、その反対に同族や味方に対しては限りない優しさを見せた彼は、動物的な野生を残した人物のようであった。いわば、群れを守るボスのような存在である。


 一方の劉邦は、とある伝説から竜の子であるとされた。

 その伝説とは、母親が竜に犯されたのちに生まれた子だ、というのもので、非常に信憑性が薄い。しかも驚くことに、それを広めたのが妻を寝取られた形になった父親である劉太公であったらしい。

 これは後世の史料にももっともらしく記載されている話だが、事実として認めるには、あまりにも途方もない話である。

 東洋的神秘に彩られたそのような伝説がどうして生まれたのか正確には不明だが、ひとつには当時流行した五行思想において、漢王朝は五行のなかの「火行」に由来するとされていたので、その創始者である劉邦を「火」に縁の深い想像上の動物である赤竜の子と称した、という説がある。

 しかしこの説に基づいても、なぜ漢が火行に由来するのか論理的に説明することは同時代を生きた私にも難しい。おそらくこの伝説は、後の西洋に生まれた王権神授説に似たようなもので、劉邦が天下を治めることが、天命によって定められていたことを言いたいがために作られた逸話なのだろう。

 あるいは好敵手である項羽が天命によって滅んだという説に基づき、劉邦は天命によって生まれたという対極的な創作がなされたのかもしれない。


 しかし創作だとしてみても、劉邦を竜にたとえることは、やはり自然であるかのように思われる。悠然と空を泳ぐその姿は、古くからの儀礼やしきたりを嫌い、細かいことにこだわらなかったとされる劉邦の印象によく合うのである。


 同時代にその猛虎と赤竜が並び立つことは許されず、縄張りや主導権を主張し合い、ついに戦うことになったのは必然であったように思われる。

 獰猛な虎には牙や爪の武器があり、それは触れる固体をすべて破壊する力があった。

 これに対して、竜には口から吐き出される火焔がある。

 竜そのものには戦闘力はあまりないが、その吐き出す炎には猛烈な燃焼力があった。

 韓信などは言うなれば、その炎にたとえることができる。

 形のない炎にたいして、虎が牙や爪で対抗しようとしても、無効であった。そして炎は虎を包み込み、ついに焼き殺した。


 楚漢の攻防を象徴的に示そうとすれば、そのような表現が似合う。


 しかし、虎を殺したあと、竜は一抹の不安を覚える。自分の吐き出した炎がふいに風に煽られると、制御力を失うことに気付いたのである。吐き出した炎によって、ともすれば自分が焼き殺される危険があった。

 しかも不思議なことに、その炎は消えることがなく、大きくなったり小さくなったりして空中に存在し続けているのである。


 危機を感じた竜はなんどかその炎を自分の鼻息で吹き消そうとしたが、炎は意志を持っているが如く、なかなか消えようとしない。対処に困った竜は、その長大な尾を振り回し、それを遠ざけることに尽力した。

 一見、炎を消し去ることは諦めたかのように見える。

 しかし実際は、竜は次の手を考え、機会を狙っていたのだった。


 一方の炎には、実のところ主人を焼き殺す意志などありようがない。炎は炎に過ぎず、勢いよく燃えるべきところでは燃え、そうでないところは勢力を落とすだけの話である。

 竜の吹き消す力が十分でない、それだけであった。


 そもそも炎を生かすか殺すかは、炎の意志によってではなく、それを扱う者によって定められるのである。しかも炎は小さくなっても炎であることには変わりなく、ともし火のような大きさになっても生き続けることができる。扱う者が適正な判断を下せば、それは世界を照らす明かりとなり、暖をもたらすものともなり得るのだ。


 竜はしかし虎を焼き尽くした以上、もはや炎は危険なものとしか考えなかった。ゆえに消し去ることばかりを考え続けたのである。


 炎が消えない限り、天下に争乱は、まだ続く。


 六


 項羽を失った楚の諸城は、次々に漢に降伏していった。

 ただ魯だけはなかなか降ろうとせず、抵抗を続けたという。これは当初懐王が項羽を魯公としたことに起因しており、魯の人々は項羽に忠義だてして漢の攻撃に対して皆死のうとしたのであった。

 これは、意外にも項羽が住民によって支持されていたことを示す証左であり、それを残虐な方法で制圧することは征服者としての資質を問われることであった。そのことに気付いた劉邦は項羽の首を彼らに示して見せ、抵抗の無意味を説いたところ、ようやく彼らは降ったのである。


 こうして楚の地は残らず征服されるに至った。劉邦は項羽のために喪を発し、彼を穀城という地に葬った。

 穀城とは梁にある土地で、項羽のかつての領土であったことには違いないが、春秋・戦国時代に由来する本来の楚地というわけではない。よって項羽は楚人というより、魯公として葬られた、と言えそうだ。


 劉邦は、項羽の葬儀にも参加し、その場で涙を流してみせた。

 それが好敵手を失った悲しみの涙なのか、それともついに宿願を果たしたうれし涙なのかは、はっきりしない。おそらくその双方なのだろう。

 というのも、彼はその後、項氏の生き残りの人物を誰も殺さず、縁のある項伯などに劉姓を授けたりしているのである。偽善的にも思えるかもしれないが、劉邦のこの行為は乱世に滅んだ敵将を哀れむ気持ちが表れており、そのため葬式で流した涙に嘘はなかったと思われる。


 葬儀を終えた劉邦は帰還の途につき、その際に定陶を通った。定陶には、帰還途中の韓信率いる斉軍が、軍塁を築いて駐屯していた。ここで劉邦は一見不可解な行動をとるのである。


 項羽亡き後の天下の争乱が、始まろうとしていた。


 (第三部・完)


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