被撃墜

リーチェ

1928年 9月5日 ヒポクラテス医院の電話口にて

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 電話機の前に立ち、深呼吸。軽い酩酊感とためらいを呼気に乗せて吐き出し、受話器を手に取る。どうやら通話は保たれているようだ。電話機の向こう側にいる人間の気配が伝わってくる。レオーネ・アレーニア。父親である以前に政治家たる彼が、ただ娘の無事を確認するために電話をかけてきたとは思えなかった。


「こんばんは、父上。ベアトリーチェです」

「……うむ、リーチェか。無事だとは聞いていたが、元気そうだな」

「ええ、けど、ブランカは……」

「ブランカのことは、アレーニア家としても出来うる限りのことをするつもりだ」

「おばあさまのことも、父上が手配して下さったのですね?」

「……トニーニ氏によく礼を言っておくことだ」

「はい、父上」


 アズダーヤ隊と戦ったあの日、ヴァレリアナがこの地に居なかったらブランカはろくに手当も受けられないまま死んでいただろう。思えば、フェラーリンがヒポクラテス医師を紹介してくれたのも、リーチェが怪我を負ったときを考えてのことだったのだ。リーチェ自身は気付かないところで多くの人に気遣われ、守られ、そして助けられているのだと改めて気付かされる。


「ところで、ぼくに用事があったのでは?」

「うむ、先ほどファシスタ党内に動きがあった。どうやら、お前とアズダーヤ隊の空戦をプロパガンダの材料とする動きが持ち上がっているようだ」

「今になって、ですか? アズダーヤ隊は国家に所属しないただの空賊であるという建前で、ユーゴスラヴィア王国の責任を追及しない代わりに領空侵犯を黙認するという取引で外交問題にはしないのが軍の方針だと聞いていましたが」

「ムッソリーニだよ。やつが介入した。事の次第を聞きつけ、未回収のイタリアを接収する大義名分とするよう、軍に要請したらしい。並行して、国威の発揚を図る親衛飛行隊の設立を目論んでいるという情報も入っている」

「親衛飛行隊、ですか?」

「各地のエースを引き抜いて一か所に集め、『ドラゴ・ビアンコ飛行隊』と名付ける計画だ。きゃつめ、その隊長をリーチェ、お前にと考えているらしい。取り巻きの愚か者どもは、すでに白き竜をモチーフとするエンブレムのデザインまで始めている。はっきり言って子供めいた妄想に過ぎんが、冗談が翌日には現実となりかねないのが今の世の中だ。もう手に負えんよ」

「……本当に、悪い冗談です。ぼくは軍には戻るつもりはないし、そもそも、ブランカはもう空戦に耐えられる身体じゃないと、おばあさまが……」

「連中が欲しているのは象徴、お飾りとしての『白の竜騎士』なのだよ、リーチェ。むしろ飛べない方が扱いやすいと考える者も多いだろう」

「なるほど、ぼくを飛ばす気はない、と。綺麗な軍服でにこにこ笑い、声高らかにファシストのスローガンを唱えるお仕事……なんて想像、ぞっとしませんね」

「そうしてファシストの手先を務めるある日、祖国の英雄である白の竜騎士がテロリストによる凶弾に倒れたとしたら、どうなるか。国民はさぞかし熱狂し、報復を叫ぶ扇動者に賛同の声をあげるだろうな」

「それは……!」

「妄想に過ぎんと笑うか? だがな、リーチェ。父として、政治家として、その光景が現実となる可能性を看過することはできんのだよ」

「父上……」


 頭をよぎったのは、先の戦争のきっかけとなった一発の凶弾だった。オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントは、セルビア人のガブリロ・プリンツィプに射殺された。後にサラエボ事件と呼ばれることになるその暗殺事件から、欧州全土が泥沼の戦争に巻き込まれていったのだ。


 戦争の末期、リーチェはブランカと共に戦場の空を飛んだ。新しい兵科である飛竜士として、戦乱の最中に命を落とす多くの竜の存在に心を痛めてのことだった。あの戦争で大きく数を減らした竜の生息数は未だ戦前の水準まで回復するに至っておらず、それどころか次の戦争が起きれば竜は絶滅しかねない。


「……ベアトリーチェよ、アレーニア家の当主レオーネとして命じる。しばらくの間、私の用意する別荘に身を隠せ。すでにラニエロとフランカをやって、不自由なく過ごせるよう準備を進めさせている。今や政治的な存在となってしまったお前とブランカのことは、私が責任を持ってなんとかしよう」

「しばらく、とは……?」

「わからん。今の状況でできることにも限りがある。父を信じよ、としか言えん」

「ブランカは、どうなりますか?」

「まだ動かせない、と聞いている。幸い、フィウメならばファシスト勢力の手も届きにくい。母上には引き続き、ブランカの治療に当たってもらう。心配するな」


 つまり、ブランカとはしばらく会えなくなるということだ。


「少し、考える時間をいただけますか?」

「明日の朝、返事を聞かせてくれ。よいな?」

「はい……ありがとうございます、父上」


 レオーネが通話を切る音を確認して、壁に設置された電話機へ受話器を戻した。そのまま壁に背中を預けて、ずるずると床にへたり込みたい気分になるのをなんとかこらえて、両足に力をこめる。何度か深呼吸をして、どうにか落ち着きを取り戻すころには、心地いい酔いはどこかへ消えてしまっていた。


「そろそろ、潮時かな……」


 返事は待ってもらったものの、レオーネの提案以上に良い案は一晩考えた程度で思いつきそうもなかった。ブランカと空を飛ぶようになって十数年、家の格式から考えればこれ以上ないと言っていいほど自由に生きてきた、そうさせてもらったという自覚はリーチェにもある。


「……結婚、するべきなのかな」


 別荘に身を隠せというのは、その準備をしろという含みを持たせてのものだろうと、リーチェは解している。相手がどこの誰になるのかは分からないが、レオーネに任せておけば悪いようにはならないはずだった。


 もう一度だけ深呼吸してから、ダイニングに戻る。さっと静まり返る室内を見渡して、リーチェは思わず苦笑してしまった。心配そうな表情のジニーに笑いかけてから席につき、レオーネから聞いた話を要約して話す。


「……というわけで、ぼくは明日、ここを離れる。空路は目立つから、船を探さないとね。おやっさん、機体を残していくことになるけど、任せていいかな」

「おう、任せな」

「それから、おばあさま。ブランカのこと、よろしくお願いします」

「ええ、後のことは引き受けたわ。貴方はこれからのことをゆっくり考えなさいな」

「…………はい」


 皿に残ったままの冷めた料理。しかし、食欲はなくなってしまっていた。温かくも優しい声と雰囲気で、何事もなかったかのような自然さで接してくれるヒポクラテス医師の気遣いが、かえって申し訳ない気分をかき立てる。


「デザートは口にできそうかね?」

「……はい、少しなら」

「ロジャータという、プリンの一種だ。気に入ってくれるとよいのだが」


 大きな四角形に焼かれたプリンが手早く切り分けられ、ガラスの小鉢に銀のスプーンをつけて供される。爽やかな柑橘類の匂いが広がり、とろっとしたカラメルがかけられた様子はとてもおいしそうだった。スプーンで削り取って口に含むと、ぷるりとした食感と上品な甘さ、バラの香りが口の中に広がる。ローズエッセンスを用いているのだろうか。


「おいしいです。すごく」

「気に入ったかね? レシピがあるから、好きな男ができたら作ってやるといい」

「ふふ……はい、そうします」

「なんだったら、わしに作ってくれてもいいんだがね」

「ご冗談を。……本当に作ってあげたい相手は、他にいらっしゃるのでは?」

「鋭いな、その通りだよ。しかし、もう叶った」

「……そうですか」

「そうだとも」


 ヴァレリアナは、ジニーと一緒になって子供のような無邪気さでプリンを口に運んでいる。彼女自身は、相手の好意に気づいていてもそれを表に出すことはない。生まれながらの貴族なのだ。ヒポクラテス医師も、それをわかってか気持ちを口にする気はないようだった。これ以上は、部外者が口出しすることではないだろう。


「なあ、リーチェ、考えたんだが……」

 切り出すタイミングを待っていたというように、フェラーリンが言う。

「俺もお前と一緒に行っていいだろうか?」

「……はあ?」


 思わず間抜けな声が出てしまう。はしたない、と思った瞬間、ヴァレリアナの凍てつく微笑みと視線が合ってしまった。フェラーリンめ、と八つ当たりに近い感情を抱きつつも視線をそらし、言葉を継ぐ。


「えっと、なにを言ってるのかわからないな。軍務を投げ出すってこと?」

「ああ……すまない、順番がぐちゃぐちゃになった。実はな、リーチェ、俺はもともと今回の作戦を機に軍から身を退くつもりでいたんだ。部下も育ってきて、そろそろ後進の育成を任せられるようになってきたからな」

「飛行機を飛ばすしか能のないきみが軍をやめて、どうするつもり?」

「手厳しいな。だが、テストパイロットとアクロバットの仕事で、それぞれ打診がきている。もしその仕事を続けるのが体力的に辛くなったら、それこそ教官にでもなるさ。そして、新しい職に就く前に、しばらく休暇を取るのも悪くない」

「ぼくは遊びに行くわけじゃないんだけど」

「すまない、言い方が悪かった。俺のことは従者だと思って、運転手兼荷物運びとして使ってくれればいいさ。隠れて過ごすなら、そういう人間も必要だろう?」

「まあね……」


 レオーネはラニエロとフランカが準備を進めてくれていると言っていたが、二人はそれぞれレオーネとヴァレリアナの世話という本来の仕事がある。別荘というのがどこにあるのかは聞けなかったが、リーチェ自身が目立ってしまっては身を隠した意味がないので、買い出し役は確かに必要だった。


「けど、きみである理由がない」

「あるさ」

「どんな?」

「きみが好きだ。愛しているよ、ベアトリーチェ」


 なにか言おうと思って大きく息を吸い込み、そのまま静かに吐き出した。こういうとき、どういう反応をすればいいのか。飛行機ばかり乗ってきたリーチェにとって、それは難問という他なかった。


「フェラーリン、きみ、もうちょっと、こう……」

「すまない。だが、言うなら今だと思った」


 視線が泳いだ拍子に、ヴァレリアナ、そしてジニーと目が合った。二人とも、リーチェがどう返事するのか興味津々といった様子だ。アレッサンドロとヒポクラテス医師に至ってはいかにも微笑ましいと言わんばかりの表情で、リーチェとしては恥ずかしいことこの上ない。認めよう、今このときこそ、リーチェを撃墜するプロポーズという名の弾丸を放つ、最高の瞬間だった。


「……わかった。きみと結婚しよう」


 撃墜されるのも悪くない。

 そんな風に思うのは、これが最初で最後になるだろう。

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