スクールウォーズ

宵月

プロローグ

 携帯電話を手に在原ありはら望美のぞみは悩んでいた。目の前には住所録の部分が開かれた手帳。そこに記載された一つの名前とにらめっこを始めて、かれこれ三十分は経過していた。

 いきなりこんなことを頼めば変に思われるのではないかという危惧があった。いくら親戚とはいえ、そんなに親しいわけではない。どう考えても怪しまれるのは確実だった。だがほかに頼れるすべはなく、状況も逼迫ひっぱくしている。

 目を閉じ、一度大きく息を吸った。覚悟を決めろ、恥や外聞にかかずらっている場合ではないのだ。

 息を吐き出す。よし、とうなずいてボタンを押した。電話を耳にあてがう。

『はい、時任ときとうです』

 非常に長く感じる呼び出し音のあと、男の声がそう告げた。目的の相手が電話口に出たことに安堵する。

「もしもし、遼平りょうへい叔父さんですか? 望美です」

 名乗ると、相手は一瞬沈黙したあと、ああ、と声を上げた。

『久しぶりだな、元気にしているのか?』

「ええ、おかげさまで」

 そう答えながら、気合いを入れるようにぐっと拳を握った。このまま社交辞令に流されていてはいけない。さあ、本題に入るのだ、在原望美。

「あの、お願いがあるのですが、よろしいでしょうか」

『うん? なんだ、言ってみろ』

「少しばかりお金を貸してほしいのですが」

 沈黙が落ちた。ややあって、ごん、と何かがぶつかる音が電話の向こうから聞こえてくる。深呼吸しているらしい息づかい。

『……とりあえず、どういうことか説明してもらおうか?』

 わずかに声が震えているのは怒りだろうか、戸惑いだろうか。努めて冷静にあろうとしている、そんな声音だった。

 怒鳴られる、あるいは問答無用で電話を切られることも覚悟していただけに、この反応はありがたかった。第一関門を突破したことに胸を撫で下ろしながら、まだこれからだと気合いを入れ直す。

「母が、一週間ほど前から諸国漫遊名物食い倒しの旅に出まして」

『……お、おう?』

「それはよくあることなのですが、その数日後、家に帰ってくるとテーブルの上に書き置きがありました」

 よくあるのか、とつぶやいたあと、我に返ったように遼平は先を促した。その書き置きには、何と?

「オレより強いヤツに会いに行く、と……。その書き置きを残したまま、父は姿を消しました」

『はあっ!? あのアホ兄貴、何考えてやがるんだ!?』

 キーン、と耳鳴りがするほどの音量で怒鳴られた。あわてて耳から電話を引き離す。それでもなお聞こえてくるほどの大音量で、遼平は罵詈雑言をまくし立てた。

 しばらくして落ち着いたのか、咳払いが聞こえてくる。

『悪い、取り乱した』

 それにお気になさらず、と返す。

「母がいない間、生活費の管理は父が行うはずだったのですが、先ほど申し上げましたとおり姿を消しまして」

 冷蔵庫の中身などを考えても一日二日で困窮こんきゅうするとは思えないが、両親共にいつ帰ってくるかが不明である。少なくとも母親は一ヶ月は帰ってこないだろう。下手をすれば半年ぐらい家をあけることもある。父親に関しては未知数だ。

『それで俺に金を借りようというわけか』

 呆れたようなため息に肩をちぢこめる。相手には見えないとわかっていても、自然に頭が下がった。

「大変不躾ぶしつけなお願いとは存じておりますが、ほかに頼れる方もおらず……」

 書き置きに、何かあれば遼平を頼れと書かれていたことは伏せておいた。自業自得とはいえ、さすがに父親が罵倒されているのは聞くに耐えない。

 しばらくあーだのうーだのうめいたあと、遼平は長々と息を吐き出した。

『お前、うちに来い』

 一瞬何を言われたのか理解できず、望美はまばたきする。

『今一人なんだろう? 心配だからな、もういっそのことうちで一緒に暮らせ』

 ずいぶんと話が飛躍したせいで言葉が出てこなかった。面倒見のいい人だとは知っていたが、まさかこんなことを言われるとは思わなかったのだ。

「……ご迷惑ではありませんか?」

 電話の内容がすでに迷惑極まりないとは思ったが、そう問わずにはいられなかった。生活費を渡すのと、人一人の面倒を見るのとでは全然違う。

『問題ない、気にするな。学校とかの手続きもあるから、今週末に一度そっちに向かう』

 じゃあ、と言われて一方的に電話が切られた。無情な電子音を流す電話を見下ろしてつぶやく。――いいの? 本当に?

 そして宣言通り、彼は土曜日に望美を訪ねてくると手際よく転校手続きなどをすませ、彼女は時任家で暮らすことが決まったのであった。

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