◆9:魚の泳ぐ家

 地誌グループワークという手の込んだ課題も出ているから一度書店に行って必要そうな参考書を見繕おうといつも乗降している駅からさらにいくつか繁華街へ進んだ駅に降りたのが間違いだった。



 夏休み前の繁華街は、記憶にあるよりも活気に溢れている。主に見慣れない学生服姿の男女によって。


 ああ、そうか、よその学校も夏休みか。


 当たり前の事を倭は思う。中学時代の友人や知り合いとは連絡を取り合っていないので、こう言った形で外の世界を思い出す。


 学割! 学割! 学割!


 商売熱心なアパレルや旅行会社は視野広く客を捕まえようとアンテナを張り巡らせているというのに。



 書店で使えそうな書籍を購入し重たい不折布の袋を手にして、服飾やら雑貨、得体の知れないアイドルグッズ、茶店の並ぶ商店街を元来た駅へと突き進む。


 肌の露出が多い男女がうようよする表通り、どこから集うのか日が暮れるに伴い次第に人口密度が増していく。倭は人の多さに辟易して少しでも人の少なくなるであろう裏路地を通ることにした。裏路地も変わらずごった返していたが、表に比べれば依然そうでもない。


 脂の染み付いた感じのするラーメン屋の出汁と豚、小麦粉のにおいが隣の床屋がばら撒く整髪料の香りと交じり合い、どこからか吹き込む空調の生ぬるい排気が裏路地の熱気を濁った塊に練り上げている。錆びた橋げたが支える高架の上を電車が走り抜けていく。



 漫然と人の流れに流されていると、いつものようにこういう場所は単身でで来るものではないと実感する。人とすれ違う度、自分を覆う殻がちっぽけであると感じてしまう。


 倭は子どもだから、一人では何も出来ない。


 そんな当たり前の事を、学生が一人消え代わりに大人が二人増える町の新陳代謝に思い出す。


 雑多な街はそこに集う人すら雑多でまとまりがない。一匹ではなんと言うことのない蟻が群れれば怖気を誘うように、続々と膨らみつつある人間の凝固物はもはや威圧感と圧迫感で単一生物を吸収する大軍隊だ。地面を踏みしめているはずなのに平衡感覚が奪われて酔いそうになる。


 通り過ぎたパチンコ店の扉がザラリと開いて、通りに向けて鉛玉の雪崩れるけたたましい金属音と改悪されたアニメソングが流れ出た。音から耳をそらすように反対の空を見上げれば大型ディスプレイが明滅している。


 人と人の繋がりが倭には介入できない糊ゲルのような空間。


 きっと、現代人を集団生活を営む生き物たらしめるのは、愛すべき存在が居るからこそ世界が美しく感じられる『月が綺麗ですね』という言葉を引き出す自然の美しさではなく、日々メディアで氾濫し享楽的に消化されるゴミのような情報だ。例えば皆が知っている文化人の死だとか、今オリコンを席巻しているアイドルグループの曲だとか。


 昼の太陽の代わりに薄い電子の幕を垂らした上空では、今まさに男性のアイドルグループが歌を歌い、ダンスを踊っている。ボーカル担当は、色白な肌で華奢な線をした体躯の、少女漫画から抜き出たような男性だ。年は倭とあまり変わらないかもしれない。


「あ、ジラフだ!」


 誰かが中空のテレビを指さし、「ほんとだ」「え、どこどこ?」「聴いたことあるねー」と知らない者どうしが話題を共有する。


 皆が知るアイドルグループをはるか頭上に確認し、バラバラだった人々はまるで、糸を見つけたモビールのように、アイドルを中心としたピラミッド型にふらふらとまとまり始めるものだった。



 だが、ジラフは倭が初めて見るグループだったので、倭は誰とも感覚を共有できなかった。オーロラビジョンの中にいる青年は天使か神かと思わせるほど神々しくハイブリーチされた白髪を振り乱して踊り、歌う。凡人にはとうていなし得ないパフォーマンスを行う彼らこそ今を支配する偶像アイドルであり、スターなのだ。



 知らない人間とつながるための糸を見失った倭は上空を探ることをあきらめ、地上に目を転じる。


 凝った首をほぐすようにぐるりと頭を回して、先のアイドルに匹敵するくらい奇抜なヘアスタイルを見つけた。


 パンクでキッチュなコスモスピンクの長いツインテール。雑居ビルの入り口にすえつけられたポストの陰に隠れるようにして立っている彼女はまぎれもなく近原スナオで右の腕にギプスを嵌め、両足には絆創膏とガーゼを貼り、頭部はピンク髪の下から包帯を覗かせていた。


 彼は校内と同じく校外でもスナオと自から関わり合おうという気持ちはなかったし、ましてやへんてこな格好をした人種と深いお知り合いになるほどのウェルカム精神があるわけでもなかったから、人としてささやか怪我の具合が気になったけども、そのまま素通りしようとした。その足を止めたのは違和感だ。



 怪我をしてその日のうちに退院できたとしても指を粉々に砕かれた人間が再び、所在なげに繁華街をうろつくものだろうか?



 彼は彼女に気取られないよう、何気なくそっとその背後へ歩み寄る。彼女との間の障害物が、金属製の集合ポストと薄っぺらいコンクリートブロックの塀だけになるまで近づいた。直線にして五十センチもない位置で、倭は言葉をかけず息をひそめる。


 しばらく見守っていると、彼女に近づいていく人影があった。スーツ姿の男。脂肪が腹部に乗ってからだにしまりがない。あまりにお腹が重たいのか、重心を背中側においてのしのしと歩いている。彼は倭の前を気にかける風もなく通り過ぎた。一応身なりにかまう気持ちはあるのか、噴出す汗をハンカチで丁寧にぬぐっている。



「きみがスプリングのナオちゃん? だったよね? どうしたの今日はあっち通さなくていいの?」

「大丈夫。ばれてないと思うわ。一件目でおじさんが出てくれて助かりました」


 折り目正しく腰を折る。長い髪が肩からこぼれてすだれを作った。男はそんな彼女にいいよいいよと頭を上げるよう手を振って伝え、これからどこへ食べに行くか候補の店名を上げ始めた。


「ここはフライドチキンがおいしいよ。ナオちゃんお酒強かったよね、ビールもジョッキ一杯タダで、今日のイチ押しだよ」

「今日は怪我をしてるから遠慮しておこうかな」

「ああそうか、そうだね。それ、どうしたの?」


 肉を食らう許しを得たブルドッグみたいに、男の目はスナオの全身を舐めた。顔や胸部短いスカートの裾ではなく、腿に貼られたガーゼを凝視している。ふたりはどこかで食事だけをするつもりらしい。それも、朝まで。


「通り魔に」


 スナオは言葉少なにいい加減な説明をするが、質問しておきながら男はそれにはあまり興味がないらしく、さえぎるように「触るよ」と宣言し彼女の額から腕を、しゃがみこんで腿を、傷の具合やそれに対する施術の出来栄えを堪能するように手で覆い、それからひとつひとつねっとりと撫でる。まるで骨付き肉を噛みしゃぶる犬のようだ。


 この間ずっと通行人は絶え間なく、常に誰かが彼らの脇を通り抜けて行ったのに、誰も気にも留めず振り返ろうともしない。中には横目でちらちらと好奇心を垣間見せる人もいるが、それだけでそれ以上立ち入ろうとしない。



 流行りのファッションに身を包んだカップルが、指さし笑いながら通り過ぎて、倭はどうしようもなく臓腑が煮えくり返るのを感じた。



 見て見ぬふりをする彼らの無関心さ、ずるさ、卑怯さ、その姿勢は正しくもないが間違ってはいない。スナオのしていることは売春と一見に判断出来ることではないからだ。そこに悪があると、断言できなければ誰が何をしていようが干渉しないのは、道理。けども。スナオがしていることは、彼女自身を切り売りする行為だと、倭は知っている。



 何かが我慢できなかった。


 鋼鉄な理性を押しのけるように感情が肥大してひずみ、摩擦が火花を散らして彼の脳内で暴れ返る。握り締めたこぶしが激烈な緊張でぶるぶると震えた。つめが手のひらに食い込むことも気づかないまま、足元に有った空きバケツを力一杯蹴り飛ばした。雨水を無益に溜めたバケツから、濁った水が飛散し倭のスラックスのすそを濡らし、コンクリートの地面へ弓形に黒い軌跡を描く。



 ガラガラと派手な音と共に転がってきたバケツに眉をしかめ、スナオの足元にしゃがみこんでいた男が立ち上がった。倭を見て怪訝そうな顔が、煩わしそうな面倒くさそうな顔になり、さっと怯えが走る。



 倭は男性から、ゆっくりとスナオに目線を転じた。男に対しても倭に対してもスナオは感情の欠落した営業スマイル。拒絶。何を考えているのかはさっぱりと読めない。



 なんで、お前、どうして。歌じゃねぇんだよ。体を売っても心は売らないなんてあるのかよ。知っていたのに、裏切られたようなむなしさがあった。


「お楽しみ中すみませんね。邪魔はしないんで、どうぞ続けて」


 急速に気分が冷めて彼はどうでも良くなった。ヘラヘラと歪んだ笑顔で肩をすくめる。軽蔑のまなざしだけ男に突き刺し、そのまま踵を返す。気分の急降下は音速で、もはやどうしてあんなに腹が立っていたのか思い出すことすら不可能だった。


 そもそも、大多数が看過している売春に口を挟むこと自体がナンセンスなのだと考え直す。


「ちょっと。待って。待ちなさいってば!」


 冷静に戻ったつもりだったのに、足は限界スピードで回転していたらしい。追いかけてきたスナオに腕を引っ張られ、彼の視界が止まる。風景が高速で後ろへ流れていたことに気付く。息があがっている。倭はうろんな目で呼び止めた少女を振り返った。


「どういうつもりなのよ。帰っちゃったじゃない! あなたが何かしてくれるの? あたしにはあの人が必要だったのに、今日の居場所が必要だったのに、どうしてくれるのよ。邪魔しないでよ!」


 悔しそうに下唇を噛み、壮絶な剣幕でスナオが噛み付いた。尖った犬歯がネオンに光る。


「あのなあ」


 皮膚の薄そうなこめかみに青筋を立てて怒っている。スナオの口から飛び出す生唾攻撃には無視で耐えたが、二の腕をつまんで捻ろうとする手は振り払った。どんな握力をしているのかすこぶる痛い。彼女はもどかしげに倭の胸を二度殴った。


「どう責任とってくれるのよ。あなたが何かできるの? 何もできないくせに。かっこばかりの甲斐性無しのくせに」


 怒る彼女を見下ろす倭の表情は影が落ちていて、引き結ばれた口元だけがネオンに光る。それが一瞬じれったそうに波うち、開かれると同時、少女の首元を手のひらが覆っていた。首元を伝い上るように手指が小さな顎(おとがい)を支え、親指がその頬と耳たぶを撫でる。


 なじる言葉の豪雨がやんだ。


「あのなあ」


 ため息を積み重ねて繰り返す。頭部から生える触角をぎゅっと引っ張るように握った。


「あんな人通りの多いところでやるな。知り合いに見つかったらどうするんだ」


 顔を近づけて説く倭の態度が気に食わないと、スナオは彼の手に爪を立てる。


「変装してるから大丈夫よ」

「変装しているから大丈夫?」

「誰かにばれても別にどうと言うことはないわ」


 つんと鼻を反らせた彼女に、倭は思わず怒鳴っていた。


「ふざけるな! 自分の身一つ守れないくせに何が大丈夫だ、問題ないだ!」


 怒鳴った声で我に返り、ツインテールを持ったままその場しゃがみ込んだ。感情をコントロール出来なかった自分が恥ずかしくて顔を上げられない。


「もうちょっと自覚してくれよ。お前のせいでクラスが混乱してるんだぞ。どうせその怪我だって通り魔じゃないんだろ? 客の誰かだろ?」

「人を色眼鏡で見ないでちょうだい。そういう人間大っ嫌い」


 ぺっぺっ。捨て台詞の変わりに唾を吐き捨てて彼女は少年を振りほどいた。


「なあ、おいどこ行くんだ?」


 人ごみの中に溶けて消えようとする少女は振り返って、前方のビルを指差した。


「ネットカフェ。あそこで朝まで過ごすわ」





 最近立て付けの悪くなってきた玄関をギリギリと不快な音を立てながら開けると、かび臭い、土壁のにおいと湿っぽい水のにおいがすうっと足元を掠めるように漂って来た。


「今はむさくるしい男所帯だけど」


 前置きして倭はスナオを招じ入れた。


 初めて訪れる他人の家の様子が気になるのか、彼女は土間に立ったまま鼻をスンスンと鳴らして、当たりを探るような仕草をする。下駄箱の上に置かれた、フランス国旗みたいなストライプ柄の熱帯魚が周遊する水槽の背後を覗き込んで訊いてきた。


「これ、ポプリ? ドライフラワー?」

「熱帯魚だろ。カージナルテトラ」

「魚じゃないわよ。においよ、におい。乾燥した花の香りがする。柔軟剤みたいに甘ったるくない香りよ」

「花の香り?」


 倭は首を傾げて鼻を虚空に向けて動かすが、やはり水槽から漂うかび臭い水のにおいしかしない。

 いや、あった。

 確かに花のように涼やかな、防虫剤のようなにおい。だが倭はそのにおいに覚えがなかった。近所でにおいの強い花でも咲いているんだろう、程度に思っていた。


「言われてみれば確かにするけど」

「うーん、この家の中じゃないのかしら?」


 怪訝そうな倭の顔を見て、スナオは首を傾げながらもにおいの出所がわからなくなったらしい。水槽の置かれた下駄箱を指で示し自分の胸へ向けて指を動かす。香りの動きを表しているらしいがそれ以上は言ってこない。



 倭も彼女を真似るように毎日のように使う土間を改めた。靴箱に掛けられた父親のスーツや仕事道具をどけて普段開けない棚も確認するが、ドレスアップ用の靴や使わなくなった靴が押し込められているだけで特に何もない。


「親父が何か置いたのかも。靴のにおいを消すために」


 家には帰りたくない。

 かといって頼る当てもない。


 好き勝手させておけばさっきのように得体の知れぬ大人と夜の街を歩き回るし、だめだと諌めればネットカフェで一晩を明かすと豪語する。そんな危機意識の低いクラスメイトを放置して帰れるわけがない。


 クラスの女子に連絡して引き取ってもらおうかとも考えたがこんな複雑な物件を預かり扱える子など居るわけがなかった。クラスで煙たがられていて、つながりの深い友達がいるわけでもない。大人しいだけならなんとか同情心を換えるかも知れないが、正体は不遜で頑固なピンク頭。そんな説明しづらいもの誰も親に紹介したくないだろう。

 それは倭だって同じことなのに、何故自分は彼女を家に上げているのだろうかと苦い気分になる。仕方がないとため息を飲んで部屋の電灯を付けた。噛み付くばかりでかわいさのかけらもない子犬を連れ帰ってしまったのは、子犬の問題に対処できる最適の人間が自分以外に居ないからだ。渋々でも面倒を見るのが人の道理だと思ったからだ。


「男所帯って酷いわね」


 倭によってドアを開かれたリビングを見渡して、スナオは呆れたような声を出した。


「男だけで群れるとこうも荒れた空間が出来上がる訳ね。勉強になるわ」

「仕方ないだろ、母さん出てったんだからよ。ソファ、座れば」


 父親が脱ぎ散らかして行った寝巻きを取っ払い、隣の部屋に放り込む。倭自身脱いだ服を散らかしておく癖があるが、今日は運良く片付けていた。

 隣の部屋は相変わらず黒光りする電子機器と、大量のカメラのレンズが鎮座していた。昼夜問わず電源を入れたままの機械がブウウウウンと低いモーター音を奏でている。


「熱帯魚、下駄箱の横にも居たけど、伊比君、あなた魚を好きなの?」


 テレビボードの横に置かれた低めの棚を覗き込んでスナオは尋ねた。男所帯というには男臭さと言うか生活感にかける家だなと彼女は思う。食べ物の気配がしない。食べた食器が流しや水切り棚に並んでいることもない。部屋の隅にゴミ箱を見つけて納得した。大量のコンビニの袋。菓子パンやおにぎりの包み、空になったお茶のペットボトル。


 その代わり、大量の雑誌が部屋に散乱している。海洋生物学研究雑誌、浜辺のリゾート特集ムック、世界の魚図鑑、ご飯通月刊誌、水泳マガジン、海洋汚染特集新聞記事の切り抜き。壁には海の写真付きカレンダー。魚魚魚。海湖川。その飛沫の一瞬の切り抜きが紙に大量に印刷され、文章でまとめ上げられて所狭しと転がっている。

 リビングテーブルの上、部屋の隅の本タワー。魚のモビールやぬいぐるみ。インテリアの隙間を埋めるように水槽が置かれていることが輪を掛けてここを特異な空間に仕立て上げていた。どうやらライトアップするための装置まで付いているらしく、気まぐれに近くのスイッチを入れたらブルーと紫のイルミネーションが水槽越しに壁と床を彩る。


「それとも誰か、水関係の趣味でも?」

「ああ、世界の趣味……親父の仕事だ。魚は全部、家を出るとき世界が置いて行きやがった。世話するのは残った俺だっつうの」


 ざらざらと無造作に餌を放り込んで回る。何も考えず浮遊しているように見えた魚たちが眠たげな目を見開いて餌をつつきに水面へ上がってくる。


「なにそれ世界? 名前?」

「ああ名前、うん名前。俺の名前倭だろ。セットにするならってことじゃねぇの。ただのシャレだよ」


 倭は食器棚から出したグラスをシンクに置き、上から勢いよく水道水をかけた。使ってもいないのにどこから舞ってきたのか埃が張り付いている。閉め切った部屋の暑さに耐えかねた汗が額から落ちてグラスの中の水と混じった。


 スポンジで洗いながらスナオにエアコンのボタンを圧すよう頼む。吐き出された冷気はしばらく上空で狭苦しそうにして、それからぐいぐいとその勢力を増し部屋を冷やし始めた。



 父親の商売道具で溢れる部屋を片付けるためせっせと動き回る倭の頭にゴツゴツとぶつかるのは、インテリアの域をからあふれて過剰に天井からつり下がったモビールだ。モチーフはすべて魚、たまに鯨かイルカ。水泡を模したものなのか金属の丸い切片がしゃらしゃらと鳴る。


 スナオは涼しげなピアノ線に吊り下がるカラフルなベニヤ板を指先でつついてみた。民家に似合わないモダンな飾りがゆらゆら楽しげに揺れる。


「この飾り楽しいわね」


 部屋に散らばるものを何とか隅の方へ寄せて片付けようと苦心していた倭はソファを振り返ってあきれ返る。あぐらをかいて座るスナオは扇風機を抱え込んでモビールを揺らしていた。


「泳いでるみたい」

「おい、クソガキ。洗濯できてるバスタオル見つけたからそのコテコテの化粧と鬘だけでも落として来い。ったく、利き手壊してどうやって化粧したんだよ」

「左手でやるのよ。案外どうにかなるものよ」

「そうかい」


 どうにかなると胸を反らせたくせに化粧落としは一人でできなかったらしく、洗面所で「お湯が出ない」だの「蛇口が使いづらい」だの「メイク落しが顔に届かない」だのぎゃあぎゃあわめき倒したため、倭は彼女に付き添って化粧を落としてやらねばならなかった。


「うぅ、体がベタベタするわ」

「しゃあねえだろ、夏なんだから」

「あたしは気にしないからタオルで体を拭いてー」

「俺が気にするっつうの」


 じたばたと足を動かして無茶を言う少女の顔面を乱暴にタオルでぬぐう。その手が中途で止まった。


「おま、すごい汗だぞ」


 倭は心配の声を上げ、スナオを覗き込む。


 皮膚の水気をぬぐった端から汗がじわりと額や鼻の頭に染み出して結合し、露玉の姿を結ぶ。バスタオルで再度念を押してふき取ってみたが結果は同じで汗の筋が彼女のこめかみを伝い落ちた。見れば首もとも二の腕も大量の汗だ。


「そりゃあ、痛いもん」


 へらりと薄く口を開けてスナオはギプスを掲げ笑ったが、その目はうつろで焦点を結ぶのに苦労していた。ふざけることで抑圧しごていた怪我に蝕まれる身体の消耗があらわになっている。


「粉砕骨折よ。一日やそこらで治るわけがないわ。安静にしてたらそうでもないのだけど、さっき無理をしたから」

「近原……」


 倭は言葉が出てこない。彼女の痛みを抑えるすべに見当も付かず、どうしてそんな無茶をするのか、どうしてそんな無茶をしなくてはならないのかと怒りに似た戸惑いを胸のうちにぐるぐると渦巻かせ、バスタオルを彼女の顔面に押し付けるのみだ。


「どうしたの、その顔。泣きそうじゃない」


 スナオは乾いた声で、険しくひそめられた倭の眉間を指摘する。実際彼の胸中に涙の気配は一切なかったが、どう表せばよいのかわからない欺瞞が喉元までせり上がって居たのは事実だった。



「近原おまえ、自分がかわいそうだと思わないのか? 本当なら入院しててもおかしくないんだろ? 家で安静にしてなくちゃならないんだろ?」

「ふふ、まさか」


 口の端からさもおかしいという風に笑いをこぼしてスナオは否定した。


 それこそそんなわけないだろと問いただしてみようと思うが、舌の先が痺れたようになってできない。



 恐怖しているのだ。


 何に?


 パンドラの箱の重さに。



 こんなになってまで医者に行こうとしない、家にも帰らない。何か事情があるのは彰だかだった。彼女の抱えるパンドラをを開けることは、彼女の苦しみを背負うことと限りなくイコールだ。苦しみを請け負うと言う意味ではない。パフォーマンスとして、出来る限りの助けをして見せる事は出来るだろう。


 けども、共感や理解を示す力が彼の中にはない。自分の生きてきた世界にスナオの持つ闇と接点を持てるような物事があるとは思えなかった。つまり苦しみを背負うためには、一七年の人生観を足下から崩し再構築するほどの度胸が必要で、それは今の平和を失うことと同義だから恐ろしさに尻込みする。倭には古い人生観をアップデートするためのスペックがない。強さがない。度量も技量もない。自分のことで精一杯だ。



「どうしてかわいそう? 頓服薬をもらってる。大丈夫よ」


 でも、そうね。と付け足す。襲われたことは不幸だったかもしれないわね。


「ねえ」


 スナオが互いが端を持ち合うバスタオルを斜め外側下方に引いた。前傾した倭の足を払う。ぐるりと上下が左右と入れ替わり、さらに百八十度も回転した。したたかに頭部を洗面所の敷居に打ち付けた彼の視界に火花が散る。瞬きをして痛みに口を開閉させる倭の腹部に彼女はひざを叩き込んだ。そのまま内腿で彼のわき腹を締め上げる。



「ぎっ……」


「気づいてる?」

 うめく少年の耳元にさくらんぼのような唇を寄せ、スナオは甘美な声を鳴らす。


 ことりと首を傾げるそのしぐさは、非常に芝居がかっていて、逆光が作る表情、落ちる髪の流れ、声の密がごとくとろける音色は恐ろしいくらい計算し尽され完成されていた。



「こうして、身体能力ひとつ取っても、あたしはあなたよりずっと強いわ。もちろん、精神的にも、ね。かわいそうがられる部分なんてどこにもない。あたしを拾って人助けをしたつもり?」



 ポタポタと顎を伝ったスナオの汗が倭の首に落ち、彼の汗と混じる。

 生温くくすぐる感触。



「あたしは誰とつるまなくても生きて行けるわ。そのために自分を鍛えたし、生きるためなら、反吐が出るような仕事だって出来る」


「買しゅ、ウリのことか?」


 少し迷って言い直したが、どっちでも同じことだった。



「そうよ。ねぇ、あたし、かわいいでしょう?」



 尻上がりに尋ねた声はやはり軽やかで愛らしく、長い髪がさらりと倭の頬をかすめ、組み伏せられたまま少年は彼女に見とれた。




「少しかわいいかもしれないけど、月並みだろ。探せばどこにでもいる」


 そう答えるまでの間が全てを語っていて、スナオもいちいち訂正しない。



「かわいいから、売るの。ちょうど良いから、売るの。この世は需要と供給よ。需要があるのなら、あたしは存在意義があるの。幸せなの。男なんて、あなた含め気持ち悪くて仕方ないけど、あたしに意味を与えてくれるなら神様よ。


 でもね、あたしが好きなのはかわいくて強いたったひとりの女の子よ。あたしの操はその子のためになら、いくらだって汚せる、価値の無いものなのよ。だから、あなたみたいな勘違いをしている人は虫酸が走るくらい嫌い。だから、どんなに期待されたって絶対に心は売らないから安心していいわ」



 期待されたって心は売らない。ふと、昨日みた舞夏の表情が瞼に浮かんだ。必死で倭に縋り付く、失いたくないと目を赤く涙ににじませた顔。その顔を向けてもらえるならと、倭は付き合うことを了承した。


 腹部に感じるスナオの重みは締め付ける力と反比例するように軽く頼りない。これが、彼女の限界なのだ。組み伏せられたまま、彼は彼女の汗を拭ってやった。必死に生き過ぎてスナオは自身をかまい忘れている。



「女子が好きなのか」

「そうよ」


 蛆虫を見るような目で彼女は倭の手を叩き落とした。



「男で生まれたからって、威張っていられるとすごくむかつくの」

「威張った覚えはないけどな」

「威張っていたわ」



 何のことを言っているのかと彼はやり取りを止めて考え、適当に見当をつけて答える。


「あのな、男でも知らん成人男性と二人きりはリスキーだぞ。俺ならごめんこうむる」

「それがむかつくのよ」


 当たりをつかんだらしく、彼女はいらだたしげに歯をきしませた。



「ただ息をしているだけで男であれる男の人がうらやましくてたまらない。ねえ、それって、一種の才能なのよ? あたしなんか何をしても様にならなくて、いつも使い捨てのザコキャラみたいな無様さよ」

「近原ってよく喋るやつだったんだな」


 倭がついた感心のため息は、肺を圧迫されているため細く長い。


「喋る相手が居ないだけ」

「俺には喋るのか? 光栄だな。そろそろ上からどいてくれるとありがたいんだけど」



 勘違いしないで欲しいわとぶつぶつつぶやきながらスナオは体をどかす。



「ザコキャラか」


 床に起き上がって頭をかき回した。冷房のない洗面所で熱源と密着していたため、全身が汗に濡れシャツが肌に張り付いている。スナオも同じ調子だろうと考えると例え先のような告白をされようとも、顔を直視するのは少しばかり気兼ねがあった。


 周囲から浮かないように、必死になって足並みをそろえる。浮いてしまえば社会的に抹殺されるから、居場所を失って自分の存在価値を見失ってしまうから、でっぱったコブはナイフで削って、醜いあばたにありあわせの泥をつめる。傷口は癒されること無く血を流し膿み、あばたは存在を無視されて腐敗する。ぐちゃぐちゃな泥人形は見目が悪いのに、みんなと同じ形だから迫害されないで受け入れられる。自分と似たような相手ならお互い許し合える。


 スナオもそうだ。そうやって自分の性癖をひた隠して毎日をやり過ごしているあたり、彼女も平均的であることの美徳に支配されている。彼女が常から臆病で不器用な女子を演じているのはその方がボロが出ないからだろう。



 倭の心の奥で、小さな自分が言った。



『どうしてみんなと違うといけないの? そっちのほうが自由なのに』



 黙れ、と思った。


 それは無知な愚者か全てを持つ特権階級の理論だ。目だけぎらぎらと大きくて、世界の隅々までを自分の尺度で見ている小さな子どもが記憶の中で正論を吐いている。その頭部に想像の斧を落とした。血しぶきが飛ぶ。何度も重たい斧を振り落として、細切れにして叩き潰しピューレにする。返り血を浴びながら、倭は満足し安心の笑みを浮かべるのだ。賢しい疑問は、足元をすくう。殺してしまった方が身のためだ。



「伊比君?」


 スナオに名前を呼ばれてはっと顔を上げる。さっきにも増して汗が体を濡らしべったりと不快に全身を包んでいる。


「あたし、男と手をつなぐ趣味はないのだけど」


 見ればスナオの左手をがっしりと握りしめていた。中身は女に惚れる男になりたいザコキャラなのだとしても、握った手のひらは柔らかく小さくて、汗でじっとりしているもののごわついたところは微塵もなく女の子の手以外の何物でもない。


「ああ、ごめん」


 彼女の手を離すと指先に名残惜しさが残った。

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