夢から覚めて……

 死後の世界には、人々の様々な思いが留められている。その中には、まさに死に瀕した人物の思いさえも存在するのだ。人は、死ぬ間際に何を思い、どのようにその思いは掻き消えていくのか……。私にそれがわかったのは、残念ながら私自身の生命が途絶えてからである。いったい、魂に過ぎぬ私にそれがわかったからとて、どうすることができよう。私には、語り伝えることしかできない。

 しかも語ったからといって、死んだ者が甦るわけでもないのだ。


 一


 臨淄に戻った韓信の目に最初に印象的に映ったのは、弓の練習にいそしむ蘭の姿であった。

「また、君はそのようなことを……。なぜ、君の興味は武に傾くのか。君を戦場に立たせることは、私はしないつもりだ。何度も言っているではないか」

 韓信はくどくどと説教くさく蘭に対して言ったが、当の蘭はそれを気にかける様子もみせない。

「いつ、なにが起きても構わないように……。最低限自分の身は自分で守らなくては。私は、残念なことに世間一般のしおらしい女性ではないのです」

 蘭はそう言いつつ、矢を的に向かって放ってみせた。蘭の弓勢は男性のそれとは比べ物にならないが、狙いは正確である。矢は乾いた音をたてて、的の中央に突き刺さった。

「見事!」

 傍らにいた曹参がこれを見て手を叩いた。

「魏蘭どのの技術は、日増しに向上しております。乗長に任命して戦車に陪乗させても良いくらいですぞ」

 その曹参の言葉に蘭は気を良くしたのか、はしゃいだ様子をみせて言った。

「そうでしょうとも。将軍のことも守って差し上げます!」


 韓信には、蘭がこのような子供っぽい話し方をすることが意外に感じられた。それに可愛気を感じたことは事実だったが、王者たる自分が、そのようなことで軽々しく感情を外に示すものではない、と考え直した。

「私は戦場では馬に乗る。戦車に乗ることはない」

 それだけ言い残して、そっけなくその場をあとにした。蘭はその後ろ姿を微笑をたたえた目で見送りながら、ぺろりと舌を出した。


「相変わらず、世慣れないお方でありますこと」

 しかし蘭にとっては、それが韓信の魅力なのであり、灌嬰やこの場にいる曹参にとってもそれは共通の感情のようであった。

「あの方はそれが長所であろう。私はあの方には浮ついた態度をとってもらいたくないと思っている。もしあの方が軽薄な男であったとしたら、きっと幻滅するだろう」

 曹参はそのように韓信のことを評した。

「しかし、王としては多少堅物過ぎる傾向がある。真面目なお方だけに、価値観の異なる者を理解しようとしないところがあるのも事実だ。あの方にとって義や仁の精神は教えられて身に付けたものではなく、持って生まれた素養であると言えよう。だから、それを持たぬ者の気持ちがよくわからない。したがって裏切りや、変心を企む者に気付かない可能性が大きい」

 そう言って曹参は、さらに韓信についての評を付け加えた。


「ここ斉の国では、裏切りや変心が国民の間に渦巻いています。将軍はそれに気付いていないと?」

 蘭は曹参の弁に不安を感じ、問いただした。

「将軍ではない。王だ。君たちの間ではそれが普通かもしれないが、公式の場ではあの方のことを王と呼ぶように気をつけねばならぬぞ」

「はい」

「……質問の件だが、わが斉王は頭では気付いておられる。しかし、それがどのようなものなのかは具体的に理解しておられない。危機感が少ないと言えよう。このたび王は前線から斉出身の兵を引き連れて戻られたが、私にはそれがどうも無警戒に過ぎると思われるのだ」

「ですが、兵を心服させ、民心を安んじることを思っての行為だと私は思いますが……。故国を奪われた兵に前線の守りを委ねることは危険ですし、兵を送り出している家族に対しても、一度は支配者として慈愛に満ちた行動をしめすことは重要なことと……」

「言いたいことはわかる。斉兵の家族にとって息子たちが近くに戻ってきたことは歓迎すべき事態だといえるだろう。しかし、問題なのはその家族たちが、まぎれもない斉人だということだ。裏切りや変心に満ちた心を持つ斉人たちなのだ」

「……斉の国民の誰もがそのような心を持っているとは思えません」

「確かにそうかもしれぬ。だが、安心はできん。家族たちが戻ってきた兵を説き伏せ、兵たちがその計略に基づいて行動したとしたら……。反抗心を持たぬ斉人がいたとしても、ことが起きれば彼らはやはり斉人の側に立って行動するだろう。我が王は、未だ斉人の心服を得るに至っていない。反乱がおきる危険はいくらでもあるのだ」


 しかし、それが一体どのような危険であるかは、曹参自身にも予測がつかず、もちろん魏蘭にもわからない。曹参は、戻ってきた斉兵の行動に注意することだ、と言ったが、蘭は具体的に何をしてよいのか想像できず、

「微力を尽くします」

 としか返答のしようもなかった。


 自分の手に残された弓が威力を発揮することがあるのか。蘭はそれを思うとたとえようもない不安に襲われた。

 ――いざという時には、この弓を人に向かって射たなくてはならない。私に本当にそんなことができるのかしら……。

 練習で的の中央に当てて喜ぶのとはわけが違う。思えば韓信は自分にそんな思いをさせないために、弓の練習などやめろ、と言い続けていたに違いない。


 二


 韓信のもとへ、漢から使者が送られてきたのは、それから間もなくのことであった。

「広武山にて死闘を繰り返してきた我が漢と楚は互いに和睦を結び、これにより鴻溝を境として、両国の領土が確定いたしました」


 使者の言上に韓信は無言で先を促した。この事実だけでは、喜ぶべき事態ではない、とでも言いたそうである。

「和睦にともない、漢王は人質とされておりました御父君劉太公様と王妃呂雉りょち様を奪還なされました」

「ふむ!」


 韓信はここでようやく反応を示した。

「……ということは、漢にとって攻撃をためらう理由はなくなった、ということだな。いよいよ、項王を討ち、楚を滅ぼすときが来たようだ」

 傍らで聞いていた曹参は、しかし疑問を呈してみせる。

「だがしかし、いま使者どのは和睦が成ったとおっしゃったではないか。和睦を違えて攻撃することは義に反する……大王、そうではないか?」

「いや、曹参どの。これは戦略なのだ。そうに違いない」


 韓信と曹参は使者を置き去りにして話しだした。

「項王は、武勇一辺倒の人で、また実際に強い。正面からまともにあたって勝てる敵はいないだろうし、項王その人もそれを自覚している。これに対して漢軍はまともにあたっては勝てないのだから、知略を駆使して戦うしかない。よって和睦はほとんど偽りと言うべきもので、漢王にはそれを守るつもりはない、と見た」

「しかし、そのような不義を項王が許すだろうか?」

「それは関係ないな。殺してしまえば許すも許さないもないだろう」


 常にない韓信の大胆な発言に一座はしんと静まり返った。

「……失礼、少し表現が残酷だったようだ。しかし、正面切って正々堂々と戦って殺すのも、知略を駆使して相手を騙して殺すのも……つまるところ、結果は同じだ。どちらも相手を殺すことに変わりはない。つまり、戦争というものに美や正義などを求めてはならない。敵と戦う以上、それを覚悟する必要があると、私は思うのだ」

 置き去りにされた形の使者は、ようやくここで存在を主張し始めたかのように話の続きを披露した。

「斉王様のお言葉は、正しいと私には思われます。漢王は彭城に帰還しようとする楚軍の後を追い、機を見てこれを急襲せんと目論んでおられます。つきましては宿年の戦いに雌雄を決するべく、斉王様にご出陣いただきたいとの由にございます」


 韓信は深々と頷き、了解の意を示した。これにより、前線から戻ってきた斉兵たちは、ほぼ休む間もなく再び戦場に送り出されることになったのである。このことは斉兵や、その家族たちに深い不満を与えることになりかねなかったが、別の見方をすれば、韓信が兵を心服させる良い機会だと言えた。


 韓信に従う者は、戦場における彼の神通力とも言えるような武勇に魅せられているのであって、決して韓信個人に畏怖の念を持っているわけではなかった。また、韓信自身も兵を威嚇したり、あるいはなだめたりするなどの努力をしていたわけではない。言葉や態度で相手に畏怖の念を抱かせることが得意ではなかった彼は、ただ実績のみで兵を従わせてきたのである。

 つまり、兵が韓信に従ってきたのは、韓信が常勝の将軍だったからに過ぎない。さらにこれは韓信は自ら戦ってみせることでしか、人々の心服を得られないことを意味した。

 ――漢王には、王者の徳がある……項王も多少偏りがあるとはいえ、懐の深さがあると言えよう。だが自分には……それがない。あるのは、ただ……


 韓信にあるのは、戦えば必ず勝つ能力だけであった。


 韓信は斉兵たちを心服させ、ひいては斉の国民すべてを統率するためには、自分が直接軍を率いて戦ってみせることが必要だと考え、実際に彼は二十万の兵に号令して臨淄に集結させた。

 途中国境付近の守備にあたる灌嬰の十万の軍と合流し、三十万の兵力で楚を迎え撃つ算段であった。


 三


 裏切りや変心、謀議、詐略などは一般に悪行とされているが、それを実際に行う者は、自分の行為を悪行とは思っていないことが多い。それを行う者にとっては、大いなる目的のためにとらざるを得ない正しい行為であり、事実それが成功すると、後世から正義として認められるのである。

 たとえば夏のけつ王や殷のちゅう王はそれぞれ暴虐の王とされているが、彼らを滅ぼした殷のとう王、周の武王が自分の行為を正当化するために史書にそのように記録させた可能性は充分にある。


 このとき、斉の二五百主(千人を統帥する長)であった郭尹かくいんという人物にも、自分の行為が悪であるという認識はなかった。彼の行為は信念に基づいたものであり、充分に成功の可能性があったのである。


 郭尹は代々田氏に仕える即墨そくぼく(地名)の名家に生まれた。祖先には宰相や将軍となった者はいなかったが、着実に軍功をあげ続けることにより褒美として得た土地を広げ、尹の代に至っては、即墨に郭家あり、とまで謳われるようになった。

 郭尹がどういう人物だったかというと、一言でいえば守旧派である。これは保守派ということではなく、どちらかというと復古主義者というべきであり、現状を維持するというよりは、何ごとも太古の昔を理想とする人物であった。革新よりは伝統、機能性よりは見た目の荘厳さを重視した彼は、戦場に立つときにも古式にならい、戦車を利用するのが常であった。


 この時代にはすでに軍の主力は騎兵が中心となっており、郭尹もそれは認めざるを得なかった。しかし、彼の考え方からすると、馬に跨がって戦うのは雑兵のすることで、かりそめにも王を称する者が自ら馬に跨がるなど、もってのほかだった。

 このため、郭尹の目には、項羽や韓信は王として映らないのである。春秋から戦国の中頃までは、中原の文明人は戦車に乗って戦うのがならわしであり、馬に跨がって戦うのは胡人(北方の異民族)である、とされていたが、郭尹はこの時代になってもその考え方を維持していたのである。そして裾の長い長衣を着て、戦車に乗り続けることを自らの誇りとしていた。


 だが何ごとにも実用的なものを優先させる傾向の強い韓信は、臨淄に戻る途上で、早々に郭尹の率いる戦車隊を解散させてしまった。

「戦車などは、敵に与える威圧感は相当なものだが、小回りが利かない。まして山中や隘路での戦いでは戦車自体が足手まといになることが多いのだ」


 韓信のこの発言は理にかなったものではあったが、郭尹の自尊心をおおいに傷つけた。

 しかし郭尹はこれに素直に従ったばかりではなく、驚くことに不満を漏らす者を厳しく折檻したのである。そして自らも胡服を身に付け、熱心に馬術を鍛錬した。

 韓信は郭尹の態度を賞賛し、それまでの二五百主から二階級上げて校尉(一万人統帥の長)とした。

 かくて郭尹は韓信の信用を得ることに成功した。少なくともそう見えた。


 首都の臨淄に集結を果たした斉軍の指揮官たちは、王の韓信よりそれぞれ印綬を手渡される。

 しかし、その場に郭尹の姿はなかった。

 不審に思った韓信が周囲の者に聞けば、郭尹は病のため今回の動員には参加できない、とのことであった。


 しかし郭尹の配下の兵はおおむね臨淄に送られてきていたので、作戦自体に影響は少ないと考えた韓信は、そのまま兵に号令して行軍を開始した。

 このとき曹参は国内の守備のために臨淄に留まり、韓信は魏蘭にも残るように言い含めたが、蘭は頑としてそれを断り、韓信と行動をともにしている。

 ――何やら胸騒ぎが……。いやな予感がするのは、この間の曹参さまとの会話のせいかしら……。

 そう思うと、蘭には目の前の斉兵の誰もが疑わしく思えてならない。歩兵のひとりが小石につまずいて歩調を乱すのにさえも、どきりとさせられる。


 なかでも韓信の信任が厚いとされる郭尹が不在というのは、かえすがえすも残念なことに思えた。蘭は郭尹という人物とは懇意ではなかったが、悪い印象を受けたことはない。

 まして他ならぬ韓信が信用して校尉に任じた人物とあっては、疑う理由はなかった。

 しかし、軍が臨淄を出てまもなく泰山の麓にさしかかったころ、蘭はこの重要な局面に不在を決め込む郭尹の行動の不自然さに気がついたのだった。


「将軍……校尉郭尹の配下の兵の様子が……どことなく変でございます。落ち着きがないというか……なんとも口では言い表せないのですが」

 蘭はついに韓信に不安をぶつけた。これに対し韓信は、沈思の表情で、

「うむ……そのようだ。郭尹が病に伏せているというのは、実は私も疑っている。あるいは彼がなにか企んでいるのではないかと……しかし、確証はない。いずれにしても私は、このようなこともあるかもしれないと思い、手は打ってある。郭尹が裏切れば討ち、裏切らなければ、なにも起こらない。大丈夫、考えてある。君は心配しなくてもいい」

 と答えた。

 そして蘭の細い肩に優しく手を置き、微笑みかけたという。


 ――ああ、将軍……。

 韓信の手のぬくもりは、身に付けていた武具を通してしか伝わらなかった。皮の肩当て越しに置かれた彼の手の感触は、実際にはほとんど感じられない。


 それでも蘭は自分の足の力が抜けていくのを感じた。さらには、下腹部から局部のあたりにかけて、むずむずとした感覚を覚えた。


 ――このようなときに、私はなにを……

 蘭は常になく今日の自分が韓信を求め、欲情していることに気が付いた。しかし、それがなぜなのか具体的にはわからない。

 ただ、臨淄を出たときから抱き続けている胸騒ぎにそれが起因していることだけは、確信があった。


 四


 軍が林の中に入ったころ、前方を行く郭尹配下の兵たちの動きに変化があった。

 林間の隘路に軍列が入ったのを機に、彼らは勝手に歩みを止めた。そして一瞬の間をおき、反転して韓信の側に向かってきたのである。

 しかし、これに対する韓信の反応は素早かった。

「む……動いたな!」

 韓信はそう呟くと、即座に行動を開始した。



 韓信はこれより前、軍を引き連れて臨淄を発つ前に、留守番役の曹参を相手にちょっとした会話を交わしている。

「曹参どの。私が留守にしている間、臨淄の防衛はしっかり頼む」

「大王は楚の心配をなされよ。大王の居城は私が責任を持ってお守りします」

 曹参の返答は力強いものであったが、韓信はそれを聞いても浮かない表情のままだった。

「うむ……。君の言葉は心強い。しかし、私の勘は……今回の出征に一波乱あることを告げている。十中八九、なにかが起こる」

「……なにか、とは……叛乱か?」

「そうだ。鋭い。さすがだな……。手短かに言おう。校尉の郭尹の行動が怪しい。彼は今回病と称して出征しなかったが、部下たちはきっと彼によってひそかな命令を言い含められているに違いない。おそらく隊列が伸びきったところで、彼らは叛旗を翻す」

「……ふむ」

「しかし私が思うに、これは陽動にちかい行動だ。私が彼らの相手に苦慮し、足止めをくっている間に、病と称した郭尹が首都に入って王宮を制圧する。そして郭尹は檄を飛ばし、それによって他の斉兵たちもこぞって郭尹に味方する。そしてよそ者の王である私は斉兵のなかに孤立する、という算段だ」

「深い洞察ですな……。それで、その時はどうするのです」

 曹参にはこのとき韓信が少し表情を変えたように見えた。ほんの少しの変化であったが、驚いたことに韓信はどうも一瞬笑ったようであった。

「郭尹はしらじらしいと言えるほどの従順な態度をとり続けた。疑り深い私には、それが怪しく思えて仕方なかったのだ……。彼に裏の意志があることを悟った私は、他の斉兵たちがいざというとき彼に同調しないよう、工作する必要性に気付いた」

「工作……どうやって?」

「……彼らの忠誠心を金で買った。王の地位を悪用し、宮中の富を利用して彼らを傭兵として雇ったのだ。そして、それは成功した。彼らが裏切ることはない。ひとりぐらい反発する者がいるとは思ったのだが」

「……まったく気が付きませんでした。いつの間にそんなことを……」

「私には、直属の親衛隊がいる。カムジン亡き後、久しく活躍の場がなかった彼らだが、今回は暗躍してもらった。斉兵たちに金をばらまいて口説かせたほか、それぞれの分隊に指導的役割として潜り込ませている。……いやはや、こうなっては私もよほどの悪人だな。人の心を金で買うなど……」

「悪しきことを悪しきこととして反省する態度があるうちは、人として正気でいることの証拠でございましょう。金で忠誠心を買ったことは、方便です。前恩賞を与えたとお考えになればよろしいでしょう……。それに、郭尹の叛乱を実際に抑えれば、必然的に兵の心服度は増すはずです。お心を強く持つことです」

「ああ……そうだな。くれぐれも郭尹の来襲に警戒し、宮中の門はすべて閉ざしておくことを忘れないでくれ。私が戻ってくるまで何ぴとも中に入れるな」

「お言葉のとおりに」


 このときの韓信の読みは、自分が郭尹の立場であったら、という視点に立ったものであった。

 しかし、軍事的な能力、また経験でも韓信より劣る郭尹は、それがために韓信の予想の範囲外の行動をし、その読みは微妙に外れることになる。

 相手が素人に近いことによって生じた誤算であった。


 五


 韓信の前には横三列に並んだ兵たちが、等しく弩を構えている。このときの一列は十二人ほどで、道幅はそれでほぼ埋め尽くされた。総勢三十六名の弩兵たちが、向かってくる郭尹軍に対し、迎撃の態勢を構える。


 韓信は長柄の鉾を構えた。

「奴らが射程内に入るまで、落ち着いて待て……。充分に引きつけて仕留めるのだ。やみくもに狙いを変えるな。自分の正面の敵を正確に射てば、それでいい」


 兵たちの顔に緊張の色が浮かぶ。しかし、眼前の敵が射程に入るまで、ほんの数秒しかかからなかった。彼らに緊張を落ち着かせるゆとりはほとんどなかったと言っていい。

「射て!」

 韓信の号令が飛び、弩から一斉に矢が射出された。狭い林の中の道に、射抜かれ、横転した兵馬の列が後方の部隊の前進を阻む。道を塞がれ、立ちつくした彼らの前にさらに矢が集中し、それによってまた道には横転した人馬が溢れた。


「斉に生まれた者は、斉人にのみ忠誠を尽くす! そう思う者は、我々に味方せよ!」

 郭尹の配下のひとりはそう叫んだが、それに呼応する者は誰もおらず、さらには彼自身もそのひと言を最後に矢に倒れた。

 やがて前方からの弩の射撃と、味方の死体によって前進を阻まれた彼らは、やむなく後退を始めようとした。


 しかし、後方にも逃げ道はなかった。金で雇われた斉兵たちが彼らの逃走を阻むかのように、一斉に弓矢で攻撃し始めたのである。

 こうして林の中は斉軍による同胞同士の殺し合いの場と化したのだった。


 惨劇はしばらくの間続いたが、一万人弱の郭尹の配下の軍が滅び尽くすまで、ほんの一時間もかからなかった。韓信の圧勝である。

「無益なことを……」

 韓信はその様子を見て呟いたが、周囲の者たちは皆一様にその手際の良さを褒めたたえたという。

 しかし韓信はそれをあえて無視するかのように、言い放った。

「まだ終わってはいない。首謀者の郭尹自身が未だ健在だ。道を塞いでいる遺体を片付け、進路を開けろ……我々はこれより臨淄へ引き返す」


 多くの者がこれを意外に感じたようであり、そのためか指示は徹底しなかった。韓信は説明の必要を感じ、先ほどの指示にもうひと言付け加えた。

「郭尹に戦略を考える頭が少しでもあれば、私が不在のうちに臨淄を攻めるだろう。今頃、宮殿は戦火に燃えているかもしれない……さあ、急げ」

 ――ああ、そういうことか。

 周囲の者は納得し、作業に取りかかった。しかし約一万に及ぶ遺体の山を道からどかすというのは、想像以上に時間のかかる作業である。次第に日が傾き始めた。


 この日は朝から曇天で、薄暮の頃になると視界が悪く、そのことが余計不安をかき立てる。韓信は少しいらいらとした様子で、その辺に落ちている小枝を拾っては折ったりするなど、意味のない行動をしながら時間を潰していた。

 ――いつもの将軍ではないような……。

 蘭の視線は韓信に注がれている。落ち着きを失った韓信の姿を見つめると、先ほどまで感じていた胸騒ぎが、よりいっそう高まるのを感じた。

 ――ああ、この感じ……。不吉な予感! 波乱はこれで終わりではなく、続きがあるに違いない……理由はないけど、そんな感じが……。

 蘭は無意識に腰につけたえびらから矢を引き抜き、波乱に備えた。


「まだか。日が落ちる前に終わらせるのだ」

 韓信の声に焦りの色が感じられる。しかし作業は依然としてはかどらず、彼の軍は遺体の山によって二つに分断されたままであった。

「早くしなければ、臨淄陥落の恐れがある。そうなっては、郭尹の思うつぼだ」


 韓信がそう言ったときである。突如林の中から戦車が車輪の奏でる轟音とともに出没した。

「敵襲だ!」

 作業に没頭し、戦闘態勢を整えていなかった兵たちは一様に慌て、次々に逃げ出した。だが戦車は彼らを蹂躙するように突進を続け、乗員による矢や鉾が彼らをなぎ倒していく。そして林の中からは次々と戦車が姿を現し、その数は五騎に及んだ。


「まさか……こんな林の中に戦車とは……」

 韓信を取巻く兵たちは次々と逃げ出し、彼は取り残された形になった。

 狭隘な林の中に戦車を隠し、軍が分断された機を見て奇襲を放つ。郭尹がとった作戦がそれであり、この戦車隊の指揮官が郭尹本人であったのだ。


 ――これまでか!

 四頭の馬が引く戦車の一台が既に眼前に迫り、韓信も観念せざるを得なかった。


 しかし、馬の鼻息の音が聞こえるまでそれが近くに迫ったとき、韓信は自分を押しのけるようにして前に立った武者の存在に気付いた。

「時代遅れの戦車などに、なにができる!」


 その武者は叫びつつ、続けざまに矢を五連射した。そのうちの四本の矢は正確に馬の脳天をそれぞれ突き刺し、残りの一矢は御者の眉間をつらぬいた。制御されなくなった戦車はこれによって横転し、乗員の二人は地べたに叩き付けられ、それきり動くことがなかった。


 武者は続いて二台めの戦車に狙いを付けている。落ち着いた所作であった。


 窮地を救われ、我に帰った韓信があらためて見ると、驚くべきことにこの武者は魏蘭であった。

 このとき動転していた韓信は、武者の叫び声が女の声であったことにさえ気付かなかったのである。


 六


「蘭、危険だ。下がれ!」

 気を取り直した韓信は、蘭に向かって叫ぶ。しかし、蘭はそれを拒むのだった。

「いま、将軍のまわりには私しかおりません! なのにどうして下がることなどできましょう!」


 そして二台めの戦車に向けて、矢を放った。その矢はまたも御者の眉間に命中し、戦車は動きを止めた。乗員の二人は、戦車を捨て、こちらに向けて肉迫してくる。


「下がれ!」

 韓信はついに蘭の前に立ちはだかり、敵兵の突進を防ごうとした。剣を抜き、浴びせられる矢を叩き落とす。そのときになってようやく部下たちが態勢を整え、弩を連射して応酬を始めた。二人の敵はそれによって倒れた。


 しかし、息つく暇もなく三台め、四台めの戦車が襲いかかる。蘭はなおも迎撃しようとし、韓信は剣を再び鉾に持ち替え、乗員を串刺しにしようと兵を率いて前進した。


 思えばこれがいけなかったのかもしれない。

 韓信は突撃を部下に任せ、自身は防御に徹するべきであった。

 部下の兵に号令し、前方の二台の戦車を撃破しにかかった隙に、最後の五台めの戦車に後背をとられてしまったのである。


 密林の中で戦車がこれほど敏捷な動きをとれるとは思っていなかった。その点で郭尹が自身の戦車隊を誇りにしていた理由がようやく韓信には理解できたのである。

 しかし、いまはそんなことを考えている場合ではない。韓信の後背には兵はおらず、ただひとり蘭だけがいるだけであったのだ。


「蘭、逃げるのだ!」

 韓信は叫んだ。その声は確かに蘭の耳に届いたように思えた。しかし、蘭はあえてそれを無視し、自身に迫った戦車を迎撃しようと矢をつがえている。

「いま行くぞ」

 韓信は叫んだが……。


 蘭は矢を放ち、それは三たび御者の眉間をつらぬいた。しかし、車上の乗長がこれに応射し、その矢はまるで吸い込まれるように、蘭の体に深々と突き刺さった。

 蘭は韓信の目の前で腹から血しぶきをあげてその場に倒れてしまったのである。

 ――ああっ! なんということだ!


 韓信は狼狽したが、事態は彼に取り乱すことを許さなかった。倒れ込んだ蘭に向かい、乗長がとどめを刺そうと剣を抜いて迫っているのに気付いたのである。

 韓信はこれを阻止しようと鉾を振り回して、乗長の剣を叩き落とした。


 このとき剣を落とし、振り向いた乗長の男こそが、郭尹その人であった。

「郭尹、貴様……」

「これは斉王様……。王自ら鉾を振るっておでましとは、どこまでも奇抜なお方だ」

「なにを言っている。ふざけたことを言うな」

「あなたが王となって以来、斉はすっかり様変わりしましたな。王家の血統は軽んじられ、伝統は失われた」

「……お前の戦車部隊を解散させたことを言っているのか」

「はは! それもございますが、いちばん象徴的なのは……ほれ、そこに転がっている兵でありましょう! 女を前線で戦わせる王は、天下広しといえどあなたのみでございましょうな」


 韓信はこのひと言で、郭尹を許すまい、と決めた。

「そうかもしれぬが、お前の自慢の戦車隊を壊滅させたのは、ほかの誰でもなく、彼女だ。侮辱するような言い方は許さん」

「女を侮辱するつもりはない。わからんのか。あなただ。あなたを侮辱しているのだ!」


 郭尹はそう言うと、剣を拾いあげ、斬りかかってきた。しかし、その姿は剣の重みに耐えきれず、逆に振り回されているようであり、どう見ても接近戦に慣れているとはいえない。韓信は鉾で郭尹の右足の太ももを突き刺し、動きを止めたところで左足も同様に突き刺した。


「馬鹿者め!」

 そして彼は珍しく逆上したような声をあげ、腰の長剣を抜き放つと、郭尹の首を一刀のもとに斬り落とした。


 郭尹の残りの戦車は兵たちによじ登られ、制圧された。結局狭い林の中では、その利点を発揮することができなかったのである。


 七


 意識が薄らいでいくということは、こういうことなのだろうか。

 ひどく眠い。

 しかし、寝てはならない。ひとたび眠りに落ちれば、私は目覚めることがないに違いないから。

 まぶたが重い。

 しかし、目を閉じてはならない。閉じてしまえば、再び開けることは難しい。

 つまり、私は死の淵にいる。

 目を開き、最後に見る将軍の姿を意識に焼き付けるのだ。ほんのわずかの間でも長く……。


 傷口が痛む。

 しかし、うめき声などをあげるのはもってのほかだ。私は、将軍の前では、常に美しく、可憐でありたい。


 手が握られた。その感触は柔らかく、温かい。

「蘭……」

 それは求めていた将軍の声だった。しかし、それに続けて発せられた言葉は、ひどく散文的で、それだけに切ない。

「矢は……君の腹部から背中まで貫通している。……出血がひどい。残念だが、私には治してやることができない」


 可哀想な将軍! 本当なら、泣き出したいほど困惑しているはずなのに! 


「……しかし、死んではならぬ! 君が死んでしまったら、私は……」

 いけません、将軍。あなたは王なのです。王者たる者、たかが幕僚の死に心を揺るがされるべきではありません。それを伝えなければ……。


「……将軍……私は……もう助かりません。死ぬなという命令には……従えません」

「馬鹿げたことを! 今死んでしまったら、君と私の夢はどうなる! 夢の実現には、手を伸ばせば届くところにまで迫っているのだぞ!」


 ああ、将軍……お優しいお言葉を……。私はそれだけで幸せでございます。私はあなたの手の温もりだけで……。

「私は、君ともっと長くいたいのだ! 死なないでくれ」

「将軍……将軍ともう一度……普通の、市井の男女のように……でも……もう叶わぬ夢です……」

 まぶたが重い。ひどく眠い。もう目を開けていられない。


 言葉の途中で、蘭は静かに息を引き取った。

 韓信は、その言葉に答えてやることができなかった。


 魏蘭の死によって、韓信はその夢を断たれた。

 夢を見始めたときは二人であったが、覚めてみると一人きりだった、そんな出来事であった。


 時に紀元前二〇三年九月のことである。

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