◆27:Memento mori.(1)

 逆流してきそうな胃袋の中身を、息を止めて押しとどめ、喉の筋肉を総動員して嚥下した。


 昨日の夜シンと出くわしてから始まった吐き気が徐々に強まり、今や限界に来ている。思い切って体の求めるまま吐き出してしまえば楽になれるのではないかと思うが、まだそれはできない。


 全身に打ち付ける雨が体温をはぎ取っていく。

 視界の端がぼんやりとかすんでいた。

 寝不足だ。

 寝不足が原因の体調不良だ。

 倭は歯を食いしばって頭を振った。



「随分顔色が悪いようだけど、大丈夫かい? 立ったままだとつらいだろう?」


 シンが猫なで声で尋ねてくるが、倭は全身に鳥肌を立てながら突っぱねる。


「大きなお世話だ」


「そうかい。病も気からと言うだろう。きみはまさしくその典型例だと思うけどね。つらいことから逃げ続けることは良くないが、時に避けることは大事だ。まあ、限界が来たら座るといい。僕も鬼じゃないからね。さて、土産話だが」


 顎に手を添えてシンは三歩、横へ歩く。倭へ向き直って指を三本立てて見せた。

 親指、人差し指、中指。


「僕が知っていることは全てではない。だけど、君より知っていることもある。その中で、君に関する情報は大きく分けて三種類だ。まずは、さっき君が僕を犯人だといった事件について教えてあげよう。なに、例えこれから死んで貰う相手であっても、真実を知る権利はあるからね。いや、もうすぐ死んでしまう相手だからこそ、僕の濡れ衣を晴らしておきたい、と言うべきかな」


 ひとつひとつ持って回った言い方をするシンに倭はじれったさを覚える。


「早く話せ。俺には時間がない」


 早くしないと鷹来がここへ来てしまう。

 来てしまっては都合が悪いのだ。


「ふむ。ではさっさと本題に入ろう。僕だってこれから戻って夏祭りを盛り上げなくちゃいけないからね。とはいえ、もうこの天気じゃあ無理だろうけど。さて、僕が知っているのは一日目のことだけだ。同時に、これは近原スナオが知っているのも一日目のことだけだと言うことなんだけど。


 話してしまっても?」


 シンが最後の台詞だけ、背後を見遣って問うた。


「かまわないわ。あなたが知っているというのなら。話す必要がないから話していなかっただけだし」

 コンクリートの弊へもたれたままスナオが首肯する。


「お許しを貰ったことだし、説明させて貰おう。一日目、“このクラスの誰かが殺される”。そう書かれていた日のことだ。スナオは今まで誰にもこれを証言していないが、彼女は黒板にメッセージを書いた犯人を知っている。つまり、黒板にメッセージを書いているところを目撃しているんだ」


 ふらつく足に力を入れて倒れるまいと踏ん張りながら、倭は目線だけで先を促した。


「君の友だちの、前坂鷹来、浅岡秀英。このふたりだ」


 胃袋がうねった。吐き気。


「スナオの登校時間は常に七時三十二分。これは利用する電車の都合で、この時間より一本遅れると八時台になってしまう。教室に着くのは七時三十五分過ぎで、たいてい宿直の先生が先に鍵を開けているから、前もって職員室へ鍵を取りに行ったりはしない。


 教室に着いたとき、初めて、いつもと違う光景に気がついた。黒板に何かを書いているクラスの男子。何を何の目的で書いているのかは不明だったが、関わるのを避けようと思ったスナオは七時四十分になるまで女子トイレで時間を潰していた。


 はあ。説明しながら悲しくなってきた。スナオ、君はよそのクラスに友だちの一人もいないのかい?」


「うるさい。黙れ。だから言いたくなかったのよ」

 スナオが彼方で地団駄を踏む。


「二日目は、同一人物の仕業と考えず、連鎖して起こった事件と見た方が筋が通る。これはスナオの推測に過ぎないのだけど、二日目はスナオを嫌う女子グループの模倣だ。


 三日目は、僕はもうこの世に顕現していたからね、スナオとは記憶を共有していない。だけど、なにがあったかは知ってる。インチキと言われてしまいそうだけど、僕の知り合いが影で手を貸して実現した。一日目以降、想定を大きく超えて拡大していく事件に恐れを成したんだろう。浅岡秀英が、無理矢理終わらせようと黒板に書いたらしいね」


 彼が七月二一日以降、スナオと記憶を共有していないのは確かなようだった。


「お前の知り合い?」


「そう、有り得ないものを見るような顔をしないでくれないかな。僕はスナオの願いを叶えるために呼び出されたと、何度も説明しているだろ。同じく、浅岡秀英の願いを叶えるために呼び出されたものがいたんだ。そいつは浅岡秀英の性格を踏襲して甘っちょろいやつだったからなあ、もうすでにこの世からいなくなってしまった。浅岡秀英のアリバイは、そいつが手を貸して成立させたんだ」


「どうやって? お前とスナオじゃ全然外見が違う。なりすましはできないだろ」


「あれ? 言ってなかったっかな? 僕はスナオの望みを叶えるために、この姿を得たんだ。外見の性別ではなく内面の性別に合わせて、入川舞夏より年上だがそう年は離れていないくらいの年齢で。だから僕は男で君たちより二つ年が上だ。だけど、浅岡秀英に限らずおおよその人間は自分の容姿や性別にそこまで悩んでいない。悩みの優先順位が違う。だから、浅岡秀英の場合、彼とそっくりな存在が呼び出された。むしろ、彼は自分自身である、と言うことに固執していたきらいがあるね」


 倭は頭痛を抑えるため額に手を当てた。


「わかった。もういい。妄言は聞きたくない」

「君も頑なだね」


 今日初めてシンは口調に怒りを滲ませた。


「僕たちの存在をそろそろ認めたらどうだい?」

「そっちじゃない」


「は?」


「俺は、信じられない。前坂も浅岡も、必死になって犯人を捜してた。あいつらはクラスのことを好きだ。俺みたいにどうでもいいなんて思ってない」


「知らないよ。動機なんて。僕は常に事実だけを話している。疑われるなんて不愉快だ」


「認めない」

 口走りつつ、本心はどうでも良かった。


 感情は自分でも驚くほど波立たない。

 もっと別のことに追い詰められているからかもしれないが、自分はここまで薄情な人間だった、ということを認められないだけだ。


 どうせ、自分の友達がクラス中を恐慌に陥れ、その恐怖心を煽り、クラスメートを襲い、傷付けていたのが事実だったとして何も変わらないと考えている。

 脳内プロフィールを二人分訂正するだけだ。


「そんなの、本人にききなよ。いや、面倒だ。さっさと死んでもらおう。疑いを晴らすとかもうどうだっていいな」


 シンがつかつかと倭へ近寄り、そのままの勢いで倭の腹を蹴り上げた。

 足が一瞬宙に浮き、体が折れ曲がる。

 衝撃で胃の中身が口から漏れ出る。


「汚いなあもう」

「お前はいったい誰なんだ? 何のために俺を殺そうとする?」

「だから、近原スナオの――」

「それは聞いた。じゃあなぜ、スナオの望みを叶えようとする?」


 まだ、このまま殺されるわけにはいかない。

 まだ、一番大事なことを聞いていない。


 シンは虫けらを見下ろすような目で倭を見遣り、親指と人差し指でVサインを造った。


「二つ目だ。


 僕たちがなにものか。僕らはいわゆる客人マロウド、この地域でアラハバキと呼ばれる存在だ。君たち非力な人間が泣いてすがる神様さ。僕たちを呼び出すにはルールがある。なに、簡単なものだ。上見不神社でお百度参りをすればいい。神木と神木、もしくは神木と岩座いわくらの間を、願いことを唱えながら百回かけて往復するだけでいい。


 このプールに入ってくる前、通り抜けただろ。しめ縄を巻かれた榊。これと上見不神社の間を往復すれば僕たちはこの世に顕現できる。近原スナオは放課後上見不神社で歌を歌うために、無意識のうちに榊と杉の神木の間を往復した」


 秀英は、毎朝学校へ通うときに神社を通り抜けていたのだろうか。


 倭は口回りを手の甲で拭って立ち上がる。


 毎朝学校へ通いながら秀英は何を思っていたのだろう。


「そうか、お前は、神か」


「ああそうだよ」


「認めてやる」


 本筋と関係のない事柄の全てが煩わしかった。

 いや。

 関係の薄いことについて頓着するような余裕がなかった。


 吐いてしまったことで体の中から熱や体力が抜け落ちてしまっている。

 舌の先が痺れて喋ることすら上手くできている自信がない。



「お前は、神だ。神はヒトの願いを叶える」


「そうだ、僕たちは願われて初めて目を覚ます。ヒトの生きたい、どうにかして生き抜きたい、という切実な願いに耳を傾けるんだ」


 目を閉じ、空を仰いでシンは肯定する。


「なら、お前の言う近原の願いはなにだ?」

「男の体を得ること、君を消すこと、そして詩の才能を自分のものにすることだ」

「近原」


「なに? 面倒な話に巻き込まれたくないんだけど」

 頑なにピンクのカツラをかぶり続けるスナオがうざったそうに返事をする。


「お前、なんでそのカツラをかぶってるんだ?」

「なんでって」


 この場に来てくれた彼女の姿を見たとき、倭は安堵したのだ。彼女が倭の頼みを聞き入れてくれたことを確認できたからではない。彼女が、ミュージシャンとしてシンに姿を見せることを選んだとわかったからだ。彼女は、シンにミュージシャンとしての自分を譲る気はないのだとわかったからだ。


「あたしは、そいつに負けたくないからよ」


「君、自分の才能が理解出来てないのかい? そんなニワトリみたいなスペックで僕に勝てるとでも?」


 呆れかえったように、馬鹿にしたようにシンは言って振り返る。


「負けたくない。俺もそう思って生きてきた」


 ジーンズの腿を両手で握った。

 行き場を失った悔しさをぶつけるように。


「本当は、今だって思ってる」



 世界いもうとに、負ける。



 それは厳然たる自然律のように、物心ついたときから当たり前で、常識で、朝になれば日が昇り夜になれば沈むようにわざわざ立ち止まって考えるまでもなく当然のものとして日常の中にあった。



 倭は、生まれてから今まで世界に勝ったことがない。それどころか、テストで同じ点数を取ったことも、周囲の人間から同じように好かれたことも、対戦ゲームでドローになったこともない。


 白星は常に世界のために輝き、黒星は常に倭の隣で嘲笑っていた。


 それでも倭は信じていた。

 幼少期から続けている水泳ならば、ほとんど互角だ。そのうち体が成長し筋肉が発達すれば女の体に比べて男の体の方が推進力が上がり有利になる。起伏に富む女の体より平坦な男の体の方が抵抗が減って有利になる。なにより大会記録がそれを証明していた。男性の方が女性より常に記録が短い。それもコンマ秒の単位ではなく、秒の単位で。



「けど、勝てなかった。あいつがいる限り、俺は絶対に一番になれない」


 現実はあまりに非情だった。

 体の発育が増すに連れ、決して縮まることのない差、才能の違いが明らかになって行った。

 もしかしたらと期待していた母親も、中学三年の夏には諦めきって、倭を見る瞳から体温を失い、息子を何かにつけて罵るようになっていた。



「俺には才能なんてない。何かがあったとしても、それは常人よりほんの少しなにかを頑張ったという努力の結果でしかない」



 才能のある人間とは、世界のことを言う。


 同じ家で寝起きをして同じものを食べて同じカリキュラムで特訓をして、時間の限り己の体を磨いて研究して。それでも倭は常に世界の後塵を拝し続けた。世界は軽々と楽しそうに前を泳ぎ続け脚光を浴び続けた。だから、倭は全てをなげうちそれこそ学業も放り出し人付き合いも遠ざけるほど泳ぐことに没頭しのめりこんだ。



 もしかしたら、という一縷の希望を胸に。


 もしかしたら、という最悪の可能性から目を逸らして。



 結果は圧倒的な敗者のレッテルとそれを得るために何もかもを失った無価値な自分というガラクタを手に入れただけだった。



 今、希望は、どこにもない。

 これを、絶望というのだろう。



 涙を飲んだ中学三年生、そのリベンジで挑んだ去年の大会で、倭は今まで以上に鮮やかに泳ぐ高校生の世界を見た。環境を与えられた彼女はもはや、倭には到底追いつけない高みにいた。彼女の目に映る世界を想像することすら恐ろしい、絶望的に深い溝が二人の間にできていた。



「伊比倭、君は下位互換としての運命を生まれながらに背負っているんだ。君は君の双子の片割れが、自分と同じ人間ではないのではないか、そう想像したことはないのか?」


「あるよ。毎日だ。毎日毎日毎日毎日、朝顔を合わせてから布団にもぐっても夢の中までずっと、あいつとの違いについて考えてる。今もだ」



 世界のことを思うと、自分自身の情けなさ、悔しさと劣等感に胸を焼かれ、この世に命を保つ意義を見失う。絶望の海に飲み込まれて、目を開けても閉じても死にたいくらいに苦しいなら、いっそ本当に死んでしまえば楽になれるんじゃないかと何度も思った。夜中家を抜け出して、知らない町の知らないマンションの赤さびが浮いた非常階段から何度も地面を見下ろした。



「あいつのことを考えると、頭がおかしくなる。今でも、殺してやりたいくらい憎んでる」



 世界さえいなくなれば。

 前途を閉ざす悩みから解放されるのに。



 だけどそれはプライドを捨てた家畜にも劣る発想だ。


 彼女がいなくなったところで、世界を目指すならこの先常に自分以上の強敵と、そのパフォーマンスを競って行かなくてはならないだろうから。目の前にある越えられない壁ひとつに心を折られてしまうようでは、どだい、一番になる素質なんてないのも同然だった。



「殺さなくても、階段とかでちょっと背中を押してやればよかったんだ。水泳は全身運動だと言うし、どこか骨でも折れればそれだけで選手生命は奪えたんじゃないかな?」


 シンが臆病者、と言わんばかりに飄々とした声音で提案する。


「ライバルを蹴落としたって、あたし自身の実力は変わらないわ。それほど虚しいこと、ないでしょう」


 次第に強まる雨のためか、それとも消えていく体力のためか、スナオの声がやけに遠くに聞こえた。


「俺は、たぶん、あいつには敵わない。才能、努力。それだけじゃないんだ」



 倭は思い出す。


 妹の言葉を。



 水がね、呼ぶの。

 速くこっちにおいで、置いてっちゃうよって。

 どんなに速く息が苦しくて頭が真っ白になるくらい目一杯泳いでも追いつけないの。


 でもね、わたしの心が、喉からおなかの底につながってる心が、見えない何かを追いかけるの。干からびちゃう、喉が渇いた、辛い、息が出来ないって。


 わたし、きっと、泳がなきゃ、枯れちゃうの。泳がない方が苦しくて苦しくて、死んでしまいそうなの。それでね、水に触れてると、すごく気持ちがいいんだけど、切なくて、虚しくて、泣きたくなるの。この手足が不安で痛くて、だから水をかきむしるの。



 ああ、そうだ。

 俺にはそれがなかった。

 自分の力を限界まで振り絞らせる渇望が、どこにもなくて、水に触れればぼんやりとかすかに気持ち良いと感じて、陸に上がればただただ体が怠かった。

 生き良い場所を求めてプールへ身を沈めているだけだった。


 だから、なんだろう。


 ぽつりと倭は思う。



 俺が、何者にもなれないのは。



「俺は、あいつが死ぬほど憎い。それと同じくらい、あいつに憧れてる。あいつがどこまで泳ぐのか、それを知りたい。たぶん、誰よりも」


 死んでなんか欲しくない。

 死んでなんか欲しくない。

 絶対死なせない。

 絶対殺させない。


「血肉を分けた家族だから」



 憎み、妬み、嫌悪し、悩まされながらも、胎児の頃から寄り添ってきただろうその体温を、倭はこの上なく愛している。



 言い切った倭の目を、蛇のように見開いた目で不思議そうに数秒見つめ返し、シンはゆっくりと首を捻った。笑い声を爆発させる。



「あっははははっははっ! 傑作だ。これ程皮肉の効いた冗談はないな!」



 彼は倭へ歩み寄り、立っているのがやっとなその体の頭髪を掴んだ。

 ぐい、と下に押さえつけ、膝を付かせる。

 頭髪を引いて無理やり顔を仰向かせた。



「死んだ魚みたいな目をしてなに言ってるんだ? 世界から目を逸らしてる癖になにがわかるんだ? おこがましいんだよ。無能は死ね。とっとと死ね。同じ空気を嗅いでるだけで不愉快だ」



 もはや、体術の甲乙ではない。

 一方的な蹂躙だった。

 降り注ぐ重たいシンの靴を、倭は体を丸めて耐えることしかできない。



「ふふ、ふふふふふ」


 シンは口の端から愉悦をこぼす。



「近原!」


 どこまで聞こえるのかわからなかったが、倭は叫んだ。

 次の瞬間口の中に靴の踵が入り、嫌な音がして前歯が持って行かれた。

 生温く鉄臭い味が口中に広がり溢れる。



「なにかしら」


 落ち着いた声だったが、どういうわけかしっかりと耳に届いた。

 それは、じんわりと、倭の冷え切った体を温める。



「近原はどうなんだ? なあ、お前、言っただろ、歌が呼んでるって」

「ええ、そうよ」

「そうか、俺の妹も同じことを言ってたんだ」



 話しづらさを覚えて口の中から折れた歯を吐き出す。

 一緒に血の塊も転がり出た。


 スナオが口を挟んだからか、シンは足の動きを中断させる。


「どうして、歌の声が聞こえる?」


「聞こえるわけじゃないわ。心が引っ張られるの」


 ため息混じりにスナオは説明してくれた。


「苦しいほどに歌いたいという渇望。自分だけの歌詞を唱えたいという欲望。秘めた想いごと誰かと繋がっていられる瞬間の万能感。寝ても覚めても世界を塗りつぶして、最悪な人生に光をくれる、言葉の渦、色彩、肌触り、温度、身体中を熱が巡る脈打つ痛み。歌えばそれらが一気に解放される、この上ない快感が麻薬のようで、手放せないの」


 ぼやける視界で、シンが少し体を揺らした。


「それはちっぽけなものだ。誰かに届かない現実、評価を受けない現実と比べたら、あまりにも気持ち悪い自己満足だ。とっとと僕に譲って楽になりなよ。全ての不可能を可能にしてあげる。これは好意と、善意なんだよ。そろそろ受け取って欲しいな」


「あなたにとやかく言われたくない! 誰にも理解されない最悪な人生を、唯一救ってくれたのが歌だった。歌があるから幸せなの。歌がなくなって幸せな人生なんて、もう、あたしの人生じゃない。


 あたしの悩みも、無様さも、無能さも、才能のなさも、例えあたしの人生を滅茶苦茶にしてきたのがこいつらであっても、これが全てなくなったら、あたしはあたしじゃなくなるから、絶対に絶対に、お前には死んでも譲らない! 


 クソが。余計なお世話よ。キスマイアス。

 ふざけないで。アースホー。

 地獄に堕ちなさいゴートゥヘル。



 倭は最後の方、彼女が何を言っているのかわからなかったが、罵詈雑言の限りが尽くされたのだけは察した。聴き取りやすくするためもたげていた頭をコンクリートに下ろす。既に辺り一面池のようになっていて、鼻先が雨水に沈んだ。目を閉じて、息を整える。



 聞きたかった言葉は、聞けた。



 近原スナオは、倭とは違う。

 世界と同じ種類の人間だ。

 才能を持つ、いや、目指すべき未来を持つ人間だ。


 生きる価値のある人間だ。



「君たち、自分がなにを口走っているのかわかっているのか? 誰にも見向きされない情け無くかわいそうで醜い雑魚ザコキャラの自慰行為、セルフコンソレーションなんだよ。わかるかな、オナニーであり、最高に臭いマスターベーションなのさ。それを延々見せつけられる僕の気持ちにもなってくれよ」



 どうしてか、胸の奥から笑いがこみ上げてきた。


 近原スナオとシンは、本当によく似ている。

 持って回った台詞臭い丁寧口調の癖に、実のところ口が悪い。



 少し体が軽くなったような気がして、全身の痛みをおして四肢に力を送った。

 生まれたての子鹿みたいにガタガタと足を振るわせながら立ち上がる。

 両膝に手を突き、倒れ込みそうになるのを支えた。



「おい、カミサマ」

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