もうひとつの翼

リーチェ

1928年 8月28日 トニーニ工房の格納庫にて

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 イタリアでも有数の避暑地として知られるコモ湖も、正午ともなるとそれなりの気温になる。そろそろアズダーヤ隊の再襲撃から一ヶ月が経とうとしていたが、彼らが再び仕掛けてくる様子はない。午前中に試験飛行のスケジュールを消化したリーチェは、ジニーの淹れてくれた濃厚なモカのカップを片手に今日の新聞を広げていた。


「ねえ、聞いたおやっさん。パリで不戦条約を締結、だってさ」

「はん。エチオピアとの友好条約といい、ファシストどもが平和主義者気取りだ」

 リーチェの言葉を受け、苦々しげに吐き捨てるアレッサンドロの様子にジニーが首を傾げる。

「お互いもう戦争しないって約束でしょ? いいニュースじゃないの?」

「うん、発想はよかったんだけどね」


 フランスの外務大臣ブリアンが提言し、アメリカの国務長官ケロッグが多国間条約として取りまとめた、平和と理想の結実たるパリ不戦条約は、その実現性が増すに従って条約を締結することそのものに重きが置かれるようになっていった。


「戦争は愚かな行為だ。戦争なんて止めよう。立派な考えだと思うよ。けど、こっちから仕掛けないってことは、相手に撃たれるまでは反撃できないってことでもある。だからこの条約には、列強の全てが参加する必要があったんだ。どこか一国でも参加しなかったら、相手が全体重を乗せたパンチを叩きこんでくるまで何も手が打てない、まるで意味のない条約になってしまうからね」

 ジニーが言葉の意味を呑みこむのを待って、リーチェは続ける。

「そして列強は考えた。自国が席を蹴ったら条約そのものが成り立たないなら、ちょっとくらい無茶な条件を言っても通るんじゃないか、ってね。そうして各国が少しでも自国に有利な条件を求めた結果が、これだ」


 リーチェが新聞を広げてジニーに示す。一面にでかでかと載った不戦条約締結のタイトルや、各国代表が笑顔で並ぶ集合写真ではない。ほとんどの購読者は読み飛ばしてしまうだろう、新聞の中ほどにある不戦条約の全文だった。


「えっと、なんて書いてあるの、おねえさま?」

「要するに、どうとでも解釈できる曖昧でぼやけた表現で『列強同士で争うのは止めて、武力行使は自分の植民地だけにしましょう』って書いてあるのさ」

「…………そんなのって」

「あの戦争を繰り返すくらいなら、少々の不正義は致し方なし。どこの国も、そんな気分なんだよ」

「おねえさまは、それでいいの?」

 ジニーの口調に非難の色が混じる。代わりに答えたのはアレッサンドロだ。

「しかしなぁ……ただでさえ不況で職がないってのに、毎年十万人のイタリア人移民がアメリカから送還されてくるんだ。いま職があるやつだって、明日失わないとも限らないってんで自分のことで精一杯だ。そこにきて国家主義者がいうところの『未回収のイタリア』を取り戻せって扇動だろう? そこに一縷の希望を見い出して、扇動に乗っかるやつも少なくないのさ」

「不況だからって、なんで戦争するって話になるの?」

「さてな。だが、領地が増えれば豊かになれる、増やさなきゃ豊かになれないって中世みたいな発想をするやつはまだまだ多いんだろうよ」

 憤然として腕を組むアレッサンドロ。そこに、苦笑交じりの声が割って入る。

「……おやっさんも、ずいぶんと手厳しい」


 格納庫の入り口に、人影があった。アルトゥーロ・フェラーリン少佐。イタリア王立空軍の制服をぴしりと身にまとい、制帽で暑そうに顔を扇いでいる。


「お久しぶりです、おやっさん。ご壮健の様子でなによりです」

「おう、フェラーリンか! 元気にしていたか?」

「ええ、おかげさまで。ようやく若い操縦士が育ってきました。おやっさんの設計したM.7の改良型は部隊への配備も一通り済んで、扱いやすくていい機体だとみんなが喜んでいますよ。実用性を重視し、整備性にも配慮した設計は流石の一言です」

「……そうか」


 満足げに笑むアレッサンドロ。そして、ため息にも似た深呼吸を一つしてから、フェラーリンがリーチェに話しかける。軍の広告塔たる堂々とした笑顔はどこかへ消え失せ、少女にへそを曲げられた少年のごとき情けない風情が醸し出される。


「……リーチェ。その……見舞いにも来れず、すまなかったな」


 おずおずと述べられたフェラーリンの謝罪の言葉に、リーチェは深窓のお嬢さまめいた余裕と皮肉をはちきれんばかりに詰め込んだ口調で応える。


「おや、仕事に忙しくて大切な友人の見舞いにも来れない、フェラーリン少佐殿ではありませんか。今日はこんな片田舎のむさ苦しい飛行機工場になんの御用で?」

「おい、他人の工場を……」

「すまん、言い訳にもならんがアズダーヤ隊の根拠地特定に忙しくてな。実を言えば今日も仕事で、この暑苦しい格好もそういうわけだ」


 忌々しげに軍服をつまんでのフェラーリンの言葉に、リーチェが眉根を寄せる。アレッサンドロの抗議を無視して、鋭く問う。


「もしかして、うちに用事? ……やつらが竜の治療に医者を呼んだってこと?」


 アレーニア家が営々と築き上げた医師の情報網は、欧州全土に広がっている。病や怪我と全く無縁でいられる者はそうおらず、かかった医者がアレーニアの息がかかった医者かどうかは誰にもわからない。わからずともかからないわけにはいかないことこそ、アレーニアの情報網の強みなのだ。


 竜が怪我をしたのにアレーニアを頼らないなどという不審な人物の情報はすぐさまヴァレリアナの下に届けられ、しかるべき処置をされる。種としての竜の保護は、アレーニアの一族が自らに課した使命でもあるからだ。あの襲撃でブランカによって怪我を負わされたズメイの情報は、アズダーヤ隊が医者を頼ればたちどころにヴァレリアナの知るところとなる。


「ああ、その通りだ。昨日、青灰色の竜を治療したというギリシャ人医師が、ヴァレリアナ殿に連絡を寄越してきたそうだ。場所はクロアチアのザグレブ近郊……ざっと半径100km以内といったところか。これはズメイを負傷させたお前とブランカの手柄と言っていい。軍を代表して、感謝する」

「ずいぶん範囲が広いけど、どうして?」

「医師は夜中にホテルを連れ出され、目隠しした状態で車に乗せられ二時間ほど連れ回されたらしい。時速50kmと仮定して、最大で半径100kmの範囲にやつらの根拠地がある計算になる。ぐるぐる回って方向感覚を失わせようとする気配もしたそうだから、案外ザグレブのすぐ近くかも知れんな」

「単純に半径100kmって言っても、部隊の飛行場を近場に確保できる場所となるといくつもないんじゃないかな。弾薬や燃料だって補給する必要があるし」

「そこだな。こっちでも銃火器専門の業者や商社の線から当たって、数カ所にまで候補を絞り込んだ。その中の一つが、今回の情報と見事に符合する。アズダーヤ隊と飛竜ズメイがその近辺に潜んでいる可能性は極めて高いと考えられる」

「ふうん……」

「軍と民間とを問わず、多くの飛行機と船がアズダーヤ隊に襲われ、少なくない人名がアドリア海へ消えた。すでに賞金稼ぎが太刀打ちできる規模を超えてしまった以上、軍としてもこれ以上は放置できないと判断が下った。俺自身、部下を何人も墜としてくれた奴らを許す気はない」

「……それで?」

 リーチェは机に肘をつき、フェラーリンの言葉を促す。

「近く、アズダーヤ隊討伐作戦が立案される。お前にも協力して欲しい」

「…………」

「嫌か?」

 フェラーリンの重ねての問いに、リーチェが不機嫌そうな声を上げる。

「それで、ぼくのところに来る前に、お父さまにぼくを借りる許可を得てきたってわけ?」

「……そうだ」

「そういうやり方は気に入らないな。きみ、軍で偉くなって、みみっちくなったね」

「すまん」

「……そんな風に謝られたら、こっちが子供みたいじゃないか!」


 先にレオーネに話を通せばリーチェが機嫌を損ねると、フェラーリンは予想できたはずだ。それでもレオーネの許可を取り付けに行ったのは、フェラーリンなりの筋の通し方なのだろう。おそらく、許可が得られなければトニーニ工房には寄らずにそのまま基地へ帰っていたのだろう。


「すまん。……それでも、部下の命を守るためにお前の力が必要なんだ」

 フェラーリンは踵を揃えると、深々と頭を下げる。

「頼む、リーチェ。ブランカと一緒に、俺たちと飛んでくれ」

「…………いいよ」


 感情に任せた八つ当たりで、少しだけ気分が晴れた。元々、性別と家柄に縛られるのは承知の上で飛行機に乗り、竜に乗ったのだ。その技量を買われ、戦友のために飛ぶ空なら悪くはない。死に囚われて行き場をなくした戦争の亡霊を、眠りに就かせてやるべきだった。


「決まりだな」

 おやっさんがばちんと両手を叩き合わせる。

「で、フェラーリン。お前さん、機体はどうするつもりだ?」

「今はフィアットCR.20を使っていますが……?」

「ああ、あの平凡な複葉機か……悪くはないが、お前さんほどの腕前では物足りんだろう? どうだ、またこのじゃじゃ馬に乗ってみる気はないか?」


 アレッサンドロが示したのは、格納庫の奥に鎮座するフロート機M.39Aだ。1926年のシュナイダートロフィーではフェラーリンが駆り、同型機に乗るマリオ・デ・ベルナルディが見事優勝を勝ち取った競技用水上機にして、今は水上戦闘機M.39Aとして生まれ変わったもうひとつの紅の飛行機。


「これは……俺が乗っていたM.39ですね? 博物館に展示されたという話は聞かなかったので、てっきりお蔵入りしたものだとばかり思っていました」


 フェラーリンが、どこか懐かしげに目を細める。1926年のシュナイダートロフィーで搭乗して以来、二年ぶりの相棒との再会に、思うところがあるのだろう。


「博物館入りになる前に、わしが買い取った。こいつはまだ飛びたがっとる」

「こいつを、俺に?」

 じっと我慢していたらしいジニーが、口を挟む。

「あたしとおじいちゃんで、戦闘機として改修したんですよ! けど、おねえさまは飛行艇の方が好きだからって、あんまり乗ってくれないんです。フェラーリンさんなら、きっとこの子も喜びますから、ぜひ乗ってあげてください!」

「いい機体だよ。ぼくが保証する」


 なぜかリーチェの意向を伺うような視線を向けてくるフェラーリンの背中を、そっと押してやる。すると子供のようにぱっと顔を輝かせたフェラーリンが機体に歩み寄り、検分を始める。我が子を自慢したくて仕方がないといった様子のジニーやアレッサンドロの説明を受けながら、かつての愛機からの変更点を熱心に聞きだすその姿は、紛れもなく一人の操縦士だった。

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