竜のお茶会

ブランカ

1928年 6月21日 ヴァレリアナの竜巣にて

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 たとえ空から墜ちようともリーチェの道具であり続けることを望むのか。辛辣な問いに対するブランカの答えを上品に微笑んで受け止めたヴァレリアナは、それからリーチェが姿を見せるまでの時間を、季節や草花に関する何気ない世間話に費やした。世間話と言っても、ほとんどは彼女が一方的に話し、ブランカはときおり首肯したりする程度のものだったが、押し付けがましさのない澄んだ声音は、不思議と聞く者の心を安らがせる。


「それでね……」


 話題を転じようとしたヴァレリアナが、不意に言葉を切って竜巣の入口へ視線を向ける。遅れて、壁の影に人の気配が潜んでいることにブランカも気付く。


「さ、こそこそ隠れていないで出ていらっしゃいな、かわいい竜のお姫さま?」

「……おばあさまには、敵わないな」

「ごきげんよう、ヴァレリアナさま!」


 ばつが悪そうに頭をかきながら歩み出るリーチェと、元気よくサイドステップを決めてぺこりと頭を下げる栗毛のポニーテールの娘。翠玉の輝きを宿した瞳と、好奇心に溢れた表情と仕草が、記憶の中にあるコマドリのような印象の少女と重なる。名はヴィルジニア・トニーニ。リーチェを頼りない飛行機に好んで乗せたがる、トニーニ工房のアレッサンドロの孫娘だと思い出す。


「ブランカ、久しぶり!」


 およそ10メートル。寝藁に伏せた静止状態から踏み込み、前肢を伸ばして爪にかけられるぎりぎりの間合いの外で、ヴィルジニアがゆるゆると手を振る。その反対側の手を、リーチェが取った。恥ずかしげに、しかし嬉しそうに口元を緩めるヴィルジニアの姿を、無性に不愉快だと感じる。


「ブランカ」

 しかし、リーチェに呼びかけられた瞬間、そのような感情は消え去った。

「いま、そっちへ行くね。ほら、ジニーもおいで」


 目を閉じていてもそれと分かるリーチェの靴音に、隣に立つ者の信頼に支えられた迷いない足取りで進むブーツの音が混じる。態度ではブランカを恐れていない演技をしても、足にまで意識がいく者は限られるものだ。巨体への畏怖から音を立てぬよう忍び足になったり、豪胆さを誇示しようと必要以上に大股になって靴音高く歩いたりせず、ただ自然に落ち着いて歩くヴィルジニアの足音は、少なくともブランカをいらつかせはしなかった。


「ヴァレリアナさま……ブランカに触っても?」

 横たわるブランカの側に立ったヴィルジニアが尋ねる。

「ブランカ自身に尋ねてごらんなさいな」

「ブランカ? やだったら、言ってね?」

「大丈夫。ブランカはジニーを嫌ったりしないよ」


 リーチェにそう言われてしまっては仕方がない。いつでも飛びかかれるよう身構えていた四肢からゆっくりと力を抜き、息を整える。複雑に重なり合う竜鱗は、乙女の柔肌を不意に傷つけかねない。


「…………」


 ヴィルジニアの指先がブランカに触れる。表面をつうっと撫で、なにか試すように力を込めて竜鱗を押し込んだりした後、掌がぴたりと当てられる。リーチェのそれより温かいと感じるのは、態度には出さなくとも興奮しているためか、それとも単に若いからか。リーチェも、子供のころはもっと温かい手をしていたことを思い出す。


「……やっぱり」

 ヴィルジニアが、ぽつりとつぶやく。

「ん?」

「竜の鱗って、遠目だと流線型だけど、近くで見るとごつごつしてるなって……ねえ、おねえさま、どうして竜はこんな形状なのに、時速300kmも出せるんだと思う?」

「え? うーん、考えたこともなかったな。そういうものだと思ってたけど……」


 ヴィルジニアの問いに、リーチェがやや困惑した様子を示す。代わりに答えたのは、少し下がって二人の会話を見守っていたヴァレリアナだった。


「ブランカの体重は約2トン。翼を畳んでの急降下なら、別におかしくないわね」

 ヴィルジニアがポニーテールを揺らしてくるりと振り返る。

「はい、ヴァレリアナさま。けど、ブランカは水平飛行でも時速300kmを叩きだし、急降下時にはさらに早く飛ぶ……翼以外に推力を生み出す方法を持たないにも関わらず、です。これがなぜなのか、どうやって飛んでいるのか、おねえさまは知ってますか?」

「ううん、知らない。教えてよ、ジニー」

 リーチェの頼みに、しかしヴィルジニアは申し訳なさそうに首を振る。

「ごめんなさい、おねえさま。竜の飛行原理はまだわたしにも……っていうか、誰にもわかっていないの。だからブランカとずっと一緒に飛んでるおねえさまならもしかしたら、って思ったんだけど……うーん、やっぱりわからないよね」

「リーチェ。貴方は空の専門家なのでしょう? 航空工学くらい学びなさいな」

「は、はい……おばあさま」

 一言も言い返せないリーチェを見て、ヴィルジニアが慌てて口を挟む。

「いえ、いいんですヴァレリアナさま! 竜の飛行特性は、わたしが、おねえさまとブランカの側で間近に観察できる立場にあるわたしが解くべき問題なんですから!」

「そう。ジニーは賢い子ね。このまま励みなさいな」

 一転、にこにこと甘い顔を見せるヴァレリアナ。彼女は身内以外には甘い。

「ところでおばあさま、ブランカは大丈夫なのですか?」


 あからさまに話題を外しにかかるリーチェだが、一刻も早くそれが聞きたかったのも本心なのだろう。ヴァレリアナもそれに突っ込むことはせず、ブランカはリーチェが自分のことを気にかけてくれているということに幸福感を覚える。しかし、ヴァレリアナの次の言葉が場を凍り付かせる。


「大丈夫とは、道具として使い物になるか、という意味なのかしら?」

 リーチェの沈黙は、一瞬だった。

「……そうだよ、おばあさま」

「おねえさま……!」

 抗議の意思を声音に込めるヴィルジニアをよそに、ヴァレリアナは告げる。

「もちろん、リハビリは欠かさないという前提での話ですけれど……飛べるまでに少なくとも三ヶ月かかるでしょうね。ただし、元通りにはならないことを覚悟しておきなさい。貴方を救うために負傷したまま全力飛行したせいで、ブランカの翼は完全な回復は望めないほど弱く、脆くなった」


 唇を噛んでヴァレリアナの言葉を受け止めるリーチェの姿に、心が痛む。ブランカがわずかに頭をもたげると、それに気付いたリーチェは優しく頭を撫でてくれる。むしろ、リーチェを護り切れなかった自分の未熟さこそが恥ずかしかった。その想いは、きっと彼女にも伝わったことだろう。


「わたくしは専門家ではないから分からないけれど、翼に負荷のかかる急な加減速と急降下は、ブランカの飛行生命を確実に縮めるでしょうね。その背に貴方という重荷を乗せたならなおのこと。それを踏まえて、今後どう空を飛ぶか、あるいはもう飛ばないのか。貴方とブランカで決めなさい」

「はい、おばあさま。ありがとうございます」

 深々と頭を下げるリーチェに、ヴァレリアナが追撃を入れる。

「ところで、あの子は後継ぎの話を貴方にしたのかしら?」

 あの子、とはリーチェの父レオーネのことだろう。

「……はい。ぼくもブランカも、子を為すべき時期にある、と」


 動揺を抑え込み、しっかりとヴァレリアナを見返すリーチェ。その言葉を聞いて、ヴァレリアナが押さえ切れずに噴き出す。さも滑稽な冗談を聞いたとでも言わんばかりだった。


「ふふ、あの子らしい言い回し。確かに、生物学的にはそうですね」

 笑いを含んだ声に、流石のリーチェも憮然とする。

「おばあさまも同じ意見だと、お父さまはおっしゃっていました」

「わたくしが言ったのはね、リーチェ。後継ぎを決めなくちゃ、ということよ」

「……同じ意味では?」

「違うわ。例えばそう……ジニーが後を継いでも、わたくしは構わないのよ?」

「わ……わたしですか?」

「ええ。だって貴方、とってもかわいくて、賢いのだもの」


 動揺するヴィルジニアに、ヴァレリアナが慈愛と悪戯心の混じった視線を向ける。しかし、その言葉はこの上なく冗談めいていながら、否応もなく聞く者に本気だと確信させるだけの意志がこめられていた。彼女はそうと決めたら本当にそうするだろうと、ヴィルジニアも直感したらしい。


「……おばあさま、ジニーが困ってます」

「失礼ですね、わたくしは本気ですのに」

「えっと、ヴァレリアナさま……わたし、航空工学を学んで、飛行機を設計したいんです」

 勇を鼓して、といった様子のヴィルジニアに、ヴァレリアナがさらりと返す。

「あら、飛行機の設計と、アレーニア家の後継ぎは、両立できないものなの?」

「え……? あの……」


 不思議そうに首を傾げるヴァレリアナを扱いかねて、さも当然であるかのようにさらりと無茶を言われたヴィルジニアはリーチェへ助けを求めるような視線を投げる。


「おばあさま、アレーニアを継ぐというのは……」

「そう。つまり、その程度のことなの」

 リーチェのため息交じりの言葉を、ヴァレリアナが遮る。

「アレーニアの後継ぎは、意志と能力のある者なら誰でも構わない。わたくしは、そう考えています。家族の縁を切って、それでもなお求めるに足る価値を進む先に見出したのなら。貴方とブランカは貴方たちの思うがまま、好きなように生きていいのよ、リーチェ」

「…………」

「わたくし自身、家を捨てた身ですもの。体裁こそ後から両家が整えたけれど、それはあの人と一緒にイタリアへの駆け落ちを敢行した後なのよ。あらリーチェ、貴方、もしかして知らなかったの?」

「……かっこいいです、ヴァレリアナさま!」

 貴族の在りようを真っ向から否定するに等しい発言に、ヴィルジニアが飛び上がって感激を示す。

「ジニー……」

「ありがとう、ジニー。わたくし、貴方の素直なところが好きよ」


 やり取りを見るに、ヴァレリアナとヴィルジニアは昨日今日の仲ではないらしい。ずいぶんとヴァレリアナに懐いた様子のヴィルジニアに、額を押さえて呆れたようにため息をつくリーチェ。場の空気が緩み、それを待ち構えていたかのようにフランカが茶器の乗った台車を押して入ってくる。


「失礼いたします。ヴァレリアナさま、お茶の用意が整いました」

「そう。ではお茶にしましょう」


 ヴァレリアナの言葉に促され、ブランカを除いた全員が壁際のテーブルへと移動する。リーチェとヴァレリアナが対面して座り、その間にジニーが挟まる形だ。フランカもまた、ティーポットから注いだお茶と菓子を給仕し終えると、ジニーの向かい側へ腰掛ける。普段はヴァレリアナの話し相手を務めるフランカにとっては、それもまた仕事の一部なのだ。


「フランカさんはすごいなぁ……どうしていつもこんなに美味しいんだろう。なにか道具とか淹れ方にコツがあるんですか?」

 カップに口を付けたヴィルジニアが、紅茶色の水面へ視線を落として言う。

「ありがとう、ジニーちゃん。もしよかったら、今度淹れ方を教えてあげるけど……よろしいでしょうか、ヴァレリアナさま」

「ええ、もちろん。茶葉もお分けして差し上げるのよ?」


 そよ風に乗って、お茶の香りがブランカの鼻孔にも届く。竜の嗅覚を過度に刺激しない、薬効のある樹皮と薫りのよい花弁を乾燥させて砕いたハーブティーだと知れる。巷では、竜の鱗を砕き入れてあるとの噂話で珍重されるヴァレリアナ特製のお茶だ。もちろん、鱗など入ってはいない。


「ジニーはよくここへ来るの?」

「うん、ヴァレリアナさまにお呼ばれして」

「ジニーはわたくしに航空工学を教えてくれているのですよ」

「その代わり、わたしは英語を教えてもらってるの。アメリカやイギリスの研究者さんにお手紙を書くにも、将来留学するのにも、英語は絶対必要だから」

「ふうん……けどジニー、おばあさまの英語はクイーンズイングリッシュだから、アメリカの人と話すときは気取ってるって思われないよう、気を付けてね」

「まあ、なにを言うのかしら、この子は。それより貴方こそ、ドイツ語かハンガリー語、でなければチェコ語かスラヴ諸語のお勉強でもしたらどうなの? 相手を知るにはまず言葉から、でしょう?」

 ヴァレリアナの言葉に、リーチェがわずかに目を細めた。

「……おばあさまは、アズダーヤ隊とのことについて、どこまで知ってるの?」

「わたくしの知っているのは、アズダーヤ隊と名乗っているのはオーストリア・ハンガリー帝国の再興を標榜する空賊部隊で、その前身はかの二重帝国が誇る精鋭、サンタ・カテリーナ海軍航空基地飛行隊であること。そして隊長は『トリエステの海鷲』と名高い先の対戦でのエース、ゴットフリート・フォン・バンフィールドが務めていて、部下として手練れの操縦士を少なくとも八人と、一匹の飛竜を擁している、というくらいかしら」

「……ぼくより詳しく知っている理由は、聞かずにおく」

「あら、聞いたらいいのに」

「どうせ聞いたら最後、アレーニアを継ぐことになるんでしょ?」

「さて、どうなのかしらね」

「……決して嘘はつかない代わりに、大事なことは沈黙と微笑みの陰に隠してしまう。おばあさまは、いつもそうだ」

「それで、あえなくやられてすごすごと逃げ帰ってきたイタリアの英雄さんたちは、策もなく正面からアズダーヤ隊に再戦を挑む気なのかしら?」

 挑発するように微笑むヴァレリアナに、リーチェもまた微笑む。

「策は、あるよ」


 そうして開陳された彼女の作戦は、ブランカを激昂させるには充分だった。

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