第一章:ジケン編

7/19(火)

◆1:クラゲとオウム

 20××年7月19日(火)


 水が、呼ぶ。

 早くこっちにおいで、置いてってしまうよ。

 どんなに速く泳いでも、息が苦しくて頭が真っ白になるくらい目一杯泳いでも、追いつけない。


 けども、この心が、喉からおなかの底につながっている心が、見えない何かを追いかける。干からびてしまう、喉が渇いた、辛い、息が出来ない、と。


 きっと、泳がないと、枯れてしまうんだ。泳がない方が苦しくて苦しくて、死んでしまうんだ。水に触れてると、すごく気持ちがいいのに、なぜか切なくて、虚しくて、泣きたくなる。この手足が不安で痛くて、だから水をかきむしる。



 これは、誰の言葉だっただろうか。


 伊比いびやまとは四肢をゆるゆると投げ出した。そっと、力を抜く。


 人工的に作られた水流が、脇をくぐり抜け、腕を持ち上げ、下方に滑り足をすくう。重たい背骨が、ぽきぽきと小気味よく解れて、運動後のほてった筋肉と溶け合い、全身がひとつのゼリーに変わって行く。目を閉じ、仰向けになると、長めに切り揃えた前髪が額を撫で、閉じられた瞼にちらちらと太陽の粒を運んだ。


 彼の顔を正面から見下ろした人は、何か思い悩んでいるのでは、と考えただろう。さっぱりとした、というよりは冷たさ、素っ気なさを感じさせる怜悧な睫の線、その上で気難しそうにひそめられた眉が見え隠れしている。


 事実倭は、頭の中でジクジクと痛む雑念を水に溶かして洗い流そうとしていた。


 自身の思考と体が水と同化して行くのは、ため息が出るほど気持ちが良い。彼は肉体へ動力を巡らせて水中で犬のように身震いする。体がゼラチン質の緩やかな結合体となって、変形を繰り返しながら水中を流されて行く。

 心臓を脈打つ気配だけは一拍ごとに高まり、指の先を通る血管が水流に新たな渦を生んで、不安定なレイノイルズ数をいくつもいくつも招いていた。


 息が苦しくなり、腹筋から力が抜けて行く。水面付近から徐々に降下しする健康的に日焼けした体が、白いコンクリートの底に触れた。途端、泡が弾けるように視界から柔らかさが消え、硬質な水の気配が耳の奥をつんざき肺を圧迫する。


 恍惚。めまい。そして、突然の無。


 慌てて腕を掻いて姿勢を回転させ、倭は酸素で満ちた水上へ頭を突っ込んだ。


「えぇっほ、ぜえっほ、ぜほ、ぜほ……」


 噎せる自分の声をやけにクリアに聞きながら、彼は顔面の水を拭い、辺りを見回す。

 カラフルなビーチパラソルが手持ち無沙汰に突っ立っていた。


 夏休み前の流れるプール。彼はしばしば学校を休んで、もしくは遅刻して、ここに来ていた。





 ◆





「あ、いたいた! あの子でいいわ! あの子にしましょう!」

「高校生じゃないっすか? カメラに映して大丈夫なんすか?」

「そんなの視聴者は気にしないわよ。渋谷のギャルと同じ同じ。ねえねえねえ、キミキミキミ、ちょっと時間あるかな。あるよね!」


 私たちはこういう者よ、と彼女は名刺を差し出して来た。白くさらさらとした紙に印字された端整な明朝体。民放のマークだけがカラーで存在を主張している。


 苫田Tomata郁美Ikumi


 髪の毛をしっかり洗いドライヤーで乾かした倭は、駐輪場へ向かう途中、やたら大声で畳み掛ける女の人に捕まった。


 彼女が撒き散らす香水は、どこか乾いた土のにおいに似て、心臓をざわめかせる。


 ドレッドヘアーと言うのだろうか。普通のハーフアップにはせず、ピンクやイエローのメッシュが入った髪を細かくよじって後ろでまとめている。顔の造作は濃く、美人と言えなくもないが、男性的な精悍さが溢れていて、ラメの輝くエレガントな紫色のアイシャドーが浮いていた。


 少年の怪訝そうな気配を受けて、にかっと彼女は笑う。笑うと控えめなルージュを引いた唇が綺麗に並んだ白い歯を見せた。瞬間、塗りたくった紫のアイシャドーが驚くほど良く似合う。


「ちょっと軽い質問をさせて貰うだけよ。そんなにお時間はとらせないわ」


 それを聞いて、倭の顔がいびつに歪んだ。悪い歪み方だった。にやけるように口の端が片方、持ち上がる。


「かまわないですけど」

 首を傾げて彼は口の歪みをごまかす。


「簡単に訴くわね。山橋やまはし利文としふみさんがお亡くなりになられたことについて、どう思われますか?」


 単刀直入過ぎて面食らった。山橋さん。誰だろう? 彼は首を傾げる。


「山橋さん、ほら、科学で世界を作るの著者の人よ」


 言い足す彼女の目の奥を覗き込んで思い出したのか、倭は首を縦に動かした。


「あぁ」


 話題が共通の物になった安堵にほっと彼女の顔が和らいだ。


「確か、オカルト的な事から精神疾患まで全部科学で解決出来るっていってた人ですよね。そのためのノウハウと実験ををテレビでよくやってた」


 何もかもを科学で説明しようとする姿勢も極端さで言えばオカルト的だったが、人生の悩みを全部何から何まで隅から隅まで論理立てて筋道を通し無尽蔵にわき出る飽満過多な証拠を用いて説明してくれる彼の芸能スタイルに崇拝を示す人は少なくなかったように記憶している。


「そう、そうそうそう、その人」

「まだ、俺の父と変わらない年齢の方だったと思いますが、お亡くなりに?」


「昨日の夕方、自宅で亡くなったの。腎臓が異常機能して体組織が急激に老化するって言う、難しい病気でね。まだ日本ではちゃんとした治療も出来ないらしいの。珍しいのね。十万人に一人の発症率と言われているのよ。

 私たちもね、彼の持つ発想とかノウハウ、周囲の人への心遣い、明るい笑顔にずいぶん前向きな人生を貰ったでしょ。それでお昼の番組で追悼コーナーを流すの。彼の良さをもっと伝えて、今までありがとうってみんなで言うのよ」

「へぇ」


 はにかみ笑いに苦笑いを隠す倭の脳裏で、大量のピラニアがスーツを着た小肥りの中年男性をついばんでいた。死者をすらネタにする、マスメディア。それが、マスメディアの、マスメディアとして、マスメディアらしい在り方だ。すがすがしいまでに潔い、大衆への打算的で安上がりな迎合。


「それで、彼の死に何か感じることがあれば、教えてくれるかな?」


 マイクが口許にぐい、と突き出される。金属のぬるい感触が、唇を撫でた。


 倭は軽く首を引き、唇を舐めてから、まじまじと紫のアイシャドーを見つめる。彼の片唇はまだ歪んでいる。


「人が死んだときは科学的にはどう感じるものなのか知りたかったです」


 空気が凍った。女性の目尻にうっすらと血管が浮く。


「ええと、他には何かないかな? もっと彼の活動を見たかったとか、まだお若いのにとか、寂しいとか」


「あっ、すみません、気の効いたことを言ってみたくて。ガキですね。言って良い冗談じゃないですよね。ええと……怖いなって思います。あっけないっていうか、もっとテレビで活躍して欲しかったなって。なんか寂しいですね」


 ニッコリと女性は笑って首を縦に動かす。仕方のないことだが、ずいぶん雑な愛想笑いだと思う。いや、雑なだけ、腹黒くなくて良いのかもしれない。


「そうそうそう、じゃあオカルトついでに質問」


 身をよじってショルダーバッグから取り出した、派手なフューシャピンクの手帳をめくる。


「夢を叶えてくれるおまじないって知ってるかな。学生の間で流行ってる噂的な。神通力? そういうのの特集を組むために今情報を集めてるところなの」


「はあ。知りませんね」


 大げさなため息をついて少年は女性の私的な好奇心をたたき落とした。


 残念そうに郁美は腰へ手を当てゴキリと首を回した。


「答えてくれてありがとう。これ、ウチの番組から出してるマスコットキャラのストラップ。お礼に差し上げることになってるの」


 ずい、とショルダーバッグから取り出されたストラップが突きつけられる。


 カラフルな尾羽が揺れるオウム。


 モビールの要領を利用して翼や尾羽、頭部がゆったりと揺れており、太陽光を受けて鋭くきらめくのは黒々と太い嘴だ。


「ストラップよりも、欲しいものがあるんですが」


 ふと、欲求に心臓を突き動かされた倭は、差し出されたストラップを持つ手を押し止めて深く息を吸った。

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