三章 アレーニアの飛竜

帰郷

リーチェ

1928年 6月21日 コモ湖畔の街 ベッラージョ

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 リーチェの生家であるアレーニア邸は、ミラノからトラックで小一時間の距離にあるコモ湖畔の街ベッラージョに建っている。湖が見えるところまで来れば竜医として名高いアレーニアの名を知らない者はおらず、荷台に横たわるブランカの白い巨体を目にした道路脇の住人たちは運転席に収まるリーチェに向かって手を振り、あるいは陽気に挨拶の言葉を投げかけてくる。


「やあ、一年ぶりかな。元気そうだ」

「ジーノさん。お元気そうでなによりです」


 ゆるゆるとトラックを徐行させるリーチェに言葉をかける人々の口調は素朴で気安く、温かい親しみがこもっている。一度聞いた名前は忘れるな、会ったときは必ず名前を口にしろ。父が口癖のように言っていた言葉を思い出す。愛されるべくして愛されよ。それがアレーニア家のモットーだ。愛は与えられるものではなく、互いの間に築き上げるものなのだ、とリーチェは理解している。


「こんにちは、アレーニアのお嬢さん」

「お姉ちゃん、こんにちは!」

「アリアンナさん、お久しぶりです。アマンダも、大きくなったね」


 優しい人たちだとリーチェは思う。彼女たちは疑問に思っているはずだ。なぜブランカと共に空を飛んでこなかったのか、と。しかし、その問いを口にする者は一人もいない。なによりも空に在ることを愛する竜が地を這う車に乗りこむ理由、それは飛べないからに他ならない。それを理解している証拠に、みなリーチェに声はかけても呼び止めようとはしない。彼女とブランカがアレーニア邸へ、竜医ヴァレリアナの下へ急いでいることを察しているのだ。


「もう少しだよ、ブランカ」


 見慣れた風景。角を一つ曲がれば、正面にアレーニア邸の鉄門が見えるだろう。そう思ってブランカに声をかけ、ハンドルを切ったリーチェは、少しだけ意表を突かれる。竜を象った精緻な鉄細工の施された門扉は開け放たれており、その前に佇む白髪の老人は、トラックを認めると優雅に一礼してみせる。見間違えるはずもない、アレーニア家の執事、ラニエロ・バルデッサリーニその人だった。


「ただいま、ラニエロ」

「よくご無事で帰られました、ベアトリーチェさま」


 門の手前で車を停めたリーチェが運転席から声をかけると、老人は深々と頭を下げる。年月を重ねたオークのような謹厳さと存在感を兼ね備えた立ち姿、若かりし頃は美男子ともてはやされただろう彫りの深い顔つきは見る者に信頼と好感を与える。政治家である父の補佐と屋敷の料理全般を取り仕切る彼の存在なくして、アレーニア邸は立ち行かない。


「ブランカを、おばあさまのところへ連れていきたいんだけど」

「ヴァレリアナさまは『竜巣』にいらっしゃいます」

「うん、しばらく滞在するから用意をしてくれるかな」

「かしこまりました、荷物をお預かりします」

「ありがとう」

「それから、旦那様がお待ちです。用を済ませましたら、本邸に戻られますよう」

「……わかった」助手席に置いてあった荷物を渡してうなずく。

「アレッサンドロさまもコモにおいでです。お嬢さまが戻ったらお見せしたいものがあるとか」

「おやっさんが? なんだろう」

「あの御仁のことですから、飛行機のことでしょうな。連日、湖上に騒音を響かせておりますよ」

「そっか……ああ、後で濃いエスプレッソをお願いできるかな」

「ええ、喜んで。おいしいグラッセを用意してお待ちしております。旦那さまには、ベアトリーチェさまはヴァレリアナさまに挨拶へ行かれたとお伝えしてもよろしいでしょうか?」


 リーチェがうなずくと、ラニエロは一礼して立ち去る。彼が邸の中へ姿を消すのを見送ってから、深呼吸をしてアクセルを踏む。敷地内を通って進むと、湖のそばに石造りの桟橋と大きな建物が見えてくる。建物は『竜巣』と呼ばれる幌をかけたコロッセウムのような建造物と、それに付属する祖母ヴァレリアナが隠居住まいに使っている平屋建ての建物から成る。竜巣の前面はトラックがそのまま入れられるように、横幅が片側5メートルもある両開きの木扉が取り付けられている。扉は開け放たれ、その向こうには乾燥したふかふかの寝藁が山のように積まれているのが見えた。


「懐かしいな。おばあさまとも、一年ぶりか……」


 竜医ヴァレリアナ・アレーニア。イタリアが誇る世界で唯一の『竜を専門として診る医者』であり、リーチェにとっては祖母に当たる人物。竜使いとして貴族に叙せられた祖父に見初められ、ドーバー海峡を渡って嫁いできた聡明な英国人の少女は、結婚して後は研究者にして医療者として竜の生態研究と医療に力を注いだ。


 この時間ならきっと、午後の紅茶をスコーンと一緒に楽しんでいる頃合いだ。アフタヌーンティーの習慣は、一族の誰よりアレーニアらしくあるために改名までした彼女が、自らのルーツはイギリスにあることを忘れないために始めたものだと聞く。旧姓ヴァージニア・フィッツジェラルド。英国の蒼き血の淑女。彼女はそんな人物だ。


「……お嬢さまじゃないですか! いつお帰りになったんですか?」


 トラックの走行音を聞きつけてか、祖母が住まう可愛らしい赤屋根の建物から出てきた若い女性が駆け寄ってくる。フランカ・バルデッサリーニ。ラニエロの孫で、祖母専属のメイドとして働く有能な女性。やや古風だが品のいいブラウスと黒のロングスカート、亜麻色の髪をハーフアップにまとめた出で立ちは、きっとおばあさまの趣味だろうと見当がつく。彼女とは歳が近いのもあって、父や祖母のいない場所では友人として付き合える間柄だ。


「ついさっきだよ、フランカ。おばあさまは?」

「ブランカを竜巣に入れておくように、だそうですよ」

「お見通しか。敵わないな」

「旦那さまとは、もう会われましたか?」

「ううん、ブランカを早く診てもらいたくて」

「でしたら、後はわたくしが。お嬢さまは本宅へお戻りになって下さいませ」

「それもおばあさまが?」

「ええ」

「……わかった。ブランカをよろしく」


 よほど嫌そうな顔をしていたのだろう。承りました、と答えるフランカは口に手を当てて、くすくすと笑っていた。リーチェは憮然とした表情を作って車の鍵を投げる。フランカは鍵を空中でつかみ取ると、軽いため息をついて屋敷へ戻る道を歩き出すリーチェの背中に声をかけてくるのだった。


「お嬢さまの部屋はそのままですから、旦那さまと会う前に着替えた方がよろしいですよ!」


 言われて、自分の格好を見直す。確かに、軽快なパンツルックは父のお気に召さないだろう。気の利くメイドである彼女に感謝の意を込めて軽く手を振って応え、庭園の中に敷かれた石畳の道路を歩いて戻る。水面に響き渡るエンジンとプロペラの唸りが聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。振り返れば、離水した飛行艇が緩やかに高度を上げていくのが目に入る。


 真紅の機体に目を凝らせば、1925年のシュナイダーカップで惜しくもカーチスに敗れたマッキM.33だと知れる。ごく少数しか生産されていないレース専用機がここにあるということは、パイロットはきっとアレッサンドロのおやっさんだ。


「好きだな、おやっさんも」


 マッキ・エアロナウティカ社で働いていたおやっさんことアレッサンドロ・トニーニは初期のマッキ社を支えた航空技師だ。イタリアが誇る天才設計士マリオ・カストルディに道を譲ってからは、現役時代に築いたコネクションを通じて手に入れた新鋭機に改良を加えたり、自作の部品を組みこんでテストをしたりと、道楽生活を営んでいる。彼こそリーチェが航空に興味を持ち、飛行機乗りになるきっかけを与えた人物でもあった。後で挨拶をしにいこう、と心に留め置く。


「ただいま」


 玄関を開けて口にしてみるが、応える者はいない。人が減ったな、と実感するのはこんなときだ。祖父と母、兄と妹はすでに亡く、邸内の清掃や庭園の管理で出入りする人間を除けば、この家に住んでいるのは父レオーネ、祖母ヴァレリアナ、使用人のラニエロとフランカの四人だけなのだ。しかし、自室までそっと戻って着替えるには好都合。そう考え直し、足を踏み出そうとしたそのとき。


「帰ったか、リーチェ」


 階段の上から降ってきたのは思わず聞きほれるほどの威厳と色気を併せ持つ見事なバリトン。思わず足が止まってしまい、緊張に動きが固くなる身体を意識しながらも意地だけで視界を上げる。階段の手すりに右手を置いてこちらを見下ろす男の身体はオーダーメイドの三つ揃いに包まれ、左手には黒檀のステッキが握られている。


「……父上」


 アレーニア家の異端児にしてイタリア議会きっての中道派で知られる政治家である、レオーネ・アレーニア。

 リーチェの父親だった。

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