◆19:いろはにほへと ちりぬるを
帰宅して半身浴でじっくり一日の汗を流した亜樹は、丁寧に髪をブローしてから自室に戻った。半身浴をすれば幾分なりとも脂肪を燃焼できるのではないかと思っている。
他人から言われても頷かないだろうが、彼女は客観的に見てスタイルは良い。胸はEカップだし、ウェストは60ジャストだ。毎日密かに鍛えているから発育盛りの女子高生と言うこともあって、出るところは出る体型をしている。それでも彼女が自分の外見に自信を持たないのは、いつも一緒に居る舞夏の存在と、周囲の目線だ。女子高生には身体の芳醇さよりも、顔の可憐さが求められる。
タンクトップにジャージィという楽な部屋着に着替えて、毎日どれだけブローしても言うことを聞いてくれない癖毛をまとめていると、ラインの着信音が鳴る。画面を確認すると入川舞夏だった。
『ねえ、今何してた? 電話大丈夫?』
「全然オッケー。今お風呂から出たとこ」
小さな折りたたみ机に置いた鏡を覗き込みながらベッドへ勢いよく腰を下ろす。三日月型をした抱き枕が背後で跳ねた。
「何? 舞夏から電話してくるってめずらしーじゃん」
『え? そう?』
「ごめん、イジワル言った」
スナオを外そうと言ったのにそれを無視した舞夏へのささやかな意趣返しだ。これくらいの意地悪で溜飲が下がるのだから、舞夏に対して自分は無茶苦茶甘い。
『この間のお礼、まだ言ってなかったから』
「あー。うん」
お礼なんて良いのに。
スマホにイヤホンを接続し、ベッドに置いたパソコンを立ち上げながら思う。パソコンは機械音痴な父のお下がりだ。ウィンドウズ7。
『告白が成功するまでお礼は言わないでって亜樹言ったでしょ』
「うん。あたし応援してるし」
告白は成功したとは言い難いと亜樹は思っている。
舞夏当人は成功したつもりのようだが、伊比倭の今日のような無神経さは何だ。シンというミュージシャンとのいざこざの後は、隣にいて終止気分が悪かった。あいつは、自分のことしか見えていない。前坂鷹来が気を遣って色々フォローしてくれていたから、班行動が空中分解せずにすんだようなものだ。
「舞夏の好きな人なんでしょ」
鏡の中でどうしても中央で割れてしまう前髪に絶望しながら言った。
『うん』
「じゃあ、当番変わるくらいお安いもんだって」
『ごめんね、終業式前だったのに』
「いいっていいって。なんなら今度買い物付き合って」
『それでいいの?』
「いいよ」
亜樹にとって舞夏は天使であり女神だ。可愛くて美しい存在と少しでも長い時間一緒に居られるだけで幸せな気分になれる。外見だけではない。舞夏のどこか周囲と距離を置くような醒めた温度感の声や、理系は出来ないようだが文系科目になると学年首位に躍り出る利発さ。人心把握の能力と、それをひけらかさない謙虚さもそうだ。こう言ったものを当たり前のように持っている彼女は、何をしてもどこか野暮ったい亜樹にとって憧れで、出来るだけ近くで同じ空気を吸いたい存在だ。
もし一点難を言うならば、たいていの場合スナオもセットだと言うこと。スナオはあのへつらうような、熱っぽい笑い方が生理的に受け付けない。授業中など舞夏を見ていない時はまるでセルロイド人形のように涼やかなのだが。どこか儚い少年を思わせる透明感に、一度、思った事がある。ここが女子校ならあの子モテたんだろうなと。
『終業式、大変だったね。あれ、なんだったのかな』
「黒板に変な事書かれるし、浅岡君は消えるし。ってあれ、やっぱ、本当に浅岡君だったのかわかんないよね。黒板の犯人も勝手に始めて勝手に終わらせるって言うしさー」
立ち上がったウェブブラウザに川見不神社と入力する。なるべく出来る限り調べて班に貢献したい。舞夏の力になりたいし、それに。そこまで考えて全身がかっと熱くなった。靴を拾って貰った去年の台風以来ずっと続いている片想い。誰にも打ち明けてはいない。
『ねえ亜樹、あれを書いたのって本当にクラスの子だったのかな。ほら、前坂君も言ってたでしょ、2-Bの生徒には全員アリバイがあるって』
「それはまたどうして」
舞夏が出した話題が急すぎて、喉の奥が一気に干上がった。
ちくりちくりと胸が痛む。舞夏への後ろめたさだろうか。自室に持ち込んでいた麦茶をあおる。冷房した部屋でもしっかり汗をかいたグラスからぽたぽたと水滴が落ちて彼女の胸に染みを作った。
『誰も、疑いたくないよね。前坂君は犯人捜しに熱心だけど、やぶ蛇になっちゃったらと思うと、そういう人を疑うのは良くないかなって』
どこか突き放すように憂えた声で舞夏は言った。
亜樹は染みの出来た胸をぎゅうと握る。自分の中にある黒い物を握り潰すように。嫉妬を隠すように。
「優しいじゃん。でも、近原さんのことも書かれてたし、よそのクラスの子って考えにくくない?」
『うん、でも、ほら、彼女通り魔に襲われたでしょ。だったら、可能性あると思う』
「よそのクラスの生徒じゃなくて、学校の部外者説?」
『そう』
検索窓に何となくスナオの名前を入れる。思い直して伊比倭と打ち込んだ。舞夏の周囲についてちょっとばかし詳しくなっておきたいという好奇心だ。
「部外者が近原さんの名前知ってるかなー。じゃあ無差別じゃなくて縁故じゃん」
『もう終わらせるってメッセージが気になるの。それに、部外者なら夏休み中も町中で襲う可能性あるってことでしょ』
「今日はクラスの子誰も襲われてないんだよね?」
『うん。ラインにもそんな話題出てないし』
「うーん、あたしの方のグループも誰もそんな話してないよ」
なんとなく、舞夏が電話してきた理由を察してスマホの画面を弄る。誰も襲われていないかどうか、亜樹の人脈からも確認しておきたかったのだろう。
「ねえ、舞夏」
『なあに?』
友だちを、スナオをかしづかせて平気な舞夏。彼女の女王様のような気高さに一目惚れしたわけだけど。
「舞夏は友だちをどう思ってるの?」
『どうしたの、いきなり』
面食らった後、彼女は吹き出したようだった。
『亜樹のそういう衣着せないところ好き』
彼女はこれで返事を終えたつもりなのか、学校終わっても悩まされるって嫌な事件、と愚痴を続ける。
『近原さんだけ偶然外部犯が模倣した説とか、実は全員別の人が書いた説も考えてみたんだけど、近原さんの時に模倣できた理由が説明できないし、多分、全部同じ人が犯人なんだと思う。メッセージの意味はよくわからないけど』
「一日目は予告だったけ」
『誰かが殺されるっていう。これから次々無差別に襲うぞっていう意味じゃないのかな』
解釈を持ち出すが、疑いたくないと言うだけあってその声には熱も興味も乗っていない。
「あ!」
『なに?』
カチカチとマウスを触ってスクロールしていたら、伊比倭の名前が載っているウェブサイトがあった。姓名判断のサイトではなく、県立の水泳競技会のページだ。
「ねえねえ、伊比君って水泳できるんだね。舞夏知ってた?」
『え? 急にどうしたの?』
「調べ物してたら偶然見つけたの。水泳競技会の大会記録にあいつの名前載ってる」
『知ってたけど、直接話してもらったこと無いよ。前、偶然泳いでるのを見かけただけ。市民プールに遊びに言ったとき、アリーナの方で大会してて』
「ふうん、なんで話さないんだろ。だって、一昨年の男子大会記録一位取ってるんだよ。すごいじゃん」
『自慢したくないんじゃない』
相づちを打つ舞夏の声が少し震えていた。自慢したくないにしてもどこからかこういう噂は漏れ聞こえてくる物だ。それが全く一切耳に入らないと言うことは、伊比倭が必死に隠しているとしか考えられない。
何かあるかも。
しめしめと亜樹は唇を湿らせてウェブサイト内を見て回る。大会記録は中学生の部だけではなく高校生の部、一般の部、シニア、と細かく別れている。さらに各部門ごとに泳法と性別に別けて記録が残されていた。そう言えば、女子のクロールはどのくらいのタイムなのだろうか。目的から寄り道して、女子五十メートルの記録を開く。一番早く泳げると何秒なのか。亜樹はPDFファイルに記された数字を読む。
『舞夏! 大変! ちょっと来て!』
突然舞夏以外の声がイヤホンに割り込んだ。差し迫った大声。『ちょっと待ってて』言い残してドタバタと電話口から消える友人。
ややあって、ゼェゼェという喘ぎ声と共に舞夏が戻ってきた。
「どうしたの? 何かあった?」
『どうしよ、亜樹……助けて』
「何があったの?」
舞夏らしくない。鼻水をすすってしゃくり上げている。
『花太が、花太が、いなくなっちゃった』
亜樹達を襲う悪意は、犬をも牙に掛ける。
◆
いろはにほへと ちりぬるを。
地図をもとにたどり着いた家の垣根には、透き通るように白い
「山橋さんの奥さん、どうなさるのかしらね、ご主人が亡くなって」
「でも、何本もテレビに出てたじゃない。相当稼いでたと思うわよ。きっとじゅうぶん遺産があるんじゃないかしら。うちの旦那もそれくらい稼ぎがあればねえ」
こんな席でも、噂話か。
彼は、否定するでもなく、非難するでもなく、無感動な心でそう思った。通夜、故人を偲ぶ席とは言え、故人や遺族から縁遠い者にとってはたいして心に訴える思い出もないのだろう。こうした場で不謹慎にも遺産やら何やらの噂話をする人の姿は何度も見てきた。
受付で香典を渡し、弔問帳に名前を記入する。ためらいがちに何度かボールペンを紙の上で上下させた後、実名を書くことにした。
名刺を求められ、何種類かあるそれの内から最も無難な物をわたす。SHINATSUツアー株式会社企画部デザイン課チーフ。受付の女性は名刺を見て少し眉をひそめたが、思い直すように首を振ってご足労ありがとうございます、と腰を折った。
仕事や古い友人などの知り合い以外で通夜に顔を出すのは何度目だろう。数えようとすると胸の奥がちりちりとひり付いて目頭が熱くなる。開け放された和室から銅鑼が低く唸るような読響が聞こえていた。小さな家だ。庭から直接和室へ上がるよう促される。靴を脱ぐ脇で、短くなった蚊取り線香がぽたりと灰を落とした。遺影に手を合わせ抹香をつまみ、焼香炭の上へそっと落とす。消えかけた炎がほんの少し息を取り戻して朱く揺れる。無くなった人の死を真っ直ぐに悼む。これは確かに不幸だが、それでも、悼む機会を授かったことを感謝する。
弔問をすまし帰宅すると、倭がリビングで夕飯を食べていた。コンビニで買ったらしい、鶏肉や牛肉とサラダ、牛乳、レトルトの米、味噌汁。コンビニ弁当ばかり食べる自分と違い、彼は栄養バランスを気にした食事をする。彼を育ててくれた妻の食育のたまものだろう。倭がご飯を食べる姿を見る度ほっとしてしまうのは、きっと、彼がまだ泳ぐことを諦めていないと確認出来るからだ。
「帰ってたのか」
倭はじろり、と伸彦を半眼で見遣って、すぐに食事へと意識を戻した。
「おかえり」
もぐもぐと咀嚼しながら返された言葉に安堵する。
「ああ、ただいま」
いつからだったろうか。
自分が、彼を、いや、家族を、真っ直ぐに見ることが出来なくなったのは。
最初はあんなにも愛し合って、彼女がいなければ生きてはいけないとすら思って結婚したというのに、その心は少しずつ変質していった。子育てに熱心なその姿を見る度に、彼女が夫である自分に厚く心を砕いてくれる度に、どうしてそこまでしてくれるのかと申し訳なくなった。完璧な妻としていてくれる彼女が恐ろしくなった。
一方的に自分から心の距離を離していくごとに、家へ帰る足が重たくなった。そして、気がつけば自分は、彼女を人生の中心にしている子ども達にすら、恐れを抱いていた。父親として失格なのだろう。倭から投げられる視線は常に己を突き放している。
「ここ、そろそろ掃除しないといけないな」
食べ終えた割り箸を置いて、倭が部屋を見回す。
「ああ。まだひと月くらいはこのままでも大丈夫だと思うが、男二人でこれを片づけるのか。気が重くなるな」
ははは、と笑ってみせる。四角張った厚みのある身体を覆っていた真っ黒なスーツを、倭の向かいにある椅子の背に掛けて座った。
頭上でゆらゆらと回遊する魚のモビールは、倭と世界が一緒に作ったものだ。透明なテグスからつりさげられる不恰好な木製の魚。サンドペーパーで表面を滑らかにすることすら知らなかった二人が最初に作ったモビール。
あの頃は良かった。まだ、自分は彼らを家族だと思えていたから。
双子だからだろう、倭と世界が小学校三年生の時、夏休みの課題で自殺を研究し始めた時は妻と一緒に気をもんだ物だ。自分がこの世から消えたらどうなるのか、極めてシンプルにシステマティックに考察した内容。それは、夫婦だけではなく担任の先生まで驚かせたが、叱りつけたり慌てふためく大人たちに対して、倭も世界もけろりとした顔で日々泥だらけになって生を謳歌していたから、心配するほどではないのだろうと結論づけた。結果はそれで問題なかった。
「倭」
もう一度低い声で息子の名前を呼ぶ。
彼はゆっくりと目線を併せた。
疎ましそうな色を称えつつも、その目は伸彦から逸れることなくじっと見つめている。
息子は、もしかしたら、今までもずっと伸彦と正面から付き合ってくれていたのかもしれない。こうして、話し合う機会を持ってこなかったからわからなかった。自分も、そろそろ、逃げてばかりではいられない時が来ている。
「すこし、お前に話しておきたいことがある」
倭は話すなら話してみろとばかりに、口だけを歪めて見せた。
会話の糸口を見つけようと、伸彦はここ最近に起きたことをいくつかピックアップし、一番平易な話題を選ぶ。
「倭、お前この前女の子を泊まらせただろ?」
目線を少し下へ逸らし、それから挑戦的にまた戻して来る。
「行く場所がなさそうだったから連れて来た」
「そうか」
リビングで鉢合わせたとき、彼女が顔におびえを走らせて倭の陰に隠れたのを思い出す。
「説明されても理解できんだろうし、いちいち事情は問わないが、あの子は本当にお前しか頼る相手はいなかったのか? 親はどうしてるんだ?」
「知らない。話したくなさそうだった」
ポツポツと投げるような返事。同じ屋根の下にいたくない親とは一体どういう親なのだろうか。
「虐待とかでないといいが……」
その言葉が失言だったと、伸彦は直後に知る。
「はっ。よく言うよ。他人の子どもに気をまわしていられる身分じゃねぇだろ。いっつもいっつも俺達を腫れ物みたいに扱ってさ」
倭がテーブルの下で足を組んだのがわかった。なんとか平常心を保とうとしているが、目尻がぴくぴくと痙攣している。
「よそはよそ。うちはうちだ」
威厳を保つように細心の注意をはらって反抗を封じると、倭は「都合良く言うんじゃねぇよ」とぼやいた。
「可能性の話だ。あんなに大けがをしても帰りたくない家なんてそうそうないだろう。気を配っておいてやれ」
チッと彼は舌打ちする。いくつか思い当たることがあるのだろう。
「ところで倭、お前はあの子が好きなのか?」
「はあ? 親父、短絡的じゃねえ?」
「いい子だったじゃないか」
「猫かぶってんだよ。それと、滅多なことは口にすんな」
粟立つ肌をなだめるように倭は腕をなでさすって見せる。
「いや、
「母さんの?」
「ああ。俺達の若かった時をな。俺が出会ったとき、雅さんは大学生だった。知ってるだろ? 東山の女子大だよ。雅さんは結婚する前にお前を身ごもってな。上水八杜で毎日お百度参りをしたんだ。女子大から上水八杜まで、冬の寒い中早朝にな。学生で結婚する前にできた子だったから不安も大きかったんだろう。そういった部分を斟酌してやれなかったことは今でも悔やんでる。
雅さんのその頃の精神状態も限界の手前だったがそれよりも厳しかったのが、体力だった。身体も生まれつき弱くて、臨月だというのに手足もガリガリで、ちゃんと生めるのかどうか、医者でも判断が付かなかった。俺も出来る限りのことをしようと思ったが、男である自分に出来ることはほとんど無かった。つまりな、お前はまだ高校生なんだから、付き合うなら慎重に付き合え、ということだ」
伸彦は自分が本当に言いたいのはもっと別のことだと、わかっていたが、今の彼が言えるのはこれで精一杯だった。倭には今一緒に居る人を大切にして欲しいと、願う。自分でもどの面下げて言える言葉だと思うから、何重にもオブラートにくるんで伝えるしかできない。
しばらく、不思議そうにその話を咀嚼していた倭は、伸彦の思いを性格に汲み取ったのかいないのか、
「付き合ってねえっつってんだろ。こんな時に良くそんな話が出来るな」
と握り拳でテーブルを叩いた。
ドン、と鈍い音がしてテーブルの端で新聞が雪崩れる。
その落ちた先で何かがブルブルと振動し始めた。倭がおもむろに立ち上がり、新聞の下からスマートホンを掘り起こす。
「話は終わりだ」
一方的に話を終わらせる彼に、まだ話は終わってないと言っても引き留められないだろう。
「ああ、続きはまた今度な」
発信元を確認ながら倭はリビングを出て行った。廊下を遠ざかる彼の会話が聞こえる。
「もしもし、入川? 俺だけど。どうした? 何かあったのか?」
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