27

 紅葉祭二日目、望美が案内窓口のテントで待機していると、お待たせと言って湊が迎えにやってきた。制服のポケットから腕章を取り出してつけながら、同じくテントで待機していた風紀委員たちに見回りに出ることを告げる。いってらっしゃい、との声を背中に受けて望美はテントを抜け出した。

 昨日と同じく、まずは体育館脇の模擬店のテントからチェックを開始する。

 並んだ三年一組と三年四組の屋台は昨日と同じくなんだか楽しげなやり取りを繰り広げていた。くすりと笑いながらそれを眺めていると、こちらに気づいたらしい浩明が笑みを浮かべて手招きした。何だろうと首を傾げつつ近寄る。

「今日こそうちのたこ焼きを買っていってくれるよね?」

 にこやかに、けれどもどこか反論を許さないような強さでもってそう問われた。そういえば昨日も買っていかないかと声をかけられたが、好奇心に負けてカレー焼きそばを買ったのだったと望美は思い出す。もしかして気を悪くさせたのだろうか。

「では一つください」

「はい、毎度あり」

 望美が差し出した金券を受け取ると、浩明は手早くパックにたこ焼きを詰めていく。どうぞ、と言って割り箸と共にパックを差し出した浩明に、湊が大きくため息をついた。

「先輩、そこはおまけするところでしょう」

 その指摘に、浩明はどこか困ったように眉を寄せた。

「うーん……誰か一人にそういうことをすると全員にしないといけないだろう?」

 だからごめんね、と言って浩明は顔の前で片手で拝むようにした。それに気にしないでくださいと望美はかぶりを振る。

「おっしゃることはごもっともだと思いますし、わたしもそういったことを求めてはいませんので」

 そう言って差し出されたパックを受け取る。ほっとしたような顔の浩明とは対照的に湊はどこか納得できないといった顔をしているが、それ以上何も言う気はないらしく口を開くことはなかった。

 ついでだから、と昨日は遠目に眺めるだけだった三年二組の屋台ものぞくことにする。看板には揚げ物三種盛りと書いてあった。ふわりと香ってくるのはどこか甘い匂いと、香ばしい醤油の匂いだ。食欲をそそる香りに誘われたのだろう、湊が売り子役の生徒に金券を渡した。笑いながら何か会話したあと紙皿を受け取る。紙皿の上には竹串に刺されたから揚げとこれまた可愛らしい串に刺された丸いドーナツ、そしてフライドポテトが乗っていた。

「ちょっと昼飯には早いけど、どっかで座って食べようぜ」

 湊の言葉にそうですねとうなずいて周囲を見回した時だった。どかん、と何かが爆発するような音が辺りにとどろく。あわてて音の出所へと目を向ければ、少し離れた場所にある二年四組の屋台が目に入った。周りの人々も皆何事かとざわめきながらそちらを見ている。

「これ、持っていてください」

 たこ焼きのパックを押し付けるようにして湊に手渡すと、望美は騒然とするその場を駆けだした。

「何事ですか?」

 屋台に駆け寄って売り子役の男子生徒に質問すると、困ったような笑みを向けられた。

「あー、事故っていうか、なんていうか……被害は全然ないんで大丈夫です。お騒がせしてすいません」

 ぺこぺこと頭を下げながらそういう生徒のうしろから、おい、と別の生徒が声を荒げるのが聞こえた。

「誰だよ、鈴村に飴作らせたヤツ! あいつにだけは絶対作業関わらせんなって言ってただろ!?」

「詳しい状況を説明していただけますか?」

 でなければ、現時刻をもって模擬店を撤収していただく可能性もあります。腕章を示しながらそう語気を強めた望美に、仕方ないと言いたげに売り子役の生徒がため息をついた。

「うちのクラスに鈴村っているんですけどね。アイツ、飴作っては爆破するんですよ。あ、爆破って言っても音と煙だけで、全然被害はないんですよ?」

「つまり、今回もそうだと?」

 問い詰める望美に、売り子役の生徒はこくりとうなずいた。

「本当に何でもないんですよ。あ、何だったら調理現場見ます?」

 それで証明できるなら、と申し出た生徒にうなずくと、望美は屋台のテントの奥へと回った。奥には長机が二台並べて置かれており、その上には綿菓子の機械と火にかけられた鍋、そして砂糖の敷かれたトレイに置かれた果物飴が並んでいた。調理役と思しきエプロンをつけた生徒たちが鍋の前に何人も集まっている。

「失礼します、生徒会です。少々点検にご協力ください」

 そう声をかけながら、望美は人をかき分けて鍋の前へと向かう。

 鍋の前にはタブレット端末を手にした鈴村と、彼の胸ぐらを掴む男子生徒の姿があった。

「だから、あれほど調理には関わるなってオレ言ったよな!?」

“聞いた気がする”

「うん、気がするじゃなくてなー? 周りの迷惑になるからホントに頼むわ……って、生徒会ー!? ホラ大事じゃないかよ、お前のせいだぞー!?」

 男子生徒は望美に気がつくと、掴んだ鈴村をがっくんがっくん揺さぶり始めた。

「落ち着いてください。状況の説明をお願いできますか? とりあえず火は消しましょう、危ないです」

 淡々とした望美の言葉に我に返ったのか、男子生徒は鈴村を解放した。解放された鈴村は指示通りコンロの火を消す。

“ごめん、楽しそうだったから、混ざりたくて”

 タブレット端末にそう記すと、鈴村はそれを男子生徒に向けた。それを見た男子生徒がぐっと言葉に詰まる。

“騒がせてごめん。俺が飴作ってたから爆発した。けど、火事とかにはならないから、それだけは安心して”

 そう記したタブレット端末を望美に示し、読み終わったのを確認するとまた自分の方に向けて次の文章を綴る。

“もう関わらないから、大丈夫。本当にごめん”

 それを望美と男子生徒に見せると、鈴村は大きく頭を下げた。

「あー、いや、うん。オレもお前を仲間外れにしたいわけじゃないんだけどなー? ホラ、今みたいに大事になったら困るだろ? だから……な?」

 困ったように頭をかく男子生徒に、鈴村はわかっていると言いたげに笑顔を浮かべてうなずいてみせた。

「鍋を見せていただいても?」

 落ち着いたのを見計らい、望美はそう告げた。それにあわてたように何度もうなずき、男子生徒は鍋の前に望美を招いた。鍋の中をのぞくと、中は透明な液体で満たされている。差し出された竹串を鍋の中に突っ込み、引き上げるととろりと糸を引いた。

「食べてみてください、ただの飴ですから」

 言われるままに糸を引く液体を指にとって口に含むと、砂糖の味がした。たしかに飴のようだった。

 鍋の中身はただの飴だし、見る限り周囲には焦げたあともない。それでなぜあんな派手な爆発音がするのだろうと首をひねった時、そういえば、と望美は思い出した。鈴村は爆発魔だと小百合が以前言っていた気がするが、あれはこういうことだったのだろうか。

「たしかに異常はないようです」

「では……!」

「ええ、模擬店の続行を認めます」

 望美の言葉に、息を詰めて成り行きを見守っていた生徒たちが万歳と叫んで手を挙げた。

「では、わたしは放送で事態の説明をしてきますので、これで失礼します」

「はい、お騒がせしてホントにすいませんでしたー!」

 どこか涙混じりのその声を背中に聞きながらテントを出ると、望美は案内窓口のテントへと向かった。そこには何かあった時のために簡単な放送機材が設置されている。機材を管理している放送部の部員に声をかけ、スイッチを入れてもらう。マイクの前に座ると、望美は口を開いた。

「生徒会よりお知らせいたします。体育館前、屋台テント群におけるただいまの爆発ですが、火災や事故の類ではありません。来場者の皆様、および生徒の皆様は引き続き紅葉祭をお楽しみください。お騒がせしたことをお詫び申し上げます」

 同じことをもう一度繰り返しマイクにしゃべると、スイッチを切るよう合図を送る。

「ねぇ、今の何だったの?」

 風紀委員や放送部の部員たちも、異常はないことは理解しているのだろうがどこか不安げだ。それに少しためらったあと、望美は先ほどの一件を説明した。鈴村の名前が出た途端、ああ、と全員が納得したようにうなずく。

「それじゃあ仕方ない」

 それが共通の認識のようだった。



 湊の元へと戻ると、体育館前にいくつか作られた飲食用スペースで買ってきたものを食べることとした。買ってから時間が経ってしまったためにそれらはどれも冷めていたが、それでも大変おいしかった。容器などをごみ箱に捨てると、校舎内へと向かう。

 昨日と同じように南棟の一階から順に登っていき、北棟を三階から降りていくことにした。

 調理室では調理部による屋台が出店されていた。クッキーやスコーンなどの作り置きした焼き菓子や、注文を受けてから作る揚げアイスを販売しているらしい。

「揚げアイスって……溶けないのか?」

 看板を見た湊が不思議そうな顔でつぶやいた。その様子に望美は笑みをこぼす。料理が得意な湊も、さすがにスイーツの類のレシピには疎いと見えた。

「揚げるのは一瞬ですから溶けませんよ」

「でもどうやって揚げるんだ?」

 想像もつかないのか、湊はしきりに首をひねっている。

「揚げアイスのレシピ自体はいくつかありますよ。シューアイスに衣をつけて揚げるとか、アイスを食パンやカステラに挟んで揚げるとか」

 コツはシューアイスやパンなどに挟んだものをカチカチに凍らせておくことだ、と告げた望美に、湊は感心したようにため息をついた。

「詳しいんだな」

「母が甘いものが好きで、ケーキなんかをよく一緒に作っていましたよ」

 もっとも母親は食べる専門で、面白そうなレシピを見つけてきては望美に作ってとねだるばかりであったのだが。

 昨日の手芸部と同じように調理部も売れ行きは良好なようで焼き菓子は次々と売れていき、忙しそうに部員が新しいものを作っている。揚げアイスの方はと言えば、こちらも人気商品らしく次々と買っていく人の姿が見られた。紙に巻かれた長方形の物体を手にしていることから、パンに包むタイプのレシピではなかろうかと望美は推測する。

 湊はと言えば、興味深そうに調理スペースをじっと見つめている。それがあまりにも熱心だったので、望美はくすりと笑みをこぼした。売り子役の生徒の元へと近寄ると、金券を一枚差し出す。

「揚げアイス一つください。あ、それと二つに切っていただけますか?」

 望美の言葉に誰かとシェアすると考えたのだろう、いいですよ、と笑って生徒は調理担当の生徒にそれを伝えた。しばらくして二つに切られた揚げアイスが差し出される。どちらも持つ部分に紙が巻かれており、食べる際に手が汚れないようにとの配慮が感じられた。

「はい、お待たせしました。アツアツ冷え冷えの不思議な食感をどうぞ召し上がれ」

 そう言って差し出された揚げアイスを礼を言って受け取る。湊の元へと向かうと片方を差し出した。

「はい、どうぞ」

「……え? あ、ありがとう」

 戸惑いがちにまばたきしたあと、湊ははにかむように笑ってそれを受け取った。ぱくりと一口かじり、驚いたように目を見開く。

「外のパンはアツアツなのに、中のアイスは冷たい!」

 不思議そうに声を上げ、夢中になって食べる様子は大変ほほえましかった。笑みを浮かべてその様を見つめながら、望美も一口かじる。カラッと揚がったパンの食感と、甘いアイスクリームとはとてもよく合っていておいしい。摂取カロリーのことを考えさえしなければ、幸せな気分に浸れることは間違いないだろう。

 食べ終わり、持ち手の部分の紙をごみ箱に捨てると二人は調理室をあとにした。



 南棟の二階にある講義室では運動部連合とボードゲーム同好会がそれぞれ展示をしていた。教室の真ん中を机で仕切って互いに行き来はできないようにされており、西側にボードゲーム同好会が、東側に運動部連合がスペースを持っていた。まずは西側のボードゲーム同好会からチェックを開始する。

 ボードゲーム同好会は、その名の通り各種ボードゲームを行う同好会である。将棋、囲碁、チェス、オセロ、バックギャモン、その他ボードゲームであればありとあらゆるものをプレイする。今年の文化祭では彼らは初心者向けの講習会を開いているらしく、それぞれ机二台イス二脚を向い合わせに並べたものを何セットか作り、その上にそれぞれのボードゲームを置いて希望のものの講習を行うという形を取っているようだった。挑戦者募集という張り紙もあり、腕に覚えのある者は同好会の人間と勝負することも可能らしい。

 しばらく様子を見ていたが、同好会ゆえの悲しさかあまり人が来ているようではなかった。しかし同好会の生徒たちは、それでも少ないながらも来る人の相手を楽しげにしていた。

 不意に、かつん、と何かが落ちる音がした。何だろうと思いながら望美は顔を上げる。音の出所は教室の反対側で行われている出し物のようだった。そういえば運動部連合の出し物は射的だったか、と思い出しながらそちらを見やり、おや、と望美は首を傾げた。

 射的とは言うものの、それは縁日で見るような銃で的を撃ち落とすものではなかった。一言でそれを表すならば輪投げである。

 だがしかし、ただの輪投げと思うなかれ。なぜならばこの輪投げ、的となる棒は床ではなく壁から垂直に生えていたのである。しかも棒の長さは十センチほどであり、縦三列横三列の合計九本の棒が等間隔に並んでいた。よほど慎重に狙って投げなければ、ほかの棒に当たって落ちてしまうであろうことは想像に難くない。この的が二セット用意されていた。

 ルールはと言えば、六本の輪を投げて的に入れられた本数に応じて景品がもらえるというもののようだった。六本すべて入れられれば豪華賞品、以下三本で金券五枚、一本で金券一枚、入らなくても参加賞となっている。

 豪華賞品というのは、ここからではうしろの部分しか見えないが、もふもふとした手触りのよさそうな五十センチほどのテディベアのようだった。ベージュ、焦げ茶、白、黒、ラベンダー、ピンク、ワインレッド、オレンジ、カーキ、水色の計十色のテディベアが仲良く並んでいる。

「運動部連合の輪投げどうですかー? 六本全部入れられれば先着十名で豪華賞品! 手芸部謹製一点物のテディベアですよー」

 客引きなのだろう、廊下からそんな声が聞こえてくる。

 商品の豪華さ、そして先着順というシステムで客足は上々のようだったが、十体並ぶテディベアたちを見ると未だ成功者は現れていないらしい。

「どう見ても無理だろ、アレ……」

「ねー、一本でも入ればいいとこだよね」

 そんな声が聞こえてくる。

 また一人勇気ある挑戦者が挑み、そしてはかなく散っていった。

「アレは……取らせる気ないだろ……」

 望美の視線を追って輪投げに気づいたのだろう、やや引き気味に湊が声を上げる。それに望美もうなずく。

 うまく四隅を狙えば入るかもしれないが、あまりにも棒が短い。まず普通の人間には無理な芸当と思われた。

 見ていた人間もそう思ったのだろう、誰もがあきらめ気味にかぶりを振っている。そんな様子にどこか得意げなのは出店者である運動部連合のみである。最初から取らせる気がないのに、あんなうしろ姿からも愛らしいとわかるテディベアを用意したのならば相当性格が悪い。

 悲壮感漂う教室の中、大学生らしき二人の青年が前に進み出た。連れだろうか、隅の方にいた青年らが彼らに何か声をかけている。ずいぶんと目立つ集団だった。

 二人の青年は受付の生徒に金券を手渡すと、受け取った輪を手にそれぞれ投げるための定位置に立つ。壁の的へと視線を向ける二人は気負った様子もなく、どこか楽しむように悠然と構えていた。

「そいじゃ、まずは一つ目っと」

 青年の一人が軽い調子で言って輪を投げる。輪はきれいな軌跡を描いて飛び、まるでそう予定されていたかのように棒にかかった。あっさりと入れられた輪に、周囲から驚きと称賛の声が上がる。続けて投げられる輪は次々と棒にかかっていく。まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のようだ。

「これでラストだなっ」

 どこか楽しげに告げて青年が投げた輪は、やはりと言うべきかきれいに的に収まった。パーフェクト達成である。それどころか、真ん中の棒に二本、四隅の棒に一本ずつ収めてバツ印まで作ってみせた遊び心に、見物人が歓声を上げる。

「あー、あれはもう一人やりづらいだろうなぁ……」

 真横でいとも簡単になされたパーフェクトに、あれは相当なプレッシャーだぞと湊が同情するような視線をもう一人の青年に送る。

 だが多大なプレッシャーにさらされているはずの当の青年は、友人だろう先に投げ終えた青年にニヤリと笑ってみせた。

「……赤也はもう少しエンターテイメント性を考えた方がいいぞ?」

 どこか不敵にそう告げて、彼は的へと向き直る。輪を一つ右手に持つと、軽く指先でもてあそんでから的めがけて投げる。狙いは違わず、それは見事真ん中の棒へと収まった。

 青年はそこで一度くるりと反転し、友人たちの方へと視線を向けた。

「次はどこに投げてほしい?」

 ギャラリーの視線を意識しているとしか思えない、余裕のある笑みで青年が問いかける。

「真ん中の段の左でどうだ?」

 友人たちの一人が挙げたのは、狙うのが難しいと思われる場所だった。障害物となりうるほかの棒が多いほど難易度が上がる。だが青年は笑みを浮かべたまま的へと振り返ると、ひょいと輪を投げた。

 指定通りの場所に収まった輪を見て観衆は沸いたが、場所の指定をした当の友人は面白くないというように肩をすくめていた。

「だったら次は反対側だな」

 友人たちの中の別の一人が、人の悪い笑みを浮かべて中段右を指し示す。それに軽く手を挙げただけで応じると、青年はその指定通りの場所へと輪を投げ入れた。

 指定した友人が不機嫌そうに顔をしかめたところから、それなりに本気で失敗すればいいと思っていたらしい。だがその友人の思惑はどうあれ観衆は非常に楽しそうで、エンターテイメントとして盛り上がっているのは間違いなかった。

「あっさり全部入れた最初のもすごいけど、指定通り入れてる二人目もすごいよなぁ……」

 湊の賞賛の言葉は観衆たちの言葉でもあった。二人の青年に向けられるのは皆賞賛の眼差しだ。

 次は上だ、いや下だ、と観衆の間から声が上がる、青年は声のした方を振り返って笑顔を見せると立て続けに輪を投じた。指定通り、真ん中の列の上と下に輪が収まる。

 残る輪は一つ。青年は指先でくるりと輪をもてあそぶと、それを最初と同じ中央の棒に投げ入れて的の前から移動した。

 二人の青年はこの程度造作もないことだと言いたげな顔で難事をこなしてみせたのだが、そんな彼らを迎える友人たちの方も当然だと思っているようで、その顔に驚愕や賞賛の表情は浮かんでいなかった。

 友人たちのところに引き上げてしまった青年たちをスタッフの男子生徒があわてて追いかける。おめでとうございます、とどこか尊敬と困惑の入り混じった声音で告げる。

「パーフェクト達成第一号と第二号です、景品を選んでください」

 そう言って生徒は並べてあるテディベアを手で示した。

「あ、そっか。もらえるんだっけ」

 景品ではなく投げることそのものが重要だったのか、最初に輪を投げた青年が忘れていたとでも言いたげな表情でつぶやいた。生徒に誘導され、展示されているテディベアの方へと歩いていく。しかしもう一人の青年は動こうとはせず、生徒は困ったように眉を寄せた。

「あ、俺はいい。同じグループだし、なるべく多くのグループに獲得してほしいからな」

 相手が女性であったならば間違いなく頬を染めるようなまぶしい笑顔を浮かべ、青年はあっさりと辞退した。

「それじゃあ……」

 せめてこれを、と三本成功の景品である金券を押し付けるように渡し、生徒は小走りに受付へと戻った。

 一方、テディベアを眺めていた青年は何を思ったのかくるりと友人たちの方へと顔を向けたあと、軽く首を傾げた。真剣な様子でテディベアを眺めることおよそ一分、青年が指さしたのはラベンダー色のテディベアだった。

 スタッフの生徒に礼を言ってテディベアを受け取った青年は、それを片手で支えるようにして持つと友人たちの前に戻った。そしてごく自然な様子で、テディベアを友人の一人に差し出した。

 目の前に差し出されたテディベアに、それまで楽しげに友人たちの様子を見守っていたその人物は驚いたように小さく声を上げた。黒縁の眼鏡の奥の瞳がこぼれそうに大きく見開かれる。女性なのか男性なのか、その顔立ちや服装からは判断しづらい。ただ大変な美人であるのは確実だった。

 不思議そうな顔で首を傾げるその人物に、青年は人懐っこい笑みを浮かべ、やるよと言って半ば強引に押しつけるようにして持たせてしまった。

 受け取った方は困惑したような表情を浮かべたあと、首を傾げたままテディベアを抱き上げるようにして自分の正面に持ってくる。

「……えっと、ありがとう?」

 受け取ってしまった以上ほかの言葉がなかったのか、その人物は困惑しつつも青年に突き返すようなことはしなかった。少しだけ眺めたあと、くるりと向きを変えてうしろから抱きしめるように抱え直す。

「かっこいいですね」

 にぎやかな集団を眺めながら、ぽつりと望美がつぶやいた。

「ああいうの、あこがれますよね」

 そう言って淡く笑みを浮かべる。

「……望美も、ああいうのにはあこがれるんだ?」

 どこか意外そうな湊の声に、そうですよ、と答える。それに、そっか、と湊は感慨深げにうなずいていた。

「とりあえず、あちら側も見に行きましょうか」

 そう言って輪投げのスペースを指さした望美にうなずき、湊は彼女のあとを追って歩き出した。

 講義室を出ると、ちょうどさっきの一団も移動するところなのか廊下ですれ違った。

 テディベアを抱く人物の顔を見て、おや、と望美は目を見開く。近くで見てようやく気付けたが、それは忍足であった。いつものスーツ姿とはずいぶんとイメージの違う私服と、普段からは想像もできない幼さを感じさせる表情のせいで気づけなかったらしい。あんな顔もするのか、と思いながら望美はもう一度講義室へと足を踏み入れた。

 運動部連合がスペースに使っている東側はほとんど物がなかった。机は間仕切りとボードゲーム同好会が使っている分ですべてらしい。窓際の壁にベニヤの板を立てかけ、そこに的が二つ作られていた。

 黒板側に目を向けると、マグネットで張り付けているらしい丸い大きなダーツの的のようなものと、吸盤式のダーツの矢が置いてあった。おそらく小さな子どもも楽しめるようにという配慮なのだろう。

 教室内を見回していると、いつのまにか湊が的の前に立っていた。手に輪を持っているところを見ると、参加費を払って輪投げに挑戦するらしい。先ほどの二連続パーフェクトのあとのせいか観客たちのノリはよく、頑張れーなどと声援が飛んでいる。

 真剣な表情で的を見つめていた湊が輪を投げた。かこん、と音を立てて輪は右上にひっかかった。それにおお、と観客たちが声を上げるが、真剣そのものの湊の横顔に集中を邪魔してはいけないと思ったのか声を抑える。

 すぅ、と小さく息を吸うと、湊はふたたび輪を放った。今度は左上に入る。右下、左下、と次々に命中させる湊に拍手が沸き起こる。

 輪を構え、けれども湊はすぐに構えを解いた。気を落ち着かせるように大きく深呼吸を繰り返したあと、もう一度構えると輪を投じた。音を立てて輪は的の右上へと収まる。

 あと一つ、と誰もが心の中でカウントする。緊張と期待が最高潮に達した中、放たれた輪は左上の的へとかかった。

 詰めていた息を湊が吐き出すのと同時に、わっと観衆が沸き上がる。惜しみない拍手の音に我に返ったのだろう、湊が照れたように笑みを浮かべた。

「おめでとうございます! こちらから景品をお選びください」

 スタッフ役の生徒に促されてテディベアの前へと移動した湊が、ふと望美の方を振り返った。思案するように首を傾げることしばし、彼はまたテディベアへと向き直る。そこでもまた長い間思案して、やがて一つを指さした。生徒から渡されたのは焦げ茶色のテディベアだった。

 思ったよりも大きかったのか、彼はそれを注意深く抱え直すと望美の方へと歩み寄る。

「はい」

 満面の笑みで差し出されたテディベアに望美は目を丸くした。驚いたようにまばたきしながら見返す望美に、湊は笑顔のままもう一度テディベアを差し出した。おずおずと受け取った望美はテディベアを両手で持ち上げ、見つめ合うようにする。そんな望美の姿に湊は笑みを深くした。

「うん、やっぱり望美にはこの色が似合うな」

 満足げに笑って言われた言葉に望美はわずかに首を傾げ、それから笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」

 それにどういたしまして、と湊は嬉しそうな笑顔で答えたのだった。



 さすがに全長五十センチはあろうかというテディベアを抱えたまま見回りはできないため、望美は一旦自分の教室に戻ってテディベアを置いてくることにした。鞄の中には入らなかったので、教室のうしろにあるロッカーに入れておくことにする。

「お待たせしました」

 テディベアをしまって教室を出ると、廊下で待っていた湊に軽く頭を下げる。

「いや、そんなに待ってないから気にしなくていいぞ」

 律儀な望美に、湊は笑ってそう言った。それに小さく笑みを浮かべると、望美は次のスペースへと向かって歩き出した。

 化学室の前にはイスが据えられており、鈴村がそこに座ってタブレット端末をいじっていた。横には筆談用と思しきスケッチブックが置かれ、立てられたのぼりにはプラネタリウムと書かれている。

「こんにちは、鈴村先輩」

 手を振って声をかけた湊に、鈴村はタブレット端末から顔を上げるとぺこりと会釈した。それに望美もこんにちはと会釈する。

「今って途中でしたっけ?」

 スマートフォンで時間を確認した湊が問いかけると、鈴村はこくりとうなずいた。

「えっとな、科学部うち、天文部と合同でプラネタリウムやってるんだ。上映途中でもよければ一応入れるけど、どうする?」

「わたしはそれでもかまいません」

 うなずいた望美にほっと息を吐き出すと、湊は教室のうしろ側のドアに手をかけた。開けると数人が入れるほどのスペースが暗幕で仕切られている。ドアを閉めて外の光が入ってこないことを確認すると、湊は手探りで仕切られた暗幕をかき分けた。わずかな光が漏れてきたのでそちらへと足を進めると、ドーム状になった天井には一面の星空が広がっていた。思わず声を上げかけた望美だったが、ほかの人もいることに気づいてあわてて口を押さえる。

 化学室にはそこそこの人数がいるようだった。湊の誘導に従い、空いている席に腰を下ろす。

 天文部の生徒だろうか、教室の前方に立つ生徒が解説をしている。やわらかな声で語られる解説はよどみがなく、演劇部や放送部も務まりそうに思えた。

 星空は時折線が入って星座を描き、そのたびに解説が入る。

 秋の四辺形の説明をしていた生徒が言葉を続ける。

「この四辺形はある動物の胴体にあたることでも知られています。その動物とは、羽を持ち空を駆ける馬、天馬ペガスス――ペガスス座です」

 その言葉に合わせるように、星を繋ぐ線が入って星座を描き出した。

「この馬はギリシャ神話に登場する幻の動物です。ペガスス――ここでは神話に合わせてペーガソスと呼びましょうか。ペーガソスは勇者ペルセウスがメドゥーサの首を切って倒した時に、クリューサーオールと共に胴体から生まれました。ペーガソスは後の勇者ベレロボーンの乗馬となります。ペーガソスに乗ったベレロボーンは、空中から矢と槍でキマイラを打ち倒しました。やがて増長したベレロボーンは神の仲間入りをしようとペーガソスに乗って天を目指しましたが、ゼウスの遣わしたあぶを嫌ったペーガソスに振り落とされ墜死ついしします。ペーガソスは後にゼウスの雷電の矢を運ぶ役目を負ったと言います」

 そこで一度言葉を切り、生徒は天井に映るペガスス座を手で示した。

「ところでこのペガスス座、体のうしろ半分がありませんよね?」

 問いかけるようにそう言って、生徒は視線を教室内へと巡らせる。

「それはあまりにも早く空を飛んだので、うしろ半分をどこかに置き忘れてきた、なんていうお話もあるんですよ」

 冗談めかした生徒の言葉に教室内は小さく笑いの渦に包まれた。それに満足げにほほえみ、生徒は次の説明へと入る。

 見上げる星空は穏やかに流れていき、ゆったりとした気分で三十分弱を過ごしたのだった。



 化学室を出て廊下を歩き出したところで音楽が聞こえてきた。時間帯から昨日のように吹奏楽部のマーチングだろうかと思ったが、音は昨日のように厚くはなく、そして位置も中庭からではなかった。むしろその反対側から聞こえてくる気がする。首を傾げながら窓へと寄った望美を追い、湊もまた窓へと向かった。

 二人で窓から外を見下ろすと、黒のスーツに白い仮面というどこかで見たような姿の男がサックスを吹きながら歩いているところだった。

「……理事長?」

「だよな、アレ……」

 思わずつぶやいた望美の言葉に湊がうなずく。二人の言う通り、眼下の人物は先日のイベント戦闘会議の際に見た小笠原の姿にそっくりだった。と言うよりは、どう考えても本人だとしか思えなかった。

「なんで理事長あんな格好してるんだ……?」

 首を傾げて湊がつぶやくが、服装以外にも小笠原は普段とは違っていた。彼は歩きながら器用にサックスを演奏していたのである。その音色に惹かれたのだろうか、生徒や来場者たちが彼のあとを追うようにして歩いている。ぞろぞろとギャラリーを引き連れて歩くその姿はハーメルンの笛吹き男を連想させた。

 窓から見下ろしていると、どうやら小笠原は体育館の方へと向かっているようだった。演奏しているためか、それともギャラリーを引き連れるためか、その足取りはひどくゆっくりだ。

 小笠原を見つめていた望美だったが、不意にきびすを返して歩き出した。

「え? あ、望美!?」

 それに慌てたように声を上げ、湊が追いかける。

 廊下を急ぎ足で歩いて渡り廊下へと向かうと、中庭からドラムの音が聞こえてきた。同時に高くギターの音が響く。足を止めて中庭へと視線を向けると、そこには先ほど見た小笠原と同じような格好の人々がいた。ギターを持ったスーツ姿の男、ショルダーキーボードを演奏するロリータ調の黒いドレスの女、ドラムを叩くスーツの男――その誰もが皆仮面で顔を隠している。また一人、仮面で顔を隠した黒衣の女が中庭に現れた。女は中庭に置かれていたアンプに手にしたベースを繋げると演奏を開始する。

 体育館側から現れた小笠原が彼らの元へと歩いていき、演奏に加わった。引き連れていた人々は仮面の集団を取り囲むようにして立っている。ほかの面々も小笠原と同じく校舎外を回ってギャラリーを引き連れてきていたのだろうか、ずいぶんと中庭の人口密度は高かった。

 スタンドマイクを持った、やはり黒衣に仮面と言った出で立ちの男が演奏の輪に加わる。彼はスタンドマイクを地面に置いて高さを調整すると、のびやかに歌いだした。流暢な英語で歌われるのは古い外国映画の曲だ。

 派手なパフォーマンスもさることながら、ロック調にアレンジされた曲はうまく観客たちを乗せていた。

「誰が演奏してるんだろ……あれが理事長ってことは教師なのか?」

 手すりを掴んで身を乗り出すようにしながら、湊が興奮したように声を上げた。そんな湊とは違い、望美はどこか冷静に眼下の様子を眺める。

「……おかしいですね」

 そのつぶやきを拾ったのだろう、湊が顔を上げて望美の方へと顔を向けた。

「おかしいって、何が?」

「今日、この時間に中庭でライブが行われるなんて企画はなかったはずです」

 飛び込みで芸を披露するという企画もあるが、それは体育館で舞台発表の合間を使って行われる。だいたいそれも当日の午前中までに生徒会に申請し、先着順で枠が埋まっていくのだ。こんな生徒会も把握していないようなゲリラライブなど不可解だった。

 望美がそう説明すると、湊は拳をあごに当てて首を傾げた。

「そうだけどさ、見てる人たちも楽しそうだからいいんじゃないか?」

 文化祭なんだしさ、と笑みを浮かべた湊に、望美もそれもそうかとうなずいた。



「お帰りなさいませ、お嬢様、ご主人様」

 二年二組の教室の扉を開けるなり、そんな声が望美たちを出迎えた。昨日も似たようなことを言われたな、と思いながら望美がドアの横にかけられた看板を見やると執事喫茶とあった。それになるほど、と納得する。

「おや時任に、きみは……そうだ、在原だったな」

 一礼して顔を上げた執事姿の生徒は小林だった。彼女は望美の左腕につけられた腕章に目を止め、巡回か、と小さくつぶやいた。

「邪魔にならないよう努力しますので、少々ご協力をお願いします」

「ふむ、そういうことならば席に案内しよう。なに、無理に注文しろとは言わないさ。席に座っていた方が不自然さはないだろう?」

 笑みを浮かべてそう申し出た小林に、望美は少々考えるような仕草を見せたあとうなずいた。たしかに立ったままでは悪目立ちするし邪魔になるだろう、少し様子を見るのならば席を借りた方がいいのかもしれない。

「では、恐れ入りますがそのようにお願いします」

「わかった」

 律儀に頭を下げた望美を見て好ましそうに笑うと、こっちだ、と言って小林は二人を先導して歩き出した。

 案内されたのは窓際の席だった。教室内を一望でき、なおかつ不必要に注目を集めない。小林の好意にもう一度礼を言う。

「なに、気にする必要はないさ」

 そう言って、だが、と彼女は冗談めかしたようにくちびるに笑みを刻んだ。

「それであれば、何か注文していってくれると嬉しいな」

 その言葉と共に、手にしていたメニューと小さなベルを残して去っていく。

 彼女のうしろ姿を見送ると、望美は残されたメニューに視線を落とした。

「何か頼みますか?」

「え? オレはどっちでも……」

 望美が頼むならオレも頼もうかな、とつぶやく。

「では先にお決めください」

 差し出されたメニューに湊は視線を落とす。しばらくしてうなずくと、メニューを彼女の方へと向け直した。望美もしばらくメニューを眺めたあと、ベルへと手を伸ばす。

 わずかに振って音を鳴らすと、一人の少女がやって来た。彼女もまた執事の格好をしているところを見ると、このクラスのコンセプトは男装執事喫茶なのかもしれない。

「アイスケーキとホットティーをお願いします」

「あ、オレはコーラフロートで」

 注文を紙に控えると、かしこまりましたと一礼して少女は去っていく。そのうしろ姿を見送ると同時に教室内に視線を向ける。机を寄せ、クロスをかけて作ったテーブル席はほとんど埋まっているようで、かなり盛況であることが見て取れる。

 さりげない風を装って教室内を眺めていた望美は、前の席に座っているのが運動部連合の輪投げで見た一団であることに気づいた。彼らはどこか楽しげに中庭を指さして談笑している。だが忍足とスーツを着ていた青年の姿がないところを見ると、彼ら二人は別行動をしており、あの三人がここで帰りを待っているか待ち合わせかと言ったところなのかもしれない。

 そんなことを考えていると、お待たせしました、という声がかかって目の前に皿が並べられた。ごゆっくりどうぞ、と言い置いて執事役の生徒が去っていく。

 視線をテーブルへと向けると、紅茶はポットごと供されていた。皿の上には切り分けられたアイスケーキが載っている。てっきりケーキの形をしただけのアイスクリームだろうとばかり思っていたのだが、皿の上に乗っているのはベリー系が山盛りになっていて大変かわいらしい。

「「いただきます」」

 手を合わせてそう唱和すると、二人は運ばれてきたものに口をつけた。

 フォークでケーキを切り分けて口に運ぶ。バニラアイスの甘さの中、凍ったベリーがシャリシャリとした食感を生んでとてもおいしかった。望美の口元に思わず笑みが浮かぶ。

「どんな味?」

 どこか優しげにほほえんだ湊の問いかけに、説明しようと首を傾げる。いくつか言葉は浮かんだものの、望美は結局それを口に出すことはなかった。

「よければ一口どうぞ」

 そう言って皿を湊の方に押しやる。湊は一瞬戸惑ったようにまばたきした。

「えっと、それじゃ一口だけ」

 コーラフロートに添えられていた長いスプーンを手に取ると、湊はケーキを掬い取った。いただきます、と言ってそれを口に運ぶ。

「うん、おいしい」

 そう言って彼も笑みを浮かべる。

 しばらく他愛もないおしゃべりをしながらアイスケーキと紅茶を楽しむと、望美たちは小林に一声かけて二年二組の教室をあとにした。



 残る展示スペースを回り、校舎を出たところで湊とは別れた。

 テントに戻ると、すでにそこには薫と悠の姿があった。

「すみません、お待たせしました」

 腕章を外しながら頭を下げると、今来たところだから気にしなくてもいいと言われる。詩織たち三年生に送り出され、三人は昨日のように準備のために生徒会室へと向かった。

 着替えると、【若苗】と【青藍】はスタンバイのために先に体育館へと向かった。舞台の裏側にある非常口から体育館に入り、二階の通路で出番を待つのだ。

 望美はと言えば、メジャーバトンを手に三年の教室の前にいた。吹奏楽部の部員を待っているのである。

 しばらく待つと、以前理事長に見せられた映像と同じく白の詰め襟の上着に黒のスラックスと革靴、そして手には楽器と言った出で立ちの生徒たちがやって来た。十年前とは違って吹奏楽部員の数はあまり多くはないが、それはこちらのオーダー通りだ。場所が場所だけにあまり大人数では小回りが利かないため、人数を抑えてもらったのである。

「今日はよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げてそう言うと、彼らも笑みを浮かべて会釈を返してくれた。

 体育館前へと移動すると、すでに扉の両脇には【正義の味方部】がスタンバイしていた。彼らはそれぞれ小さく手を挙げてこちらに振ってみせる。それに手を振り返して望美は扉の前に立つ。準備はどうかと振り返ると、吹奏楽部の部員たちは揃った動きでうなずいてみせた。こくりとうなずきを返し、前へと視線を戻す。

 一、二、三、四、とかけ声をかけると同時に扉の脇にスタンバイしていた部員が扉を開け放つ。

 メジャーバトンを下ろすと勇壮な演奏が始まった。曲は国民的なアニメのテーマソング。飛び立つ宇宙戦艦のごとく、望美はメジャーバトンで拍子を刻みながら体育館の中へと踏み込んだ。左右に作られた通路を別れて進んで客席と舞台との間、飛び込みで一芸を披露する者たちが使う小舞台とも呼ぶべきスペースへと向かう。

 演劇部の舞台が始まるのを待っていた客席の人々は驚いたように声を上げて通路へと目をやったが、先頭にいるのが【世界征服部】の人間であることに気づくとわっと歓声を上げて拍手した。

 吹奏楽部の部員たちは小舞台にたどり着くとそれぞれ列単位で移動しながらフォーメーションを描き出す。望美はメジャーバトンを回転させながら手を大きく広げ、左から右へとバトンを渡す。また回転させながら右手を下ろすと、高くメジャーバトンを投げ上げる。それを受け取ると側転し、メジャーバトンで拍子を刻んでフォーメーションを描く部員たちの間を行進する。くるくると腕の上でバトンを回転させながら歩き、腕で弾き上げるようにしてバトンを投げてまた受け取る。

 曲が終わりに近づいてきたので、客席の前、小舞台の中央へと移動する。吹奏楽部の部員たちは小舞台の端ギリギリのところで、まるでリングを作るように望美を取り囲んだ。

 ひときわ高くバトンを放り上げると、望美はくるりとその場でターンして落ちてきたバトンを受け取った。バトンを高く掲げるようにしてポーズを決めるのと同時に、吹奏楽部の演奏が終わる。

 バトンを掲げたまま、望美は高らかに宣言した。

「これより征服を開始します」

 その言葉を追うようにアラームが鳴り響き、【正義の味方部】の出動を促す放送が流れ出す。それとほぼ時を同じくしてやって来た【特殊報道部】が中継開始を叫んだ。

 【特殊報道部】からわずかに遅れ、【ジャスティスピンク】を先頭に【正義の味方部】が体育館へと飛び込んでくる。

「お前たちの好きにはさせないぞ、【世界征服部】!」

 ポーズを取って宣言すると、三人は望美を取り囲むようにして構えた。それを見回し、望美はかすかに笑みを浮かべる。

 掲げていた腕を下ろして最初の構えの状態に戻ると、メジャーバトンで拍子を刻みだす。速いテンポで奏でられるその曲は、人類と巨人との戦いを描いた有名なアニメのテーマソング。

 曲の始まりと同時に二階の通路から二つの影が飛び降りてくる。一つは黄色味を帯びた淡い緑の影、もう一つは鮮やかな藍色の影――【若苗】と【青藍】だ。【若苗】は着地と同時に手にしていたピコハンを足元へと置く。

 二人は大仰な仕草でそれぞれ剣を抜くと【正義の味方部】へと飛びかかった。【ジャスティスグリーン】は【若苗】を、【ジャスティスブルー】が【青藍】を迎え撃つ。

 舞うような動きで叩き込まれる【ジャスティスピンク】の回し蹴りをしゃがみながら避けると、望美はくるりと側転して壁際へと向かった。手にしたメジャーバトンとピコハンとを取り換えて再度リングの中央へ。

 ピコハンを振りかぶって【ジャスティスピンク】に襲いかかれば、彼女は半身になってそれをかわした。くるりと勢いをつけながらの回転蹴り。望美はタイミングを合わせてピコハンを叩きつけ、大振りなその攻撃を受け止める。

 くるりくるりと踊るように回転しながら三組は中央に集合すると、渦を描くように相手を入れ替えた。それはさながら物騒なダンスパーティーのごとく、三組は曲に合わせて激しく動きながら組み合う。

 曲が終焉しゅうえんに近づくにつれ、その動きは激しくなっていく。

 【世界征服部】の三人が弾き飛ばされるのとほぼ同時に最後の一音が鳴った。ドサリ、と床に打ち付けられる音が静寂の中に響く。

「……仕方ありません、今日はこのくらいにしておきましょう」

 よろめきながら立ち上がると、望美は【正義の味方部】を見据えてそう告げた。ピコハンを【青藍】に投げ渡し、自分は壁際に置いたメジャーバトンを取りに走る。

 構えを取ると、かけ声と共にバトンを振り下ろして拍子を刻む。ドラムが刻むメロディーは、未来から送り込まれたアンドロイドと人間との死闘を描いた映画のメインテーマ。それに合わせて足踏みしながら望美は舞台の方へと体を向けた。くるりとバトンを投げ上げると、トンボを切って入口側に移動してそれを受け止める。

 アクロバティックなその動きに合わせ、吹奏楽部の部員たちが行進を始める。入場と同じように通路を左右に分かれて行進する最後尾には【若苗】と【青藍】。

 重厚な音楽に合わせて彼女らが退場すると、【ジャスティスピンク】は腕を高く掲げた。

「この学園の平和は我らが守る!」

 高らかに叫ぶと、彼女らも体育館を駆けだした。



 制服に着替えてテントで【コンクエスト】が無事終了したことを報告すると、昨日と同じように望美と悠は自分のクラスの出し物へと向かう。

 生物準備室で衣装に着替え、配置につこうとしたところで呼び止められた。

「あ、今日はいいわ。三人で宣伝兼ねて校舎回って来て」

 お化け役に配置を言い渡す役の男子生徒がその言葉と共に差し出したのは、入口に立てられていたはずの幟だった。隣に立っていた小百合、千恵らと共に顔を見合わせる。宣伝のために幟を持って校舎を回る役もいたはずだが、それはお化け役ではなかったと記憶している。なぜ自分たちが、と問いかけると、男子生徒はあっさりと言った。

「だってお化け役が行った方が人目を惹くだろう?」

 その言葉に、それもそうかとうなずいて幟を受け取る。

「じゃ、頼んだから。戻ってこなくてもいいぞ?」

 存分に宣伝兼ねて遊んで来い、とにこやかに告げた男子生徒に送り出され、三人は準備室から廊下へと出た。

「生物室でお化け屋敷やってまーす、是非お立ち寄りください」

 そんなことを叫びながら校舎内を回る。遊んでいいと言われたので、途中さまざまなスペースに立ち寄った。どのスペースもすでに見て回っているはずなのだが、友人たちと回るとまた違って見えて楽しかった。

 あちらこちらを冷かしながら校舎を一周したところで、ねぇ、と千恵が声を上げた。

「体育館に行かなくていいの?」

 言われた意味がわからず、望美は首を傾げる。校舎を回っている理由はクラスの出し物の宣伝なのだ、たしかに校舎外にも生徒や来場者の姿は多く見えるから外を回る利点はあっても、体育館という閉鎖空間に行く必要はあるのだろうか?

 そう問い返すと、小百合は難しい顔をして唸った。

「それはそうだんだけどさ……見に行ってあげなくていいわけ? 一年合同の舞台」

 誘われてるんじゃないの? と問われてうなずく。たしかに、悠と湊の両名からできれば見に来てほしいと言われてはいる。

「だったら行ってあげようよ。遊んできていいって言われてるんだもん、体育館の舞台発表見に行ったからって怒られないと思うよ?」

 ね? と重ねて誘われ、望美はうなずいた。

 体育館へ向かうと、ちょうどプログラムがフリー参加であったためか座席は結構空いていた。前の方の席に陣取り、幟は邪魔にならないように足元に寝かせておく。

 時間が来たのか、小舞台に立っていた男子生徒二人がありがとうございましたーと一礼して退場していく。途中から見たせいでよくわからなかったが、もしかしたら漫才だったのかもしれない。

 しばらくすると、体育館内に次の演目を知らせる放送が入った。

 緞帳どんちょうが引き上げられ、出てきたのは和服に身を包んだ数人の男子生徒だった。舞台の中央で等間隔に並ぶと互いに目配せをする。

「アさて、アさて、さては南京なんきん玉すだれ」

 声を揃えて歌いだした彼らは、おもむろに束ねられた木の枝のようなものを取り出した。歌いながら、歌詞に合わせて手にしたそれの形状を次々に変えてみせる。それは釣竿であったり、橋であったりした。

「アさて、アさて、さては南京玉すだれ」

 そう歌って締めくくると、彼らは一礼して舞台の袖へとはけていく。

 代わりに出てきたのはピエロの衣装とメイクをした女子生徒だった。軽快な音楽に合わせるように体を揺らしながら、ワゴンを押して舞台の中央へと移動する。ワゴンの上には色とりどりの細長い風船が置かれており、彼女は動物など様々な形へとそれを加工していく。

 親に連れられてきたのだろうか、小学生くらいの子どもが歓声を上げて舞台へと近寄る。女子生徒はそれに気づくと作ったバルーンアートを子どもの前に差し出した。くれるの? と目を輝かせた子どもは差し出された中から一つを選び、また客席へと駆けていく。

 それに笑顔で手を振り、女子生徒は大仰な仕草で一礼した。作ったバルーンアートをワゴンに乗せると、それを押して舞台袖へと引っ込む。

 次に出てきた女子生徒の集団は白いブラウスに黒のスラックスとベストと言った恰好をしていた。手にはそれぞれ数個のボールを手にしている。並んで一礼すると、彼女らはそれでジャグリングを始めた。右から左へ、左から右へとボールを投げる。しばらくは胸の前でボールを投げていたが、上を向いて頭上でボールを投げる。かと思えば、次は足の間をくぐらせる。しばらくジャグリングを披露したあと、ボールを受け止めた彼女らは笑顔で礼をした。

 次に出てきたのはチャイナ服に身を包んだ悠と湊だった。二人は長い紐のついた棒と、つづみのような形をしたものを手にしている。中国ゴマだ。

 笑顔で一礼すると、二人はコマのくびれた部分に紐をくぐらせて床に置いた。棒を持ち上げて左右交互に動かす。時折コマを左右に振るようにしながら回すうちに風を切るような音が響いてきた。

 ある程度コマの速度が上がったのだろう、互いに目を見交わしてうなずくと、二人は同時に胸の位置で手を開いて紐を水平に張った。張られた紐の上をコマは左から右へと移動していく。右端まで来るとまた紐を緩めて棒を動かし、コマを回す。

 コマを振り回すようにしながら回転したり、互いにコマを投げ合ったりと言った芸を見せていた二人だったが、何を思ったのか不意に湊がコマごと棒を投げ捨てた。あろうことかコマを回している悠に殴りかかる。

 ざわめく観衆たちだが、当の悠は慌てず騒がずコマを操ったままそれをかわした。彼もまたコマを投げ捨てて反撃に出る。くるりと前転して相手の懐に飛び込んで足を払うが、それを湊は跳んでかわした。

 そこで一度二人はバク転して舞台から消えるが、すぐに側転しながら戻ってきた。互いにその手には木刀が握られている。

 木刀を構えて睨み合ったのは一瞬。悠が床を蹴り、一瞬で湊の懐に飛び込むと下段から逆袈裟に木刀を振り上げた。それを湊は手にした木刀で上から叩きつけて防ぐ。そのまま数合打ち合い、二人はふたたび睨み合った。互いに相手の動きを牽制するかのごとく、木刀を構えたままじりじりとにじるようにして円を描きながら立ち位置を変える。

 睨み合いながらの位置取りが一周回ったところで湊が仕掛けた。下段からの飛び込み突きを悠は叩き落すようにして封じ、返す手で斬り上げる。またもや打ち合いが始まり、木刀がぶつかる小気味いい音が響いた。

「……何あれ」

「さぁ……何だろう」

 呆然とつぶやいた小百合に、千恵もまた首を傾げる。

 彼女らのように観衆もまた何が起こったのか理解できない様子で呆然と舞台を眺めていたが、派手な動きのチャンバラにやがて歓声を上げた。

 その声に応えるように、舞台上の二人の動きは更に激しくなっていく。ガキリと打ち合い、鍔迫り合いの形となったところで互いに木刀を収め、観衆に向けて一礼する。

 それと同時に緞帳が下りていき、演目が終わったことを示す放送が入る。

 次は演劇部による幕間劇です、との放送と共に小舞台に演劇部の部員たちが出てきた。それぞれ台本と思しき本を持って配置に立ったところを見ると朗読劇であるらしい。内容は宮沢賢治の双子の星であるようだった。

「このあとどうする?」

 舞台の邪魔にならないように声を潜めながら問いかけた千恵に、どうしたものかと望美は首を傾げた。閉会式まで一時間はある。その間校舎などを回って宣伝に励むことも可能だし、このまま閉会式まで体育館で舞台観賞と決め込むのも手だ。

「そりゃこのまま観賞でしょ?」

 望美の思考を呼んだかのように、何を当たり前のことを聞くのかと言いたげに小百合が答えた。

「このあとは都筑先輩のクラスの劇でしょう? 見ないなんて手はないわ」

 でしょう? と同意を求められ、望美と千恵は顔を見合わせて小さく笑った。

「ではそうしましょうか」

 うなずいた望美に、小百合は小さく快哉を上げたのだった。



 演劇部による幕間劇が終わり、次の演目を知らせるアナウンスが流れる。それによれば三年三組は英語劇による不思議の国のアリスであるとのことだった。

 緞帳が上がり、舞台に昼の日差しを思わせる明るい照明が光を落とした。書割かきわりには河原の土手らしき景色が描かれており、ベニヤで作られたと思われる大きな木の陰に二人の少女が仲良く座っている。一人は水色のエプロンドレスにリボンのついたカチューシャをしており、どこか幼さを感じさせる無邪気な表情を浮かべていた。格好からアリスと推測できるその少女は詩織だった。

 その傍らに座るのはアリスの姉だろう、膝の上には大きな本が開かれた状態で置かれている。声は聞こえてこないが、小さな動きからは姉がアリスに本を読んで聞かせているかのように見えた。だがアリスの方はどこか退屈そうで、何度も大きくあくびをしている。

 そこへ舞台の上手かみてからぴょこんと白い何かが飛び出してきた。舞台の照明が半分くらいの明るさに落とされ、代わりに飛び出してきた何かに大きくピンスポットライトが当てられる。

 黄色いシャツにグレーのズボン、赤いスーツと黒い蝶ネクタイと言った出で立ちのそれは、長く白い耳と眼鏡が印象的だった。なぜか左手には傘を手にしている。

「ああ、大変だ。間に合わない……!」

 白ウサギと思しきその人物は大仰な仕草でポケットから懐中時計を取り出して叫ぶ。セリフと同時に、舞台の両端に台詞の日本語訳とおぼしき文章が映し出された。

「どうしよう、女王様に怒られてしまう!」

 上手からアリスたちの目の前を通り過ぎ、白ウサギは舞台の下手しもて付近で立ち止まる。右、左ときょろきょろと首を巡らせていたが、最後には足元へと視線を落とし、思い切り腕を振ってジャンプした。その瞬間、白ウサギを照らしていたピンスポットライトが消えたかと思えば、舞台の照明が明るさを取り戻す。

「……あら? 今のは何だったのかしら? しゃべっていたけど、あれはウサギよね」

 姉に読んでもらう本よりも、奇妙なウサギの方に興味を惹かれたのだろう。アリスは立ち上がってウサギが姿を消した場所まで歩いていく。

「まあ、何かしら。この大きな穴は」

 間違いなくウサギが消えた場所へたどり着くと、アリスは驚きの声を上げて足元にある何かをのぞき込むようにしゃがんだ。

「ウサギはこの穴に飛び込んだのね?」

 アリスはそう言うと、考え込むように大きく首を傾げる。

「洋服を着て、立って歩いて、しかもしゃべるウサギだなんて見たことないわ」

 目を輝かせたアリスは満面の笑みで舞台の床、ウサギが消えていった穴があるはずの場所をのぞく。

「何だかとっても面白そう!」

 そう言うなり立ち上がると、アリスは大きく勢いをつけて穴の中に飛び込むようにジャンプした。それと同時に舞台の下手から強い風が吹いて彼女のスカートをひらひらとはためかせた。背後の書割が黒子の手によって落ちていく穴の中のものへと交換される。そこには井戸のようなレンガ造りの壁を背景に、本棚や食器棚が描かれていた。



 照明が落とされ、場面が転換する。描かれた背景はバラ園だ。

 動きにくそうなドレスに身を包んで下手から現れたのは、上から下まで全部を派手な赤色で彩った美しいハートの女王。外見はとても美しいが、その性格は残忍極まりない。未だ白いバラを赤く染めきれていないトランプの兵たちが震え上がり、身を寄せ合って固まってしまっている。

 アリスはこの女王とクリケットの試合をしないといけないのだ。

「バットとボールはこれを」

 そう言って白ウサギが下手から飛び出してきた。手には鳥を模したと思われるどこかグロテスクなバットと、トゲトゲした突起のついたボールらしきものを持っている。先日行ったテーマパークの迷宮庭園で見かけたフラミンゴのバットとハリネズミのボールに瓜二つというよりは、そのものを借りてきたと言うべき相違のなさに客席から見ていた望美は驚いた。

「では試合を始めよ」

 女王がそう声を上げ、舞台の床にハリネズミのボールを置くように身振りで指示をすると、白ウサギはびくびくしながらも女王とアリスの足元にハリネズミのボールを置き、うやうやしくフラミンゴのバットを差し出す。

 アリスがバットでボールを打とうとした瞬間、ハリネズミのボールは紐でもつけられていたのか舞台の袖へと勝手に移動していった。

「あら大変、ボールが逃げてしまったわ。――まぁ、バットまで!」

 言うなり、アリスは手の中にあったピンク色のバットをボールとは反対側の舞台袖へと思い切り放り投げ、困惑したような表情で両手を広げてみせた。

「困ったわ、これじゃ試合ができないじゃない」

「ならば死刑にするまでよ!」

 手を振り上げたハートの女王がアリスを指さし、トランプの兵たちへと視線を向ける。

「この娘を捕らえて首をねよ!」

 高らかな宣言にトランプの兵たちが震え上がった。

「大変だ! ロープを持ってこなければ!」

「大変だ! 首を刎ねる剣を持ってこなければ!」

 口々に大変だと叫びながら、トランプの兵たちは舞台の上手や下手の袖、果ては舞台から飛び降りて客席脇に作られた通路を駆け抜けて次々に姿を消していく。

「女王様、兵たちが逃げました!」

 見ればわかる状況を、白ウサギがわざわざ大きな声で報告する。

「トランプたち! 戻ってきてこの娘を捕えねばお前たちを処刑するぞ!」

 そうハートの女王が叫べば、客席のうしろから、あるいは舞台の袖からひょっこりとトランプの兵たちが姿を見せ、渋々と言った様子でアリスの方へと向かっていく。その手には捕らえるためのロープなどは何もない。



 舞台が暗くなり、またもや場面が転換する。舞台の上には裁判場を思わせるセットが並んでいた。中央に一段高く作られた席には判事である王が、その周りには陪審席ばいしんせきがあって鳥やトカゲなど様々な動物が合計十二匹座っていた。

 王の前にはハートのジャックがロープで繋がれていて、その両側にはトランプの兵が立っている。王の近くには白ウサギが立っており、片手にラッパ、片手には羊皮紙の巻物を持っていた。照明が落とされた中、被告人のハートのジャックにサスペンションライトが当てられて悲壮感を醸し出していた。

「告知官、訴状を読み上げよ」

 王の言葉を受け、白ウサギはラッパを三回吹き鳴らすと羊皮紙の巻物を開いた。読み上げられた内容は、ハートの女王が作ったタルトをハートのジャックが盗んだというものであった。

 王の命令によって証人が場に呼び出される。舞台下手側に立った帽子屋にサスペンションライトが当てられた。帽子屋の証言が終わると、入れ替わりに公爵夫人の料理人がやってくる。同じように証言を終えると、今度はアリスが呼ばれて前に出てきた。

「この一件について、何を知っておるかね?」

「なんにも、まったく」

 王の問いにそう答え、アリスは戸惑ったように両手を広げてかぶりを振った。

「判決を考えよ」

 陪審員に向かって告げた王を白ウサギが止めた。新たな証拠が手に入ったと言って白ウサギが取り出したのは一通の封筒だった。読み上げられたのは、よくわからないへんてこな詩。だがその詩を検証して裁判は進められる。

 判決を考えよ、との王の言葉に、処刑が先だと女王が叫ぶ。

 それを皮切りに舞台の照明が明るく戻り、サスペンションライトが消される。

「ばかげてるにもほどがあるわ。処刑を先にするなんて!」

 呆れたとアリスが肩をすくめる。その言葉が聞こえたのか、女王がアリスを睨んだ。口をつつしめと叫ぶがアリスは相手にしない。

「あやつの首を刎ねよ!」

 女王が声を嗄らして叫ぶものの、動く者は誰一人としていなかった。

「何よ、あんたたちなんてただのトランプのくせに!」

 そうアリスが叫べば、トランプの兵たちが槍を構えて舞台のあちらこちらから何人も姿を見せた。一斉に襲いかかられたアリスが悲鳴を上げたところで舞台が暗転する。

 ふたたび舞台に照明が灯った時には、木陰で姉の膝を枕に眠るアリスの姿があった。目覚めた彼女は、姉に今まで自分が夢に見ていた冒険を語って聞かせると舞台袖に向かって駆けていく。一人残った姉はそんな彼女の背中へと視線を向けていた。



 緞帳が下ろされ、演目の終了を放送が告げた。続けて閉会式が行われる旨の放送が流れる。同じ放送が体育館の外でも流されていたのか、生徒たちが次々に体育館にやって来て席に座った。

 十分ほどして緞帳が上げられた舞台の上には演説台が用意されていた。舞台の袖から、アリスの衣装のままの詩織が現れて演説台に立つ。彼女による閉会の挨拶が行われ、二日に亘る紅葉祭は幕を閉じたのであった。

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