7.九月十一日に生まれて

 一人の修道女が祈っていました。ゆったりとした黒のトゥニカは身体のラインを覆い隠しており、俯いたウィンプルは顔をほとんど分からなくしていました。空には陰りがあって、乾いた草も風も、死んだように黙っており、全てのものが暗く、そして灰色でした。

 辺りいちめんの砂の海の上に、ぽつんと浮かぶ島がありました。それは洞窟のような地下納骨堂カタコンベでした。その前面には機関銃が据えられており、背後の建物の陰には、衛星から隠れるように、装甲車や戦車の一団なども待機していました。各所に設置された指令用のスピーカーからは、平均律のピアノの音――黒人霊歌スピリチュアル『深き河、我が悩み知り給う』――が、鳴り響いていました。

 土嚢を積んだ機関銃座の奥で、アラビア語の会話が聞こえてきました。それらには男女も人種も年齢の垣根も無く、一個いっこが人間の形をしていました。そしてそれらは悪魔でもなく天使でもなく、確かに普遍の人間たちの姿なのでした。

〈――ナザレ派の女だ〉

〈発砲するか?〉

〈いや待て、巡礼者かもしれない〉

〈女ひとりで巡礼するか? そんなクレイジーな女が?〉

〈構わねぇ、近付いた奴は撃っていいとアポロが言っていた〉

〈この地下納骨堂もキリスト教徒のものだぜ〉

〈愛の信仰者は俺たちの敵だ。これは聖戦ジハードだ〉

〈お前、アポロに会った事が? 指令は無線やスピーカーからしかやってこないじゃないか〉

〈神だって見た事があるか? おれは書物でしか見た事がないぜ〉

〈まぁ、待て、俺に任せろ〉

一人の人間が言いました。それは部隊長のようでした。部隊長は修道女に向けて言いました。また同様に機関銃の銃口も彼女に向けられていました。

〈何者だ? そこで止まれ〉

ふらふらと、浮かぶ亡霊のように歩いていた修道女はそう言われて立ち止まりました。それから言いました。

〈旅の者で御座います。わたくしは神の僕。巡礼の最中で、この渇いた土地に試練を課されています。――水を一杯頂けませんか?〉

〈断る。我々は神の信徒ではない。我々は、我々自身を信仰する、我々のために行動する、エゴイストの連合だ〉

周りのアラビア人たちが、そうなのか、と新鮮そうに部隊長の話を聞いていました。修道女はか細い声で言いました。

〈それならば。貴方のエゴで、わたくしを助ける事もできるはず。わたくしは弱き、たった独りの処女をとめで御座います。どうか慈悲を〉

女が言い終って、しばらく沈黙が続くと、部下の一人が隊長に提案しました。

〈助けましょうよ、隊長。なにせ相手はたかが女だ。部隊内での姦淫は暴力だとして禁止されてるが――あいつは俺たちとは関係無い。外部の人間だ。捕まえて、輪姦まわした後で殺せばいい〉

それもそうだな、と隊長は答えました。それから、機関銃の銃口を外させて、しかし建物の陰の狙撃兵には待機させたまま、修道女に近付くように合図しました。

 修道女はゆっくりと歩き始めました。すると風が吹いて砂が舞い、何人かの目に涙を浮かべさせました。すると空も泣き出しました。雨季でもないのに雨が降り、砂漠の砂を重たく湿らせました。虹色の蝶の黒旗もなびいていました。

〈――おお、神よ、あなたの慈悲に感謝します〉

修道女は天を仰いで、跪いて祈りを始めました。部隊長を始めとする兵士たちは半ば呆れながら、彼女が祈り終わるのを待っていました。銃座からは二〇メートルもありませんでした。修道女は軍用ブーツの中に素早く手を入れると、中から銃剣を取り出して、そしてそれを投げました。銃剣は回転して部隊長の脳天に刺さり、周りが呆気に取られている隙に修道女は、素早く陣地に駆け寄って、銃口に抑音器サプレッサーの付いた自動式拳銃『武装した人ジャンダルム』を、胸の辺りで祈るように構えながら、音も無く機関銃手たちを片付けました。

 やがて周りの兵士たちがそれに気付いたとき、彼らはチェコ製のVz58『日本赤軍の銃』やVz26短機関銃を構え、そして滅茶苦茶に乱射しましたが、少女は既に修道服を脱ぎ捨てており、兵隊たちが撃ったのはその抜け殻でしかありませんでした。少女は空中に放った黒のトゥニカを死角にしつつ、兵士の一人を三日月型のナイフで刺し殺すと、その肉塊を盾にしながら、音速で飛んでくる銃弾をかわし、脇から『赤軍の銃』で撃って順番に殺していきました。それから甲高くぴぃぃぃ、と指笛を吹くと、待機していた狼犬が陰から飛び出してきて、建物で少女を狙っていた狙撃兵を噛み殺しました。それから、遅れたように三拍子のリズムで、葦毛の馬も駆けてきました。

 銃声を聞きつけた連中が、地下納骨堂の中から姿を現しました。少女は据えられていたブルーノZB53重機関銃を一八〇度転換させると、彼らに向けて七・九二ミリの雨を降らせました。それで彼らの殆どは首から上を失くしたり胴体に大きな穴を開けるなどしましたが、少女は鞄から『モロトフ・カクテル』と呼ばれる火炎瓶を取り出すと、仕上げと言わんばかりに納骨堂の入り口に向けてそれを投げ付けました。放物線を描いて瓶は、がしゃんと音を立てて割れると化学反応から発火して、周囲の人間を火種に燃え上がり始めました。それでしばらく周囲は明るくなりましたが、雨でそのうち火は消し止められました。

 葦毛の馬は、息を荒くしながら主人の下にやってきました。少女は馬の鞍からソ連製『クリンコフ』短機関銃を取り出して背負い、イギリス製『リー・エンフィールド』小銃を手に取ると、さっき投げ付けた銃剣を死体から抜き取って、その先端に取り付けました。

〈ここで待ってろ〉

葦毛の馬は逃げ出したい気持ちでいっぱいでしたが、手綱を木に結び付けられていては逃げ出す事も出来ませんでした。少女は狼犬を連れて地下納骨堂の入口に近付きました。その壁には、大きな文字で『唯一絶対の単純な掟:部隊内における暴力の禁止』と書かれておりました。それから細則として、『我々は愛の信仰者ではない』『愛とは即ち暴力である』『人間にとって人間は、狼であるホモー・ホミニー・ルプス』とも、書かれていました。

 完全武装の少女は、「…………」とだけ言って、フランス製自動拳銃『武装した人』の弾倉を交換し、脇のホルスターに戻しました。

 スピーカーからピアノの音が止んで、マイクの音声が入りました。それは少年のような明るい声で、また人生に疲れた老婆のような声でもありました。

『やー、ゾーイ、約束通り来てくれたんだね。ぼくは嬉しいよ』

ゾーイと呼ばれた少女は、入口近くに設置された監視カメラを見つけると、それをライフルで撃ち壊して、それから言いました。

「待っていろ。いま会いに行ってやる、アポロ」

ゾーイは『リー・エンフィールド』のボルトを素早く操作すると、それを槍のように構えました。

〈――行こう、カマル〉

クルトの言葉でそう呟いて、カマルと呼ばれた狼犬は、元気よくワン、と吠えました。二人は地下納骨堂の闇に溶けてゆきました。

 空の雨は小降りではありましたが、しばらく止む気配はありませんでした。葦毛の馬は、風邪を引いたのか、ひとつ大きなくしゃみをすると、ふと手綱の括りつけが弱いと見えて、必死になって暴れてみると、それがぽろりと外れたものですから、ひとりでに北西の方角へと、すたこらと走り去っていったのでした。


 * * * * * *


(光より早く音はありました。スピーカーの声は地下納骨堂カタコンベ反響こだまして、ゾーイはそれを無視しながら、ときどきランプの点在するのみの薄暗い洞穴のなかで、着剣された小銃を槍のように構えながら、狼犬の嗅覚を頼りに進んでいました。スピーカーが言いました)

――にんげんを肯定するには、殺人・強姦・傷害・窃盗・その他その他の犯罪行為などを全て包括して人類を愛さなくてはならない。にんげんという生き物は素晴らしく、犯罪は常に起き、人を殺し、犯し、奪い、いつも誰かが誰かを不幸にしている。それはすなわち人間の素晴らしさゆえだよね。

(ぼくらは愛されなかった選ばれなかった望まれなかった子供たち。ぼくらは愛されなかった選ばれなかった望まれなかった子供たち。と呻きながら、鉈や斧を手にした少年兵たちが、いえ亡者たちが、ゾーイに切りかかってきました。薄暗い洞穴で、ゾーイはそれを視覚というより皮一枚の感覚で避けながら、彼らを銃剣で突き刺して、捻って抜いて殺しました。子供のひとりが、ゾーイの後ろから切りかかってきましたが、狼犬が素早くそれを制して噛み殺しました。ゾーイは低い姿勢になりながら、刃物で切りつける子供の膝裏の腱を三日月型のナイフで切り裂くと、崩れ落ちた子供の背中に回ってその喉元を掻き切りました)

――戦争は素晴らしい、最高だ、人間の作りだした最高の英知だ。人間は素晴らしく、全ての人間は愛されるべきで、だから、僕は全ての人が平等に死ぬことに嬉しさを覚えるし、死ななければ人間を肯定できない。死んだ奴しか肯定できない。

(鎌が、空気を切り裂いて飛んできました。ゾーイがそれを撃ち落とすと、その跳弾と落とされた鎌とがそれぞれ子供を殺しました。三人の子供たちが、一斉にゾーイに切りかかると、少女はそれを左腕で受け流しながら、皮膚の膜をつまむようにして相手を誘導し、互いに互いを刺し殺させました。残った一人を捕まえると、それをライフルの負い紐で拘束しながら盾にして、銃で周りの子供たちを順番に射っていきました。それから最後に盾に使っていた子供の首を捻って折りました)

――みんな誰かを足蹴にして、踏み台にして生きており、直接だろうと、間接だろうと、人間はヒトの命を喰らって生きているカニバリストであり、殺人者であり、それゆえに、犯罪行為は人間の英知である! 人間のあるべき姿である! そう肯定しなくては、人類愛なんか唱える事はできない。それをしないのは欺瞞の愛だ。

(ゾーイは『リー・エンフィールド』小銃に挿弾子を二つ装填すると、カマル、と呼びかけました。狼犬はそれに応えると、彼も少し怪我をしていたようだったので、ゾーイは自身の赤いバンダナを解いて、それで止血してやりました。その隙に、死に損ねた子供が倒れながらひとり、手榴弾のピンを外す音が聞こえて、ゾーイは駆け寄ると――起爆レバーが外れないように――その手を強く握りしめながら、ナイフで心臓を刺して止めをさしてやりました。彼は死に際にゾーイの後ろ髪を強く握っていたので、少女は血の付いた三日月のナイフで自分の髪を乱暴に切り落としました。それから狼犬にキスすると、進む先の曲がり角からその手榴弾を子供の死体に投げ付けて、狼犬を連れて先へと歩を進めました。背後からは人間の焼ける匂いが漂ってきました――それは白燐手榴弾ウィリー・ピートの燃焼でした)

――人は死に、人を殺しながら笑ったり、人を踏みつけながら幸福を享受したり、そうやって人々は生きているのだから、無自覚に、人類はすべてサイコパスでありソシオパスであり、狂人なんである。世間のやつらも僕もお前もみんなみんなみんな気違いだ。

(納骨堂の少し広いところに出ました。そこはいちめんが人骨で組み立てられており、ランプの灯りの奥では、PK機関銃が土嚢に鎮座していました。するとそれが火を吹きました。音は洞穴内に酷く反響して、鼓膜が破れるのも構わずに、原理主義者は一心不乱に引き金を絞り続けていました。聖戦ジハードによる殉教は、彼らの完全な肉体と緑園への入場を確約するものだからです。ゾーイは人骨の壁に身を隠しました。弾丸は音を切り裂いて飛来してきておりました)

――にんげんを肯定するには、にんげんのすべてが気違いであり、異常者であり、「普遍的な人」「個人」「ジョー・アベレージ」が架空の存在、集団妄想である事を認識しなくてはならない。それから、すべての異常者が、人を無自覚に殺したり踏みつけたりして、幸福を享受している事を肯定しなくてはならない。

(ゾーイは遮蔽物に釘付けになりながら、背中から『クリンコフ』短機関銃を取り出すと、機関銃の傍のランプに照準を合わせました。そして撃ちました。ランプの炎は射手をあっという間に包み、ついでにゾーイは、『モロトフ・カクテル』と呼ばれる火炎瓶を彼らに向かって投げ付けてやりました。火は、彼ら原理主義者をあっという間に火達磨にし、それはイスラームにおける最大の侮辱でもありました。ゾーイは彼らが逆上する前に、火に踊る彼らを『クリンコフ』短機関銃で薙ぐように一掃しました。――ところで、彼らは「女に殺される事は地獄行き」と信仰しているのですが、ゾーイは異端のヤズディ教徒であり、異教徒に殺されれば殉教できるわけであって、彼らは果たして、死んだ後にどこへ行くのでしょうか?)

――にんげんって素晴らしい、――ただし異常者や特定のアイツは除く、とかそんな矛盾、許されないに決まってるだろ。お前はその「素晴らしい」から外れるのが怖いから、誰かを必死で外し疎外しようとするんだろ。お前たちが疎外した人間を人間と認めないのなら、自分の正常性や普遍性を証明してみせろ。

(ゾーイは空になった『クリンコフ』の弾倉を外しました。そして肩提げ鞄から七十五連発のドラム弾倉を取り出すと、それを捻るように装着して遊底を引きました。それから狼犬に向き直って、互いに頷いて、ゾーイは叫びながら敵陣に突撃しました。打楽器の音がするようでした。それは『クリンコフ』の乱射でした。増援は銃を向けるより先に少女に撃たれ、その血は壁の人骨を赤く染めました。少女の小さな身体では支えきれない反動によって、弾倉を撃ち切るより先に『クリンコフ』が回転不良マルファンクションを起こすと、ゾーイは脇からサーベルを抜くように散弾銃『雌ロバの片脚エンプーサ』を取り出し、ループレバーを軸に片手で回転させ、散弾を撃ちました。切り詰められた銃身から放たれた散弾は程良く拡散して、複数のを一緒に殺してやりました。散弾銃の音が何発か続くと、やがて辺りは静まり返り、狼犬が死にかけた奴らを噛み殺す音だけが洞穴内に響いていました)

――僕たちは生まれた時から負けてるんだ。要はそれが悔しかった。だから、僕たちは、ただ勝者どもに復讐したかっただけなんだよな。将来の事を夢想する恋人同士も、そうして幸せな家庭に育った子供たちも、世界に貢献しつづける有能な人材も。障害を持って産まれながら、周りに助けられながら、愛されながら、社会に参加できる幸せ者も。皆みんな、死ねばいい。

(スピーカーはまだ声を発し続けていました。ゾーイはそれを無視しながら、『クリンコフ』の装填不良ジャムを解消すると、それを三日月型のカランビット・ナイフと共に構えて、黙って歩を進めていました。最深部は近付いてきていました)

――僕たちはみんなの後ろ向きに走り続けている。もう、後戻りなんかできやしない。地球の裏側に辿り着くには、幸福に辿り着くなら、このまま進んでいくしかない。勝者による敗者への抑圧、構造の暴力は、また更なる暴力を生み出すだけで、僕は世界を全く平和にしたいんだ。世界平和の為には、皆みんなが一斉に考え始めるか、あるいは、みんな一斉に、死ぬしかない。一匹残らず殺すしかない。僕はそう選んだ。何故なら「考えられない人間」というので、世の中は溢れているからさ。皆が他の人の事を考えるようになるなんて、世界中みんなが同じ宗教に染まるくらい、無謀な事だろ? 『平和を欲するなら、戦争に備えよパラベラム』逆も真かな、『戦争を欲するなら、平和へ備えよ』。

(ゾーイはふと立ち止まって、辺りを警戒しながら片膝を付いて、『雌ロバの片脚』に散弾を装填しました。一帯は奇妙に静かでした。もう生きている者なんか、自分のほかには居ないのではないか、と錯覚させました。それでも薄暗い洞穴の中で、狼犬が居るのであり、ゾーイは彼に再びキスをしました。狼犬も彼女の返り血を舐めて綺麗にしてやりました)

――僕らは降りる。僕らの過去から降りる。「ぼくらは愛されなかった選ばれなかった望まれなかった子供たち」……子を成せない僕たちが未来に遺せる物は何だ? 名誉? 名声? それとも文化?

(するとスピーカーが――いえ、アポロが言いました)

――それは怨みだよ、ゾーイ。君は僕を怨み、そして同じように僕は世界を怨んでいる。怨みは紡がれて未来へと繋がっていくんだ。

(ゾーイは着剣された『リー・エンフィールド』小銃を再び槍のように構えると、地下納骨堂カタコンベの奥へ奥へと進んでいきました。そこに意味があるかのように、そこにかつての待ち人が居るかのように、彼女は足を、身体を、そして肉体を動かし続けました)

――僕は君に問う。

悪魔の背丈と体重は?

神様の髭は何センチ?

ワドドゥはどんな形?

平和サキーネはどんな色?

夜は青?

天国は緑?

昼は赤?

虹の色はいくつ?

蝶は何を夢見る?

幸福と卵の違いは?

不幸は何を食べている?

――君はいつ、どこで、どう生まれ育ったかを、確信しているか?

――君は、自分が何者であるか、何をすべきか、確信しているか?

「――血肉は、綺麗な桜色だ」

 ゾーイが初めて答えました。その服はほとんど返り血で濡れ、乱暴に短く切られた髪は赤く染まり、その眼は嫉妬に狂う緑色、その胸には、孔雀の羽根の飾られた琥珀の宝石を輝かせているのでした。


 * * * * * *


 少し狭い部屋の中に、腰だめに構えられた銃剣が鈍く輝いていました。ゾーイは足音を立てないように、片足の踵から体重を乗せ、ゆっくりと膝から抜くように、重心を移動させながら歩いていました。洞穴には蝋燭の火が燃えていました。

 ふと、軽い銃声が一発、響きました。それから人の倒れる音がしました。ゾーイは素早くそちらに振り向き、そして息を殺しました。狼犬もそれに倣いました。

男がひとり、撃たれた膝をついて女を見上げており、彼女は、そしてチェコ製機関拳銃『スコーピオン』を額に向けると、そのままそこに小さな穴を開けました。空薬莢の転がる音だけが残りました。

――サキーネ。とゾーイは思い出していました。アポロ直属のミューズのひとり。亡国ユーゴスラヴィアのボシュニャク人、フォチャの虐殺を生き延びた――その役割は、部隊内の「平和」を保つこと、すなわち、『唯一絶対の単純な掟:部隊内における暴力の禁止』を破ったものに、制裁を与えるものでした。それは、狐のお面を被った黒く短い髪の少女で、左腕には虹色の蝶の刺青をし、黒い地下足袋を履いて、右手には『スコーピオン』機関拳銃、左手には短い直刀の、ダマスクス鋼で出来た忍者刀を逆手に握っていました。

 ゾーイは『リー・エンフィールド』小銃をサキーネに向け、一発撃ちました。音をも切り裂く弾丸は、一瞬遅れて彼女の真横の壁に跳弾しました――それは彼女が刀で弾いたからです。と同時に、サキーネはゾーイとの距離を一気に詰めました。ゾーイは『リー・エンフィールド』のボルトを操作して次弾を装填する途中でしたが、紙一重でサキーネの逆袈裟を躱しました――否。斬撃を防御しようと構えた銃剣付きの小銃を、日本刀で真っ二つにされました。ゾーイは鉄屑になったそれを捨てながら、逆袈裟から身を回転させつつ放たれる横薙ぎを、バックステップで避けながら、胸から三日月型のカランビット・ナイフを抜きました。

 狐のお面の口元が笑っていました。蝋燭の火も揺れていました。サキーネは軽く踏み込むと、『スコーピオン』機関拳銃を殴りつけるようにしてその銃口を向けました。ゾーイはナイフでそれを銃口の向かないように凌いで、耳元で数発の銃声が響いたあと、右手の掌底で機関拳銃を弾き飛ばしました。それと同時に、肘の内側にナイフの刃のカーブを沿わせて相手の腕を巻き取ろうとしましたが、サキーネはその流れを殺さないように、そのまま回転しながら左手の日本刀で上段を薙ぎました。ゾーイはそれを倒れ込みながら避けて、同時に勢いを乗せて足払いを繰り出して、転んだ彼女にナイフを突き下ろしましたが、起きあがりながらのサマーソルト・キックを受けて、ゾーイは仰け反って後ろに倒れました。その間に脇のホルスターから、自動拳銃『武装した人』を抜きました。

 ゾーイは仰向けに床に転がりながら、ゆったりと近付くサキーネに何発か拳銃を発砲しましたが、すべて刀で弾かれてしまうのでした。それは銃弾が見えているというよりも、銃口の向く先に正確に刀身が吸い寄せられるからであり、銃弾は斜めに弾かれて壁に着弾するのでした。ゾーイは銃口を外さないまま立て膝の状態に戻り、再び拳銃を連射しました。抑音器で抑えられた低い銃声と、真鍮製の薬莢が転がる音、それから弾かれる銃弾が壁で潰れる音だけが響き、九発の弾倉を撃ちきってスライドが後退したまま停止しました。

 サキーネは歩みを速めながら、骸骨の壁を蹴って三角飛びしながら、刺突するように刀を両手で構えゾーイに飛びかかってきました。すると、その真横から不意を突くように狼犬が彼女に飛びかかりました。サキーネはそのまま彼に床に押し倒されましたが、ゾーイはその隙に拳銃の弾倉を交換すると、床を舐めるように転がりながら、弾き落とした『スコーピオン』機関拳銃を掴みました。サキーネは左手で狼犬が喉笛を噛み千切ろうとするのをかわしながら、カイデックス製のシースからT字のプッシュダガーを抜いて、狼犬の胴体に刺さろうかとしましたが、直前にゾーイが口笛を短く吹いて、彼は彼女から飛び退きました。そしてゾーイは『武装した人』と『スコーピオン』とを両手に構えて、撃ちました。

 転がりながら、サキーネが銃撃を「避け」ました。それから壁に身を隠すと、背中に吊り下げていた銃剣付きの『トレンチガン』散弾銃をあっという間に組み立てました。排莢口から十二番ゲージの散弾をひとつ入れ、チューブ弾倉に五発の弾薬を装填すると、それを壁際から銃だけ出すようにして、引き金を引きっぱなしにしてフォアエンドを前後させるスラムファイアをしました。

 ゾーイも同じように障害物に身を隠しました。そして真上に飛んだ『スコーピオン』の空薬莢が頭にカランコロンと当たって、それから気付きました。ゾーイはサキーネの散弾銃の撃鉄が落ちる金属音を聞くと、弾倉の空になった『スコーピオン』機関拳銃を二人の間に放りました。機関拳銃はがしゃりと音を立てて、しばらく床を滑りましたがやがて摩擦からその動きを止めました。

 ゾーイは左腰から『雌ロバの片脚エンプーサ』と呼ぶ散弾銃をサーベルのように抜くと、口笛を吹いて真横に狼犬を飛び出させました。サキーネはそれを狙う為に少し障害物から身を乗り出し、排莢口に散弾を入れようとするところで、それをゾーイは逃さず、『雌ロバの片脚』で撃ちました。散弾はすばやく飛散してサキーネの狐のお面を割りました。その下から現れた少女の顔は、ケロイド状に焼けただれ、人の怨みだけで出来ているようでした。

 顔を晒され、逆上したサキーネは、弾倉の空になった『トレンチガン』を右手に、日本刀を左手に、言語以前の叫び声を上げながら、物陰から飛び出し突っ込んできました。ゾーイはあくまで冷静に散弾銃を撃ちました。飛来する九つの散弾のうち、いくつかは刀身によって弾かれましたが、それでも防ぎきれずにもろに散弾を喰らったサキーネは、しかし勢いを止めることなく、『トレンチガン』で銃剣突撃を敢行し続けました。ゾーイは続けて散弾銃を撃ちました。

赤い肉が削がれ、白い骨が見えても、サキーネは勢いを止めませんでした。短い黒髪が風も無いのに揺れました。サキーネは、銃剣を突き出しました。それは、すんでのところで、ゾーイには届きませんでした。サキーネは「ふん」と少し笑ったようにして、そのまま仰向けに倒れました。日本刀が音を立てて床に落ちました。

 呼吸を、していました。空間には三つの呼吸がありました。ひとつはゾーイのもの、もうひとつは狼犬カマルのもの、それから、これから止まるであろう瀕死の平和サキーネの呼吸でした。ゾーイがゆっくり近付いて、銃剣の付いた『トレンチガン』散弾銃を取り上げると、それを躊躇いなくサキーネの水月のあたりに突き立てました。そして、それを捻って抜こうとすると、サキーネが銃剣を掴んで、そして血を吐きながら、こう呟き始めました。

「……我々は……世界から隔離されながら……同時に世界に同化する事を強いられてきた……そうだろう、ゾーイ……? 我々は……『愛されなかった望まれなかった選ばれなかった子供たち』……」

「いつまで子供で居る気だ、サキーネ。愛されないなら、愛せばいい。望まれないなら、望めばいい。選ばれないなら、選べばいい。――そして、殺されたくないなら、殺せ。お前の大好きなアポロも、そう言っていた」

ゾーイがそう答えると、サキーネはすこし自嘲気味に笑って、

「……優しいんだな、ゾーイ……いや、それとも残酷なのか……? ……ふふふ……見返りのない行動……徒労……失わないための……身を守るための……自分勝手な妄想、幻想、都合のいい正しさ……エゴイズム……その苦しさ、虚しさ……我々は……強くなくては、生きてゆけない……お前の、ように……」

するとサキーネはゾーイにその骸骨の唇で口づけしようとしました。ゾーイは静かにそれを拒否しました。

「――愛は、平等じゃない。だが死は平等だ」

「……愛されてみたかったよ……私もまだ……――でも、もう……」

平和サキーネがそう言いました。けものゾーイは彼女の涙の零れたままのその眼を永遠に閉じてやりました。銃剣を捻って抜いて、ゾーイは落ちた日本刀を鞘と一緒に拾うと、それをベルトの背中に差しました。ゾーイはまだ先へと進まなくてはならないからです。

――平和という幻想は死にました。さて、すると、愛という幻想は、果たしてどうでしょうか?


 * * * * * *


 サキーネの『トレンチガン』に十二番ゲージの散弾を込めながら、ゾーイは薄暗い人骨で出来た洞穴を進んでいました。ランプはときどき点在していて、それは燃える空気フロギストンの存在する証左でもありました。少女と狼犬は呼吸をしていました。洞穴では息が詰まるような心持ちがしましたが、それは実際に空気の出入り口がないからです。

 どん、とゾーイは何かにぶつかりました。それは、いたずらにでかい図体をしていて、アポロの宇宙飛行士の宇宙服みたいな防弾・対爆スーツで、ヘルメットの前面には「平等な愛、すなわち死を与える」と書かれてありました。な彼はゾーイがぶつかったのにも気付かなかったふうで、その手には火炎放射器が握られていました。ゾーイは飛び退きながら、『トレンチガン』で引き金を引きながらフォアエンドを前後させるスラムファイアで、五発の弾倉を彼に向けて至近距離から乱射しました。――無駄でした。その宇宙服の防備は完全無欠で、銃弾も刃物も、ABC兵器でさえも、その防壁を突破するのは不可能のように思えました。

 ゾーイは『トレンチガン』を再装填しようとポーチに手を突っ込みましたが、散弾は既に全て撃ち尽くしてしまった事を知りました。ゾーイは『トレンチガン』を棄てると、背中から『クリンコフ』短機関銃を取り出して、セレクターを全自動フルオートに切り替え初弾を装填すると、宇宙服に向けて引き金を絞り続け、全弾を喰らわせました。それでもやっぱり無駄でした。彼は銃声からようやく自分が撃たれたことに気付いたようで、のっそりと、大きな亀が歩きだすように、火炎放射器の先端を音の方向に向けました。そして、引き金を絞ると、ねばっこい燃料がびゅるりと飛び出して、そしてそれが一気に燃え上がりました。ゾーイはもろに火を被りましたが、燃えたのは軍用ポンチョだけで、それを脱ぎ捨てると素早く身を隠しました。

 彼は名前をワドドゥと呼ばれていました。とゾーイは知っていました。アポロ直属のミューズのもう一人で、ソマリアはモガディッシュ生まれのキリスト教徒。アポロが面白がって、「平和は対話である、愛は沈黙である」と嘯き、ワドドゥとサキーネとを互いに殺させあったりしたのを、覚えていました。そのとき彼の声帯がサキーネの日本刀で切られた事も、またワドドゥの火炎放射器がサキーネを酷い火傷にした事も思い出していて、それに、「愛は盲目」と言いますから、アポロが彼の両目を潰したことも、覚えていました。それでも彼がアポロに従うのは、きっと彼が自罰的な人間で、誰かに怒られるのが、嬉しかったからでしょう。

――カマル! 先に行け! と、ゾーイは狼犬に叫びました。カマルと呼ばれた狼犬はワン! と答えて、洞穴の奥の方へと駆けてゆきました。ワドドゥはそれに気付きましたが、素早い狼犬を殺すには彼の動きはあまりにも鈍重で、たぶん、気持ちはそっちに向かっていたのですが、まぁ、いいや。と彼も諦めたことでしょう。

 一帯は随分炎上していました。問題は炎それ自身よりも、むしろ酸素でした。ゾーイは床の上に溜まる酸素を吸うために低い姿勢になりながら、『クリンコフ』短機関銃の弾倉を交換しました。それから、日本の剣術のように、しゃがんだ状態で片足を伸ばし、もう片方の脚を曲げて屈むように姿勢を低くする変形伏射モディファイト・プローンの姿勢で、銃を構えました。それから撃ちました。狙いは二箇所で、背中から伸びる火炎放射器のホースないし酸素ボンベから伸びるホースのどちらか、でした。でも、ほとんど無駄でした。それは酸素の足りない空間で、ゾーイが頭痛を感じ、狙いがあやふやになっている、というのもありましたが、ワドドゥの宇宙服めいた防弾・対爆スーツは、全ての攻撃を包容し、そして受容するのでした。

〈――……右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ……――〉

ゾーイは呟きました。射撃した場所から這うように逃げながら、土嚢に隠れつつ、正面からでは効き目が無いと見えて、痛む頭でゾーイは思考しました。ワドドゥは音を頼りに、最後に銃声のした方向に、再び火炎放射をしました。炎は酸素を消費し続けます。――素早く決着をつけなくてはならない、と、ゾーイは結論を出しました。『クリンコフ』に七十五連発のドラム弾倉を装着しました。

 しばらく、シクシクと炎の燃える音だけがしていました。声帯の無い盲のワドドゥは黙っていました。火炎放射器の燃料にも限りがあるし、酸素ボンベもまぁ、ある程度は大丈夫だろうけど。撃たれるのは、衝撃があってびっくりするなぁ。と、彼は思いました。そう思っていたら再び撃たれました。今度の銃声は全くの一続きになっていて、それはたったの六秒間だけ、どがががが、という打楽器のソロによって奏でられる音楽でした。そして銃声が止みました。ワドドゥはのっそりと、銃声のした方向に火炎放射器を向けました。そして引き金を絞りました。びゅるりと、ねばっこい液体が放出されて、それが一気に燃え上がり、『クリンコフ』短機関銃は熱によって融解しました。辺りは再び静寂に包まれました。

 死んだかな? とワドドゥは思いました。それにしても、いったい誰だったんだろう、とも思いました。それから、ああ、ひょっとして、ゾーイかな。周りがそんなふうに騒いでいた気がする、懐かしいな。アポロも、嬉しそうにしてたっけ。と、考えていると、後ろでカツン、カツンという小さな衝撃が何回かあって、それから、ぶわっと何かが広がる感覚がありました。ワドドゥは、なんだろう? と思いましたが、それきりで、あとはただ、シクシクと炎が燃える音がするだけでした。だから彼は再び黙りました。

 ゾーイは、銃口に抑音器サプレッサーの付けられたフランス製の自動拳銃、『武装した人ジャンダルム』を変形伏射の姿勢で構えながら、火炎放射器の燃料タンクと酸素ボンベによって、一気に炎上する彼を、その背後から見ていました。鎔けた『クリンコフ』は土嚢にワイヤーで固定されていて、引き金も絞られ続けるようにワイヤーが巻きついてありました。ゾーイはそこから六秒間の間に、伏せながら横に転がって一気にワドドゥの背後に周り、抑制された銃声を響かせながら、拳銃で燃料タンクと酸素ボンベとを撃ち抜いたのでした。ワドドゥにはその低い銃声が聞こえなかったのでした。ゾーイは『武装した人』に九発の弾倉――それが最後の弾倉でした――を装填すると、酸欠で痛む頭を抱えながら、よろよろと、そのまま奥へと進んでゆきました。ゾーイは、〈――カマル、〉とだけ、小さく呟きました。

 ワドドゥは、なんだか息苦しいな、とだけ思いました。それから再び、今までの暗闇の孤独のなかで、ずっとそうしてきたように、鳴らない声帯で、届かない歌声で、『花はどこへ行った?』の鼻歌を唄いつづけました。そして静かに窒息しながら彼は、自分の心臓ハートが、最期までトクン、トクンと脈打ってるのに、ずっとずっと耳を傾け続けるのでした。――音は、光より早くありました。そして光より後にあるのも、やはり、音だったのです。


 * * * * * *


 足音を引きずっていました。床や壁、天井をツル植物のように張り巡らされている、いろいろなケーブルを辿りながら、ゾーイは、痛む頭を抱えながらとぼとぼと一人歩いていました。青白い液晶の光が、奥から漏れていました。その広い部屋には、沢山の画面と、ウェブサーバ、チョッキを着た白ウサギの剥製、狂った懐中時計、それから高カロリー輸液のパックなどが散乱していました。その中央に、舌を出して動かなくなっている狼犬の姿があり、ゾーイは、

〈――カマル!〉

と、叫びました。すると彼女のすぐ隣から、少しくぐもったボイス・エミッター越しの、少年のような声が答えました。

「安心しなって。麻酔銃だよ。ちょっと邪魔だから」

ゾーイはほとんど反射的に、右手に握りしめた自動拳銃『武装した人』を、その声の主に向けました。するとその腕は弾かれて、ぬるりと暗闇から腕が現れたと思うと、拳銃を奪い取られ、それをあっという間に分解されました。ゾーイは即座に左手で三日月型のカランビット・ナイフを抜いてその喉元に切りかかりました。が、それは空振って、すぐに右腿から回転式拳銃『ピースメイカー』を抜きました。すると相手は彼女が引き金を絞るより先に、点滴のスタンドで『ピースメイカー』の銃口を外しつつ、弾きました。引き金が絞られると、放たれた銃弾は明後日の方向に飛んでゆき、拳銃もまた狼犬の傍へと転がってゆきました。

「過去は、無かったことにはできない。体験は、白紙には戻せない。人生は、自分で原稿用紙を埋めていい。あがき続けるしかないんだ、その最期の瞬間まで」

「――アポロ。アポロ・ヒムカイ」

うんうん、と頷いて、ガスマスクのアポロは答えました。

「アロー、アロー、ゾーイ。やっと会えたね。英語は嫌いだから、フランス語とかでいいかな? アラビア語もちょっと苦手でさぁ」

「お前が話しやすい、――お前の国の言葉で話せばいい。英語だろうと、フランス語だろうと、ロシア語だろうと、日本語だろうと。ずっとそうしてきただろう、お前は、アポロ・ヒムカイは」

するとアポロは、うふふ、と笑って、食事も済んだところだ、と呟き輸液のパックをカテーテルから外しました。ガスマスクのレンズ部分はマジックミラー、鏡のようになっていて、その表情は窺い知れず、白いパーカーのフード部分にはハートマークとピースマーク、それと二つのAが組み合わされた虹色の蝶と『生来必殺BORN TO KILL』の字がデザインされており、背中には『戦争を欲するなら、平和に備えよSI VIS PACEM, PARA BELLUM』の文字が描かれていました。首周りにはゾーイと同じような赤のバンダナを付けていて、胸にはピースマークのロケットペンダント、そのチェストリグには羽根の付いたハートマークの意匠、肩には第八二空挺師団『オール・アメリカン』の部隊章インシグニア、右腕には黒地に白で描かれた蝶の腕章、そして左腿には、ナチスドイツ製ルガーP08『パラベラム・ピストル』をホルスターに収めていました。

「僕の国。国ねぇ、僕に国なんてあったかしら? かしら、って。生まれはシャーマン戦車『ファイアフライ』の中で、育ちは三不管サンブーグヮン九龍クーロン城。だから狭くて暗いところが好きでねぇ。――ま、なんだっていいや。言葉なんてたかが言葉で、どうせ全部嘘っぱちの虚構なんだから」

アポロが左腿から『パラベラム・ピストル』を抜くと、三十二発の蝸牛弾倉スネイルマガジンを装着してゾーイに向けました。それから言いました。

「あのホテルの親子は気に入ってくれたかな? 結構自信作だったんだ」

「あの悪趣味な人間爆弾の事か?」

「あのくらいで君が死ぬなんて思っちゃいないさ。ゾーイには生きててもらわなくちゃいけないからね」

そう言って、アポロはしばらく彼女を眺めていました。ゾーイは隙があれば、左腿に包帯で括り付けたブローニングの三十二口径を抜き撃ちするつもりでいましたが、彼女に向けられた銃口はぴたりとして動かないのでした。アポロがふと、彼女の左腰の散弾銃を見て、尋ねました。

「ゾーイ、『ルパラ』はどうした?」

「……壊れたから、棄てた」

「ああ、そうか。悲しいなぁ、悲しいなぁ……全てのものはいずれ壊れてしまう。物も、心も、動物も、人間も。あの銃はぼくの宝物のひとつだったんだ。母親のものでね。だから、君にあげたんだよ」

アポロはガスマスクの下で泣いているようでした。けど涙は流れませんでした。もしかしたら、泣いているのではなく、笑っているのかもしれませんが。ゾーイには、ガスマスクのボイス・エミッター越しの嗚咽にしか聞こえないのでした。アポロが再び尋ねました。

「ゾーイ、君は生まれ変わりを信じるか?」

聞かれてゾーイは、ちらりと狼犬のカマルを盗み見て、

「何の話だ」

と、聞き返しました。アポロのガスマスクのレンズに、自分の姿が反射していました。

「君の話だよ。ゾーイ・ビント=イスマーイール・アル=アシナ。アリス・ヒムカイは僕の母であり姉であり、兄であり父でもあった。彼は、あるいは彼女はベトナムに生まれて、彼の姉の子供――すなわち僕を、ここまで育ててくれた。いずれにしろ、彼女とは離れ、今僕はここに居るわけだけど。そこにゾーイ、君が現れた。君は僕と同じで、母親を失くし、居場所を失くし、言葉を失くし、だから、親きょうだいに囲まれた奴らが憎くてね。僕らは、元はそういう集まりだったろ? 『愛されなかった望まれなかった選ばれなかった子供たち』。これも、彼の彼女の受け売りなんだけどね」

「お前の話は、どうでもいいが」

ああ、ごめんごめん、とアポロが言いました。それから、どうしたって自分の話になっちゃうんだよなぁ、と、ひとり愚痴をこぼしました。

「にんげんは、やっぱり連帯したいらしい。結果が欲しいらしい。みんな、やっぱり僕とは考え方が違う。みんな、僕の為に死んだ。分からない。分かりあえない。居場所を与える僕の為に。甘やかすのがいけないのかな? けど僕は違う。僕は僕のために行動する」

「お前は違うさ、私が今からお前を殺すんだ」

「そうだね、だからゾーイ、ぼくは君の事が好きだよ」

それからアポロは、ぱん、と手を叩いて、突然に思い付いたふうに言いました。あるいは、すべて計算の上なのかもしれませんが。

「ああ! 西暦で言えば、ゾーイ、今日は君の誕生日じゃないか!――二〇〇一年、九月十一日。きっと世界でいちばん、聖書とコーランが燃やされた日だ」

それを聞いてゾーイが、

「…………」

とだけ言うと、アポロは、

「ハッピーバースデーの歌でも唄おうか?」

と聞いて、ゾーイは、

「いらん。人の誕生日を祝うなら、まずその銃口を外せ」

と答えました。するとアポロは、うふふ、まぁそう焦らないで。と笑って、その銃口は据えられたままでした。

「ぼくは愛されない子供が好きさ。だから、そうやって兵隊を集めてきた。彼らが彼女らが、僕の為に命を賭して戦ってくれるのは、とてもとても哀しいことさ。みんな、貴重ないのちなのにね。いろいろ、突撃だとか自爆テロだとか、細々とやってるんだけどさ。テルアビブの空港のときみたいにね。みんな、どうも、死ぬことに喜びを覚えるみたい。僕はそれを、死という結果を与えるんだけど、なんだか見てて哀れというか、そういう気持ちになるんだよねぇ」

アポロがセンチメンタルにそう言うと、ゾーイは吐き捨てるように答えました。

「英雄気取りが。自分の正しい行いは、信じていればきっと報われるのだと――きっと誰かが助けてくれるのだと思っているんだろう。お前は、そんなに特別なのか? お前は、神様のお気に入りだと?」

「僕は特別強いわけじゃない。ただ少し臆病で、ちょっと逃げ足が速いだけさ。――やっぱりゾーイと、ずっと話がしたくてね」

 アポロがゆっくりと、部屋の中央で倒れる狼犬に近付きました。ゾーイは、彼を睨みつけましたが、アポロは、安心しなよ、君の友達を僕は傷付けたりしないさ、と、答えました。

「ぼくの蔵書をいっしょうけんめい読んでいたなぁ、ゾーイ。君は本が好きだった。小説はあまり読まなかったけど……。本は鏡さ。鏡自体を対立軸とする、現実対空想の戦いだ」

「…………」

「対立軸を失くした世界には中心しかない。それが安定の為の術で、人は安心したいがために構造を崩す事を畏れ、――いじめも、トップ・ニュースも、家族も、偶像アイドルも、国家という擬人化された幻想も、神様も――それからもちろん、戦争も。そういった小さなちいさな中心を失くした世界がどうなると思う?」

ゾーイが答えないので、アポロが代わりに答えました。

混沌カオスだよ。ゾーイ、それは、秩序を失くした混沌だ。混沌の中で人々は運動し、ぶつかり合って、そしてそれがどうなるのか予測すらできない。混沌は、ひとつの結果に収束することはない。ただいたずらに動き続けて、思想や文化、それに宗教、そうしていのちを消費していくだけ……」

ゾーイは言いました。

「勝てばいい。勝てないなら、逃げればいい。それから、機会を窺いつつ、また挑めばいい。いずれにしたって、我々は勝ち続ける以外に、生き残る道はないんだ」

「それは勝者の意見さ、ゾーイ。生存バイアスってやつ? 勝った奴だけが口を聞けるなら、死人に口なし、強い者だけが残ることになる。そんな暴力が平和を産むかい? 僕はそう思わないね」

「――お前を殺せば済む話だ」

「そう思うかい? だけど不満のある人間はどこにだっている。そしてそれを輸送する足、それを使う手腕アーム、ついでに武装アーム、それに、意志や思想をばらまく情報網……それら全身を駆使すれば、地球を自殺させるなんて訳ないさ。もう僕は居なくたってある程度は大丈夫なようになってるよ。ゾーイは、僕たちが引きこもりスタンドアロンだと思ってるかもしれないけど、僕だって結構社交的で活動的なんだぜ。特に今は、インターネットがあるからね……指先一つユビキタスで。情報の越境が、やりとりが実に簡単だ。世界がもし百人の村だったら、みんな一斉に首を吊りました。いや、吊らせました。奴らを高く吊るせ! ってやつ。ゾーイにもいくつか西部劇とか、戦争映画を見せたよね。教育の一環ってやつで。キューブリックの『博士の異常な愛情』も見せたよね。アレの『皆殺し装置』が僕は好きでさぁ、」

「……何を、しようとしている?」

ああ、とアポロが呟きました。ゾーイは、まだ知らなかったっけ。と呑気に言って、端末を片手で操作すると、液晶画面に次のようなものを次々映して見せました。それは、北朝鮮の支援で中東に作られた原子炉、ソ連崩壊によって流出した核弾頭、ダーティボム――コンゴの川から採取したエボラウィルス、炭疽菌――ナチスの遺産であるサリン、VXガス――それから宇宙ロケット、などの映像を代わる代わる見せて、

「僕は核兵器アトミック生物兵器バイオ化学兵器ケミカル、といったABC兵器、それをばらまく宇宙ロケットを各地に所持している。といっても、今ここにあるのは、化学兵器くらいなもんだけど……ほら、『貧者の核兵器』ってやつ。――ま、正確にいえば、いつだって集められるし、いつだって起爆させられる。僕らは花と花の間を飛び交う信号音インターネットの虹色の蝶。今の時代、金さえあればどうにでもなるのがいいよね。アメリカの連中もイスラエルの連中も適当に媚びへつらっとけばどうとでもなるし、これくらいあれば、世界を根こそぎ平和に出来るはずさ。何故なら世界はAから始まるから! そしてZで終わる。僕らの世界は破滅に向けて、まっしぐら。ぼくたちはランボーや無敵のガンマンじゃあないから、弱いので、こうやって連帯して、ちょっとずつでも努力する必要があるってワケ。でも、僕たちがこうやって平和について考えている間は、どう平和にしようか、って考えてる間は、基本的にはあんまり使う気がないから、平和ではあるよね。よくSNSとかで先進国とかのやつらも勧誘するんだけど、わりと簡単に構成員になってくれるもんだよ。みんなもう、日常に飽き飽きしてると思うんだな。それに僕たちは何も、武器兵器を実際に持っていなくてもいい。ただ、を起爆させるだけでいい。各々が持っている妬み、嫉み、怨み、僻み、それと不安……それらの感情の導火線に、火を点してやるだけでいい。それこそが世界の終わりの始まりさ。――具体的には? そうだね、原子力発電所でも、核兵器廃棄所でも。なんだっていいのさ、僕らはただ淋しいだけだから、ひとりでも多く道連れが出来れば、それで。これは算数の問題だよ、ゾーイ。一人がひとりを個人的に殺すよりも、一人がたくさんの人間を巻き込んで、十人、百人と殺した方が、効率がいいってわけ。冷戦の雪解けの後には灼熱の戦争、死の灰フォールアウトが降り、それからまたきっと冬が来る。もう春なんて来やしない。――いいよね、青春のなかった負け犬の僕らにとっては、とてもとても優しい世界だ」

と、無邪気にはしゃぐ子供みたいに言いました。ゾーイは黙って聞き流していましたが、ようやく溜息を吐いて、そして言いました。

「お前の話は、長くてよくわからん。世界がどうとか、そんなことを言われても荒唐無稽なだけだし、私にとっても、どうでもいい。世界が嫌いなら、自分ひとりだけ淋しく死ねば済む事だ。それでもお前が死なないのは、やっぱり自分の事が可愛いからだ」

ゾーイがそう言うと、アポロは、一瞬ぽかんとしたふうにして、それからガスマスク越しに笑って、それから言いました。

「――あはは! 確かにそうだね。ゾーイにはあまり関係の無い話だった。君にとって大事なのは、ムカつく僕が未だにしぶとく生きている事だったね」

アポロはそう言ってしゃがむと、麻酔で眠っている狼犬のカマルを撫ぜながら、先ほど弾き飛ばしたゾーイの回転式拳銃『ピースメイカー』を拾いました。その銃身を優しく撫ぜながら、アポロは言いました。

「生きる理由が欲しいだろ、ゾーイ? 例えば僕がそのひとつさ。僕が君を作った。君は、僕への復讐のためにここまでやってきた。まずそれにお礼を言わなくちゃね。――ありがとう、ゾーイ」

それから、アポロは『ピースメイカー』をゾーイに投げて寄越しました。それから再び言いました。

「ゾーイ。君は勝者だ。君は僕から自由を勝ち取った。紛う事なき、主人公さ。だから、僕の復讐相手の代表になってくれないかい?」

ゾーイは、黙って『ピースメイカー』を拾いました。アポロに『パラベラム・ピストル』の銃口を向けられながら、発射された一発の空薬莢を排莢して、弾倉に六発を装填し、それをゆっくりと右腿のホルスターにしまいました。アポロは、よかったぁ。断られたら、どうしようかと思ったよ。と、言いました。

「――ああ。今日は沢山話をした。今までの人生で、最高の日かもしれない。ちょっと疲れたけどね。分かってもらえるなんて、思わないけど。けど、ちょっぴりだけスッキリした。泣ければ、もっと良いんだけど」

アポロは、『パラベラム・ピストル』の蝸牛弾倉スネイルマガジンを外すと、通常の八連発の弾倉を装填して、左腿のホルスターにしまいました。それから、二人は狼犬を中心に、向きあいながら円を描くように、少しずつ距離を取りながら、ふと立ち止まると、アポロが言いました。

「――抜けよ。この世界では速い方が、数の多い方が、そして強いほうが生き残る。残念ながらそのルールに従おう」

二人はしばらく黙っていました。青白い光の下で、サーバーの駆動する音だけが響いていました。風は吹きませんでしたし、根なし草タンブルウィードも転がってはきませんでした。ゾーイの胸元には琥珀の宝石と孔雀の飾り羽根。アポロの胸元には、ピースマークのペンダントとハートマークの意匠。ゾーイの右腿には回転式拳銃『平和製造機ピースメイカー』、そしてアポロの左腿には、自動式拳銃『戦争に備えよパラベラム・ピストル』。

 ふと、アポロが思い出したように、そして少しだけ嬉しそうに、ゾーイに向けて、こう言いました。

「懐かしいなぁ、ゾーイ。一緒に抜き撃ちの訓練をしたな。お前はみんなの中でいちばん速かった。今でも、それは変わらないか? お前はみんなのいちばん先頭を、いまでも走り続けているか?」


 * * * * * *


 アポロが先に拳銃を抜きました。いいえ。正確にはゾーイが先にアポロに拳銃を抜かせました。アポロが『パラベラム・ピストル』の銃口をゾーイに向けるより早く、彼女は右腿の『ピースメイカー』の撃鉄を起こしながら、腰に拳銃を構えて彼の右腕を狙いそして、撃ちました。銃声は部屋中に響き正確にその右腕を撃ち抜きました。アポロは拳銃を取り落としました。ゾーイは続け様に、躊躇うことなく彼の左膝を撃ち、左手で撃鉄を煽るようにしながら、その右膝を左腕を、そしてピースマークのペンダント越しにその心臓ハートを、撃ち抜きました。アポロは黙って両膝をつきました。ゾーイは、その口元に薄ら笑いを浮かべて、右腕から伸びる『ピースメイカー』の銃口を、真っ直ぐとアポロのガスマスクの額に向けて、そして撃鉄を起こしました。すると、アポロが言いました。

「ゾーイ、君のこの先の人生に、幸多からん事を。――ピース」

アポロがVサインをゾーイにつくってみせて、ゾーイは引き金を絞りました。撃鉄は落ちて、アポロの頭を撃ち抜きました。そのまま彼は仰向けに吹っ飛んで倒れました。ゾーイはまだ硝煙の昇る拳銃を構えたまま、半ば呆然としていました。響いた銃声はこだまになって、洞穴じゅうに反響していましたが、一秒か一分かそれとも一時間か、やがて、それも静まりました。

 ゾーイは、ふうううう、と肺に溜まった息を長く吐くと、やがて拳銃を下ろしました。膝が笑っていました。右手も震えていました。なんだかめまいがするようで、しかしその胸には湧き上がる感情がありました。――それは、解放、でした。

 ゾーイは拳銃をホルスターに仕舞って、狼犬のカマルに駆け寄ると、撃ち込まれた麻酔弾を抜いてやりました。少しすれば目を覚ますだろう、と思いました。ふと思い出したように痛む頭を抑えながら、ゾーイは、アポロの『パラベラム・ピストル』を取り上げると、尺取虫のような遊底トグルを引きました。すると、それは、弾切れを示すホールドオープンがかかりました。

 ゾーイは、戸惑いました。薬室を、そして弾倉を外し何度も何度も確かめました。――弾倉の中は空っぽでした。その銃には一発も、殺意のこもった弾丸なんて、込められていないのでした。

 嫌な汗が、噴き出していました。頭の中では、ずっと『花はどこへ行った? 花はどこへ行った?』『いつになったら分かるんだろう』という歌詞が、延々とループしていました。

 ゾーイは震える手で、ナチスドイツ製『パラベラム・ピストル』とその予備弾倉を、フランス製自動拳銃のホルスターにしまうと、ゆっくりと、アポロの首周りの赤いバンダナを外し、ガスマスクに手を伸ばしました。

 彼のマスクを、外しました。するとやはりその中も空っぽでした。一輪の紅い狐花リコリスが、彼の身体の中で、人の怨みを吸っているように、紅く狂い咲いており、そしてその肉体は、白い水仙の花ナルシスだけで出来ているのでした。

 玉のような脂汗が、落ちて床に染みを作りました。頭痛が酷くなってきました。めまいが、する。何かが、おかしい。そうゾーイは思いました。思うと、急に何か込み上げるものがあって、ゾーイは嘔吐しました。それは完璧という名の菓子パフェのクリームが、胃酸によって変質したものでした。目の前の吐瀉物から、ふと見上げました。アポロを貫通した銃弾が、タンクに被弾していました。それは、

(――サリン?!)

と、思いました。ゾーイは震える腕で、鞄からアトロピンの注射器シリンジを取り出すと、それを打ちました。それから、額に穴のあいたアポロのガスマスクを付けました。それにどのくらい効果があるかは、分かりませんでしたが。ともかくゾーイはまだ目覚めないカマルを抱いて、震える脚で、その部屋を出ました。すると、計算されたように、時限爆弾がちょうど、その部屋全体を、――サーバーや全ての情報を隠滅するように――爆破しました。ゾーイは爆風に煽られて転び乳歯を何本か折りました。それでガスマスクも壊れました。それでも歯を食いしばって立ち上がりました。頭を打ったのか、神経ガスの幻覚作用か分かりませんが、ゾーイの耳元で彼の囁く声が聞こえました。

(英雄没落論、って知ってるかい? ナポレオンの話なんだけどね。彼は、皇帝になって様々な法を作った。そして後年、彼自身がその法によって追放された。そのことによって、立法者が独善のために法を作ったのではない、と証明されたのさ。要は、そういうこと。僕は、僕の作った君に殺される事で、僕の、そして僕のやっている事の正しさが、証明されるってワケ。――おめでとう、ゾーイ! 世界崩壊のきっかけは、君自身の正当な行動によるものだよ)

「…………」

 火が、燃え上がっていました。どれくらい歩いたかも、判然としませんでした。少女はときどき咳き込みながら、歪む視界をまばたきしながら、ふらふらと納骨堂の、人骨で出来た壁を伝いながら、狼犬を抱いて歩いていました。どこかで、子供が泣いている声がしました。狼犬も少しずつ目を覚まし始めました。少女は、一緒に、帰ろう、カマル、と呟きました。狼犬も弱々しくそれに応えました。――根無し草の少女兵士に、帰るところなんてないのですが。だから地面に仕掛けられた透明のワイヤーに、少女は気付きませんでした。ぷつん、と音がしてワイヤーが切れると、その先に括りつけられた散弾銃――少女が棄てたはずの散弾拳銃、『狼のためのルパラ』が火を吹いて、少女の左手を吹き飛ばしました。赤い血と肉片が、桜みたいに空を舞いました。少女は小さく叫び声を上げました。だけど立ちどまっている暇なんてありませんでした。手に握っていた、彼の赤いバンダナで乱暴に止血すると、左の内腿に包帯で括りつけたブローニングの三十二口径のスライドを、歯で噛んで装填して、再びふらふらと、出口を求めて彷徨い歩きました。狼犬もふらつきながらも目を覚まし立ち上がったようでした。

 火は迫っていました。洞穴内で貴重な酸素を消費させながら、煙はもうもうとたちこめていました。少女はめまいと吐き気を覚えて、跪きました。狼犬もふらふらになりながらも、少女を心配そうに見つめました。少女は自嘲気味に笑って彼にキスすると、壁すなわち人骨にもたれかかって、なんとか立ち上がろうとしました。すると、はじめから今までずっとその時を待っていたかのように、ひとつの骸骨の咥えた手榴弾がころりと落ちて、ぴきんと音を立てその起爆レバーを外しました。

「あ、」

少女はよろめきながら、転がる手榴弾を通路の向こうに投げようと、手を伸ばしましたが、脚がもたれてその場に転びました。目の前に転がる、数秒と経たず爆発するであろう手榴弾を、少女は、永遠とも思える時間の間、眺めることしか出来ませんでした。

――死ぬ?

少女はそう思いました。すると、狼犬のカマルが咄嗟に手榴弾を転がして、それからそれは、爆発して、少女は、口をぽかんと開け、

「あっ、……」

狼犬が榴弾の破片でずたずたになっているのを見て、少女は、彼を抱いて再び立ちあがりました。少女には泣いている時間もありませんでした。そもそも既に涙は涸れているのかもしれませんが。

目の前に光が満ちてきました。それは出口でした。外では雨季でもないのに、嵐が吹いているふうでした。嵐が吹いているようなのに、ワタリガラスの平べったい声が、洞穴の中に響いてくるようでした。そうしていると、カチリ、と足元に固いものがありました。

――地雷を踏んだ。と思いました。それから、もう一歩も動けない。とも、思いました。頭の中では、ハッピーバースデー・トゥ・ユー、ハッピーバースデー・トゥ・ユーという歌声が、ずっとずっと響いていました。少女は目を見開きました。その瞳孔は暗闇なのに狭まっており、顔面は蒼白というよりも蒼褪めていました。

 銃声が、ひとつ響きました。外ではウェーブがかった赤毛の女が、硝煙の昇るC96拳銃『魔女の箒の柄ブルームハンドル』を構え、立っていました。足元を撃たれたようでした。少女は足元に目線をやりました。そこには地雷なんてありませんでした。それは彼女の妄想でした。だからよろめきながら、再び外に向けて歩きだしました。

――。もう、死んでるわ。

 彼女の横を通り過ぎようとすると、魔女が言いました。背中の方ではウプウアウトによって放たれたスコルとハティの二匹の犬が、少女を追いかけてきていました。魔女はそれらを撃ち殺しました。嵐の空ではハルピュイアの四姉妹がケラケラ笑っていました。

――置いていきなさい、あなたの過去も、未練も、希望も、ここで、全部。と、魔女が言いました。少女は、いやだ、と答えました。

カマルが居なくては海に行く意味がない、

月がなくては、海は満ちない。――そうだろう、ペニナ、)

月の犬マーナガルム。外の夜は嵐で月が見えませんでした。少女は納骨堂の出口で、失血によるものか、神経ガスによるものか、――それとも単に空腹か。うつ伏せに倒れ込みました。そして世界は暗転しました。それでも音は聞こえますし、右手には確かに拳銃を握っていましたし、冷たい雨は容赦なく打ちつけてくるのが分かりました。

(……亡霊は架空の軸を中心に空回り円を描いているだけ……)

――狼犬はいつものように少女が眠るまで息をしていました。


 * * * * * *


 嵐の夜に、銃声は散発的に響いていました。少女は最悪の気分のまま目を覚ましました。全身は冷え切っていて、頭はがんがんと痛むし、空腹なのに吐き気があり、傍には狼犬の姿がないのでした。少女はそれでも拳銃を片手になんとか立ち上がりました。銃声は自分を撃っているのではないと分かりました。では誰を? と、泥を蹴る馬の駆ける三拍子のリズムが聞こえてきて、

「――アノニマ!」

と、懐かしい声がしました。ヨーイチ、とアノニマと呼ばれた少女は呟きました。遠くではジープが停まっていて、赤毛を三つ編みにした少女とドイツ人の男が、テロリストの残党と小競り合いをしているのが雨粒の向こうに微かに見えました。

 ヨーイチは、逃げ出した名前の無い馬を連れて、ロバに跨っていました。アノニマが馬に乗れる様子でないのを悟ると、彼女を雨から庇うように抱きかかえてロバに乗せました。酷く体重が軽いと思いました。それは、実際彼女の装備している銃器の重さくらいしかないのでした。それからヨーイチは、ゴー、ジャック、ゴー! と叫んで走り出し、葦毛の馬もそれについてゆきました。

 遠くで、レッドとウェーバーの二人は、ヨーイチがアノニマを回収したのを確認すると、ジープに乗りました。それから機関拳銃で牽制射撃をしながら、嵐の雨の闇に溶けて消えてゆきました。

 アノニマは、震える身体を抱きしめられながら、どうして……と、尋ねました。ヨーイチは、お前の馬が逃げ出してきたから、分かったんだよ、地図を作ったのはレッドだしな、と、答えました。アノニマは唇を噛みました。


 夜の嵐の雨粒に打たれながら、二人は馬を駆っていました。ヨーイチはその腕に冷たい少女を抱えながら、温めていました。彼女が震えているのを見て、彼は、

「どうしたんだよ、アノニマ」

と、言いました。アノニマは震える唇で言いました。

「――アポロが……影が、アポロが追ってくる」

「ただの、霧だろ」

ヨーイチはそう言いましたが、アノニマには、確かにそれが見えるのでした。そのうえ、アポロの影は口を聞くのでした。


(愛しのゾーイ、僕のとこにおいでよ

 一緒に遊ぼう、花の咲いてる平和な世界で

 綺麗な衣装で歌と踊りを楽しもう)


だからアノニマは言いました。

「――声が聞こえるんだ。奴の話しかけてくる声が」

「落ち着けって。枯れ木が、嵐に唸ってるだけだよ」

ヨーイチはそう答えました。ちらりと彼女の顔を覗くと、今まで見た事の無い表情をして、ちいさく震えているのでした。それは恐怖にふるえる小さな子供でしかないのでした。ヨーイチは左右非対称の表情をしました。――ひょっとすると、自分の無力感にうちひしがれていたり、あるいは自分に怒っていたのかもしれませんが。でもそれも全部彼女の妄想でした。

 アノニマは、それを見て、不安から気を紛らわせたくなって、

「……うたを……」

小さな声で、しかし確かに呟きました。

「……うたってくれ」

ヨーイチはそう言われて、なんだか面喰らったふうに思いました。

 だけど彼は唄いました。彼女のために、他にそうするしかなかったのです。――そしてそれは、『名前のない馬』という唄でした。


 この旅路のはじめ ぼくは沢山のいのちを眺めてたんだ

 いろんな花や鳥 それに岩とか物とか

 砂や丘の上で 環になって響き合っていた


 最初に会ったのは うるさい蝿で

 空には雲ひとつなくて 暑くて 地面は乾いてて

 でも大気には 色んな音が満ちていた


 二日経って 太陽に焦がされ 肌も真っ赤に焼けてきた

 三日経って 涸れた川底を眺めるのも 気晴らしにはなったけど

 むかしは水が流れていたと思うと なんだか悲しくもなった


 名前のない馬に跨って 僕は砂漠を旅してきた

 雨が降らないのは心地いいもんだ

 砂漠では 自分の名前を忘れるってことはないよ

 ここでは誰も 君を苦しめないから


 九日経って 馬を放してやった だって砂漠こそが海だったから

 いろんな花や鳥 それに岩とか物とか

 砂や丘の上で 環になって響き合っていた


 砂漠も海で 見た目じゃ分からないけど いのちが宿ってるんだ

 都会だって それは同じで こころがあるはずなのに

 にんげん達は 誰も愛し合っちゃいないよね


 名前のない馬に跨って 僕は砂漠を旅してきた

 雨が降らないのは心地いいもんだ

 砂漠では 自分の名前を忘れるってことはないよ

 ここでは誰も 君を苦しめないから


――雨は降り続いていました。ロバに揺られながら、冷たい身体のアノニマは、彼の歌声を聞きながら、胸の鼓動を振動で感じながら、まるで死んだように眠っていました。それでも確かに、肺は膨らみ、まだ息はしているのでした。

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