終章
8月15日(月)
◆33:Tu fui, ego eris.
20××年8月15日(月)
クラス中を阿鼻叫喚地獄に陥れた事件は倭のあずかり知らないうちに落着していたらしい。
夏祭りの夕方、秀英と亜樹が台風に見舞われながら真実を語り、橋本萌々がぶうぶうと文句を垂れながらクラスを代表して許してくれたのだと、鷹来から聞いた。
もちろん、条件付きで、ではあるが。
鷹来の集めた情報と証拠が偏っていたのは当たり前で、結局二日目は三年の学年主任は亜樹たちの妨害にあって黒板までは確認していなかったらしいし、三日目の朝新米教師が見た女生徒というのは背の低い秀英を見間違いして思い込んだのが原因だった。
鷹来が一歩踏み込んで訊けば簡単に事実は明らかになっていたはずだ。
『オレ、朝から何ケースも酒瓶上げ下ろしして死にそう』
「ガンバレガンバレ」
スマートフォンの向こうに気のない声援を送る。
『垣内のやつ、家の用事手伝いって言ってたけど、普段自分やってねーらしいじゃん? もっと楽なもん頼んでくれよ。暑い! 干からびて死ぬ!』
「あっははははははは。自業自得じゃん。せいぜいこき使われろ」
『くっそ、倭きゅん、その言い方すっごくトゲあるね? まだ、許してくれてないね?』
「さあ?」
倭は笑いながら空を見上げた。
真っ青な、雲ひとつない空だ。
夏真っ盛り、最高エネルギーで地上を照らす太陽の光は、湿ったことが嫌いなのか、四十度近い暑さだが乾いていて不快感はなかった。
ここは四国にある小高い山の中で、コチドリの鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。空を周遊しているのはカモメだろう。
『前坂君、おじさんが呼んでる』
『もう休憩終わり!? シューエー、わかった、行く行く。じゃあな』
「おう」
倭は答えて通話を切断した。
鷹来と秀英は、クラス全員の頼み事を夏休みの間一回ずつ叶えて回ると言う条件の下、今回のことは不問にしてもらえるらしい。
亜樹はスナオと和解したが、スナオはまだ父親と和解できていないらしく、しょっちゅう倭の家に転がり込むようになった。
おまけに「応援してくれるんでしょ?」と言って彼女の歌を焼いたCDを押しつけられた。
さすがに話さないと問題だろうと思って舞夏に事情を伝えたら、二回に一回は舞夏の家に泊まるようになったらしい。逆に胸騒ぎがして心配なのは何故だろうか。
古藤信治との件はスナオが仕掛けを回収し、おまけに目撃者の立場を利用してあることないこと被害者面で吹聴、もとい証言してくれたおかげで、おとがめなしだったどころか、千代田真代を通して丁重で慎重な謝罪と菓子折りを何度も送られた。
シン本人はやはり何も記憶していないらしい。
芸能人という立場を守るため真代に有無を言わせずしつこいくらい頭を下げさせられる姿には、さすがに少し悪いことをしたかなと思った。
まあ、本当にほんの少しだけだったけど。
「ヤマト! ここが母さんのお墓なの?」
「ああ、そうらしい」
まだ、実感がもてないまま答える。
共同墓地の水くみ場から、水の入ったバケツを下げて戻ってきたのは、世界だ。
真っ白なオーバーオールを着る双子の片割れは、事故に遭うまでの一切の記憶をもっていない。
倭のことはおろか、父親のことも、母親のことも、自分が水泳をしていたことも忘れてしまっている。
その脳内には現在無垢すぎるほどにまっさらな白紙が広がっている。どういう力学法則が働いた結果なのか、その体だけは、失われることなく生き残った。
そして、世界がもっていた全ての才能は消えて平凡になった。
信彦の言うには、倭が生まれた日、同じ病院から一人の女性が失踪したらしい。
雅と同様予定日を間近に控えた、妊婦の消息は未だ不明とのことだ。彼女は多数の男性と関係を持っていたらしく、父親が不明で本人も中絶を望んで自殺まがいの行為を繰り返していたらしい。
同じ分娩室にいた女性、つまり倭の育ての母親についてはどういった経緯で担当医が割り振られたのか、本人たちも記憶と記録が曖昧で、雅の死という騒動と、医療事故に対するセンシティブな時代背景と、認知に関する法的な問題と、信彦の強い意志が働いて有耶無耶のまま処理されたと聞く。
消えた女性の名前を信彦に教えてもらったが、雅とは似ても似つかない名前だった。
おそらく、シンの言っていた、“無から有を作るのはエネルギーがいる”というのがすべての理由なのだろう。
「花、供えてくれ」
「オッケー」
持ってきたタオルを絞り、墓石の汚れを拭う。
道中購入したヒマワリを中心にした仏花の向きを真剣に調整している世界は、倭達の学校より一週間早く夏休みが始まった九州の高校は退学し、二学期から榎水学校に通うことになっていた。
線香に火を点すと、どことなく甘い香木の香りが漂う。
倭を育ててくれた母親は、あの日の翌朝、息を引き取った。
伸彦の内縁の妻として周囲から認識されていた彼女は、倭と伸彦と世界の三人だけが参列する小さな葬式で弔われた。
今は、両手で抱えるほどの骨となって伊比家の墓で眠っている。
世界と倭が手をあわせる墓石には、宇須家とかかれている。本当の雅の、倭を産んだ母親の墓だ。
ここにいるのは倭を育ててくれた母親ではない。
だから、産んでくれてありがとう、育つことを願ってくれてありがとう、おかげさまで元気に生きています、以外に彼女へ送る言葉が見つからない。
母親に対して抱えるたくさんの、整理しきれないでぐちゃぐちゃな感情をぶつけることは叶わない。
ヘドロのような気持ちは檻につないで閉じ込めるしかない。
それはあまりにもきれいごと過ぎた。
心の中に出口を持たない台風があるようで、苦しかった。
あの日、倭が失ったものは、大きすぎたけれど、それから少しずつ得たものがある。
ひとつが、雅の両親と伸彦の両親、つまりは母方と父方の祖父母だ。どちらの祖父母も、ずっと絶縁状態だった孫に会えたことを喜んでくれた。
そして、彼らにとって倭の母親の死とはすでに乗り越えてきた過去だった。
母親のことを話題にするとき、絶対に互いの記憶も気持ちも折合うことはない。
愛想笑いと苦笑いの奥に、やっぱり臭みを放つヘドロは押し込められてしまった。
だからかもしれない、母親を失ったことがいまだ確かな悲しみとして消化し切れていないのは。
迎えてくれる彼らの温かい腕と優しい言葉の中で、母を失った喪失感が誤魔化されているように感じるときがある。
息苦しさに、眠れない夜は続いている。
もうひとつは、世界だ。
高校生になった頃から一方的に関係を絶っていた世界と、現在倭は一緒に居る。会話もするし同じ釜の飯も食べる。
ただ、世界の記憶は白紙のまま戻る気配はなく、倭にも伸彦にも他人行儀なときが多い。最初、笑顔ひとつとってもぎこちなかった世界の記憶が一日ずつ増えて行くのは、まるでまっさらなノートをカラフルな絵日記でうめていくのと似ていた。少しずつ表情に、時として鮮やかすぎるほどの感情が灯ってきている。
「ねね、ヤマト、あっちにいいものあったよ」
世界は宝物をみつけた小学生みたいにいたずらっぽく瞳をきらめかしている。
自分と似た顔をしている倭を兄と呼ぶことに抵抗を覚えるらしく、ひとりで色んな呼び方を試したあげく、現在呼び名はヤマトで落ち着いていた。
世界は倭の腕に自分の腕を回し、墓地の反対側へ引きずる。
「いいものってなんだ?」
顔面に木の枝がぶつかった。
世界に引っ張られながら、自由な方の腕で生い茂る木々をどけつつ進む。
数メートルなだらかな斜面を下り、視界が開けると同時、潮の香りが鼻の奥を満たした。
死んだプランクトンや微生物が腐敗するその香りは、栄養素の高い海が広がっていることを見るまでもなく教えてくれる。
濃い水の気配に胸が高鳴る。
カモメが高い声で鳴き、足下の感触が砂利混じりの草地から砂浜に変わった。
スポーツサンダルが一歩ごとに沈み、足の裏へ、指と指の間へ、砂がさらさらと入り込む。
木々の生む清純な空気を大量にはらんだ風が、背後から海へと吹き下ろしていった。
全身を心地よい風が撫でシャツの裾が帆のように膨らむ。
体が力強く前へ引っ張られる。
「海だよ」
世界が両腕をめいっぱい開いた。
薄い青が空へ、濃い青が地平線へと広がっている。
「ヤマト、行こう!」
彼の手を引いて世界が駆け出す。
世界に手を引かれ、倭も駆け出す。
海が呼んでいた。
地平線の先へと、まだ見ぬ未来へと。
(完)
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